思いやりと下心。

テーマの人生。

母里太兵衛(もりたへえ)。

2006-06-15 13:10:30 | people
博多駅前の銅像をとりあえず撮ってみた。

調べたら「母里太兵衛」だった。知ってる。

なんで知ってるかって言うと、「名家老とダメ家老」という本を読んでいて、そこに出てきてたから。



この人、すごい人。

この銅像は、右手に大杯、左手に槍、黒田節でお馴染みの博多人形の代表的な意匠とのこと。

名前は、母里太兵衛。

 酒は飲め飲め飲むならば
 日の本一の(ひのもといちの)この槍を
 飲み取るほどに飲むならば
 これぞまことの黒田武士

この有名な黒田節のもととなったのが、母里太兵衛の豪傑ぶり。

戦国時代の勇将、親友同士だった福島正則と黒田長政。ある時、長政は正則への使いとして太兵衛を広島に派遣した。
  ↓
すみません、訂正です。(6/29)
呑み取りがあったのは【伏見の福島正則邸】でのことでした。
コメントいただきましたTM様、ありがとうございました。

長政は正則の酒癖の悪さを知っていたので、あらかじめ太兵衛に「薦められても決して酒は飲むな。」ときつく申し渡していた。
程なく酒宴となり、案の定ベロベロに酔っ払った正則は悪態を突き始める。太兵衛は長政の指示を守り一滴も飲まない。

何とかして太兵衛に酒を飲ませてやろうと、正則はついにこう言った。
「黒田武士は腰抜けか。そこにある大杯で酒を飲み干してみよ。そちの所望は思いのままじゃ。」

黒田武士をコケにされてはたまらない。太兵衛が立ち上がった。
「それでは、その槍を所望いたします。」
その槍こそ正則の自慢の逸品、秀吉から下賜された名槍「日本号(ひのもとごう)」だったのである。

太兵衛は直径30センチもある大杯で、ガブガブとなんと3杯も飲み干し、日本号を手に悠々福岡に引き上げたのである。
酒が冷めた後、冷静になった正則は自分の過ちに蒼白となり、槍の返却を求めたが太兵衛は聞く耳持たず。
  ↓
ここも訂正です。(7/18)
京都伏見で日本号を呑み取った後、太兵衛は日本号を担いで船に乗り、海路を【豊前中津】に向かいました。
コメントいただきましたTM様、度々すみませんでした。

これ以来、太兵衛は博多武士の象徴として広く民衆に愛され、ついには博多人形の意匠にまでなった。

ということ。

そんな酒の飲み方、したいねー。

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4 コメント

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Unknown (TM)
2006-06-29 22:34:35
呑み取りがあったのは、黒田長政が豊前中津藩主だった1596年のことでそのとき福島正則は清洲城主でした。関が原(1600年)の戦功で広島へ移封されましたので呑み取りがあったのは正しくは伏見の福島正則邸でのことで広島城ではありません。訂正よろしくおねがいします。
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Unknown (shu)
2006-06-29 22:39:19
TM様、コメントありがとうございます。

浅薄な知識で大変申し訳ございません。

訂正させていただきますので、よろしくお願い致します。
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日本号 (TM)
2006-07-14 22:23:51
京都伏見で日本号を呑み取った後、太兵衛は日本号を担いで船に乗り、海路を豊前中津(大分県中津市)へ向かいました。「悠々福岡へ引き上げた」のではありません。(そのときはまだ中津藩士でした)その後5年間ほど中津に在住。第2次朝鮮出兵の慶長の役にもその日本号を持って行き大活躍しました。その後1600年、関が原の合戦があり藩主黒田長政の武功により、中津藩主から筑前福岡52万石の藩主となリました。呑み取りのあったのは豊前中津藩時代、博多に移封されたのは関が原の後。よろしくお願い致します。
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Unknown (shu)
2006-07-18 15:25:36
TM様、度々ありがとうございます。

歴史の誤認識がでないよう修正いたします。

よろしくお願い致します。
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