song1234です. こんにちは、お元気ですか?

日記です。Since 2007年11月~、神奈川県湘南在住、ハワイアン、ウクレレ、スチールギター演奏が趣味。

マヒナスターズの和田弘氏を思う。。

2019年03月07日 20時44分48秒 | スチールギター

日本の往年のビッグ・ハワイアンバンドと言えば、誰しも、灰田兄弟、バッキー白片、大橋節夫、ポス宮崎、
和田弘とマヒナスターズ、大塚竜男、山口兄弟を、思う所でしょうが、この中でNHKの紅白に出演しているバンドは、
マヒナスターズだけです。

今日は、久しぶりのブログ更新だが、マヒナスターズのリーダー和田弘氏について、少し詳細にふれてみたい。

結構長いですよ、あまり興味のない方は、パスされて結構です。

では、ここからは、ハワイアン、スチールギターに興味のある方、ご覧ください。
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日本の偉大なスチールギタープレイヤー和田弘氏については、意外と詳細な記述は、少ないように思える。。。
おいらの勉強不足による勝手な思い込みかもしれないけど。。。

このまま、年月が過ぎると、知らない方も多くなるのでは?、と思い、微力ながら
おいらのこのブログに少し書いてみたい、、と思います。

やはり和田弘氏の詳細は、「マヒナ主義、和田弘」という本が参考になると思います。
サンクリエイト社出版、著者は、音楽評論家の伊藤強氏。

↓これが、その本、和田氏、、お若い時のだね。


ネットでは、本名は出てきても、詳細な内容は出てこない、、出てくるのかもしれませんが??
そこで、本ブログに、少しですが、ご紹介させて頂ければ、グーグル検索等でも出てきますからね。
そうなれば、手軽に、多くの方が、覗いてくれるのでは、ないでしょうか。。
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以下は、本からと、おいらの勝手な思い込みを少し入れてます。
尚、この本には書かれていないのに、勝手に自分が思い込んだところには、
著者様(残念ながら故人になられてますが、、)に失礼のないように、最初に「おいら」と書いています。

本の初めに、いろんな写真が載っている。
和田氏は、1931年(昭和6年)2月、東京・文京区本郷で生まれた。
「おいら」2004年(平成16年)1月に、残念ながら、72歳で亡くなっている。
(この本は、1995年(平成7年)に出版しているため、その時は、ご存命でした)

父は、本郷で製本業を営んでいた。腕のいい職人さんだったが、遊び人のため
裕福な家庭ではなかったというが、、、。
「おいら」は、それなりに裕福だったのではないかなあ、思う。

10歳違いの兄がいたが、弘氏は、末っ子で、のびのび育てられたと思われる。
氏は、字も読めないころから、レコードが好きだった。
そんな弘氏を見て、両親は、弘氏にオルガンを買ってあげた。
「おいら」、、当時、それなりに裕福でないと、子供にオルガン等買えないのでは?

↓1941年(昭和16年)父健太郎氏(左)と、沼津千本松原海岸にて。
弘氏(右)が、10歳の頃。
「おいら」、、太平洋戦争直前の頃だね。あどけない少年だ、、A boy、、お父さん似だね。


このあたりから、既に楽器が好きだったという。
戦争が激しくなって、都会に住む和田家のまわりも戦災の危険が増してきたので、
静岡の韮山に母と疎開する。父は警防団長で、東京を離れられず、兄は招集を
受けて軍隊に行っていた。

↓これは、昭和19年(1944年)、和田氏がまだ中学二年生の時、軽井沢での教練合宿の時。
和田氏は、前列3列目の右より6人目の眼鏡をかけた(分かりにくいが、、)少年だ。



終戦になり、東京に戻ったが、家は焼けていた。でも父は隣にいた祖父が大工であり、
若い頃修行もしていたので、家を建てなおした。

このころNHKから「のど自慢」という大当たりした番組が注目された。
のど自慢ブームで、伴奏として和田氏のピアノの腕が買われることになる。

「おいら」、、和田氏は、オルガンだけでなく、ピアノも独学ではあったが、弾いていた。

和田氏は、頼まれればどこへでも行って、ピアノを弾いた。
無料のボランテイア活動だったが、自分の弾く音を聴いてくれる、、喜びがあった。

和田氏が初めてハワイアンを知ったのは、親類の一軒が持っていたレコードと電蓄
(レコードプレイヤーね)が、あったのに起因する。
戦争火災を予想して、親類は、地元の小学校の地下室に、これらを保管した。

