あれから30年がたちました。
ぼくの中の記憶も少しずつ風化してしまったようです。
以下、2012年に書いたブログから転載します。
午前5時46分。
17年前のけふ、この時間、どすんといふ衝撃とともに家がバキバキと音をたてた。
阪神大震災の始まりだつた。
幸ひ、我が家は山を拓いて造成された住宅地に建つてゐたこと、建ててから1年經つてゐない新築だつたことなど、いくつかの幸運も手傳つて無事だつた。
新婚早々、死ななくて良かつたと思つた。
しかし、最寄驛の南側には全壞した家もあり、ほんのわづかな條件の違ひが天と地ほどの違ひにつながることを知つた。
その後、我が家から少し山を登つたところに復興住宅が建てられ、震災で家を失つた方々がそこで暮すやうになつた。
彼らと私たちは紙一重、もしかしたら私たちがあそこに住んでゐたかもしれないと思ふと、ひと事とは思へなかつた。
復興住宅で生まれた赤ちやんが、もう高校生。
燒け跡に花が咲くやうに、悲劇のあとにも未來は開ける。
震災を知らない子供達に、私たちが震災から學んだことを傳へなくてはならない。
それが私たちの務めなのではないだらうか。
さう思ひながらも、自分が何を學んだのだらうかと振り返つてみると、内心忸怩たるものがある。
日々の備へが大切なのだといふことは學んだものの、それを實踐してゐるかといへば恥づかしい限りだ。
生き殘りたいといふ思ひが、かつてほど強くなくなつてゐるからかもしれないが・・・
17年前のけふ、この時間、どすんといふ衝撃とともに家がバキバキと音をたてた。
阪神大震災の始まりだつた。
幸ひ、我が家は山を拓いて造成された住宅地に建つてゐたこと、建ててから1年經つてゐない新築だつたことなど、いくつかの幸運も手傳つて無事だつた。
新婚早々、死ななくて良かつたと思つた。
しかし、最寄驛の南側には全壞した家もあり、ほんのわづかな條件の違ひが天と地ほどの違ひにつながることを知つた。
その後、我が家から少し山を登つたところに復興住宅が建てられ、震災で家を失つた方々がそこで暮すやうになつた。
彼らと私たちは紙一重、もしかしたら私たちがあそこに住んでゐたかもしれないと思ふと、ひと事とは思へなかつた。
復興住宅で生まれた赤ちやんが、もう高校生。
燒け跡に花が咲くやうに、悲劇のあとにも未來は開ける。
震災を知らない子供達に、私たちが震災から學んだことを傳へなくてはならない。
それが私たちの務めなのではないだらうか。
さう思ひながらも、自分が何を學んだのだらうかと振り返つてみると、内心忸怩たるものがある。
日々の備へが大切なのだといふことは學んだものの、それを實踐してゐるかといへば恥づかしい限りだ。
生き殘りたいといふ思ひが、かつてほど強くなくなつてゐるからかもしれないが・・・
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