「奴国の滅亡―邪馬台国に滅ぼされた金印国家」 安本美典
お薦め度:☆☆☆☆ /
2006年12月24日讀了
安本美典の著作は概して、事實とそれに基く假説が明確にされてゐるので、たいへんに讀みやすく理解しやすい。
本書もその例にもれず、論旨は明確である。
しかも、「プロローグ」では書かれてゐることのポイントを要約してくれてゐるので、私のやうな雜然とした頭腦の持ち主でも理解できるやうになつてゐる。
本書で書かれてゐる安本美典の主張の概要は以下のとほり。
1.奴國は後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授けられた國で、福岡平野、博多灣岸にあつた。
2.金印は墓から出土したのではなく、あたかも岩の間に隱されたかのやうな状態で出土してゐる。
3.奴國の頃の墓制は「甕棺」であり、邪馬臺國の頃の墓制は「箱式石棺」である。
4.出土物の觀點では、奴國の頃は青銅器製の武器と漢式鏡、邪馬臺國の頃は鐵製武器と「長宜子孫」銘内行花文鏡・小型ぼう製鏡第Ⅱ型である。
5.「箱式石棺」の分布と「長宜子孫」銘内行花文鏡・小型ぼう製鏡第Ⅱ型の分布状況を見ると、筑後川流域がその中心地となるので、邪馬臺國の中心は筑後川流域である。
6.彌生時代後期には「甕棺」墓は激減し、福岡平野およびその周邊では墓そのものが激減してゐる。
7.すなはち、博多灣沿岸部にあつた奴國は筑後川流域に勃興した邪馬臺國によつて滅ぼされたと考へると説明がつく。
8.いはゆる「奴國の大亂」はこの奴國と邪馬臺國との爭ひについて書かれたものだらう。
9.古墳時代になると中心地が北九州から畿内に移るが、これは「邪馬臺國の東遷」によつて説明がつく。
10.纏向古墳群の年代は西暦300年以降のものであり、崇神・垂仁・景行天皇と結びつくところの多い遺跡だらう。
お薦め度:☆☆☆☆ /
2006年12月24日讀了
安本美典の著作は概して、事實とそれに基く假説が明確にされてゐるので、たいへんに讀みやすく理解しやすい。
本書もその例にもれず、論旨は明確である。
しかも、「プロローグ」では書かれてゐることのポイントを要約してくれてゐるので、私のやうな雜然とした頭腦の持ち主でも理解できるやうになつてゐる。
本書で書かれてゐる安本美典の主張の概要は以下のとほり。
1.奴國は後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授けられた國で、福岡平野、博多灣岸にあつた。
2.金印は墓から出土したのではなく、あたかも岩の間に隱されたかのやうな状態で出土してゐる。
3.奴國の頃の墓制は「甕棺」であり、邪馬臺國の頃の墓制は「箱式石棺」である。
4.出土物の觀點では、奴國の頃は青銅器製の武器と漢式鏡、邪馬臺國の頃は鐵製武器と「長宜子孫」銘内行花文鏡・小型ぼう製鏡第Ⅱ型である。
5.「箱式石棺」の分布と「長宜子孫」銘内行花文鏡・小型ぼう製鏡第Ⅱ型の分布状況を見ると、筑後川流域がその中心地となるので、邪馬臺國の中心は筑後川流域である。
6.彌生時代後期には「甕棺」墓は激減し、福岡平野およびその周邊では墓そのものが激減してゐる。
7.すなはち、博多灣沿岸部にあつた奴國は筑後川流域に勃興した邪馬臺國によつて滅ぼされたと考へると説明がつく。
8.いはゆる「奴國の大亂」はこの奴國と邪馬臺國との爭ひについて書かれたものだらう。
9.古墳時代になると中心地が北九州から畿内に移るが、これは「邪馬臺國の東遷」によつて説明がつく。
10.纏向古墳群の年代は西暦300年以降のものであり、崇神・垂仁・景行天皇と結びつくところの多い遺跡だらう。
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