日月天在人照心
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
昭和62年3月6日夜
「偶々成詩献友」の稿 終了
今日は私のつくりました詩をもとにして
祈りということを考えてみたいと思います。
日月天在人照心
人者光為互観自
(じつげつはてんにありてひとのこころをてらし、
ひとはひかりとなりてかたみに、みずからをかんず)
日月、太陽も月もですね、それは空にあって、それぞれが
光を万物に届かせているわけですけれども、人間のどこを
一番照らしているかというと、それは、心、本心、いのちの
みなもとを照らしている、というんです。勿論、からだも照らし
ますよ、けれど、からだを照らしながら、その実は、人間の心、
おおもとをてらして、神様の愛を伝えているとこういう
わけです、これは真実なんですよ、事実そのまんまです。
で、その光を受けた人間、神様の愛を日月の光から
感じとった人間はどうかというと、ほん然と、本来の自分の姿、
光そのものの自分であることをさとってですね、光明となって、
お互いに、その光体光身を、しみじみと永遠者の前に
さながらにみつめるわけです。
自分の本来をつくづくとながめるわけですよね、
ようございますか?
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
(めをはなてばみずはそのながれをたのしみ、
くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)
第一句が日月は天にありてで、うーんと高い感じでしょ、
それで、おんなじことを、今度は、我々の生きてるこの地上に
みてみよう、と、こういうわけですよね。
眼を地上に移してみると、せせらぎにしても大河に
してもですね、水というものは、自分がどんな風に
流れようとか、流れたいとか一切考えない。ねっ。
それでいて、おのずからなるそのながれを、ながれのまんま
楽しんでいる。任せ切った姿ですね、
それでもって悠々としてる。朗らかでさえある。
実は、我々を生かしめておりますいのちというものも、
このとおりなのでありまして、その相(すがた)は、悠々とした
ものなのであります。
真理の相(すがた)の無邪気さ、朗らかさを、わたくしは
ここでうたったつもりです。
さて、そこで、水の流れの自在なすがたを受けて、今度は、
自然に眼を向けてみました。
草木之戦覚神恵
(くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)
くさきは、そのそよぎにすらかみのめぐみをさとる。
そよぎですから、それ程の風じゃありません。
ありませんけども、自分自身をゆらゆらさせる、フラフラさせる
ものにはちがいないんです。
これを、人間世界におきかえると、火事になるってことかも
知れないし、病気になる、貧乏になるってことかも
知れませんよね。
とにかく、いいことじゃない。この世で、不幸とよばれて
いるもののいくつかに襲われる、そういうことです。
けれど、地の上の草木は、突然風が吹いてきて、
踏んばるのがやっとなんていう時にもね、ああ、これは神様が
私に働いていて下さるからだ、神様ありがとうございますって、
イヤホントですよ。
私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅうそういうことを
話してるんですもの、でそういう風に、感謝してしまう。
ありがとうございますといってね、神様と一体になる。
いつも、私のいってる消えてゆく姿で世界平和の祈り
そのものですよね。
神様の愛を受けて、万物は生い育っているんです。
勿論、その筆頭に人間がくる。そうすると、本当に、素直な、
さながらのすがたになるとですね、あらゆることに、いいことに
出合っても、また悪いことに出合っても、
神様ありがとうございますっていえるようになるんです。
それが自然なんです。
次にいきましょうか?
