こちらの続きです。
・米国ダレス国務長官に恫喝され4島返還主張から後に引けなくなった。
これは、いわゆる「ダレスの恫喝」と呼ばれる、1956年8月19日に当時のアメリカ国務長官だったジョン・フォスター・ダレスが、ソ連と平和条約の交渉中だった日本の外務大臣だった重光葵に
とにかく千島のソ連帰属を認めるということは認められない。いわんや択捉・国後まで含めて認めることなどは認められない。もしも日本がそういう態度をとる場合には、サンフランシスコ講和条約の第二十六条を注意してもらいたい。サンフランシスコ条約不参加の国とのあいだには、サンフランシスコ条約と同一の内容で日本が講和するのが原則であって、もしも条約で規定している以上に、その国に日本が譲歩するというならば、すでに条約を結んでいる国は日本に追加の代償を請求することができる
高野雄一『国際法からみた北方領土』(岩波ブックレット)P42より
と言ったとされるものです。
この時、ダレスは
もし千島をソ連領として認める、いわんや択捉・国後まで認めるという場合には、たとえば沖縄をアメリカが併合することだってあり得る
(上掲書P42より)
とも言ったとされ、重光葵は相当に腹を立てたようです。
重光は、当時日ソ国交正常化の全権として交渉にあたっていた松本俊一に、その憤懣を語っています。
重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すごぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官自身がこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故この段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に理解に苦しんだ。
松本俊一『日ソ国交回復秘録』(朝日新聞出版)P125~126
では、重光外相、松本全権をはじめとするソ連との国交正常化交渉に当たっていた政治家たちは、この「ダレスの脅し」に屈して、それまでの方針を変更し、急にソ連側に対して「四島返還」を要求するようになったのでしょうか?
実は1955年6月にソ連との国交正常化交渉がスタートした当初より、松本俊一日本側全権は歯舞諸島、色丹島、千島列島南樺太が歴史的には日本の領土であるということを前提に主張していました。
これは松本俊一全権が1955年6月7日に、ソ連側のマリク全権に手渡した覚書にも明記されています。
該当箇所を抜粋します。
(3) 歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら知識の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案する。
『日ソ国交回復秘録』P26より
それを踏まえて1955年8月16日に日本側がソ連に提出した条約案にはこうあります。
(言うまでもなく「ダレスの恫喝」より以前のものです)
第五条
一 戦争の結果としてソヴィエト社会主義共和国連邦によつて占領された日本国の領土のうち、
(a) 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞諸島については、この条約の効力が生じた日に日本国の主権が完全に回復されるものとする。
(B) 北緯五十度以南の樺太及びこれに近接する諸島並びに千島列島については、なるべくすみやかにソ連邦を含む連合国と日本国との間の交渉によりその帰属を決定するものとする。
『日ソ国交回復秘録』P205 「附属資料」より
さすがに、日本側としてもサンフランシスコ平和条約で正式に放棄している南樺太、「千島列島」の領有権は主張していませんが、同地域が「帰属未定」であるとの判断は示しています。
「ダレスの恫喝」と呼ばれる、日ソ国交回復交渉に対するアメリカの介入は、あくまでも日ソ間の交渉の末に二島返還に落ち着きかけた時に行われたものであって
「ダレスの恫喝」があったから、急に日本側が無理やり四島返還を主張し始めたわけではないんです。
ネットに流布された情報ばかりを信じるのではなく
ちゃんと参考書籍くらいは読みましょう。
・米国ダレス国務長官に恫喝され4島返還主張から後に引けなくなった。
これは、いわゆる「ダレスの恫喝」と呼ばれる、1956年8月19日に当時のアメリカ国務長官だったジョン・フォスター・ダレスが、ソ連と平和条約の交渉中だった日本の外務大臣だった重光葵に
とにかく千島のソ連帰属を認めるということは認められない。いわんや択捉・国後まで含めて認めることなどは認められない。もしも日本がそういう態度をとる場合には、サンフランシスコ講和条約の第二十六条を注意してもらいたい。サンフランシスコ条約不参加の国とのあいだには、サンフランシスコ条約と同一の内容で日本が講和するのが原則であって、もしも条約で規定している以上に、その国に日本が譲歩するというならば、すでに条約を結んでいる国は日本に追加の代償を請求することができる
高野雄一『国際法からみた北方領土』(岩波ブックレット)P42より
と言ったとされるものです。
この時、ダレスは
もし千島をソ連領として認める、いわんや択捉・国後まで認めるという場合には、たとえば沖縄をアメリカが併合することだってあり得る
(上掲書P42より)
とも言ったとされ、重光葵は相当に腹を立てたようです。
重光は、当時日ソ国交正常化の全権として交渉にあたっていた松本俊一に、その憤懣を語っています。
重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すごぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官自身がこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故この段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に理解に苦しんだ。
松本俊一『日ソ国交回復秘録』(朝日新聞出版)P125~126
では、重光外相、松本全権をはじめとするソ連との国交正常化交渉に当たっていた政治家たちは、この「ダレスの脅し」に屈して、それまでの方針を変更し、急にソ連側に対して「四島返還」を要求するようになったのでしょうか?
実は1955年6月にソ連との国交正常化交渉がスタートした当初より、松本俊一日本側全権は歯舞諸島、色丹島、千島列島南樺太が歴史的には日本の領土であるということを前提に主張していました。
これは松本俊一全権が1955年6月7日に、ソ連側のマリク全権に手渡した覚書にも明記されています。
該当箇所を抜粋します。
(3) 歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら知識の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案する。
『日ソ国交回復秘録』P26より
それを踏まえて1955年8月16日に日本側がソ連に提出した条約案にはこうあります。
(言うまでもなく「ダレスの恫喝」より以前のものです)
第五条
一 戦争の結果としてソヴィエト社会主義共和国連邦によつて占領された日本国の領土のうち、
(a) 択捉島、国後島、色丹島及び歯舞諸島については、この条約の効力が生じた日に日本国の主権が完全に回復されるものとする。
(B) 北緯五十度以南の樺太及びこれに近接する諸島並びに千島列島については、なるべくすみやかにソ連邦を含む連合国と日本国との間の交渉によりその帰属を決定するものとする。
『日ソ国交回復秘録』P205 「附属資料」より
さすがに、日本側としてもサンフランシスコ平和条約で正式に放棄している南樺太、「千島列島」の領有権は主張していませんが、同地域が「帰属未定」であるとの判断は示しています。
「ダレスの恫喝」と呼ばれる、日ソ国交回復交渉に対するアメリカの介入は、あくまでも日ソ間の交渉の末に二島返還に落ち着きかけた時に行われたものであって
「ダレスの恫喝」があったから、急に日本側が無理やり四島返還を主張し始めたわけではないんです。
ネットに流布された情報ばかりを信じるのではなく
ちゃんと参考書籍くらいは読みましょう。