京都の岡崎方面(平安神宮の辺り)に行ってきました。
目的はワシントンナショナルギャラリー展。
ワシントンナショナルギャラリーの一部が改修工事にかかるという事で、そこに収蔵されている美術品が京都市立美術館にきています。
展示されていたのは印象派と、ポスト印象派。
つまりモネやらドガやらルノワールやらセザンヌやらなんやらかんやら(こら)。
上の写真に出ているゴッホの自画像が展示されているという事で、これが見たくて出掛けたんですが、あれこれと結構見応えがありました。
もちろん私に善し悪しなんて分からないので、好き嫌いでの判断になりますけれども。
スーラとロートレックが見られたのが嬉しかった。
10時半ごろに到着したのですが、沢山の人がチケット売り場に既に並んでいてあちゃーと。
それでもチケット売り場の列に並んで、…よく見ると「フェルメールからのラブレター展」と書いてあった。
え?場所間違えた?開催日時間違えた?
よく見たらお目当ては隣の入り口だった…
フェルメールは入場制限がかかっていましたが、ナショナルギャラリーの方はすっかすかなのな!(笑)
並びもせずかなり快適に見学出来ました。美術館でも博物館でも、押し合いへしあいで見るのは辛い。
ゴッホの自画像は、初来日だそうです。
大して大きな絵では無かったですが、凄い目ヂカラ…
目の周りも頬も、全体的にゴボーっと落ちくぼんでいて(病みあがりの自画像だそうです)、額に血管が浮いてる。
顔は青白いし、画面も青いし、すごい迫力でした。ふう。
***
歴史の方。
阪急河原町駅、木屋町南出入口
前はパチ屋だったのですが、今はマクドに変わっています。
2月に京都に行った時はすでにマクドだったなー…って、ここは中村半次郎の京都時代の彼女の家(村田煙管店)があった処。
昨日は桐野利秋の御命日(というか、城山が陥ちた日)だったのですが、眠気に負けました…
ごめん、きりー。私も墓参りで忙しかった。
そして京都市立美術館がある辺り。
同じ場所から撮っています。右上の写真の道を真直ぐ進むと(東に向かう)
琵琶湖疏水記念館と、山縣有朋の別荘だった無鄰菴。
無鄰菴を横目に真直ぐ進むと琵琶湖疏水記念館にぶつかります。
文字通り疏水に関する記念館で、入館無料。
疏水は近代、京都市が手がけた大事業のひとつです。
1期、2期に別れていて、その内の2期の方を西郷菊次郎が推進した。
西郷菊次郎は西郷隆盛が奄美大島に流されていた際に愛加那との間に授かった長男になります。
西南戦争にも参加していますが、銃創のため片足を切断しており可愛嶽突囲には参加できず、政府軍に降伏しています。
西郷どんの弟、西郷従道の下に降った。
明治30年代には台湾の宜蘭の初代庁長になり治水をしたり、仁政で慕われる人物であったようです。
台湾に行った際、台湾総督府(現中華民国総督府)も見学しましたが、西郷菊次郎のコーナーがちゃんとありました。
総督府内、見学は出来るんですが現在も国の中枢として機能しているだけあり、写真アウトなんです…
ガイドさんもさらーっと流して歩いて行ってしまうので、メモが取れる状態ではなかったorz
で、この方2度程京都の市長もされているそうで。
1度目が明治37年から6年間、2度目が明治43年から44年まで。
明治44年に病気で市長を辞め、鹿児島に帰ったと記念館の解説にあった。
…んですが、よく見りゃ37年から6年間て明治43年じゃね?
明治37年から44年までじゃね?
ちょっとどういうこと?(笑)
自分で調べていないので何とも言えません。そのまま書いときます。
当時西郷は3大事業として
1)第2琵琶湖疏水を作り、多くの水と電気を得る
2)水道を作り飲料水を得る
3)烏丸通他主要7大道路を広げ電気鉄道を通す
こういう事をしていた。
こうした事業は西郷の前の市長から手を付け始めていたようですが、政府がうんと言わなかったり、その内日露戦争が始まってしまったりで上手くいかなかったらしい。
そういう事もあったのかと思いますが、西郷は計画を認めさせるべく京都と東京を何度も往復して、政治家や役人に会っていたそうです。
「東京在住の京都市長」
なんて言われていたそうですから、相当頻繁だったのではないでしょうか。
そして、その東京行きの際に利用していたカバンが記念館には展示されています。
ちなみにフランスで外債を集めて資金調達し、明治45年に工事は終了したそうな。
政府からゴーサインが出たのが明治39年。
直接許可を出して居るのは内務省ですが、その時の内相が原敬になります。
事業許可します、という原敬のサイン入りの公文書もこちらで展示されている。
また、第1期の際には、知事北垣国道に命じられて明治22年頃には河田小龍が疏水工事の様子や疏水沿いの風景を描いていたようで、そうした絵も2点程展示されています。
河田小龍、まだ生きてたのか、という驚きが…坂本龍馬と知り合った段階で、何だかものすごく年をとっているイメージがあるんですが…(笑)
計算したら明治22年で65歳くらいだった。
そしてレプリカではありますが、荒井郁之助宛大鳥圭介書簡(明治14年11月1日)もあります。
意外な所で見つかる意外な近代の人々。笑。
これも同じ所で撮影した写真。
後ろに下がれば疏水記念館。あっちもこっちも目と鼻の先。
明日につづーく!
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むしろそれがあっての軍備というか…そのためのインフラともいえたりしますが…
なんかまとめづらいところではあります。
一般的にもそういう傾向はあるのではないでしょうか?
でもまあ京都はそういう点では、明治前半では幕末に京都を火の海にした償いといったらアレですが、長州系の人間が京都を復興させるために力を入れていましたし…
疏水のように目に見える日常目にするものが今でも残っていますので身近といえば、身近なのかなとも思いますが。
でもやっぱり個人的には政治史を見てしまいますなー(笑)
だから授業で、国語の明治文学の話と日本史の明治時代が、どうにも噛み合わないというか、混乱してました。
森鴎外が日清戦争に行ったことを知ったり、庶民の目みたいのを意識しはじめて、かろうじてです。