goo blog サービス終了のお知らせ 

神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.104 安東清人 

2024-03-09 19:05:00 | 勝記日記

 今日は、「安東清人君紀念碑」を紹介します。
 安東清人は、神足勝記・木下小吉郎と一緒に熊本県から貢進生として上京した人です。優秀で、友人の間では知られた人でしたが、肺結核のために33歳という若さで亡くなりました。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)にも、安東がドイツから神足に送った手紙が出てきたことが出てきます。(なお、昭和6年9月13日の項に、この手紙のことを書いていますが、まだ見つかっていません。)

 碑の原文は全文が漢字です。この碑文について、すでに『広報 ながす』(第43号、昭和42年9月25日)に読み下しがあります。しかし、「大要」とありますので、この際ですから、自分の読み下しを試してみることにしました。 

 
  安東清人君紀念碑:長洲市四王子神社

 上記の広報には
 「四王子神社の東北の隅に弓道場がある。その西側に高さ三メートル位の石碑が建っている」
とありますが、位置も大きさも記憶と違うように思いました。私が行った10年前頃は、境内に入って正面右に舞台、左手に碑があり、大きさは私の身長より小さかったように思います。
 なお、安東清人については、上村直己「熊本藩貢進生安東清人日記『心ノ影』(1)(2)」熊本学園大学『総合科学』第17巻第1・2号、平成22年(2010年)12月、平成23年(2011年)4月)があります。 
 では、お読みください。

**********
 安東清人君紀念碑
 君〔くん〕の名は清人。安東氏は細川家に仕え、父俊文は藩の物頭であった。母は内田氏の出である。
 君は、安政元〔1854〕年4月6日、肥後国玉名郡長洲に生まれた。10歳にして春秋を読みこなし、長じて藩校の時習館に入り、竹添〔進一郎:井井(せいせい)〕・木下〔韡村(いそん)か〕諸氏に就いて経学を修めた。
 明治元年、撰ばれて居寮生に揚〔ひきあげ〕られた。3年、貢進生に推挙され、東京大学南校に入りドイツ語を修めた。のち開成学校の給費生となる。8年、官命によりドイツに留学し、フライベルク大学に入り、鉱山学を専攻した。
 不幸にして肺〔結核〕を患い、10年9月に帰朝した。13年、病が稍〔やや〕間〔かん:よくなり〕して文部省に出仕した。すぐに権少書記官に任ぜられ、正七位に叙せられた。官立の学務局副長の職を兼務した。18年、少書記官に昇進し、従六位に叙せられた。此歳、病が再発し、帰郷して養生することを願い出た。しかし、天はこれに年を与えず、明治19年9月17日、遂に没した。享年33。
 是より先、君は大島氏〔佐喜〕を娶るも、先に没し、子がなかった。弟の真人が遺骸を収め、長洲の先祖のそばに葬った。
 君の人となりは質直寡文〔質朴、正直、うわべを飾らない〕。没するに臨んで遺言を残した。
  吾れ死すとも碑を樹〔た〕つることなかれ。蓋し、諛墓の毀〔ゆぼのそしり:墓誌を作って
  死者をほめすぎること〕を深く悪〔にく〕めばなり
 しかし、友人の中に勤学を紀念して募金する者があった。同窓の友は痛悼し、相談して石碑を建てて次のように刻んだ。
  学成り、名著しい同人の賢明を称賛する。造花はその才を妬み、年を与えなかった。
  哀悼の余り碑を建てて伝える。遺言は耳にあるも、顧みるいとまがなかった。
 二品大勲位能久親王篆学額
 正三位勲二等子爵品川弥二郎撰      高橋健三書

 以上です。碑の裏面など、略しました。

 この時の熊本行で、私は神足の生家の「熊本内坪井折栴檀{うちつぼいおれせんだん)」の位置確定も出来ましたから、じつに思い出深い旅行でした。
 次の写真は、帰りの機内から見た「熊本県ー宮崎県」の山地です。どのあたりかお分かりになる方がおられましたらお教えください。



