神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.115 人名録

2024-03-21 00:29:00 | 勝記日記
 このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の紹介のために始めたものです。
 おそらく、この本をもとにしたり、手掛かりにしたりした論文が何十本も書かれる日がくることでしょう。それを期待しています。

 

 さて、『神足勝記日記』の末尾に「人名録」を付けました。
 「解題」に書きましたが、日記を読んだ時、出て来る人が誰だかわからくてメモが取れませんでした。まさに Who's Who?(この人は誰)という状態だったわけです。それで、全文をパソコン入力しながら読むことにしたのですが、そうして入力作業をしていると、知る人物が次第に増えてきて記憶しきれなくなりました。つまり、各人のメモを独自に作る必要に迫られることになったわけです。人物がわかってくると事態の移り変わりとあわせて、日記の空間が読めるようになりましたから、これは有効で不可欠の作業だったわけです。
 「人名録」は『神足日記』に登場する人を集めたものです。職員全員を網羅した「職員録」ではありません。しかし、登場人物は、その職務上の地位の高低に関わらず、能うかぎり探求して盛り込みましたから、この時点での私の到達点でもあります。ぜひ手掛かりにしていただきたい。できれば、知る知らないにかかわらず、拾い読みでよいので、読んでみてください。人の一生の悲喜を読み取ることができる場合も少なくないと思います。
 今日はもう、ここで終わりにしてもよいのですが、ここからが本論です。


 『神足日記』に知らない人が出て来ると、ネットで検索し、人名辞典で調べました。しかし、これは、よほどの高官か有名人でないとまず出てきません。
 従来は、「有名人史観」とでもいいましょうか、有名人が歴史を作ったという見方の側面が強かったのではないでしょうか。
 これは、もちろんいまでもまだそうですが、無名の人のことを纏めても読む人はいないし、いても読まれることは少ない、だからテマなだけ・・・、これを出版しても売れない、だから出版の対象にならない。まあこんなですね。
 しかし、今まではともかく、これからの歴史の要点は「無名な多数」です。そこまで見る。「人の総体が歴史をつくった」という視点です。いいなおすと、「一人一人を積み上げる息の長い探求をやる」、これが本当の研究です。

 ちょっと話を変えますが、芸能界を見ていて思いました。
 しばらく、このごろは「ナントカ48」みたいなのばかりでスターが出てこない、ツブが小さくなってしまってスターを作りあげる側のスタッフの力が低下した・・・のかなと。
 でも、ふと気づきました。
 芸能プロダクションの基準は、今も売れるかどうかでしょう。その育成・創造能力はともかく、むしろ受け取る側が一人のスターだけを求める時代ではなくなったのではないか・・・と。
 日本でも世界でも野球人気が低落してきた中で、あの「大谷翔平」の人気を支えているものは、超絶した能力もさることながら、「庶民性」でしょう。スゴイの基盤としての「庶民の共感」、これがなくては通用する時代ではなくなっています。敬愛されない。もともと、庶民性は「きどらなさ」として尊重されていたのですが、それが普通になった 
 もうちょっというと、庶民から隔絶した英雄(ヒーロー)とか憧れとしての英雄でなく、みんなの英雄、みんなに祝福される英雄、一言で庶民性のある英雄・・・。これは、焦点(主役)が英雄の側ではなく、庶民の側に移ったという発想です。

 その例として、アノ象徴天皇も、「庶民に畏敬の念を持たれる天皇」とか「敬愛されるだけの天皇」から「庶民に寄り添う天皇」へと主客転倒したことがわかります。
 だいぶあらぬ方へ突き進みましたが、つまり「見られる側が主役」から「見る側が主役」へと意識転換してきている。

 研究の分野では、著名人や有力者に専ら注目する時代から、その背部や底辺にいる多くの人、「これまでの無名層」へと焦点が移ってきていると思うのです
 これには、情報公開法によって、従来、よほどの高名の学者でも見られなかった文書の閲覧ができるようになったこと、もう一つは、素人でも自由に撮影でき、瞬時に撮影の結果を見極められるデジタル撮影(デジカメ)の普及が大きいでしょう。
 情報公開法後でも、デジカメ撮影許可前は、その都度範囲を指定して申請し、A4判1枚を入手するのに、範囲を指定して申請し、基本料金+1枚100円余の経費が必要でした。このため、ある時1000枚余を申請して15万円を要したことがあります。
 今は、16GBのSDカードがあれば、1回1000枚程度として、4回分は収納できます。文書だけでなく、図表も画像も瞬時に自分のものとすることができます。申請の手間や追加の経費を考慮することが必要なくなりました。制度変更や技術変更が、歴史研究の分野でも研究技術水準を引き上げ、研究視野の拡大を可能にしました。進化しているように思います。
 オット、またまた脱線です。今日はこの辺で。

  
   ミノムシ:住みごごちはどう?

