戦後占領史を扱うまともな研究者で、「日本国憲法」第9条の幣原喜重郎発案説を支持する人は、ほぼ、いません。
また、そのような説が「歴史学会」で評価されているという話も聞きません。
日本政治外交史、日米関係論の研究者である歴史学者の五百籏頭真氏は、著書『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)の中で、幣原喜重郎の方からマッカーサーへ戦争放棄を提案したと主張する専門家はほとんどいないとしています。
>幣原首相の方から憲法に戦争放棄と戦力不保持の規定を入れることを提案したと信じる研究者は皆無に等しい
(同書P222より)
支持しているのは歴史については門外漢の憲法学者、評論家、ジャーナリスト、教育学者など、非専門家ばかりです。
専門家レベルでは、あの「9条の会」に所属する政治学者である豊下楢彦氏ですら、その説は支持していません。
我が国におけるもっとも著名なマッカーサーの研究者とされる政治学者の袖井林二郎氏の著書『マッカーサーの二千日』(中公文庫)のP202には、こうあります。
>そして幣原自身がつぎのように語ったと側近の村山有はいう。「幣原首相は筆者に、『戦争放棄はわしから望んだことにしよう……』と、ポツンといわれたことがある。翻訳憲法をウ呑みにしたと後世非難されては困ると考えたのかも知れない」
→またP204には
>せめて戦争放棄条項の発案者という十字架を幣原に転嫁することによって、歴史に対する責任をまぬがれようとしたと考えるべきではないだろうか。
→ともあり、第9条については事実上「マッカーサー起源説」に軍配をあげています。
そして第9条の幣原喜重郎発案説を前提とするなら、少なくとも時間的な整合性にも問題があるといわないわけにはいかないでしょう。
1月24日
幣原喜重郎が、マッカーサーにペニシリンのお礼に行った時に戦力放棄の話をする
1月29日 松本試案閣議はじまる
2月1日 松本試案の内容が毎日新聞にスクープされる
2月8日 松本試案、GHQに提出される
そして、ここが重要なのですが、2月13日にマッカーサーによる憲法草案が日本政府に示された時に、当の幣原喜重郎は明らかに驚愕しています。
「護憲派」の論者(例えば立花隆氏など)はこれについて、幣原は「自分の案が採用されたということに驚愕した」という苦しい説明をしていますが、以下の経緯を知った上でそのような主張をしているのだとしたら面の皮が厚いと評するしかないでしょう。
GHQ草案手交時の脅迫問題
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/GHQ%E8%8D%89%E6%A1%88%E6%89%8B%E4%BA%A4%E6%99%82%E3%81%AE%E8%84%85%E8%BF%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C
>この日の閣議では、GHQ草案受け入れ反対派と賛成派の二派に分かれた。反対派は幣原首相、三土忠造内相、岩田宙造法相、賛成派は芦田厚相、副島千八農相などであった[28]。松本がこの日閣議で報告するまで、GHQ草案手交とそれ以降の事情を知っていたのは、幣原と吉田だけで、他の閣僚達は知らされていなかった。閣議の結果、2月20日迄という司令部への回答を22日に延期してもらうことにし、21日に幣原首相がマッカーサーに会い話をすることになった[29]。しかし、閣僚たちは不満だらけであった。
→この幣原喜重郎はGHQ草案受け入れ反対派だったということは、きちんと認識しておくべきでしょうね。
仮にですけど
1月24日にマッカーサー回想録や、幣原喜重郎発案説の根拠とされる羽室メモなどにあるように、マッカーサーと幣原との間で戦力放棄という点で意見の一致があったというなら、閣議でその話が持ち出されなかったのも不自然ですし、試案に何らかの反映がされるはずですし、百歩譲っても幣原本人が反対派にまわったことの説明がつきません。
そして、この幣原喜重郎発案説を裏付けるものは
「回想記」を含むマッカーサー本人の証言と
幣原喜重郎側の証言(自伝、聞き書きなどを含む)
だけです。
状況証拠というなら、むしろそれが事実でなかったことを裏付けていると言った方がいいでしょう。
恐らくは東西冷戦の深刻化にともない、東アジアにおける防共の最前線となった日本に「非武装、戦争放棄」の憲法を「押し付けた」マッカーサーが本国で追及されるのをおそれ、幣原喜重郎に言い含めたのではないか?
