神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.120 備忘録:木曽関係書籍・文書 

2024-03-26 01:33:53 | 先行研究

 今日は、木曽御料地に関するものを抜き出して読んで終ってしまいました。
 まったくの備忘録です。(順不同)。解説を付けるまもなく・・・。 

(1)木曽国有林物語(山下千一編著 昭和48年 下島書店)
  

 山下千一さんご夫妻には、前(No.116)に書いた木曽行の際に開田でお会いしました。電車とバスの時間を見計らって、バスでピストンする時間が取れることがわかって、急遽お伺いしまして挨拶しただけでした。その後は、忙しさにかまけて伺う機会がありませんでした。

(2)木曽山林物語(山下千一著 1991年 章文館)
  

(3)史料 木曽御料林事件交渉録(青木恵一郎編 昭和48年 新生社)
  

  立教大学修士の頃に、ロシア語の翻訳を頼みに来た例のK先輩が、「(池袋の)高野書店にあったけど関係ないか」と教えてくれたものです。しかし、修士論文でこれを消化する力はなく、まだ宝の持ち腐れでした。
 のちに、長野へ調査に行ったときに県立図書館にこの原本があることを確認しましたが、そのころは、関心が少し別方向へ行っていて、いまだ未利用。

(4)木曽御料林事件(町田正三著 1982年 銀河書房)
  
 本書は、読み物としても、資料としても大いに役立つ労作です。

(5)木曽山(著者兼発行者徳川義親 大正4年 非売品)
  

 古書店では、自然崩壊直前のひどい状態でした。そのために、コピー取るほどの、予想外に安い価格で手に入りました。自分で製本してこの状態にしましたが、あること自体が珍しい、稀覯本です。もちろん木曽山のことがよくわかる労作です。

 次の(6)と(7)は大きな図書館ならあるでしょう。私は、最初、図書館のものを利用していましたが、入手しようとした際には、もう無くなっていて、とくに(6)の入手が難しかったので、控えとしてコピーを作りました。
 なお、(7)は下の(11)~(14)をいちぶ含んでいます。
(6)木曽福島町史(2)の第5・7節の一部をコピー
(7)長野県史 近代史料編 第5巻(4)産業 林業部分のみコピー

(8)御料地境界ニ関スル書類 全(徳川林政史研究所蔵) 
  

 もとは青焼きだったと思いますが、そのコピーなのでかなり判読が難しくなっています。
 原本も、あるいはもっと劣化が進んでいるかもしれませんから、デジタル化デモされていないとすると、いつまで読みとれるかわかりません。内容は、明治30年頃の土地下げ戻し申請に関わって沿革を記したものです。
 
 次の2点は、入手が面倒でしたが、足を運べば読むことはできます。
(9)は標題とおりの木曽の御料林の林業全般に関するわかりやすい報告です。(10)は資料のみです。
(9)宮内書記官栗原広太調査 木曽御料林之状況(都立中央図書館蔵)
(10)明治35年栗原宮内書記官 管内巡視之際提供書類(国立公文書館蔵)

 上にも書きましたが、(11)~(14)は、長野県史刊行会の収集文書です。なお、これらの文書が、現在どこに所蔵されいるかは、調べていません。
(11)木曽官林境界関係書類(長野県史刊行会収集文書のコピー:元は長野営
   林局蔵)
(12)木曽支庁『例規録』人夫・巡羅他のファイル(同上)
(13)木曽支庁  御料地編入・払下・事業要覧・収入決算書(同上)
(14)木曽支庁  長官諮問への答申・木曽実況報告書・会計予算(同上)

 ブログをはじめて、ずいぶん棚の本や収集文書の見直しができるようになりました。しかし、それを文書にするのはなかなか骨が折れます。
 私は、知人・諸先輩から話を伺っておもしろいことがあると、書き残すように言いますが、つまらないながら、私のブログはNo.120に達しました。『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築くー 』日本林業調査会(J-FIC)の紹介から始まったブログですが、もうしばらくは続けられそうです。




 
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No.119 思い出すこと 4

2024-03-24 04:20:04 | 追憶
 朴には、白・飴色・赤・・・いろいろがあります。
 どの色でも、ときどき来客があってにぎやかでした。 


 さて、今日は『価値形態論と交換過程論』で思い出すことを書きます。
 といっても、本の解説や解釈をするわけではありません。結論を先に言えば、難解な本なので一生懸命に読んでいったところ、突然、意味が分からなくなったということです。

  

 この本は、大きさA5判で、全体118ページのものです。ですから、本というより小冊子といった方がよいかもしれません。
 内容はマルクスの『資本論』第1巻冒頭の商品・貨幣論に関するものです。 
 著者は久留間鮫造〔くるまさめぞう〕、出版社は岩波書店、昭和32(1957)年7月に第1刷、手元のものは昭和48(1973)年9月の刊行の13刷りです。定価は400円(私のこのころのアルバイト時給250円だったことは昨日も書きました)。

