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「日本国憲法」第9条の発案者が幣原喜重郎であると考える歴史学の専門家は、ほぼ、いない

2017-05-07 21:33:48 | 近現代史関連
戦後占領史を扱うまともな研究者で、「日本国憲法」第9条の幣原喜重郎発案説を支持する人は、ほぼ、いません。

また、そのような説が「歴史学会」で評価されているという話も聞きません。

日本政治外交史、日米関係論の研究者である歴史学者の五百籏頭真氏は、著書『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)の中で、幣原喜重郎の方からマッカーサーへ戦争放棄を提案したと主張する専門家はほとんどいないとしています。

>幣原首相の方から憲法に戦争放棄と戦力不保持の規定を入れることを提案したと信じる研究者は皆無に等しい

(同書P222より)

支持しているのは歴史については門外漢の憲法学者、評論家、ジャーナリスト、教育学者など、非専門家ばかりです。

専門家レベルでは、あの「9条の会」に所属する政治学者である豊下楢彦氏ですら、その説は支持していません。

我が国におけるもっとも著名なマッカーサーの研究者とされる政治学者の袖井林二郎氏の著書『マッカーサーの二千日』(中公文庫)のP202には、こうあります。

>そして幣原自身がつぎのように語ったと側近の村山有はいう。「幣原首相は筆者に、『戦争放棄はわしから望んだことにしよう……』と、ポツンといわれたことがある。翻訳憲法をウ呑みにしたと後世非難されては困ると考えたのかも知れない」

→またP204には

>せめて戦争放棄条項の発案者という十字架を幣原に転嫁することによって、歴史に対する責任をまぬがれようとしたと考えるべきではないだろうか。

→ともあり、第9条については事実上「マッカーサー起源説」に軍配をあげています。

そして第9条の幣原喜重郎発案説を前提とするなら、少なくとも時間的な整合性にも問題があるといわないわけにはいかないでしょう。

1月24日
幣原喜重郎が、マッカーサーにペニシリンのお礼に行った時に戦力放棄の話をする

1月29日 松本試案閣議はじまる

2月1日 松本試案の内容が毎日新聞にスクープされる

2月8日 松本試案、GHQに提出される

そして、ここが重要なのですが、2月13日にマッカーサーによる憲法草案が日本政府に示された時に、当の幣原喜重郎は明らかに驚愕しています。

「護憲派」の論者(例えば立花隆氏など)はこれについて、幣原は「自分の案が採用されたということに驚愕した」という苦しい説明をしていますが、以下の経緯を知った上でそのような主張をしているのだとしたら面の皮が厚いと評するしかないでしょう。

GHQ草案手交時の脅迫問題

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/GHQ%E8%8D%89%E6%A1%88%E6%89%8B%E4%BA%A4%E6%99%82%E3%81%AE%E8%84%85%E8%BF%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C

>この日の閣議では、GHQ草案受け入れ反対派と賛成派の二派に分かれた。反対派は幣原首相、三土忠造内相、岩田宙造法相、賛成派は芦田厚相、副島千八農相などであった[28]。松本がこの日閣議で報告するまで、GHQ草案手交とそれ以降の事情を知っていたのは、幣原と吉田だけで、他の閣僚達は知らされていなかった。閣議の結果、2月20日迄という司令部への回答を22日に延期してもらうことにし、21日に幣原首相がマッカーサーに会い話をすることになった[29]。しかし、閣僚たちは不満だらけであった。

→この幣原喜重郎はGHQ草案受け入れ反対派だったということは、きちんと認識しておくべきでしょうね。

仮にですけど

1月24日にマッカーサー回想録や、幣原喜重郎発案説の根拠とされる羽室メモなどにあるように、マッカーサーと幣原との間で戦力放棄という点で意見の一致があったというなら、閣議でその話が持ち出されなかったのも不自然ですし、試案に何らかの反映がされるはずですし、百歩譲っても幣原本人が反対派にまわったことの説明がつきません。

そして、この幣原喜重郎発案説を裏付けるものは

「回想記」を含むマッカーサー本人の証言と

幣原喜重郎側の証言(自伝、聞き書きなどを含む)

だけです。

状況証拠というなら、むしろそれが事実でなかったことを裏付けていると言った方がいいでしょう。

恐らくは東西冷戦の深刻化にともない、東アジアにおける防共の最前線となった日本に「非武装、戦争放棄」の憲法を「押し付けた」マッカーサーが本国で追及されるのをおそれ、幣原喜重郎に言い含めたのではないか?

