30年振りに会ったツチヤは、酔いがまわるにつれてリトルリーグ時代のことを
語り始めた。「マウンドでは、いつも孤独だった。でもお前はませた小学生だったよ、センターにいるのに靴紐がほどけたといっては、タイム取って間をとるやつは
あまりいないよ。」
昭和50年、今のようにJリーグもなくプロスポーツと言えばまず野球という
世の中だった。日本中の小学校には各学年にいくつかの草野球チームがあった。
ちょっと運動ができる子は誰でもプロ野球選手を目指した、王監督が選手だった
ころの話だ。
軟式しか知らなかった僕らにある知らせが届いた、国分寺にリトルリーグが
できるらしい。リトルは、硬式のボールでやるらしい、プロ野球と同じ。
5年生になって、僕やツチヤは入団テストを受けにいった。そのころの国分寺
リトルを僕らはばかにしていた、下手糞しかいない、試合に23連敗らしいとか。
僕らは国分寺リトルを強くしてやろう、そんな生意気な気持ちで入団した。
今でも鮮明に覚えているのは、調布リトルリーグとの練習試合だ。鳴り物入りで
入団した僕やツチヤは、当然すぐにレギュラーポジションを取った。
そして調布との試合は、3軍相手だった。当時調布リトルは、世界一のチームだった、後に早稲田実業を高校1年ながら準優勝に導き、スワローズに行った荒木大輔がエースで、リトルリーグの世界大会で優勝したチームだったのだ。記憶では4年生から6年生が
100人以上所属し5軍まであった。
その3軍のチームでも僕らはうれしかった、あの調布リトルと試合ができるのだから。試合が始まると驚いた、ピッチャーの球がなぜか見えないのだ、打席に立っても見えないのだ、ただ線のようにつながってボールの形に見えないのだ。
悔しかった、同じ小学生なのに、たぶん年下なのに。ただ、僕らの心に火は
灯された、打倒調布などという大きな目標ではない、調布の1軍と試合がしたい。
それからは野球づけの生活が始まった。朝は5時に起きランニングと素振りの
朝錬、土日は朝から日が暮れるまで練習。僕らが強くなるまでそう時間はかからなかった。
ツチヤのエピソードには事欠かない。小学校2年の時には6年生に一目置かれる存在だった。2年生のときには、すでにツチヤの球をまともに取れるやつはいなかった。
つづく
語り始めた。「マウンドでは、いつも孤独だった。でもお前はませた小学生だったよ、センターにいるのに靴紐がほどけたといっては、タイム取って間をとるやつは
あまりいないよ。」
昭和50年、今のようにJリーグもなくプロスポーツと言えばまず野球という
世の中だった。日本中の小学校には各学年にいくつかの草野球チームがあった。
ちょっと運動ができる子は誰でもプロ野球選手を目指した、王監督が選手だった
ころの話だ。
軟式しか知らなかった僕らにある知らせが届いた、国分寺にリトルリーグが
できるらしい。リトルは、硬式のボールでやるらしい、プロ野球と同じ。
5年生になって、僕やツチヤは入団テストを受けにいった。そのころの国分寺
リトルを僕らはばかにしていた、下手糞しかいない、試合に23連敗らしいとか。
僕らは国分寺リトルを強くしてやろう、そんな生意気な気持ちで入団した。
今でも鮮明に覚えているのは、調布リトルリーグとの練習試合だ。鳴り物入りで
入団した僕やツチヤは、当然すぐにレギュラーポジションを取った。
そして調布との試合は、3軍相手だった。当時調布リトルは、世界一のチームだった、後に早稲田実業を高校1年ながら準優勝に導き、スワローズに行った荒木大輔がエースで、リトルリーグの世界大会で優勝したチームだったのだ。記憶では4年生から6年生が
100人以上所属し5軍まであった。
その3軍のチームでも僕らはうれしかった、あの調布リトルと試合ができるのだから。試合が始まると驚いた、ピッチャーの球がなぜか見えないのだ、打席に立っても見えないのだ、ただ線のようにつながってボールの形に見えないのだ。
悔しかった、同じ小学生なのに、たぶん年下なのに。ただ、僕らの心に火は
灯された、打倒調布などという大きな目標ではない、調布の1軍と試合がしたい。
それからは野球づけの生活が始まった。朝は5時に起きランニングと素振りの
朝錬、土日は朝から日が暮れるまで練習。僕らが強くなるまでそう時間はかからなかった。
ツチヤのエピソードには事欠かない。小学校2年の時には6年生に一目置かれる存在だった。2年生のときには、すでにツチヤの球をまともに取れるやつはいなかった。
つづく