 まだ書きたいこともありますが、ここまでにします。

    
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.91 渡辺廉吉

2024-02-25 23:57:11 | 勝記日記
  
 24回目(12月19日)に同じ場所で撮ったのを載せました

 コロナの前、新潟から日本海沿いに北上してみることにして、まず長岡市を尋ねました。
 この時、昨日書いた運送会社のことについて、記憶をたどってみましたが、半世紀以上がたっている町並みをみても手掛かりは何もなく、あきらめて直ちに渡辺廉吉の記念館を尋ねることにしました。

 渡辺については、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「人名録」に挙げておきました。また、没後の大正14年2月16日の項に神足の「感慨」も出ていますから、ぜひご覧ください。

 渡辺は、嘉永7(1854)年に長岡で生まれ、大学南校で神足らと出会い、ともにドイツ語の部で学びます。その後は分かれて、行政・法制・政治の方に進んで活躍し、貴族院議員もつとめますが、不幸にして事故で亡くなります。
 
 渡辺の記念館は、長岡市御山町の「長岡市郷土資料館」にあります。JR長岡駅から東南方向に直線距離2kmちょっとのところにある悠久山公園の中にあります。記念館はお城の形をしていたような記憶があります。近くに長岡大学とあるのが見えますが、正確には「Map悠久山」で検索してみてください。

 館内には渡辺の遺品が展示されていました。
 写真左の「記念碑の置物」が渡辺の記念碑の模型です。下にその碑文の写真を挙げておきましたからご覧ください。ほかは渡辺の著書や身の回り所持品です。

 私が注目したのは、次の日記です。
 神足が日記を書き始めるのは明治6年からですが、渡辺は上京する明治4年9月から日記をつけていて、それを神足が借りて読んだことが出て来ます。残念ながら、初期のことなので、上記の『神足日記』ではその部分は割愛しましたが、神足がなぜ書き始めたのかはどこにも書いてないので、それを考えるためにも、ぜひ渡辺のもの〔後の人の筆写〕を見たいというのが訪れた理由でした。
 もちろん、現在は『渡辺廉吉日記』(小林宏・島義高・原田一明編)で翻刻されていますから読むことができますが、原本の所在が分からず、「この日記〔下の写真〕はすべて後人が筆写したもの」(上記『日記』の「解題」456ページ)です。


 郷土資料館を出て、公園の北の方にある渡辺の碑を見ました。
 全体を写したものは判読が難しいので、部分ですがこれをご覧ください。


 渡辺廉吉の碑
 公園を出てあちこち周辺も歩きました。
 レストランの庭付近に見えたのが上の花です。ねむの木でしょうか、よくわかりません。おそらく、この時初めて実物を見たのだろうと思います。
 何とも言えず繊細な感じを受けました。
 それから近くの池の脇で休んでいると、オカリナを吹いているのが聞こえてきて、ゆったりとした気分を味わうことができました。

 最後になりましたが、神足は明治19年9月に長岡に巡回に訪れています。そして、東の奥只見に入り、「八十里越」から只見町に入り、桧枝岐に向かい、さらに会津駒ケ岳に上り、降りて尾瀬に入ります。そして、尾瀬を抜けて群馬・伊香保へと巡回を続けました。
 今日はここまでとします。
 




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.87 高橋寛司 2

2024-02-21 23:38:05 | 勝記日記

 須賀尾:左方向は軽井沢 左上方向に須賀尾峠 
 
 「長野原草津口駅」から地図の左上の須賀尾峠に着くまで、休憩を兼ねて神足が歩いたと思われる旧道を探したり景色を見たりしましたが、それでも所要時間は2時間弱でしたからそれほどの難所ではないように思われるかもしれませんが、前回掲載の吾妻溪谷や丸岩に見られるように、沢筋が深く、そこを橋でつないで九十九折れに上る道なので、車道とはいえ急登で、ときどき追い越していく車もローで唸るようにして通過して行きました。
  