というのが可能性としては高いと思われます。

昭和天皇には統帥権はなかったのでしょうか。

2017-05-07 19:02:31 | 近現代史関連
結論からいうと

あった、なかったでいえば、それはあったということにはなると思います。

実際に帝国憲法第11条にも明記されています。

「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

これは憲法上は、天皇大権に陸軍や海軍への統帥の権能があった事を示しています。

ただし、実際には戦略の決定、軍事作戦の立案、指揮命令をする軍令権、その他の権能は、陸軍においては陸軍大臣、参謀総長に、海軍においては海軍大臣と軍令部総長という「軍事の専門家」に委託されていました。

ちなみに帝国憲法においては、天皇は特別な事情がない限り、政治においては、国務大臣が輔弼することとなっており、軍令については統帥部が補翼することとなっていました。

これは「慣習」であり、憲法に明文の規定はありませんでしたが、事実上そうなっていたという事は

帝国憲法第5条
「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」

帝国憲法第55条
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」

などの運用からも明らかです。

勿論、この「慣習」は、意図的に形成されたものであり、これは帝国憲法制定当時に事実上国家をリードしてきた維新の元勲達が、政治家が統帥権をも握ることによる事実上の「幕府政治再興」の可能性や、天皇その人が「独裁者」となる可能性などを排除する必要を考慮したため、と言われています。

ただ維新の元勲は、日本が近代国家として成熟するまでは、自分達が国家を領導していく必要がある、と考えていたと見られ、政治に「口をだす」権限を温存したかった、という側面も見逃せないように思います。
実際に初期の時点で天皇大権により統帥権が発動された例として、日清戦争当時に明治天皇の特旨により、本来メンバーでない伊藤博文総理が大本営に列席し、軍事作戦に「助言」した、というケースがあり、帝国憲法制定の当事者達の「内心」がうかがえます。

これが維新の元勲達の「政治の現場」からの退場にともない次第に形骸化し、後を引き継ぐかたちとなった「官僚」(軍人に限らない)が、自分達に有利な「憲法解釈」を行う事で、様々な「制度」が作られ、天皇自身が大権を行使できなくなる「体制」が形成されていきました。
(事実上の「官僚幕府」ができた、と考えてもいいと思います)

結果的に「空前の無責任体制」が生まれ、破局に向かっていったのは、ご承知の通りです。

ちなみに言うと、終戦時の「御聖断」にしても、実際には昭和天皇は何も「決定」していません。

あくまでも昭和天皇がポツダム宣言受諾に同意を表明しただけのことです。

重要なのは、この発言そのものに決定権はないということ。
昭和天皇の意思表明がなされた上で、もはや原爆投下やソ連の参戦などにより足下が危うくなっていた主戦派も意見を押し通すことができなくなり、ポツダム宣言受諾に「同意」したわけです。

会議参加者が「同意」し、ご聖断を受け入れるという「決定」をしなければ、それは実行されることはなかったんです。

戦争中においても昭和天皇は、いくたびか「助言」はしていますが、多くの場合は「現場」に無視されています。

勿論、現場が「同意」した場合には、何らかの「決定」をする事もありましたが、それすらも現場の「判断」により、いつの間にか無視され、既成事実が作られてしまった場合があります。

法令上の天皇大権と、現実の落差を象徴するような出来事があります。

古川隆久氏の著書『昭和天皇』(中公新書)P191より抜粋。

>一九三五年四月に満州国皇帝溥儀が来日することとなった。
現職国家元首の来日は史上初のことである。
その準備過程で、天皇と皇帝同席の観兵式が計画されたが、陸軍は軍旗を天皇には敬礼させるが皇帝には敬礼させないという方針をとった。
これは国際慣例に違反するものであり、昭和天皇は、本庄に対し、

「軍旗は朕の敬意を払ふ寛容〔賓客〕に敬礼せずとせば、軍旗は朕より尊きか」

と苦情を述べた。

これに対し本庄は、

「軍旗は平戦両時を通じ、天皇の表徴として〔中略〕国軍の忠勇は実に崇厳なる軍旗に負ふ所多し、従て軍旗に対する信仰を、幾分にても減ずるが如き事は御許を願ひたし」

と反論し、天皇も引き下がった

→天皇の要請より、「軍旗に対する信仰」の方が大切だから余計な発言はしないでくれ。

という事です。

あと、わかりやすい例としては熱河事件があげられるでしょう。

熱河作戦の準備に際して、関東軍が事実上の作戦開始許を求めてきたとき、昭和天皇は難色を示し、とりあえず熱河作戦は万里の長城を超えないことを条件として許可しています。