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.114 ガルブレイス

2024-03-20 02:12:37 | 余録


 春闘の真最中です。
 その動向を見てと、日銀総裁が金利政策を変更するという記者会見をしました。しかし、金利だけで経済が決まっていくわけではありません。大事なのは実体経済、つまり国民経済の状態です。

 たとえば、60~70年代に比べたら、現在は格段に生活水準が上昇しました。同時に、生活維持費が高額になっています。
 昔も今も穴あきズボンを履いている人がいますが、昔は貧しかったからですが、今はおしゃれとしてです。
 加工賃を払える人がカジュアルと称して穴あきを履くと、その水準にない人がそれに慰められ、それなら自分も出きると、逆にまねて手元のものを自分で加工しだすわけです。それを含めて変化を見る必要があります。

 ところで、ガルブレイスという人を知ってますか。80年代に来日したこともあるアメリカの経済学者です。ガルブレイスが『満足の文化』(中村達也訳、新潮社、1993年)の中で「下層社会なしには社会は機能しない」と書いています。
 少し前のものですし、ちょっと長いですが、紹介しましょう。ヒマがある方はどうぞ。
 
 

 「・・・下層階級がより大きな経済過程の分かちがたい一部分となっている。・・・恵まれた人々の生活水準と快適さがこの階級によって支えられている・・・。・・・・下層階級は社会的機能に深く係わっている。・・・ところが、どんなに高級な社会的経済的議論も、この問題については沈黙を守っている。・・・苦難を救済できるような政治経済システムの構想が求められているにもかかわらず、満ち足りた人々の都合だけが社会の正面に出て、明瞭きわまる現実を押し隠しているのである。
 以上のような現実を認知するためには、仕事についてのおなじみの定義から始めるほかないだろう。・・・仕事とは楽しくかつ報酬を伴うものである。仕事とは、恵まれた職業に就いている人ならすべて、程度の差はあれ喜ぶべきものである。ふつうの人間ならば、自分の仕事に誇りをもつ。
 ところが実際には、繰り返し作業だけで退屈な、苦痛や疲れを伴う、精神的刺激もなく社会的品位のない仕事が多い。・・・様々な消費者サービス、家事サービス、農産物の収穫作業などである。また、組み立てラインに労働者を配置しているために、労働コストが最終生産物の価格を決める主要因であるような産業もそうである。仕事が楽しくやれるようになるのは、労働コストと価格とのこのような関連が無くなるか弱まった場合、あるいはより高水準の所得が得られる場合であろう。高給が与えられるのは、社会的に権威がありかつ快適な仕事であるということが、現代の経済システムの基礎をなしているにもかかわらず、そのことはめったに触れられない。こうした仕事は、他人の命令に従って行なわれる不愉快な仕事の対極をなしている。たとえば、ドアマン、家事、道路の清掃、ゴミ回収、守衛、エレベーター係などのような分野の仕事は、社会的に劣等であるというイメージが付きまとっている。
 仕事という語は、人によっては無味乾燥で、苦痛に満ちて品位のないものを指す。同時に、人によっては楽しく、社会的な評価が高く経済的な報酬も多いものを指す。・・・楽しく、報酬もよい仕事に従事している人は、いかに自分の仕事が「激務」であるかを強調して、自分たちが恵まれた階級であるという事実を隠蔽しようとする。・・・決定的に重要な瞬間、たとえば犯罪者に判決を与えるときなどには、われわれは、何年かの「重労働」を言いわたす。われわれは何が楽しい仕事であり、何が大なり小なりの忍苦をともなう仕事であるかを、いつもごまかそうとするのである。
 以上のことから、現代の経済社会の基本的事実の一つが明らかになる。つまり、われわれの経済においては、誰からも嫌がられる辛い仕事を、恵まれた人々がやらずに貧しい人々がやらなければならないということである。そのような労働者の供給と補充がつねに必要とされる。肉体的にきつく、社会的に受け入れられず、快適ではない職業についている親たちは、子供の世代に跡を継がせようとはしないからである。子供たちは、肉体労働から逃れてもっと快適で報酬のいい生活を送る。あるいは、そのための努力をする。・・・一般に教育が目指しているのもそうした方向である。しかし、そのために、労働力補充の必要が生じ、不愉快なことではあるが、下層階級の一部を引き続き従属的な地位に止める必要が生じるのである。」