   峠で
 峠付近で丸岩へ行く道などあちこち見てからゆっくり下ると、20分くらいで須賀尾の入口につき、右かどに案内板、左向かいに「かどや酒店」がありました。
 店番の老婦人がいたので、アイスクリームを買い、そこで座って食べさせてもらいながら、
 「人探しできたのですけど、明治の頃の人で、高橋寛司という人です・・・」
 というと、きょとんとしているように見えました。それで
 「・・・息子さんは穂太郎さんといいます・・・」というとすぐに反応して、
 「穂太郎先生なら、この下の方です。みんな教わりました」と。

 予期せぬ反応に驚きながらさらに伺うと、穂太郎氏は書道の先生で、皆が教わったというくらい知られた人であること、上の地図中の「コスモ石油」より東へ下ったところに公民館があり、その近くに家があること、いまはだれも住んでいないこと、などを教えてくれました。
 途中、郵便局や金物道具店などで位置や状況を聞き、ようやく到着しました。
 家は、まだ人が住んでいておかしくない状態と思われましたが、やはり留守でした。そこで、隣家に入って伺うと、墓地は奥にあること、ご子息の巌氏が先の東吾妻町に住まわれていることを教えてもらえたので、とにかくお会いするべく急ぎました。そうして巌氏(83歳?)にも巡り合えたというわけです。
 しかし、巌氏は、進学のため早くに家を出たこと、なおかつ穂太郎氏が55歳で亡くなったため、ほとんど来歴などを聴く機会がなく終わってしまったこと、などを話されただけで、詳しいことはわからずじまいでした。
 なお、後日、巌氏からいただいたお手紙は達筆な毛筆書きでした。妹さんは中央の書道界でも知られた書道家である由ですが、名前を亡失した。
 
            岩櫃山:直下から 、
 もうちょっと書きます。
 高橋寛司について「わからないなりにわかったこと」は、『明治十年 進退録 三』(宮内公文書館蔵)の中の
「第二号 村瀬義孝外二十八名加田範彦外十九名当分雇ニ雇用ノ件」
「第二七号 当分雇藤田一郎外五十六名解雇ノ件」
 に名前が出て来ることです。
 残念ながら、私はこの辺りの事情に通じていないのでうまく説明できませんが、この時期、明治9年の熊本神風連の乱や、10年の西南戦争などがあり、東京・皇居の守りが手薄になる・なったので県令に推薦させてそれを一時採用したということらしいです。
 つまり、群馬県は「県令楫取〔かとり〕素彦」に命じて「群馬県平民高橋寛司」が採用されたわけです。
 この間に、高橋の場合は、どういう経緯でか、神足の同郷人(熊本県)の川上虎雄と知り合い、その縁でつながりができたと見られます。
 そして、要するに高橋寛司らは、就活のネットワークをたどり・たよって、あちこち駆け回った・まわり続けたわけです。これは「壮士」といわれた人たちの一端を示すものと思われますが、しかし、それでは家業に実が入らず、家族としては困ったものです。そういうこともあって、たびたび上京と帰郷を繰り返す高橋に対し、神足は、明治41年3月12日の項で、やって来た高橋に次のように言ったと書いています。
「高橋寛司に、郷地に在りて実業に専ら心を委すへきを勧告す。」

 まだ、高橋寛司に関して正確な像を描けているわけではありません。あくまで「材料提供」という程度です。
 巌氏から群馬県の「人物誌」のコピーを頂戴しました。私はまだ現物を見ていませんが、1300ページを超える大著です。そこには穂太郎氏のことも書かれています。寛司よりは詳しいですが、穂太郎氏のことも、書道の先生としてみんなが教わったというほどには調べられているとは言えません。ぜひ、郷土の正確な記録を頑張っていただきたいと思います。

 ここまでにします。

 
  花はみな「自分が主役」と咲いています。
    人もそうであるべき・・・
 

 
 
 
 
  





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.86 高橋寛司 1

2024-02-21 00:06:48 | 勝記日記
 10年前の2014年9月、私は群馬県吾妻郡吾妻町の須賀尾に高橋寛司の足跡を尋ねて、孫にあたる巌氏(当時80歳余)にお会いできました。
 巌氏とは、私の高校の先輩になる関係とわかり、初対面とは思えないほど懇切にお話を伺うことができましたが、寛司についての詳しいことはわかりませんでした。これが今回の結論です。 