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
(てんちをすべるは、たそというこえをきけば、ほしは
ほほえみてあいをちになげ、ひとのこころのすがたを
かたりてやまず)
この天地、あめつちのすべて、すべてを統(お)さめて
いらっしゃるのはどなたでしょうと、問いかけ、これは、
人間からの問いかけですよ。問いかけを耳にした星は、
にっこりして、人の心の真実の相(すがた)について語り
はじめた、それは、うむことなく語りつづけられた──
という意味です。
ここでは、人の心というものに主眼をおいています。
この天地すべてを治めておられるのはどなたなんだろう、
こういう人間の呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、地上に
投げたものは愛だったというのです。
神様という言葉を、ここでは使っておりませんけれど、愛を
投げた、しかも、にっこり笑って投げたということで、
この愛が、神様の愛だということをあらわしているわけです。
いつも申しますように、神様という方を、別の言葉に
おきかえるとすれば、それは極みのない愛なのです。
徹底した愛なのです。
その神の愛を地にふりそそいで、そうして、人の心、本心の
姿というものについて、うむことなく語りつづけたところですね。
人の心が神の愛をあらわす主体であることをここで
いいたいのであります。心をさかのぼれば、本心、本体に
なってゆくのであります。
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
(すなわちきかずや、そのじっそうはかみのあいじにして、
こうげんはうちゅうにきし、えいえんのいのちはおのれに
おうかんす)
さあききなさい、と、こううながしているわけですよ。
人間の心、本心というものの真実、それに人間と
いうものは、神様のいとし児なんだということね。
人間っていうのは、神からきて、神に帰るいのちですからね。
よく帰命帰命っていうけども、帰命ってのは、これをあらわした
言葉なんです。
もっというと、神様から分かれてきた人間は、我々自身の
なかに神そのものの愛とゆるしと智恵を、
持っているわけなんです。本当に神の子なんです。
ですから、自分をみがいてみがいて、祈って祈って、
心を澄ませてゆけばね。 人智ではない神智が
かがやきとともにあらわれ出るんですよ。
その神様の光でもって、人間は、いのちを養ってるんです。
その光は、どこまでたずねることが出来るかっていえば、
勿論神様ですけど、それをここでは、愛の気、平和の気、
世界人類が平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねることができる、
源は宇宙から来てるっていってるんです。
そうして、その光の源、いいかえれば、永遠のいのち、
生命はですね、もうすでに、一人の人間のなかに自由に
内包されて、ぐるぐるとまわって、幾万世代にもわたって
いのちというものの場所になってる。それが、この器である
人間の肉体であり、又、人間それ自身の真性なんだ。
自在ないのちのなかに、人間は遊んでるんだ。それが、
人間の本来の相であり、肉体人間を生かしている直霊、
本心の真実の相なんだとこういうことです。
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
(すでにあいにみちたるせかいとしりてた(足)らい、こころこそ
てんちとわれはほがらかにうたわん)
こうやって、人間、またこの世界というものの実相を内観して
きますと、もう愛で満ちている。あふれている。
こういうことがわかってきますと、本当に満足するんです。
嬉しさでいっぱいになってくる。そうでしょう?
そこで、自分自身を生かして下さっている心─本心
ですよね、本心こそ、自由の天地だと高らかに唱いましょう、
というんです。さしずめここは、ベートーベンの歓喜。
合唱にあたる部分ですね。
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
(じんかんのむをこえくうをはなれて、いのりをささげ、
おのずからひかりをはなつことをもわする。ぼうぼう
くうくうしかれどもきょ(虚)ならず)
さあそうなってくると、人間というものはですね、
もう本体だけ、光だけになってるんですよ。無とか空を
超えちゃって、はなれて本当に自由になって、ただ、神様と
一体になって、祈りをささげている。もう自分のからだから、
すばらしい光が出てるということも忘れている。忘れている
というよりね、もうそれはどっちでもいいんだということになる。
そんなことどっちだっていいんです、
全く我(が)というものをはなれた、輝きにかがやいたそういう
人間の本当の姿があるんです。
それは、ひろびろとしてね、ひろやかになって、何にも
とらわれるものがないというそういう状態なんで、決して、
うつろな、むなしい状態じゃないと、こういうことですね。
祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、それ程に、神様と
一体になっているとそういうことです。
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
(くおんのながれにみをまかせて、たいがとなる。
たいがしょうがをいだきて、すなわちひとつ。いのちは
たいしょに、ひとをはこびゆけば、そのながれは
ゆうゆうとして、たいがのごとし)
で、こういう私達、すみきわまった人間というものは、
久遠の神様の愛の流れへと身をまかせて、宇宙そのものに
なるというんです。宇宙というものは、もう何物をも
呑み込んでしまう。