というのが可能性としては高いと思われます。
また、そのような説が「歴史学会」で評価されているという話も聞きません。
日本政治外交史、日米関係論の研究者である歴史学者の五百籏頭真氏は、著書『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)の中で、幣原喜重郎の方からマッカーサーへ戦争放棄を提案したと主張する専門家はほとんどいないとしています。
>幣原首相の方から憲法に戦争放棄と戦力不保持の規定を入れることを提案したと信じる研究者は皆無に等しい
(同書P222より)
支持しているのは歴史については門外漢の憲法学者、評論家、ジャーナリスト、教育学者など、非専門家ばかりです。
専門家レベルでは、あの「9条の会」に所属する政治学者である豊下楢彦氏ですら、その説は支持していません。
我が国におけるもっとも著名なマッカーサーの研究者とされる政治学者の袖井林二郎氏の著書『マッカーサーの二千日』(中公文庫)のP202には、こうあります。
>そして幣原自身がつぎのように語ったと側近の村山有はいう。「幣原首相は筆者に、『戦争放棄はわしから望んだことにしよう……』と、ポツンといわれたことがある。翻訳憲法をウ呑みにしたと後世非難されては困ると考えたのかも知れない」
→またP204には
>せめて戦争放棄条項の発案者という十字架を幣原に転嫁することによって、歴史に対する責任をまぬがれようとしたと考えるべきではないだろうか。
→ともあり、第9条については事実上「マッカーサー起源説」に軍配をあげています。
そして第9条の幣原喜重郎発案説を前提とするなら、少なくとも時間的な整合性にも問題があるといわないわけにはいかないでしょう。
1月24日
幣原喜重郎が、マッカーサーにペニシリンのお礼に行った時に戦力放棄の話をする
1月29日 松本試案閣議はじまる
2月1日 松本試案の内容が毎日新聞にスクープされる
2月8日 松本試案、GHQに提出される
そして、ここが重要なのですが、2月13日にマッカーサーによる憲法草案が日本政府に示された時に、当の幣原喜重郎は明らかに驚愕しています。
「護憲派」の論者(例えば立花隆氏など)はこれについて、幣原は「自分の案が採用されたということに驚愕した」という苦しい説明をしていますが、以下の経緯を知った上でそのような主張をしているのだとしたら面の皮が厚いと評するしかないでしょう。
GHQ草案手交時の脅迫問題
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/GHQ%E8%8D%89%E6%A1%88%E6%89%8B%E4%BA%A4%E6%99%82%E3%81%AE%E8%84%85%E8%BF%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C
>この日の閣議では、GHQ草案受け入れ反対派と賛成派の二派に分かれた。反対派は幣原首相、三土忠造内相、岩田宙造法相、賛成派は芦田厚相、副島千八農相などであった[28]。松本がこの日閣議で報告するまで、GHQ草案手交とそれ以降の事情を知っていたのは、幣原と吉田だけで、他の閣僚達は知らされていなかった。閣議の結果、2月20日迄という司令部への回答を22日に延期してもらうことにし、21日に幣原首相がマッカーサーに会い話をすることになった[29]。しかし、閣僚たちは不満だらけであった。
→この幣原喜重郎はGHQ草案受け入れ反対派だったということは、きちんと認識しておくべきでしょうね。
仮にですけど
1月24日にマッカーサー回想録や、幣原喜重郎発案説の根拠とされる羽室メモなどにあるように、マッカーサーと幣原との間で戦力放棄という点で意見の一致があったというなら、閣議でその話が持ち出されなかったのも不自然ですし、試案に何らかの反映がされるはずですし、百歩譲っても幣原本人が反対派にまわったことの説明がつきません。
そして、この幣原喜重郎発案説を裏付けるものは
「回想記」を含むマッカーサー本人の証言と
幣原喜重郎側の証言(自伝、聞き書きなどを含む)
だけです。
状況証拠というなら、むしろそれが事実でなかったことを裏付けていると言った方がいいでしょう。
恐らくは東西冷戦の深刻化にともない、東アジアにおける防共の最前線となった日本に「非武装、戦争放棄」の憲法を「押し付けた」マッカーサーが本国で追及されるのをおそれ、幣原喜重郎に言い含めたのではないか?
というのが可能性としては高いと思われます。