 だいぶ長くなりました。どうですか。
 春闘は、メデタク正職員になっている人達が中心です。非正規や外国人実習生などはどうでしょうか。社会全般の状態に目が向けられないと、落ちこぼれが必ず出ます。これまでずっとそうでした。いまも年金生活者などには目が向いていません。
 もうしばらく見極めが必要です。

 今日は、パソコンの状態が悪く、難儀しました。
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.113 金環食

2024-03-19 00:59:53 | あそび
 今日は、お休みです。
 話が大きくなりすぎて、続かなくなりました・・・。
 でも、せっかく開いたのですから、少し楽しんでください。

(1)朴

 よく、牛牧場の人が、飼育している牛にタロウとかハナコなどと名前を付けて呼んでいることがあります。慣れないと、みな同じ顔に見えてしまいますが、毎日接していると違いが判るんですね。朴も同じです。
 「朴百態」とでもいったらよいでしょうか。この朴は、笑っている、泣いている、眠っている、休んでいる、遊んでいる、泳いでいる、走っている、知らんぷりしている、思案中などなど・・・いろいろあります。
 その中で私が一番好きなのは「熱い朴」です。
 風を呼んで泳いでいる朴を見ると、おおらかさや優雅さを感じますが、この写真のような、熱い中に屹然と居る朴を見ると、気が沸き立ってくると同時に身が引き締まるのを感じます。

(2)金環食


 2012年5月、朴の写真を撮っていると、近所の人が、「金環食が始まる」と、観察用のサングラスや下敷きのようなものを持って出てきました。ところが、にわかに雲が太陽を蔽ってしまうと、「これでは観察できない」と早々にあきらめ、みなさん、家に入ってしまいました。

 私は、金環食があることを知らなかったくらいですから、それよりも、流れる雲の動きによって姿を変える朴を追ってひたすら撮り続けました。誰もいなくなったのも気付きませんでした。そうしているうちに、雲が流れ、薄くなったようです。気付くと、朴の上に金環食が現われました。雲があることによって自然の金環食を観察をすることができました。
 本当に「金環」になっているのがわかります。何枚か撮りましたが、これがいちばん鮮明でした。

(3)ムシ
  
 
 これはコガネムシでしょうか?
 家の周りの草取りをしていた時のことです。
 実がなるというから植えたのに、いつまでたっても実がならない木が庭にあって、ひょんなことでぶつかりました。すると、何かがドドッと落ちました。
 「ようやく実がなったのか」と見回しましたが、実はついていませんでした。
 「おかしいな」と、トンと木を叩いてみました。すると、またドドッと何かが落ちました。
 そこで、もう一回叩いて、落ちるものを見ることにしました。すると、落ちてすぐに下の芝生の中に潜り込んで行くのが見えました。
 「なにか」と木を見ると、無数のムシが「仲良し」してました。
 「オイ!」というと、一匹が降りてきて「お静かに」と・・・。
 
 「ヒトの恋路を邪魔する奴は、犬に食われて死んでしまえ」っていいます。いや、「一分の虫にも五分の魂」といいます。ヒトでなくても同じですよ・・・。う~ん、哲学が必要ですなぁ。

(4)バラ
  

 熱いですねえ。ところで、次のものご存じでしょうか
  「いうまいと おもえど きょうの あつさかな」

 この夏は心配ですねぇ。きっと地獄の暑さですよ。
 それに、プー・・、ネタ・・・、トラ・・、きし・です。核戦争だってないとはいえない。
 アッそうです。
 「キケンがいっぱい、夏場がフアン」
 というリズムのコマーシャルがありましたね。〔ヒント:あさり〕。

 ところで、中学か高校の時に、上の句の英訳が出題されませんでしたか?
 えっもう忘れた?
 では、正解はこちら:
 You might on my head today's hot fish.
 
