まず昭和天皇が一部の人たちが言うように「重大国事行為の意思決定を左右する」ことができなかったかどうか?
ということであれば、これは微妙でしょう。
事実として、9月6日の御前会議でいわゆる「白紙還元の御諚」が出て、結果として開戦決断の時期が2ヶ月弱先送りされています。
普通に考えても、これは昭和天皇自身に開戦に関する一定の影響力(権限と呼ぶべきかどうかは議論が必要)があったことを示しています。
が、少なくとも昭和天皇自身はこの時点においては「対米開戦」には反対だったにもかかわらず、避戦という「決定」までは出来ませんでした。
要するに「先送り」させるのに、一定の影響力を行使できただけです。
はっきりしていることは、少なくとも、この9月6日の御前会議の時点では
昭和天皇は対米開戦を「拒否」しています。
が、現実的には
対米開戦は、すでにこの時点で不可避となっていました。
後は、それを昭和天皇が「どうやって追認するか」だけの問題になっていたとも言えます。
対英米戦争は、海軍による真珠湾攻撃と、陸海軍による先制奇襲的な南方作戦によりはじまりましたが、この準備段階として「南方作戦計画」がありました。
その時点で、すでに関特演による陸軍の動員は行われており、海軍も「南方作戦計画」に基づいて東南アジア各方面への船舶の手配を行い、空母機動部隊をハワイに向けて出発させる準備も進められていたわけです。
いわば
一度に十数方面への攻撃部隊を動かしたわけで、無数の岩石を一斉に斜面に転がしたような状態
となっていました。
9月6日以降、軍の戦争準備は物凄い勢いで進められており、もはや「止めろ」と言っても止まらない状態だったわけです。
そして昭和天皇は少なくとも「専制君主」ではなく、軍人たちも、そんな昭和天皇を舐めきっていました。
あとは事実上、昭和天皇がどうご自身を納得させるかという状況だったとも言えます。
そして
軍人たちは、その後一応の勝算を、昭和天皇に対して見せました。
(それが真珠湾攻撃だったと考えることもできます)
もはや日清戦争を止められなかった明治天皇と同じく
昭和天皇にも対米開戦は止められなかった、というのが事実だと思います。
以下は歴史学者である森山優氏の見解です。
>つまり、統合力を回復した政府が一致した結論をもって天皇に裁可を求めた場合、問題なく裁可されるのが、それまでの慣例であった。そして、決定された「国策」に対する責任は、輔弼の臣である東条以下の国務大臣と、輔翼する立場の統帥部の長が負うのは、当然である。天皇は、そのような責任あふれる東条に、いわば安心して下駄を預けたのである。
出典:森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定』P155~156
ということであれば、これは微妙でしょう。
事実として、9月6日の御前会議でいわゆる「白紙還元の御諚」が出て、結果として開戦決断の時期が2ヶ月弱先送りされています。
普通に考えても、これは昭和天皇自身に開戦に関する一定の影響力(権限と呼ぶべきかどうかは議論が必要)があったことを示しています。
が、少なくとも昭和天皇自身はこの時点においては「対米開戦」には反対だったにもかかわらず、避戦という「決定」までは出来ませんでした。
要するに「先送り」させるのに、一定の影響力を行使できただけです。
はっきりしていることは、少なくとも、この9月6日の御前会議の時点では
昭和天皇は対米開戦を「拒否」しています。
が、現実的には
対米開戦は、すでにこの時点で不可避となっていました。
後は、それを昭和天皇が「どうやって追認するか」だけの問題になっていたとも言えます。
対英米戦争は、海軍による真珠湾攻撃と、陸海軍による先制奇襲的な南方作戦によりはじまりましたが、この準備段階として「南方作戦計画」がありました。
その時点で、すでに関特演による陸軍の動員は行われており、海軍も「南方作戦計画」に基づいて東南アジア各方面への船舶の手配を行い、空母機動部隊をハワイに向けて出発させる準備も進められていたわけです。
いわば
一度に十数方面への攻撃部隊を動かしたわけで、無数の岩石を一斉に斜面に転がしたような状態
となっていました。
9月6日以降、軍の戦争準備は物凄い勢いで進められており、もはや「止めろ」と言っても止まらない状態だったわけです。
そして昭和天皇は少なくとも「専制君主」ではなく、軍人たちも、そんな昭和天皇を舐めきっていました。
あとは事実上、昭和天皇がどうご自身を納得させるかという状況だったとも言えます。
そして
軍人たちは、その後一応の勝算を、昭和天皇に対して見せました。
(それが真珠湾攻撃だったと考えることもできます)
もはや日清戦争を止められなかった明治天皇と同じく
昭和天皇にも対米開戦は止められなかった、というのが事実だと思います。
以下は歴史学者である森山優氏の見解です。
>つまり、統合力を回復した政府が一致した結論をもって天皇に裁可を求めた場合、問題なく裁可されるのが、それまでの慣例であった。そして、決定された「国策」に対する責任は、輔弼の臣である東条以下の国務大臣と、輔翼する立場の統帥部の長が負うのは、当然である。天皇は、そのような責任あふれる東条に、いわば安心して下駄を預けたのである。
出典:森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定』P155~156