 じつは、高橋寛司は、明治9〔1878〕年から没年の大正9〔1910〕年までの折々に『神足日記』に出て来る人です。また、寛司没後はご子息の穂太郎(1901~1956)氏が、折々の挨拶などで勝記の晩年近くの昭和10〔1935〕年まで出てきます。
 しかし、明らかに御料局とは無関係であり、その生涯もはっきりしないので、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の編纂では、全部を割愛しました。
 その寛司の情報を求めて私が須賀尾を尋ねたのは、神足が、明治17年と19年の巡回の際にここを通過して、その2回とも寛司を尋ねているからです。
 まず簡単にその時のことを書きましょう。
 明治17年は、すでにだいぶ前に、神足が「笹子雁ヶ腹摺山」に10月18日に上がったことを書きましたが、神足の巡回はその後も続いていて、長野県飯山を回ってから山ノ内町に戻り、白根山を越えて群馬県の草津・伊香保に至り、そこから、西に向かって吾妻の須賀尾にやってきます。
 下の写真は、写りが良くありませんが、途中で神足も見たはずの「岩櫃山〔いわびつやま802.6m〕」です。NHKの「日本百低山」で取り上げられたのでご覧になった方もあるかもしれませんが、やや険しいところもあるようです。
 なお、この時は、神足は、翌日に軽井沢へ向かい、さらに長野県・群馬県・埼玉県・群馬県と次々に巡回して本庄市に出て、帰京は12月8日でした。
  

 須賀尾に着いた神足は山木屋に宿を取り、寛司を訪ね、共に「鳥の湯なる温泉場に至り」、夜は「高橋の招請により同家に赴く」と書いています。
 温泉は下の「鳩ノ湯」でしょうか。そう思って、私も入ってみました。のんびりとできてよかったです。
       
 
 2回目の明治19年は、群馬県の碓氷峠を越えて長野県・新潟県を巡回、渋峠を越えて群馬県の草津に入り、長野原から須賀尾峠を越えて須賀尾に見入ります。
 須賀尾峠は、上の地図の左端にみえる「かどや酒店」のところへ北から降りてくる道をたどったところにあります。
 私も長野原駅まで行って、長野原からここをたどりました。私が歩いたのは車道です。途中ではところどころに旧道と思われる小道が林の中に見られましたが、すでに荒廃していて、歩ける状態とは思えませんでした。
 写真をご覧ください。
  まず、途中から見た長野原方面です。ダムに水没する地域です。高台移転と橋梁建設のようすが見えます。
 

 次に、途中から上を見ると正面に「丸岩(1124m)」が見えました。


 そして、ミニサイクルを押して9時に長野原駅を出発して、10時40分に須賀尾峠に着きました。
 

 私はここからミニサイクルで下りました。
 ミニサイクルは、現地へ着くまでは荷物になりますが、駅からここまで荷物を載せて運んでくれましたし、ここからはほとんどこぐことなく、上の地図の右端(大戸)まで運んでくれました。当日の日記に
 「須賀尾〔峠〕から大戸まで下り一辺倒でペダルいらずだった」
 と書いてあります。
 ここから須賀尾に入りますが、明日に回しましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

No.85 村尾履吉

2024-02-19 23:51:28 | 勝記日記


 きょうは、村尾履吉という人に関わって少し書きます。
 
 村尾履吉氏は勝記の二女友子さんの夫だった人です。
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』-』日本林業調査会(J-FIC)では、40年5月18日に結婚したことと、大正9年5月17日に亡くなったことのほかは、ほとんど割愛しました。
 その理由は、結婚直後から村尾氏と勝記の間で問題が生じ、両者の仲介の労を取った鈴木民作〔技手〕らを挟んで調停が図られるなどのことが度々ありましたが、その正確な理由がはっきりしないというのと、もちろん、家内の問題は測量事業とは直接の関係がないからです。