 思い出しましたか?懐かしいでしょう。
 こういうのを忘れると、「ボケちゃった」みたいにいわれるんです。
 では、今日はこの辺で。 


 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.112 河口慧海

2024-03-18 00:46:39 | 山の本
 その昔、父親が話してくれたことを一つ思い出しました。
 お祭りのとき、浅間様へいくと、屋台などと並んで「大イタチ」とかかれた見世物が出ていたそうです。「どんなに大きなイタチなんだろう」と思って入ったところ、「大きな板があって、血がちょっとついているだけだった」と。
 これは、一休さんに出て来る「このはし渡るべからず」の類のトンチですが、考えてみれば、昨日の「秘境」には「言葉の魔術」を感じます。


        朴:おもいで&あこがれ

 昭和30年代ですから、今より不便でした。しかし、もうバスも奥地まで入っていました。(バスに限っていえば、今の方がもっと不便かもしれません)。人口だって今より多かった? 
 そもそも、近世にもいくらかは物産もあり、鷹の捕獲によってコメなどを供与されるなど、当時の社会に組み込まれていました。また、有害獣捕獲のため、鉄砲を所持して山に入ることも普通にありましたから、もう「秘められてはいなかった」のではないかと思われます。それをどう思うかは勝手ですが、なんとも違和感があり、です。
 そういうことを念頭に、本の帯に「秘境ブームになった傑作」とあるのをみると、「このブームは作られたブームだったかもしれない」と複雑な気分になります。 
            
 そういうことを考えていて、ふと次の1冊を思い出しました。
 『西上州の岩山藪山』(二木久夫〔ふたきひさお〕、現代旅行研究所、昭和56年)です。

  

 この本は、昭和40年代~50年代の、妙義山を中心に南から西の埼玉県・長野県の県境付近をくまなく歩いてまとめたものです。歩いていないところを見つけるのが難しいくらい丹念に歩いていて、うらやましいかぎりの本です。おそらく山好きな人ならば、必ず読むことでしょう。
 私も、あと20年若ければ、これを「聖典」(笑)として踏破を目指すかもしれません。

 この本は、昨日の『日本の秘境』とは打って変わって、「秘境」などと陰鬱な感情を書きたてるのでなく、どんどん入って行きます。道がなければ道を作ってしまうくらいの勢いです。そしてそれを、克明に記録しています。
 『日本の秘境』に「秘境演出」の作為を感じるのに対して、こちらは明るい。臨場感にあふれて健康的です。この本がすぐに手に入る本かどうかわかりませんが、オススメの1冊です。本の大きさは、縦195mm✕横135mm、362ページです。
 ちなみに、本の表紙は「尾附天狗岩より望む秋の小倉山と鷹岩」とあります。
 これは次の地図をご覧ください。地図中央下に「尾附」、橋倉川に沿ってやや北に「天狗岩」、そこから西を見ると、左〔南〕に「小倉山」と右〔北〕に「鷹岩」があります。
 なお、この地図にはありませんが、この地域の少し奥にももっと高い「小倉山」がありますが、そこではないようです。

  

 もう、今日の標題のところを書く時間がなくなってしまいましたが、「秘境」で思い出したことがあるので一言書いておきます。
 小学校5年の頃、旺文社か学研の学習月刊誌の付録に、河口慧海のチベット入国についての物語本がありました。当時のチベットは鎖国下にあり、そこへ慧海が仏典を求めて密入国を図ったことが内容ですが、ずいぶん緊張して読んだ記憶があります。慧海の「身を賭して真理を求める姿勢」を忘れることができません。
 これも、『かばすけ漫遊記』とは別理由ですが、ずっと探しているものです。

 私はこれを夏休みに読んだのかもしれません。
 宿題の作文として感想文として提出したところ、金賞・銀賞でない、なにか努力賞のような紙がつけられて返されて、エラク満足したのを覚えています。
 ところで、『河口慧海日記』(講談社学術文庫、2007年)が刊行されました。全体は315ページ、半分が日記、半分が解題・解説・研究です。
 もはや、幼少時の感動はありませんでしたが、それでも「真摯な探求の姿勢」には学ぶべきものがあると思っています。
 
  

 『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)の編纂にあたって、神足の人となりや、課寮の労苦がわかるように工夫したつもりですが、どうでしょうか。  

  

 今日はここまでとします。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.111 「神流川の源流を行く」を読む   

