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移転しました(2014/1/1)

五位塚@江刺

2008-07-06 | 歴史の小旅
※サイトの史跡ページに改訂版を載せました※



豊田館跡からほど近い所にあるのが、五位塚。
五位塚墳丘群というのが正確な呼び方なのではないだろうか。
「伝」ではありますが、藤原経清とその一族の墳墓だと言われている所です。

藤原経清という人物も最近たびたび名前を出しているので、今更感あふれる感じですが、平泉を作り上げた藤原清衡の父になります。
散位従五位下亘理権大夫という肩書がある。
従五位下(じゅごいのげ)は謂わずと知れたことですが、位階。
その上に付いている散位は「さんに」と読み、位階はあるが官職についていない事を指しています。
亘理権大夫は「わたりのごんのたいふ」と読みます。
亘理は宮城県亘理郡の辺りを指しており、ここからはそこの権大夫という役職についていた事が分かります。
まあ亘理郡一帯を治めていた人物と考えるのが手っ取り早い。
う~ん…しかしながら私…ちょっと分からないのですけど…
散位なのに、亘理権大夫ってなんか矛盾しているように思えるのですが…
中央政府で仕事していない状態が散位ってことなのかな(手元の日本史辞典に載って無かった)。
前九年の役が始まる辺りでは、在庁官人として多賀国府に出仕していたのではないかと考えられています。

凡そ1000年程前、そして対象が当時辺境とされた陸奥、さらに"討伐"された現地の豪族と条件がトリプルに重なり、前九年の役で安倍氏側に関しては史料が決定的に不足しており、分かっている事はかなり少ないです。
経清も詳細がよく分からない人物の一人なのですが、その祖はムカデ退治で有名な俵藤太・藤原秀郷と言われています。
秀郷は平将門の乱を平定した武将してよく知られています。
奥州藤原氏は、秀郷流藤原氏ということですか。
まあその「藤原氏」というのも自称、つまり勝手に称えてたんじゃないかと言われていたのです。
しかし「造興福寺記」という同時代史料の中で経清の名前が発見されたことから、一応は藤原氏一門に名前を連ねる人物という事までは確認されています。



入口をちょっと登る。丘の上にあります。
どーれ位人が来てないのか……クモの巣がそらーもーそらーもー凄かったです。

経清は現地の豪族、安倍氏と通婚しております。
安倍頼時の娘と結婚し、清衡を設けている。
頼時戦没の後、安倍氏を率いて源氏と戦った貞任とは義兄弟の間柄になります。

経清も亘理という土地に暮らしている現地の豪族ですので、京都から派遣され、仕事を終えたら帰京する陸奥守や官人とは立場が違う。
安倍氏を後ろ盾として持つことで、自らの勢力や威権の維持といった余滴に預かろうという思惑も大いにあったと思われます。



在庁官人でありながら、安倍の婿でもある。
どちら側に心を寄せるにしても、非常に難しい立場です。
何か事件が起きた際には両者の力関係を見て、その都度都度で付く側を変える。
そうしなければ生き残れないからです。
全く同じ立場にいた人物としては伊具十郎平永衡がいる。
彼は前出の通り(→豊田館跡@江刺)将軍源頼義に安倍への内通を疑われ、申し開きも許されず即殺されました。
後の結果を見ると、この時の処断のまずさが、戦争を長引かせる一因になっている。
頼義がもう少し両者の立場を理解し慰撫遺留していれば、戦争の推移はやや変わっていたかもしれません。



五位塚、名称は経清の位階従五位下から来ているかと思われます。
古くからこう呼ばれているらしい。
ちょっと山に入った静かな丘の上にある、何となく炎立つの経清をイメージさせる遺跡です。

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