あとで昭和天皇は、斉藤内閣が国際関係悪化を招くとして熱河作戦に不同意を表明していたことを知り、あわててした命令を撤回する、と主張しましたが、関東軍は「天皇に作戦許可をもらった」と内閣の方針を無視して作戦を強行してます。

しかも、関東軍は長城を超えないという作戦許可の条件を無視して戦線を拡大していきます。

ついに昭和天皇は参謀総長に対して作戦中止をうながし、関東軍もいったんはこれに従って進撃を止めますが、ほどなく軍事行動を再開し、どうにもならなくなっていきます。

なお、よく云われる問いとして

昭和天皇が憲法などを無視してアメリカとは戦争しない・してはいけないと言ったら戦争は回避できたのですか?

というものがありますが、結論だけ言えばできませんでした。

やるとすれば陸海軍大臣や参謀総長の辞任、さらには軍の不満分子のクーデターなどを覚悟しても陸海軍に対する不満を表明し、これを積極的に指導する、という方法をとるしかありませんが、現実問題としては無理です。

例えばニ・二六事件の際でも、昭和天皇は確かに「速やかに鎮圧せよ」と川島陸相に命じていますが、これは十数時間にわたって陸軍当局に無視されています。

この昭和天皇の窮状を救ったのは、結果的に強硬弾圧の方針を打ち出した参謀本部でしたが、その主たる理由は青年将校達が勝手に軍を動かした事にありました。
(伊藤之雄『昭和天皇伝』P245~246より)

ちなみに近現代史家で京都大学大学院教授の伊藤之雄氏はその著書「昭和天皇伝」(文芸春秋)でこう書いています。

>「明治憲法でも天皇は貴族院と衆議院からなる帝国議会の協賛によって立法権を行い(第五条・第三十三条)すべての法律は帝国議会の協賛を経なければならず(第三十七条)、毎年の予算は帝国議会の協賛を経ることが必要であり(第六十四条)、帝国議会は毎年招集する(第四十一条)などというように、議会が天皇の行為を制約した。

また国務大臣は天皇を輔弼する責任があり、法律・勅令や国務に関する詔勅は、すべて国務大臣の副署を必要とする(第五十五条)というように、国務大臣も天皇の行為を制約していた。

司法に関しても、司法は天皇の名において法律によって裁判所で行うことになっているので(第五十七条)、天皇が恣意的に介入する余地はほとんどなかった。

天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)という有名な条文は、天皇が法律上や政治上の責任を問われないというものであり、君主が自由に様々なことに関与できるという意味ではない。」

「また、天皇は首相や閣僚を辞任させることができるが、辞任できた空席を埋めることができる保証がどこにもなかった。このような憲法運用上の問題からも、天皇は自由な権力行使ができなかった。とりわけ、陸海軍大臣という軍の最高級ポストについて、後任者が得られないと、内閣が成立あるいは存続できない。その結果、軍関係閣僚を罷免した天皇の政治責任が言外に問われることになり、天皇はたちまち窮地に陥ってしまうのである。」

>「したがって、日本の歴史上最有力天皇の一人といわれた明治天皇ですら、日常は政治関与を抑制し、藩閥内部や、藩閥と議会勢力の間で激しい対立が起きて意思決定が不可能になった場合にのみ、調停的に政治に介入する、という行動をとるようになっていった。」

「このことを考慮すると、たとえ不満な政策であっても、その政策を裁可しないために内閣が倒れる恐れがあれば、天皇は事実上裁可を拒否できなくなるのである。」

→昭和天皇は「憲法を守っていた」だけではなく、「守らされていた」という側面もあるという事がわかります。

そして、「憲法を無視する」というなら、それは昭和天皇自身が既存の政府、軍部に対して事実上のクーデターを起こす事を意味します。

残念ながら、それだけの強固な権力を昭和天皇は持ち合わせていませんでした。

ここではニ・二六事件などを例に挙げましたが、軍部が昭和天皇の意思を無視して都合よく事を運んでしまった例はいくつもあります。

なので、昭和天皇が「憲法を無視してアメリカとの戦争を回避する」というのは、事実上困難だったのは間違いないでしょう。

やはり天皇がそのような権限を有しなかったのではなく、現実がそのようになっていなかった、というのが、正しい理解だと思います。