2024-03-16 18:37:42 | 山の本
 今日、次の『日本の秘境』(岡田喜秋 ヤマケイ文庫 2017年)の「神流川の源流を行く-西上州から奥信州へ―」を読みました。 

    

 この本は、末尾の説明によれば「おもに昭和30年代の旅の記録」をまとめたものだそうです。 
 それを1960(昭和35)年に東京創元社から刊行したのが初版で、その後、一部追加して64年に角川文庫から再刊され、さらに76年にスキージャーナルから新装版として刊行されたという経緯があり、この最後のものを底本して、「定本」として本書を刊行したそうです。
 なお、著者は、東京生まれ、旧制松本高校卒業とのことですから、「信州人」といってよいようです。

 さて、神流川の上流といえば、私が就学前に過ごした「生い立ちの地」ですし、神足勝記が明治17年10月・12月の2回通過していますから、読まないわけにはいきません。
 おまけに、30(1955)年代といえば、このブログで取り上げた「笠原義人先生」のご家族が橋倉にお住いでしたでしょうし、我が家もまだ神ヶ原に居りました。また、カバヤ食品のカバ型の宣伝カーがやってきたころということになります。
 このころはまだ、山中谷〔さんちゅうやつ〕とか「群馬のチベット」とかいわれてはいたものの、そして、まだ道路の舗装もされていなくて、もちろんガードレールなどもなかったとはいえ、ずいぶん開けてきて、万場も活気もあったように思います。
 しかし、先に結論を言いますと、ちょっとがっかりでした。

 まず、下の地図はこの本の73ページに付けられているものです。

  

 最初、この地図を見てすぐに変な地図だなと思いました。直観です。しかし、ともかく一読が先と考えて読んで、あとから改めてよく見たところ、わかりました。
 この地図には、北の高崎、西の富岡、南の鬼石が記載されていますが、この地域の中心地になる藤岡が記載されていないのです。それから、信越線や上信電鉄線(高崎・下仁田間)があるのに八高線の記載がありません。左上に神津牧場まであるのに、中心地の記述が欠落しています。
 たしかに、神足は巡回事業の終了後に鬼石から児玉辺を通過して本庄に出て帰京しましたし、この著者も、本庄から鬼石までバスを利用したと書いていて、この道筋(ルート)が高崎線との関係で便利な面もなくはないですが、経済・行政の面からはこの一帯はもともと多野郡であり、藤岡町が藤岡市になってからも多野・藤岡と一体で呼ばれるのが通常でしたから、昭和30年ならばなおさらはずせないことです。
 そのうえでこの地域の交通をいえば、高崎線の新町駅ー藤岡市ー鬼石の道筋が重要ですが、上の地図にはその視点が全く欠落しているわけです。

  

 ちょっと辛く言い過ぎたでしょうか。
 でも、必ずしも、そうではないと思います。というのは、著者は「秘境」ということ強調したいためか、峠を克明に描いていますが、近世や明治・大正ならともかく、昭和30年代にこれらの峠を越えなければ生活や経済が成り立たないというようなことだったのかどうか、疑わしいです。著者は、このうちのどれかでも超えたでしょうか。カバの宣伝カーでさえ来たのですから、流通経路はすでに道路に移行しつつあったのではないでしょうか。
 実際、著者は、土地の人の話として、三波石や三波石もどきを東京に売りつけに行く話や、コンニャクの流通のことにも言及してます。
 また、そもそも、著者は東北大の経済学部出身で、横浜商大教授として観光学の構築に努めたそうですから、山行前か後にもっと調べてしかるべきだったのではないでしょうか。 

  

 オット、時間が無くなってしましました。
 内容は、みなさんがご自分で読んでみてください。
 そのうえで、一言だけ読後感を言えば、著者が目指したという「三国峠」へは、通過する人が少なくなってきていたとはいえ、もっと土地の人からの情報を得たならば、なんということもなかったのではないか、と思われました。
 というのは、掲載されている標柱は、写真を見る限りでも、小さいとはいえ、まだ古くはなさそうだし、文字もしっかり判読できます。
 つまり、「秘境」と煽っただけなのではないか、というのが私の感想です。
 日航機の墜落事故の頃まで、この地域の交通事情が今と比べて芳しくなかったことは確かですが、それにしても、多少なりとも知っているものからすると、チョット、と思いました。
 ここまでとします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする