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マッカーサーが大統領に「ならなかった」のではなく、「なれなかった」のは、単なる史実に過ぎない

2017-05-08 07:17:19 | 近現代史関連
ダグラス・マッカーサーが少なくとも二度、アメリカ大統領選挙に出馬しているのは、ウィキペディアにも普通に記載されていることです。

1944年アメリカ合衆国大統領選挙

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/1944%E5%B9%B4%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8%E6%8C%99

>重要なウィスコンシン州予備選挙でデューイはウィルキーとダグラス・マッカーサー将軍を破り、このことでウィルキーは候補者を降りた。

1948年アメリカ合衆国大統領選挙

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/1948%E5%B9%B4%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8%E6%8C%99

この時、予備選挙でのマッカーサーに対する一般投票結果は以下の通りでした。

>ダグラス・マッカーサー - 87,839 (3.07%)

→なお、この時の緒戦のウィスコンシン州の予備選では、マッカーサーが獲得した代議員は27名中8名しかおらず、6月の共和党全国大会では第1回の投票1094票のうち11票という惨憺たる結果で、マッカーサーは選挙戦から早々に撤退せざるをえなくなりました。

が、当時は占領下にあった我が国では、マッカーサーの選挙に関する報道は、検閲により、マッカーサーに有利な内容のものしか許されなかったため、この惨敗ぶりは伝わっていません。

この時、マッカーサーは共和党による大統領選の指名を得ようと、欧州復興計画を支持する代償として中国(中華民国)援助を要求する共和党員への協力までしているんですけどね。
(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』P244より)

そして朝鮮戦争における「無能と失敗の代償」として司令官を解任され、アメリカに帰国して以降も、マッカーサー自身は大統領の座への野心を捨てきれずにいました。

彼は、彼自身の解任の是非を問う聴聞会での証言を終えるとすぐに全国遊説に発ち、1953年の共和党大会まで、それを続けています。

彼の演説は、時折、大きな政策問題を取り上げることもありましたが、多くの場合は、彼自身と対立する批判者への不適当な政治的発言に終始しています。

ただ、彼は1944年、1948年の時と同様、指名を獲得するための組織的な努力をすることはせず、水に流れた以前の選挙戦と同じように、共和党大会から候補者に選ばれたという吉報を待続け、そして、それが届けられることはありませんでした。

失敗を知ると彼は直ちにニューヨークに戻りました。

(『マッカーサーの時代』P373~374)

なお途中から彼はロバート・タフト上院議員と選挙協力を行っています。

この当時のアメリカ国内におけるマッカーサー人気は確かに無視できないものがあり、テキサスでは「マッカーサーを求む」運動が、カリフォルニアでは「マッカーサーを支持するアメリカ人」運動が、ニューハンブシャーでは「マッカーサーを大統領に」支部が生まれています。

タフトがマッカーサー人気を利用しようとしたのも無理はないかもしれません。

(ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』下巻P383~384)

が、彼の人気も一時的なものでしかありませんでした。

1952年の選挙で共和党の指名を受け、大統領選に出馬して当選を果たしたのは、マッカーサーが参謀総長だった当時の副官で、欧州戦線での英雄、ドワイト・アイゼンハワーです。

ちなみにマッカーサーは共和党大会以前の活動とは対照的に、アイゼンハワーが選出されて以後の数か月間、大衆の前に姿を現すことさえしませんでした。

よほど悔しかったんでしょうね。

以後のマッカーサーはレミントン・ランド社の取締役会長の地位を引き受け、軍歴から離れた彼は公人生活を終えています。

参考文献

ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』(下) 河出書房新社

マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』 恒文社

デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』 文春文庫