とらわれにみちた肉体我といったものも、全部抱きとって、
宇宙そのものとなった自分自身があるだけだ、つまりは、
限りなく一つとなるのだ、ということです。 これは、神と一つ
ということでもありますし、直霊と一つになるということも
ありますが、さらに、宇宙神が、混沌のなかから、愛の気を
みたして宇宙をつくられた、そのおおもとである一に帰る、
つまり、いのちに帰るのだということであります。
いのちというもののはじまりに、祈りは、世界平和の祈りは、
こうして、私どもを運んでゆくのでありまして、
この祈りによって、いのちの流れのなかに溶け込みますとき、
全くその流れが、大河のようにゆったりとおおらかな
朗らかなものであることを私どもは知るのであります。
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
(しんりょはあいにしてじん、みらいざい。やむことなく
ひとをひかりのおくにいこわせん。じざいなるいのちよ。
かんきのこえをてんにいたらしめ、われひとともに、
とこしえなるじゆうしん、をうたわん)
神様の心というものは、未来永劫、ずっと愛なんだという
ことですよね、そうして、つねに、一人びとりを、ひかりの家に
みちびいて休ませているということです。
自在なるいのちよ、これは、自分への語りかけです。
よろこびの声を天に到らせて、私も、天地の霊人たちも
ともどもに、この朗らかな自由身、自在身のよろこびを
うたおうではないか──
と、ざっといいますと、こういう詩なんです。これは、真実の
相(すがた)であって、しかも、我々は毎日の生活に
疲れ果てているけれども、ひとたび、世界平和の祈り言を
唱えて祈ってゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。
自分自身に出会うために祈りはあるんです。その自分と
いうのは、朗らかな神のいのち、大我、宇宙そのものであると
いうことなのであります。
人者光為互観自
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
昭和62年3月6日夜
「偶々成詩献友」の稿 終了
今日は私のつくりました詩をもとにして
祈りということを考えてみたいと思います。
日月天在人照心
人者光為互観自
(じつげつはてんにありてひとのこころをてらし、
ひとはひかりとなりてかたみに、みずからをかんず)
日月、太陽も月もですね、それは空にあって、それぞれが
光を万物に届かせているわけですけれども、人間のどこを
一番照らしているかというと、それは、心、本心、いのちの
みなもとを照らしている、というんです。勿論、からだも照らし
ますよ、けれど、からだを照らしながら、その実は、人間の心、
おおもとをてらして、神様の愛を伝えているとこういう
わけです、これは真実なんですよ、事実そのまんまです。
で、その光を受けた人間、神様の愛を日月の光から
感じとった人間はどうかというと、ほん然と、本来の自分の姿、
光そのものの自分であることをさとってですね、光明となって、
お互いに、その光体光身を、しみじみと永遠者の前に
さながらにみつめるわけです。
自分の本来をつくづくとながめるわけですよね、
ようございますか?
眼放水者其流楽
草木之戦覚恵神
(めをはなてばみずはそのながれをたのしみ、
くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)
第一句が日月は天にありてで、うーんと高い感じでしょ、
それで、おんなじことを、今度は、我々の生きてるこの地上に
みてみよう、と、こういうわけですよね。
眼を地上に移してみると、せせらぎにしても大河に
してもですね、水というものは、自分がどんな風に
流れようとか、流れたいとか一切考えない。ねっ。
それでいて、おのずからなるそのながれを、ながれのまんま
楽しんでいる。任せ切った姿ですね、
それでもって悠々としてる。朗らかでさえある。
実は、我々を生かしめておりますいのちというものも、
このとおりなのでありまして、その相(すがた)は、悠々とした
ものなのであります。
真理の相(すがた)の無邪気さ、朗らかさを、わたくしは
ここでうたったつもりです。
さて、そこで、水の流れの自在なすがたを受けて、今度は、
自然に眼を向けてみました。
草木之戦覚神恵
(くさきのそよぎにすらかみのめぐみをさとる)
くさきは、そのそよぎにすらかみのめぐみをさとる。
そよぎですから、それ程の風じゃありません。
ありませんけども、自分自身をゆらゆらさせる、フラフラさせる
ものにはちがいないんです。
これを、人間世界におきかえると、火事になるってことかも
知れないし、病気になる、貧乏になるってことかも
知れませんよね。
とにかく、いいことじゃない。この世で、不幸とよばれて
いるもののいくつかに襲われる、そういうことです。
けれど、地の上の草木は、突然風が吹いてきて、
踏んばるのがやっとなんていう時にもね、ああ、これは神様が
私に働いていて下さるからだ、神様ありがとうございますって、
イヤホントですよ。
私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅうそういうことを
話してるんですもの、でそういう風に、感謝してしまう。
ありがとうございますといってね、神様と一体になる。
いつも、私のいってる消えてゆく姿で世界平和の祈り
そのものですよね。
神様の愛を受けて、万物は生い育っているんです。
勿論、その筆頭に人間がくる。そうすると、本当に、素直な、
さながらのすがたになるとですね、あらゆることに、いいことに
出合っても、また悪いことに出合っても、
神様ありがとうございますっていえるようになるんです。
それが自然なんです。
次にいきましょうか?