「おいら」、、親類の方の先見の目、、は、鋭かったですね。こんなことが和田氏の将来を
決めることになった、と言っても過言ではないと思う。

そのため焼け残ったレコードで聴く初めてのハワイアンギター、、どんな楽器なのか?
分からないが、弘氏は、虜になった。
そんな中、弘氏は、ある日、銀座日劇前で、ハワイアンギターの音が聴こえてきた。
当時は、灰田勝彦だったが(「おいら」灰田兄弟の兄の有紀彦氏がスチールだと思いますが、、勝彦氏は、弟でスチールは弾かなかったような記憶があります)、なんとか入場を果たし、初めてハワイアンギターの本物を
目にし、演奏を聴いた。虜になった弘氏は、それから日劇に通い始める。
「おいら」このあたりは、家が本郷、日劇にも手軽に行けた、、というラッキーも重なっていた。

その後、スチールギターが欲しい、、無意識で駿河台からお茶の水に向かっていた時に
スチールギターの音が聴こえてきた、、石橋楽器店からだった。
氏は直ぐにお店に入り、スチールギターを見つける。
弘氏は直ぐに、売ってほしいというと、店員は、子供が買えるものではないから
これは、売り物ではない、、と言って、あきらめさせようとした。
弘氏は、では、寸法計らせてくれませんか、、と。店員は、作るつもり??ビックリしたが、
ダメということもないだろう、、ということで、いいよ、傷つけないようにね、、と承諾した。
それから、苦労したものの、スチールギターを作ってしまった。
「おいら」このあたり、スチールギターに対する執念というか、並々ならぬ思いを感じますね。。

父は、大学に行ったら、趣味として音楽はやってもいい、、と言ってくれた。
このあたりは、遊び人の父親だったが、弘氏には、優しかった。
「おいら」父の暖かい気持ちがあったればこそ、弘氏は好きな音楽を続けられたんだね。

昭和24年(1949年)、弘氏は専修大学に入学する。
趣味の音楽をやりたい、、一心だった。
当時は、どこの大学でもハワイアンバンドがあった。
専修大学で、新たに、リリーアイランダースというバンド名で、和田がリーダーとして
結成された。

↓1949年(昭和24年)専修大学リリーアイランダース。


「おいら」このあたりで、弘氏が頭角を現してきた感じだね。
更に、和田氏の10歳上の兄が自分の大学(青山)時代の同級生の浜口庫之助氏を
スチールギターの先生として紹介してくれた。
「おいら」父だけでなく10歳も上の兄からも協力してもらっている。
家庭内でも皆から暖かく力になってくれていたんだ。

その後、バッキー白片の演奏を聴いて、大きな刺激を受けた。
弘氏は、その頃は、浜口氏から、それなりの技術を習得したと思っていたが、バッキーを聴いて
全くレベルが違っていたからだ。その頃から、バッキーの存在を意識しはじめる。
大学時代あちこちでバイトするようになった弘氏に今度は父親が、キャバレーでの
アルバイトの話を持って来た。
「おいら」、、父親は、更に良き理解者となり、尽力されていたんですねえ。

父親からの、キャバレーアルバイトは、「上海」というお店だった。
ここでの、弘氏は6か月間、ギャラ、月5000円だった。
当時のサラリーマンは、月3000円位だったので、学生の弘氏にとっては
悪くない稼ぎだった。

ある時、キャバレーで一緒に出ていた女性ハワイアンバンドからバッキー白片を紹介される。
当時バッキー白片は、東京・溜池に会った山王ホテルで、レギュラー出演していたし、前から知っていた。
バッキーと知りあいになった弘氏は、連夜山王ホテルに通った。
弘氏はここで、多くのことを学んだ。。
ある日、バッキーのアロハハワイアンズのギターのメンバーが一人足りないことがあった。
弘氏は早速自分を売り込んだ。。補充予定、ギャラ、技量、等を検討した結果、バッキーのメンバーに
入れてもらった。昭和25年4月、弘氏19歳でのことだった。
他方、学生バンド、リリーアイランダースは、リーダーがいなくなって一時解散することになる。
ここらあたりで、弘氏は、プロを意識し始めた。

しかしバッキーバンドに入ったが、住み心地は良くなかった。
それは、年齢差、、バッキーとは、20年、他のメンバーとも10年は
世代が違う。。当時、ミュージシャンは女性にもてる時代だったが、それは若い順だった。
10代の弘氏、、他のメンバーには勝ち目はない。。
そんなことから、あいつは、生意気だ、ということになってしまった。

