宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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光満ちた世界(2)

2023-02-14 10:30:55 | 祈り
     (前日からの続き)
本当に信心深いということはどういう
ことかとよく聞かれますけれど、本当に
信心深いということは、ただひたすら神様と
一体になっていて、そして、神がかりになる
というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、
その上で何かひたすらに打ち込んで、喜んで、
動いている。
語っている、働いている。
その時に、信仰というか信心というか、
そういうものが動いてゆく、と私は思います。
そのあたりが、我々の肉体を本当に動かして
ゆくもんである。

ところが何か信仰といいますとね、遠く
離れたもののような、あるいは、神様や仏様
というものも遠く離れたもののような、光明
とか何とかいいますけれども、それも何か
自分からは遠く離れたもののような、そういう
気持ちに皆なりがちですけれども、そうでは
ないんですね。あなた方も一人一人が皆光
なんです。
そうして、その光というのは、目には見え
なくても、例えば、笑顔で人に接する時に、
自分の中のもともともたされている、
いただいている生命というものの中から
光が奥深く出てまいりまして、その光が
パーッとあたりを照らしてゆく。
だから、よく歩くだけでお浄めになる
ということを申しましたが、実際
そうなんです。
自分は何も思っていない、お浄めする
とか何とかいっさい考えないで、動いてゆく、
歩いてゆく。
ただ無心に歩いてる。何にも考えないで
ぼんやり歩いている。
歩いているんだけれども、それだけで
あたりが浄まってゆく。
本当の人間というものはそういう
もんですね。

神様の愛というのはそういうもんですね。
例えば、太陽というものは、誰を照らして
誰を照らさないということはありません。
また、この人は優しい人だからここには
雨を降らせて、この人はいじわるだから
ここには日照りでと、そういうことも
ありません。
皆平等に、神様は雨を降らしたり
照らしたりいろいろします。
あるいは、星の光などというものもずい分
人間の心の慰めになります。
星の光や日の光をうたった詩だとか言葉
だとかいうものも沢山ありますね。
そういうものを通して我々の心が慰め
られるのは、私もうたをよみますけれども、
詩人や歌人という人々が神様の心という
ものを感受いたしまして、感じとりましてね、
そうして、その心をいただいてうたや詩にする。
そうすると、それがひびきになって我々の
中へ帰ってきて、そして、我々の中の生命の
火をかき立てて、往相還相じゃありません
けれども、我々の中の光がまわりまわって
ですね、あたりを浄めてゆくんですね。

そういう風に考えますとね、ここだけが光に
満ちているとか、あそこは光に満ちているとか、
ここは光がないとか、というのはこれはやはり
人間の想いなんですね。
人間の想いというものは、実にさまざまな世界を
つくります。
例えば、この人と仲良くなりたい、この人と
いつまでもつき合いたいと思うと、やわらぎの
光が出ますね。
そして、争いたくないというただ単なる平和主義者
ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
そのための祈りによって、祈りの光が出るから、
やわらぎがまことになっていって、なぐさめに
なっていって、本物の光が出る。
だけども、別のことも言える訳です。
我をもってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。
あいつの顔なんか見たくないとかね。
ありますでしょ。
そういうことで分けてしまうと、
そこにたちまち闇が出てきますね。
そして、何かいやな空気になってまいりますね。
それは人間の想いがつくり出す世界。
不思議なことに、やわらぎの世界も、それから、
いやな空気の世界も不安に満ちた世界も、
皆これはどこから出てくるかというと、これは
人間の想いから出てくる。

実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。
ところがこれは皆空なんです。
本当の真実の姿のものではございません。
         (つづく)


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