天地統誰声云聞
星微笑愛投降地
語不止人之心相
(てんちをすべるは、たそというこえをきけば、ほしは
ほほえみてあいをちになげ、ひとのこころのすがたを
かたりてやまず)
この天地、あめつちのすべて、すべてを統(お)さめて
いらっしゃるのはどなたでしょうと、問いかけ、これは、
人間からの問いかけですよ。問いかけを耳にした星は、
にっこりして、人の心の真実の相(すがた)について語り
はじめた、それは、うむことなく語りつづけられた──
という意味です。
ここでは、人の心というものに主眼をおいています。
この天地すべてを治めておられるのはどなたなんだろう、
こういう人間の呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、地上に
投げたものは愛だったというのです。
神様という言葉を、ここでは使っておりませんけれど、愛を
投げた、しかも、にっこり笑って投げたということで、
この愛が、神様の愛だということをあらわしているわけです。
いつも申しますように、神様という方を、別の言葉に
おきかえるとすれば、それは極みのない愛なのです。
徹底した愛なのです。
その神の愛を地にふりそそいで、そうして、人の心、本心の
姿というものについて、うむことなく語りつづけたところですね。
人の心が神の愛をあらわす主体であることをここで
いいたいのであります。心をさかのぼれば、本心、本体に
なってゆくのであります。
即聴其実相神之
愛児光源宇宙帰
永遠生命往還己
(すなわちきかずや、そのじっそうはかみのあいじにして、
こうげんはうちゅうにきし、えいえんのいのちはおのれに
おうかんす)
さあききなさい、と、こううながしているわけですよ。
人間の心、本心というものの真実、それに人間と
いうものは、神様のいとし児なんだということね。
人間っていうのは、神からきて、神に帰るいのちですからね。
よく帰命帰命っていうけども、帰命ってのは、これをあらわした
言葉なんです。
もっというと、神様から分かれてきた人間は、我々自身の
なかに神そのものの愛とゆるしと智恵を、
持っているわけなんです。本当に神の子なんです。
ですから、自分をみがいてみがいて、祈って祈って、
心を澄ませてゆけばね。 人智ではない神智が
かがやきとともにあらわれ出るんですよ。
その神様の光でもって、人間は、いのちを養ってるんです。
その光は、どこまでたずねることが出来るかっていえば、
勿論神様ですけど、それをここでは、愛の気、平和の気、
世界人類が平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねることができる、
源は宇宙から来てるっていってるんです。
そうして、その光の源、いいかえれば、永遠のいのち、
生命はですね、もうすでに、一人の人間のなかに自由に
内包されて、ぐるぐるとまわって、幾万世代にもわたって
いのちというものの場所になってる。それが、この器である
人間の肉体であり、又、人間それ自身の真性なんだ。
自在ないのちのなかに、人間は遊んでるんだ。それが、
人間の本来の相であり、肉体人間を生かしている直霊、
本心の真実の相なんだとこういうことです。
己満愛世界知足
心天地朗高唱我
(すでにあいにみちたるせかいとしりてた(足)らい、こころこそ
てんちとわれはほがらかにうたわん)
こうやって、人間、またこの世界というものの実相を内観して
きますと、もう愛で満ちている。あふれている。
こういうことがわかってきますと、本当に満足するんです。
嬉しさでいっぱいになってくる。そうでしょう?
