天気予報では、これから雪ですね。
雪が激しく降るさまを見ると、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲1番変ロ短調」を聴きたくなります。
ところが、レコードの時もいまのCDも、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」がセットで続いているので、この二つを聴かないと、耳がそれで記憶してしまっていて、やめられません。
もっとも、バックグラウンド・ミュージックとして聞き流しているだけです・・・。
今日は、先日の「涌谷」に出てきた鈴木純之進の頌徳碑の碑文を紹介します。
下の写真は碑(再録)。
碑の原文は漢字・カタカナまじりですが、下に紹介するものはそれを読み下したもののうちの「事歴・人物」に関する箇所」ですから、「抄」ということになります。本文は全文1文ですが、行替えをしました。
ではどうぞ。
頌徳碑:涌谷城東口
頌徳碑
故遠田郡長鈴木純之進君頌徳碑 正五位勲二等菅原傳篆額
君〔くん〕、名は純之進、本の姓は狩野氏で、俊蔵の次男、若くして鈴木源之丞の養子となる。家は代々涌谷村領主の亘理家に仕え、槍術師範役となる。君は村の学校の月将館に入って経書と史書を修め、同時に槍術も修めた。
明治 7年 4月、第五大區副區長を命せらる。
12年 2月、遠田郡長に任せらる。
19年 8月、宮城縣遠田郡長に任せられ、奏任官五等に敍せらる。
君、資性は温厚篤實、寡黙清廉、古〔いにしえ〕の君子の風があった。そのひとつは郡の政治を担当したことである。そのまじめな勤務ぶりは25年間変わることがなかった。これを上司が認め、愛媛県書記官に推挙したが、あっさりと断った。
閔氏騫〔孔子の弟子で徳行にすぐれていた〕という人がいる。浪費を避けて切り盛りして、自分より人を推した。概して君が何か事にあたる場合に、用意周到、ソツがなかった。だから、なにかを始めるに、万が一にも失敗ということがなかった。なかでも常に最も力を用いたのは敎育・勸業・土木である。
敎育の根本方針は男女青年の知育である。その機関として、男子には小牛田農林学校・女子には涌谷高等女学校があったが、これは君の首唱したものである。
また、かつて短台谷地開墾が村民に利益をもたらすことを察知して画策したことがある。そして松方内務卿の視察にこぎつけ、それによって今日の大成功を見るに至ったものである。
あるいは、桃生・牡鹿2郡にまたがる明治水門、玉造・栗原2郡にまたがる清水閘門、志田郡における田貝堤防などは、他郡に関係する大難工事だった。殊に遠桃〔遠田郡・桃生郡〕事件の紛争はよく調停し、その間苦辛して経営に当たり、後患のないようにした。どれも皆その画策の宜しきを得た賜である。
その勤倹の性から退職後と雖もムダに光陰を費やすことなく公共団体に力を尽くし、敎育会長・信用組合長を務め、誠実に修養会長や奨励養維事業に従事した。余力は旧村領主亘理家の家政を補助して衰えることがなかった。およそこれらの徳沢の及ぶ所はたいへん多いが、君を知るものが少ない。平生から遊びや華美なことに近づかず、権勢や利益に走らず、無欲で執着しない、僧のような人であった。
大正9年10月28日歿す。享年74。元涌谷村龍淵寺に葬られる。
昭和11年7月 鈴木省三撰時年84 平塚徳夫書
釈迦堂遺跡博物館で
以上です。
碑文がだいぶ長いですから、今日はここまでにしますが、碑文を撰文した菅原傳について興味のある方は、次に『ウィキペディア菅原傳』と『大正人名事典』の2点を引いておきましたからお読みください。
【菅原傳】
1.1863年、現宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。1886年(明治19年)渡米、パシフィック大学に学ぶ。サンフランシスコで在米日本人ない国有指導名を結成する。1898年(明治31年)衆議院議員(立憲政友会)に当選する。1924年(大正13年)加藤高明内閣で海軍参与官に就任。この間新聞『十九世紀』・『人民』を発刊する。1937年(昭和12年)5月死去。75歳。(『ウィキペディア』)
2.「君は旧仙台藩涌谷藩士菅原応輔氏の二男にして文久3年8月25日陸前国遠田郡涌谷町において呱々の声を揚ぐ。夙に大志あり。明治創業の現状を洞観し識見を?養し一世の指導者たらんと期し、東都に出でて修学研鑚怠りなく、明治12年東京大学予備門を出でて同大学に入り、専ら政治法律の学修む業成に及び、明治19年米国に航しパシフィック大学に入り、政治法律経済の諸学科を専攻し、在学2年業を卒へて自由党に入り米国桑港において愛国同盟会なるものを組織す。26年ハワイに航し我が同胞のために大いに尽くさんと志し、挺身努力時のハワイ政府に迫り、日本人に参政権を得せしめたる如き、偏に君の斡旋によりたるものなり。帰朝するや広く四方の志士と交わり民権の伸張に?む。28年朝鮮の地を跋渉し南北韓の情勢を審査し、29年に至り自由党幹事に挙げられ、30年宮城県第三区より選出せられて代議士となり、常に最高枢機に参じて?略を運らす。40年日露戦争の論功行賞に際して勲4等に叙せられ、爾来声名隆々江湖の重望を荷ふ。夫人隆子は故大審院検事川目享一氏の長女にして、伝一郎、眞、昌子、治子、昭子の数子あり。」『大正人名辞典』
まるい ま~るい ねぎぼうず