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宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

さやけき生命(2)

2016-08-06 07:19:33 | 祈り
      (前日から続く)
 ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済というものがあり
雑事があって、又、肉体を持っているから、
食べたり飲んだりしゃべったりしなくちゃ
ならなくて、雑事を片付けてるひまに、祈り
というのがどこかへ行ってしまう。本体は
祈ってるんですが、肉体の方は雑事を
優先してしまう。本体は、肉体の我々がどんなに
雑事にまぎれていようが何していようが、
祈って祈って祈り抜いているんです。見えて
いないけれども、ずっと祈り抜いている
わけですね。だからその祈り抜いているいのち
というものが、常に神様と出会っているし、
神様と話をしているし、神様といろんなことを
語り合っている、呼び合っている。

 そうでないと人間は生きてゆけないんですね。
 我々のもとのもとは、神様の愛によって
生かされているわけで、その清(さや)けき
いのちというのは、自分の中にあるんです。
 自分の中というのは、肉体の中という意味
じゃなくて、自分の本体、神様から
分けられて来た光の中にあるわけですね。

 そのことを知っている人は少なかったんですが、
今はもうそんなことを言ってる場合じゃなくて、
いろんな人が印を降ろしたり、光を
降ろしたりして、実際に我々が神様のもとに
ある生命なんだとわかってきた。
 我々のいのちの親というものが神様であって、
その神様の大宇宙神の目指しておられるところは
大調和であり大愛であって、我々は大愛の子
なんですよね。大愛の子というのは敵も味方も
ない。大愛の子のみんなが、世界人類が手を
取り合った時には、真実の平和が築かれて
いかないとうそになる。そこで争いなんか
起こって来たらこれはもううそになるんですね。

 それでも起こって来ることがある。つまり
それは、平和の祈りが足りないからだと。
 足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。ところが、
そこに想いを向ける自分が足りない。肉体が
悪いわけではないけれども、何が足りないのか
というと、自分が肉体だけの生命ではない、
自分は神様の愛によって生かされていて、
神様から来たものであって、その神様
というのは、我々の大きな器を与え光を
満たして下さっている。
 そういう時間が非常に少ない。だから
足りなくなって来る。

 こんなんでいいのかと思う。こんなんで
やっていけんのかと思う。月給が入って来ない
いろいろとどうしようかなと思う。これ全部
消えてゆく姿ですよね。たとえお金が無くても、
光が入っていることに気が付けば、お金なんて
ものはあとからついて来るんだけど、人間
というのは、やっぱり生活してゆかなくちゃ
いけないから、お金が無かったらやって
いけるのかと思うことが先にあって、光が
入っていることには気が付かない。光を
糧(かて)にしてゆくとお金が逆に
入って来る。
 生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。逆なのね。
 皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
          (翌日へ続く)

さやけき生命(いのち)(1)

2016-08-05 06:45:03 | 祈り
 さやけき生命というのは、何ものにも
こだわりのないいのち。こだわるも
こだわらないも、光っている生命。それは
どこから来るかというと、神様から来る。
 それを我々はいただいている。その頂いて
いるものが途切れない為には、祈りの生活を
してゆかなくてはいけない。いけないという
よりも、祈ってゆかないと生きてゆけないように
我々の身体というものはなってるわけです。
 だから、祈ってゆく時に、我々は息をする事が
出来るし、魂も呼吸することが出来る。霊も
輝く事が出来る。世界平和の祈りというのは、
我々の肉体にも霊体にも神体にも、すべての
世界、三界にいる我々自身に対して光を与えて
ゆくことが出来る。

 そういうことを言っている訳ですね。
 清(さや)けき生命というものは、神より来る
と言いましたけれども、神様と我々は、昔は
目に見えるかたちで耳に聞こえるかたちで、
感じるかたちで、手に触れるかたちで、縦にも
横にもつながっていたのですが、この世
というものが出来て、それで我々が地上に
降りて来た時に、肉体という衣をまとった時に、
だんだんとその粗い波動の中に入って行って、
そのことによって我々は、神というものを、
なんかひとつスリガラスを隔てたような、
そういうかたちで見るようになってしまった。

 最初そんな遠いものではなかったのが、
だんだんと神様が雲上人になって、神様なんて
居るのかしらと。人間世界の科学技術が発展し、
哲学もすすみ、肉体をまとった自分が自分だと
思ってしまった。そこから神と自分は容易に
つながらなくなった。

 19世紀の末なんか、世紀末というような
思想が起こって来て、神は死んだなんていう
ことになって来たんですが、皆んながそれぞれに、
今また神様を求めることを、ブームみたいに
なっていますけれども、自分がどこから来たのか、
どうなるのか、こんなに今不安になっている
時代はありません。なぜ不安になっているか
というと、神様のことを皆んな聞いたり求めたり
するけれども、自分が神様に守られている
ということを実感出来ることが、とても少なく
なっている。だから不安になるわけです。

 神様の守りを実感するにはどうすればいいか
といいますと、これはもう祈ることです。それ
しかないんですね。祈って祈って祈り抜いて
ゆくと、光しか残らなくなる。
 これは真実なんです。
            (翌日へ続く)