 いま、この本がどういう読まれ方をしているかはわかりませんが、私が学部の3年生になって宇佐美誠次郎先生のゼミで『資本論』を学び始めたころ(1972年4月)、先生が「みとおしをもち、古典をすなおに学ぶこと」(『経済』1969年5月)という論文を発表されていて、「20年先をみとおす」、「利己的な自己満足でなく」、「勝手な解釈をしない」、「わからないものはわからないとしてとりあえず先に進む」ということを厳しく言われていましたから、私などは、『資本論』にとっかかっていきなり「素直に理解しなければならない」例として、『価値形態論と交換過程論』を読んだものです。

 本の内容は、細かいことは避けて、要するに「価値形態論」と「交換過程論」の相違がどこにあるかということ、「価値形態論」では商品所有者の「欲望」がなぜ捨象される〔とりあえず除けて考えられる〕のかということなどがまとめられています。

  
   来訪者:一見さん

 ゼミには、宇佐美先生を慕ってやってきたモグリの学生や、『資本論』を何回も読んできたというOBが参加されていて、初学者である私などはまったく参加するスキも無く、議論はいつも頭上を飛び交っていました。
 毎回20ページほどを目安に議論することになっていて、それに合わせて読み考えましたが、上記の本は、その際の重要参考文献の1冊でした。しかも、初学者の私にはとてつもなく難解なものでした。

 ともかく、なんとか理解をしたいと必死で読みました。
 おそらく、線を引いたり、朱色の鉛筆で印をつけたり、ペンで枠に囲んだりといろいろやったはずです。(自分のものなのに「はずです」は変だと思われるでしょうけど、あとでわかるように、今はもう手元にないのです。)
 
 本は前篇と後篇に分かれていますが、なんとか前篇の44ページを読み終わって後篇に入ってからと思いますが、はたといくら読んでもわからなったのです。
 だいたい、いつもアルバイトをしてきて眠い目をこすりながらやってましたから、そういうことは珍しいことではなかったので驚きませんでしたが、ともかく、この時はからきしわからなかったのです。それで、とうとうあきらめることにしました。
 ところが、翌日、見てすぐにわかりました。「乱丁」だったのです。

 本を買った生協の書籍部へ行って交渉すると、「岩波から届き次第交換する」と答えました。 
 それを聞いて安心していると、
「その本をお預かりします。」といいます。
 しかし、
「これには自分に必要なメモも入っているし、いまも読んでいるものだから困る。」
 というと、
「その本を送らないと、岩波が送ってくれないから、交換できない・・・」
 と。結局、「没収」されてしまいました。

  
  
 自分の交渉力のなさをつくづく思いましたが、いま考えても理不尽、と思います。
 




 
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No.118 思い出すこと 3

2024-03-23 23:24:44 | 先行研究
   
    朴の葉のかげ

(1)1978年2月14日、黒田久太『天皇家の財産』(三一書房 1966年2月)を、池袋の西口の立教大学へ行く通りにある高野書店で購入した。定価は250円だが、当時すでに希少本で、古書としてプレミアがついて400円だった。それでも、棚を見ていて発見した時はわが目を疑うほどの驚きで、高いとは思わなかった。

  
   黒田久太『天皇家の財産』

 この本は、明治百年となる1968年を前にしての、今から約60年前にまとめられたものである。1966年は昭和41年で、昭和は63年まで続いたから、すでに戦後20年余が経過して経済の高度成長を迎えていたとはいえ、昭和はそののち20年続くわけなので、まだ天皇タブーもかなりあった。その意味では、本書はよくまとめた「労作」と思うだけでなく、その後、これに代わるものがまだないということからも、少し評価を上げてもよいかとは思う。
 しかし、研究の質としては違う。
 私は『明治期皇室財政統計』(法政大学日本統計研究所 1992年7月)の「Ⅵ 解説にかえて」で、本書について「資料の整理と規模の究明には貢献したが、啓蒙書特有の概観的な記述であり・・・」(269ページ)、「方法論にも、批判的精神にも欠ける」(270ページ)と批判したことがある。
 私のこの評価は今も変わっていない。
『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー 』日本林業調査会(J-FIC)の「解題」で自分の到達点の一端を書いたが、黒田に対する評価は、今も研究課題として変わっていない。

