今日は父の命日。
1980年(昭和55年)、ぼくが大学に入学した年の6月25日に亡くなりました。自殺でした。
満53歳と10ヶ月。
久しく書いていなかったので、調べてみたら7年前の2013年が最後でした。
その時に書いていたことは、2014年の7月10日まで生きれば父の生きてきた期間を上回るということ。
そんなことを書いていたので、2014年の7月10日に何か書いているかと調べたのですが、この頃はほとんど何も書いていない時期でしたので、父より長生きすることもスルーしていました。
というわけで、父の命日について書くのは7年ぶりです。
父に関しては複雑な感情を抱いていて、小学校の6年生くらいになると、殴られるたびにいつか殺してやろうなどという不穏な感情がむくむくとわき起こったものでした。
以下、想い出の断片を箇条書き。
・父と母の手につかまり、ブランコのようにしてもらったこと。
・全身に入れ墨があったこと。(父は船乗りだったので、絵柄はヤクザ系ではなくて船乗り系。帆船とかナイフを咥えたドクロとか)
・東京オリンピック(1964年)の時(当時4歳)、タバコの銘柄はピースだったか、オリンピック競技のイラストがかかれていて、競技指定でタバコを買いに行かされて間違っていると殴られたこと。
・酒を飲んでは凶暴になるのが日常茶飯事で会ったこと。
・叔父(父の弟)の家に行った帰りに、新京成電車のなかで足を通路に投げ出していた人の足を蹴飛ばして睨まれ、殺気をおびた表情でにらみ返していたこと。
・若い頃、ボクシングと空手をやっていたことがあって、喧嘩が強かったこと。
・1970年(万博の年)に、九州(小倉?長崎?)でスウェーデン人?の船員(身長が2m近くあったらしい)と喧嘩になり、殴り飛ばされて海に落ちて死にかけたこと。
・そのとき脳出血したので脳手術を受けたこと。その手術で人格がさらに凶暴になったこと。(慢性的な頭痛があったらしい)
・殴られるのは日常茶飯事だったけれど、中学1年のとき腕時計で殴られておでこが切れて出血し、学校の先生に心配されたこと。
・高校に入って、朝6時過ぎ、学校に向かう路上で、飲んで千鳥足で家に帰ってくる父とすれ違った時、大丈夫?と声をかけたこと。(無視して通り過ぎようと思っていたのに、やはり声をかけてしまった)
・その時、おまえは頑張れよ、と云われたこと。
・ぼくが高校を卒業して、父と母が離婚したこと。(ぼくは当然のこと母と暮らすことにした)
・浪人時代、父から別れた母あての電話を受けて、「おれの青い背広をやろう。青い背広でこころも軽くって歌があるだろ?」。いやそんな歌しらねーし!
・大学に入って、学生アパートで覚えたての麻雀をしている最中に母からの電話で父の死をしったこと。
・葬儀のとき、父の遺影を胸に抱いていても、泪のひとつも出なかったこと。
もしかすると、これで父の命日に何かを記すこともないかもしれないので、備忘のためにこれまでに書いたもののリンクを貼っておく。
2007年6月25日「祥月命日」
【昔の手帳から】6月25日(1980年、1981年、1983年)
自分が四苦八苦しているときに、命の大きな機会に直面していらっしゃったんですね。
無数の人生が組み合わさって社会があるんだなぁ、と感慨深く自分を思い出し、仙丈さんの若き日に思いをはせました。
殴られた記憶というものは、暴力を受けた方はいつまでもリアルに残りますよね。
その時の感覚って、いつまでも思い出してしまいますね。
ところで、このような話題の時に不謹慎だとは思うのですが、…お母様、美人ですね!
間違えてませんか?(笑)
いや、ありがとうございます。
母が喜びます!
でもコメントは、その言葉通りにお受け取りください。😉
コメントはそのままということで承知いたしました!