そこで、自分自身を生かして下さっている心─本心
ですよね、本心こそ、自由の天地だと高らかに唱いましょう、
というんです。さしずめここは、ベートーベンの歓喜。
合唱にあたる部分ですね。
人間之超無空離
自由自在身為唯
献祈自光明放忘
茫々空々然非虚
(じんかんのむをこえくうをはなれて、いのりをささげ、
おのずからひかりをはなつことをもわする。ぼうぼう
くうくうしかれどもきょ(虚)ならず)
さあそうなってくると、人間というものはですね、
もう本体だけ、光だけになってるんですよ。無とか空を
超えちゃって、はなれて本当に自由になって、ただ、神様と
一体になって、祈りをささげている。もう自分のからだから、
すばらしい光が出てるということも忘れている。忘れている
というよりね、もうそれはどっちでもいいんだということになる。
そんなことどっちだっていいんです、
全く我(が)というものをはなれた、輝きにかがやいたそういう
人間の本当の姿があるんです。
それは、ひろびろとしてね、ひろやかになって、何にも
とらわれるものがないというそういう状態なんで、決して、
うつろな、むなしい状態じゃないと、こういうことですね。
祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、それ程に、神様と
一体になっているとそういうことです。
久遠流身任大我
大我小我抱即一
生命太初人運行
其流悠々如大河
(くおんのながれにみをまかせて、たいがとなる。
たいがしょうがをいだきて、すなわちひとつ。いのちは
たいしょに、ひとをはこびゆけば、そのながれは
ゆうゆうとして、たいがのごとし)
で、こういう私達、すみきわまった人間というものは、
久遠の神様の愛の流れへと身をまかせて、宇宙そのものに
なるというんです。宇宙というものは、もう何物をも
呑み込んでしまう。
とらわれにみちた肉体我といったものも、全部抱きとって、
宇宙そのものとなった自分自身があるだけだ、つまりは、
限りなく一つとなるのだ、ということです。 これは、神と一つ
ということでもありますし、直霊と一つになるということも
ありますが、さらに、宇宙神が、混沌のなかから、愛の気を
みたして宇宙をつくられた、そのおおもとである一に帰る、
つまり、いのちに帰るのだということであります。
いのちというもののはじまりに、祈りは、世界平和の祈りは、
こうして、私どもを運んでゆくのでありまして、
この祈りによって、いのちの流れのなかに溶け込みますとき、
全くその流れが、大河のようにゆったりとおおらかな
朗らかなものであることを私どもは知るのであります。
神慮愛尽未来際
止休人憩光之屋
自在生命歓喜之
声者到天我人倶
永遠之自由身謳
(しんりょはあいにしてじん、みらいざい。やむことなく
ひとをひかりのおくにいこわせん。じざいなるいのちよ。
かんきのこえをてんにいたらしめ、われひとともに、
とこしえなるじゆうしん、をうたわん)
神様の心というものは、未来永劫、ずっと愛なんだという
ことですよね、そうして、つねに、一人びとりを、ひかりの家に
みちびいて休ませているということです。
自在なるいのちよ、これは、自分への語りかけです。
よろこびの声を天に到らせて、私も、天地の霊人たちも
ともどもに、この朗らかな自由身、自在身のよろこびを
うたおうではないか──
と、ざっといいますと、こういう詩なんです。これは、真実の
相(すがた)であって、しかも、我々は毎日の生活に
疲れ果てているけれども、ひとたび、世界平和の祈り言を
唱えて祈ってゆけば、こうした真実の本来の自分に
出会えるんだということなんです。
自分自身に出会うために祈りはあるんです。その自分と
いうのは、朗らかな神のいのち、大我、宇宙そのものであると
いうことなのであります。