(2)発表されている論文などを見ていると、『天皇家の財産』に対する評価は相変わらずで、いまも「一級資料」の扱いである。これについて、ひとつ思い出がある。
 1977年2月に『現代天皇制 法学セミナー増刊 総合特集シリーズ』(日本評論社)が出ていた。
 まだ、天皇とか天皇制をどうとらえるべきかの視点でさえ怪しい時期のことあったから、ともかく前から読むしかなかった。

   

 表に列記されている「主要論文と筆者」は、当時の錚々たる皆さんだったから、自分にとってはまぶしいばかりであった。それで、どれから読むべきかと迷いながら、おもむろに目次を見たところ、次の論文があることがわかり、手を打った。
 法政大学教授 高橋 誠 「「天皇の財政」とその再編成」

 高橋先生は、法政大学で地方財政を担当されていて、すでに『明治財政史研究』(青木書店 1964年)などもあり、財政関係では知られていた。
 私は、学部では経済原論のゼミだったので、『資本論』とその関連の文献を読むのに手いっぱいで、まだ財政学のイロハも知らなかった。だが、皇室財産・財政をやるには欠かせないので、いくらかは手を広げてはじめていた。
 だから、高橋先生が上の本を書かれていたことを考えれば当然とも思えたが、身近に皇室財政問題に着手されている人がいるとは思いもよらず、「灯台下暗しだった」と思ったものだ。それで、ともかく読んだ。
 論文はA5判大で9ページ分あった。まだ用語自体も知らないものがあって手間取り、一筋の光明を得たというよりも、驚きしかなかった。
 読んでの感想は、
 「先生は、どのくらい資料をお持ちなのだろうか」だった。

 それで、大学院の事務課へ行って事情を話して先生の連絡先を教えてもらった。当時のことで、まだプライバシー問題とかいうことはあまりなく、信頼関係もできていたからすぐに教えてもらえた。
 詳しいことは手紙を書いてお知らせすることにしたが、待ちきれず、挨拶だけするつもりで電話した。そして、思いついて一言だけ「お持ちの資料はどのくらいありますか」と伺った。
 すると、そっけなく、
 「黒田さんの本だけだよ」と。
 
 先生の返事に唖然とさせられたが、「本一冊であれだけのことを書いてしまうのか」と、その文章力に驚嘆してしまって、もう言葉が出てこなかった。

  
   小菅から大菩薩への途次  

 その後、「論文」を何度も読んだ。そして、そのうちにふと思った。
 「要するに、見てきたような・・・ということなんだ」と。
 そして、
 「知る人がもういなくなっているなら、自分が知るしかない・・・。」
  
  

 これが私の基本姿勢です。
 作業は、もういくらかはやりましたから、あと20年あれば終わるでしょう。
 問題は「厭わなければいいだけ」です。

 今日はここまで・・・。



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No.117 思い出すこと 2 

2024-03-22 04:12:12 | 辞書

      
        朴:夕日に映える

 きのう、岩波『ロシヤ語辞典』のことを書きました。
 これは正確には『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』(八杉利貞著 1970年 第8刷 1600円)です。ちなみに、1970年の私のアルバイト代は、時給250円で、1日1500円でした。
 この辞書は、語彙数が多く持ち運びも便利なので、長く使いました。
 その記念事項を3点メモします。
 1.内表紙の「娘のじじ」の脇に「1978年夏」とメモが残っています。これは昨日書きました。
 2.79年3月の博士過程の入学試験の準備で使いました。
 実は、このころ先輩のKさんが『ソビエト大百科』のコピーを持ってきて、「意味が取れる程度でいいから、訳してくれ」というので、試験の準備として引き受けました。
 この作業の一部は、のちに「ブハーリン『帝国主義と金融資本主義』」(法政大学大学院『経済学年誌』第22号 1985年)として発表しました。読む人を期待しない、アリバイ作りの発表でしたが、ある先生から「読みました」と電話で慰労されるなど、往時を回顧させる大事な1点となっています。
 3.1980~81年のドイツ留学にも携帯しました。これについてはまたいずれとしましょう。

  

 さて、この辞書のほかに『博友社ロシア語辞典』(昭和50(1975)年 木村彰一・佐藤純一ほか 3500円)が発行されてました。学生向きで説明がていねい、例文が多く、文字もやや大きく見やすい。持ち運びの限界くらいの大きさで、良い辞書です。しかし、できれば語彙がもうちょっとほしい。
 ということで、いざというときには語彙が多い方が助かるので、持ち運び用には岩波版を使っていましたが、だんだんと視力が低下してきたのもあり、家では博友社版を使用し、それで見つからないときは、八杉さんの『岩波ロシヤ語辞典』を引きます。
 このほかに、めったに使いませんが、『岩波 ロシア語辞典』(和久井誓一・飯田規和・新田実編 1992年 7800円)があります。それから、オジェゴフの露露辞典・・・。
 最近はロシア語を使うことがほとんどなく、使ったのはロシア大使館への抗議くらい。もうさびついています。
 
