
「昔の写真から」シリーズ 6
このところ、学生時代を中心とした昔の写真で記事をアップして来たのですが、ここらで新しく「昔の写真から」というカテゴリを作ってみました。
これまでの記事もそちらに移動しました。
さて、今回は、恥ずかしながら、ぼくです。
1980年5月25日に彼女にふられて、26日には自殺を考えて睡眠薬を買ったけれど、向かいの部屋に住んでいた先輩に巧妙に奪われて生きながらえたぼくです。
その後、自殺願望は雲散霧消したのですが、メンタルに若干異常をきたしたのか、床屋にいかなくなりました。
いや、勘違いしてもらっては困ります。
長髪が流行っていたのは1970年代までです。『いちご白書をもう一度』にも「就職が決まって~髪を切ってきたとき~♪」とあるではないですか。
あれも変な歌詞でして、就職の面接時点では長髪のままだったんかい!と突っ込みたくなるのですが、それはさておき。
1980年5月25日から1981年9月頃まで髪を伸ばし続けていました。
この風体で塾講師をしていたのですから、おほどかな、いい時代でした。
むしろ得体が知れなくていい、とは当時の関西教育センターの塾長の言葉。学生らしい学生は父兄から下に見られるとの理屈でした。
この写真は1981年7月頃、当時住んでいた京都は岩倉にあった学生アパートの前で撮ったものです。
右端に玄関が写っていますが、靴やらサンダルやらが散乱して、足の踏み場もない状態でした。
中廊下のつくりになっていたのですが、その廊下も悲惨なものでした。
日本酒やウィスキーの瓶が転がっていて、埃がつもり放題。
この状況が改善したのは、この翌年、ぼくの右側に写っている山村くんに彼女が出来た時でした。
彼女が初めてアパートにやってくるということで、玄関から廊下からトイレに至るまで綺麗に掃除してくれたのでした。
ぼくが腰掛けている単車は、ぼくの愛車「KAWASAKI Z400LTD」です。
日本初のアメリカンらしいアメリカンバイクでした。
その後ろに写っているのは、右から先輩の大野さんの「YAMAHA XS400」、山村くんの「SUZUKI Hustler」、ぼくの「YAMAHA Carrot」だったかと。
ほかにもたくさんのバイクがありました。
何故か、岩倉はどの大学からも遠かったのです。車か単車がないとまともに大学に通う気になれない、そんな秘境だったのです。
ちなみに京大教養部にいくには、最寄の叡山電鉄「八幡前」まで歩いて5分、そこから叡電で5駅先の「元田中」まで10分乗って17~8分歩くか、6駅先の「出町柳」まで12分乗って15分歩くか。
いずれにしても、アパートから3~40分かかったものでした。
サラリーマンならともかく、当時のぐうたらなぼくらにとっての40分はとてつもなく面倒くさい時間なのでした。
そんなわけで単車がたくさんあったわけなのですが、それでも大学に行くのが億劫な人たちが集まっていたせいか、アパートの誰かの部屋で毎日のように麻雀をし、そのうちの週に1回か2回は徹マンだったりしていた時代です。
類は友を呼ぶとでもいうのでしょうか。
よく麻雀をしていた6人のうち4年で卒業した奇特なやつは2人だけ、ぼくを含めた4人は4年経ってもまだこのアパートに住んでいたのでした。なので、5年目でも麻雀のメンツに困ることはありませんでした。
いまから思えば、楽しいながらも不毛な学生時代でしたね。
私は80年卒なので、同世代ですね。
市内の私学に通っていて、叡電の修学院と一乗寺の間ぐらいのあたりに下宿してました。
出町柳の駅前のみんみん(漢字が出ない)でよく食べてました。
麻雀もよくやったなぁ。
グータラが懐かしいです。
ロンゲのまま面接受けるやつ、いるわけなんですよね(笑)
mirapapaさんも京都で学生時代を過ごされたのですね。
京都は学生にだけは優しい街でした(笑)
出町のみんみん、ぼくもよく行ってました。
懐かしいです。