弘氏にとって、そんなことで苦しい時代でもあったが、バッキーから吸収したいことが
多々あり、我慢していると、ギターの鈴木揚介氏から、新しいバンドでやらないか、、
という誘いがあった。
「おいら」:渡りに船だった、と思う。

昭和28年4月、バッキーバンドを抜けて、山口銀次とマヒナスターズがスタートした。
リーダーの山口銀次は、ウクレレとヴォーカル、弘氏を誘った鈴木揚介氏は、ギター、
弘氏は、スチールギターだった。

当時のハワイアンの頂点に立つバッキー白片から抜けるということは
かなりの勇気が必要だったが、ハワイアンへの需要は多いはずという読みもあった。
事態は読み通り、需要はかなりあった。
翌年、リーダー山口銀次がマヒナから身を引いた。
「おいら」:ここら辺、、何故、山銀さんは身を引いたのか?の説明は書かれていないし、分からない。
そして、和田弘とマヒナスターズが誕生した。
この時、立教大学でハワイアンを歌っていた松平直樹、和田のスチールギターの
弟子にあたる日高利昭、アロハハワイアンズから、佐々木敢一、ポス宮崎から三島敏夫が加わった。
その後、幾人かのメンバーの入れ替えはあったが、ここからが、和田弘とマヒナスターズのスタートである。

松平氏は歌謡曲通だったので、マヒナの歌謡曲レパートリは急速に増えた。
「おいら」:この影響はマヒナにとって、大きかったと思う(勿論プラスね)。

当時のマヒナの本拠地は、亀戸の芭蕉というクラブだった。
その後、日比谷インというクラブから、専属のお誘いがあった。
和田は、喜んで了承した。
なんといっても、中央へのデビューと言った気持ちだったろう。
マヒナは中央で活躍することによって、一流という評価を得た。
客席の反応は良かった。昭和30年代前半から半ばにかけて、丁度吉田正作曲による「都会調流行歌」の全盛だった。
日比谷インの客数も増えて行った。
「おいら」:このあたりから、頻繁にレコードも出す、スターバンドになっていく。

以下は、主だったマヒナスターズの懐かしい写真です。

↓1958年(昭和33年)、メンバー最初のプロマイド、ワッペンの「MS」が印象的だ。


↓5年後、1963年(昭和38年)、TBSテレビでのハワイアン大会から。



↓1952年(昭和27年)、後の和田氏の奥様になる、長沢途枝子氏のクインシスターズ時代の奥様(左)。
右は、エセル中田さん。


和田氏は、1954年(昭和29年)に、女性ハワイアンバンドでギター担当だった長沢途枝子氏と結婚する。
長沢氏は、和田弘のギター教室に通っていた。


奥様は、女性ハワイアンバンド「クインシスターズ」でギター担当だった。
↓写真、右から2番目が、和田弘氏の奥様の長沢途枝子氏、モデルもやったことのある美人です。
更に3番目は、エセル中田氏。
1952年(昭和27年)頃か?
「おいら」:不謹慎な発言ですが、エセル中田さんと、、という可能性もあったかも??


1960年(昭和35年)有楽町日劇に初出演。


↓1965年(昭和40年)頃、ハワイの石原裕次郎邸にて、美枝夫人も。


↓ハワイアンオールスターズ、左から、和田弘、ポス宮崎、大橋節夫、三橋渡(少し影、ギター)、
藤原満穂(ベース)、三島敏夫(ほとんど見えていない)。
「おいら」いつごろか?不明です。でも、まだ、ポスさんがご存命でしたから、昭和50年前??


↓「おいら」これもいつごろか、分かりませんが、1965年代(昭和40年代)と思われます。


最後に、フアン代表(おいら、、勝手にそう思っている)として、和田弘氏のスチールギター演奏の
お勧めとして以下を紹介させて頂きます。どれも素晴らしいよ!感動です。

CD番号:JPI-7031~7034、「和田弘☆フオーエバー」。
曲目は、リンゴの木の下で、山の人気者、雲は心等、CD4枚に全50曲です。
全て和田氏のスチールインストです。



以上長くなってしまいましたが、日本の産んだ偉大なスチールギタープレイヤー、和田弘氏と
初代マヒナスターズについて、主に「マヒナ主義」なる本を参考に、紹介させて頂きました。

コメント (20)
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