 コロナ蔓延前の2020年ころ、神田の古書店を歩いていたところ、八杉さんの岩波版が、ほとんど未使用なのに、500円で店先に出ていました。それからまたしばらくして、高円寺の古書店で、こんどは300円で出ていました。アア!。

 懐かしさと愛おしさから、どちらも買ってきてしまい、棚に積んであります。ほしい人があれば差し上げます。・・・送料の方が高いかも・・・。 

 いや、ずいぶん自慢をしてしまいました。
 では、本論に入ることにしましょうか・・・。
 う~ん、いや、明日にしましょう。

 〽 あし~たがある~さ あすがある~

 来客がありました。
  

 

 
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No.116 思い出すこと 1 

2024-03-22 01:29:37 | 追憶
 いくつか思い出したことを書こうと思います。

  

(1)立教の大学院で修士論文を書き始めた1978年ころは、1戸建ての2階の半分を借りてのアパート暮らしだった。もともと狭い造りのところへ、そのころにはもう本箱6~7個分は蔵書があったので、けっこう手狭だった。
 それでも、居場所が必要なので、部屋の一角を本箱とふすまで仕切って自分の居場所をなんとか確保した。すると、歩き始めた娘が遊んでほしくて時々やってくる。しかし、そうそう遊んでいるわけにもいかないから、炬燵の台を立てて通せんぼをしたら、おもしろがって、どこで覚えたのか不思議だが「大丈夫、通れる」と言ってすり抜けてきてしまう。そこで、バリケードよろしく頑丈に閉鎖すると、こんどはふすまを開けて、みつけたとばかりに「にか~ッ」とよだれを垂らしながら笑う。そして机の下をくぐって入ってくる。そうすると、やはりいくらかは遊んでやらざるを得ないので抱っこしてやると、こんどは机の上に興味を持って「じじ〔字字〕」といって落きたがる。おかげで、当時使っていた『岩波ロシヤ語辞典』の内表紙にはその「じじ」がくちゃくちゃと書かれていて、いまでは「私の宝物」になっています。
 娘は今、高校生の娘と中学生の息子のお母さんです。


(2)そのころは情報公開法制定のずっと前で、からきし資料がなく、先行研究を探すことも難儀するような時代でした。
 記憶違いがあるかもしれませんが、先日、「目白御殿」といわれた田中角栄元首相宅が全焼したことが報じられましたが、あの建物に木曽のヒノキが使われていたのではないかと思われます。そのころと思いますが、私も木曽に行きました。
 この時のこととして覚えていることが3つあります。
 1.原寿男さんが「木曽の林政と施業の沿革」(『昭和43年度木曾分場年報』)を書かれていて、それを読んで、お話を伺いに農林省林業試験場木曽分場に伺ったことです。もう記憶が薄れるばかりですが、原さんは、まだ何も伺うすべを持たない私に、端正にして控えめな姿勢で、ニコニコしながらお話しくださり、上記の論文のコピーを持っていった自分に、記念にと抜き刷りを下さいました。
 2.原さんにお礼を言って辞去しようとすると、さりげなく引き留めました。そして、ちょっと出てから戻ってきて、「分場長に挨拶していってください」といい、案内してくれました。
 分場長は鶴園さんとおっしゃいました。原さんが私のことを説明されたようで、私が「なかなか手掛かりがないので、ともかく御料地だったところを見たいと思ってきました」と挨拶すると、にわかに運転手に来てもらい、財布から5000円札を出して渡して「予定外で申し訳ないけど、これで希望のところへ行けるところまで案内してあげてください」といい、私には「今日は会議があって時間がありませんから、また来てください」といって部屋を出ました。
 運転手さんにお世話になり、木曽福島から、王滝の方の奥まで上がりました。そこは、運転手さんが心配して、「雪解けで崩落のキケンがあるから、ここで勘弁してください」というようなとことで、巨木が林立していました。
 のちに、神足も越えた真弓峠の名前を知っていたので、その方角を聞くと「あの奥の方です」と。
 3.木曽には何回か行きました。いちど王滝の民宿に泊まった時のことです。
 民宿の主人から「王滝へ来た目的」を聞かれたので、「皇室財産の研究」をするつもりであること、その中心地の旧御料林を見に来たことを話したところ、突然怒り出して「もう御料林なんかいいよ」と言いだしました。
 私が「でも、何にもわかってないですよ。」「ちゃんとわからないと、墓標が立てられない」というと、もう客であることを忘れた対応でした。
 この件もあって、これが「私の課題」です。 
   

 もっと簡単に書くつもりでしたが、今日はここまでです。
 つづきは明日。




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