 そのうえで、日記を編纂しての私の「印象」では、もめた「非は村尾氏にある」です。
 重ねて言いますが『勝記日記』に記されている限りでです。
 たとえば、友子さんが里帰りをして18時に帰宅予定であったものが、それより前でなく、遅れて帰ってきたことがありました。それを、時間を守ら守らないと考えたか、途中でなにか〔内緒・不義でも〕あったと考えたか、その辺がよくわかりませんが、少なくとも友子さんの身を心配してというよりも、勘繰る。そして、そういう躾〔しつけ〕をした親の育て方・・・というようなことで一方的に腹を立てる。それも、どうも勝記氏の我慢を超えるようなひどい言葉で言い立てたらしいのです。しかも、一度ならずそれがあったようです。
 これには、結婚後になかなか子ができなかったことも理由があるように見受けられましたが、ともかく正確なことがわかりませんから、勝記にとっては重大な親族問題でしたが、思い切って割愛しました。
 なお、友子さんの死についての勝記の考えがわかる5月17日のところは丸々残しましたから、これで推し量ってください。



 調べたところ、村尾履吉氏については、関東大震災の際の朝鮮人被害者の埋葬で顕彰されるという別面があることがわかりました。
 これは、神奈川県歴史教育者協議会のホームぺージに掲載されていることですが、同会が2014年11月29日に横浜市にある三沢墓地などを調査しました。
 それを一部紹介しましょう。
 「三沢墓地は、関東大震災で亡くなった朝鮮人の遺体が積まれていた空き地での跡です。道を隔てた向
 かい側は当時海軍大佐だった村尾履吉氏の広い邸宅となっており、村尾大佐は近隣の方に閣下と呼ばれ
 る人望のある人だったそうです。
  ・・・村尾氏は乱雑に扱われれる遺体を見て心を痛め、翌1924年9月1日そこに木搭を建て、近くの陽光院という寺で犠牲者を追悼する法要を営みました。
  ・・・その後1933年に、村尾履吉氏は三沢墓地の朝鮮人埋葬墓地の近くに2坪の土地を買い、朝鮮人墓地を建設しました。」
  戦後後,1945年5月村尾氏は亡くなりますが、家を継ぐ男子がなかったこともあり、その遺骨は5年間自宅に於き、その後自ら建てた朝鮮人墓地に埋葬するように遺言しました。」
 
 さて、遺体が自分の家の向かいに無造作に積まれるといったことがあれば、人間の遺体でなくとも、なにかをするのではないでしょうか。ましてや9月のことです。何もせずには住めない・・・。どうでしょうか。
 それから、この最後の遺言はどういう意味でしょうか。
 よく分かりませんが、関係者は、この朝鮮人墓地を村尾家の墓地に改装して村尾氏の遺骨をおさめ、朝鮮人の遺骨は東北区菊名にある蓮勝寺に移転させたということです。
 ?納得いきますか?
 関東大震災は大正12〔1923〕年9月です。友子さんは大正9〔1920〕年に亡くなっています。
 村尾氏が友子さん亡き後にどんな思いで生活していたかを知るすべはありません。また、多数の被災者を悼んで追悼するのは立派です。しかし、それをもってしても「人望がある人」という判断になるのかどうか、いささか違和感があります。
 というのは、勝記のご子息勝孝氏の『勝孝日記』昭和15年9月23日の項に次のようにあります。
 「・・・豊岡を経て・・・10時江原着。・・・11時、三方村芝の村尾・・・宅を訪ね、亡姉村尾友子墓に参
  詣。墓所浄土寺にて昼食の馳なしになり・・・」
 
 調べたところ、豊岡市飯高町芝に浄土寺がありました。ここに村尾家の墓所があり、友子さんはそこに埋葬されたのでしょう。それなのに、村尾氏は友子さんの近くに葬るようには遺言しなかったようですし、あるいは、自分の近くに友子さんを改葬するようにも遺言しなかったようです。
  はて、このあたり、どう理解すればよいでしょうか・・・。

  
 
    ・・・
 
 
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする