2019年度 第54期 情報総合科3i1

行事予定等のお知らせ用ブログ&担任のつぶやき

7月29日〜8月4日の日程

2019年07月28日 08時29分47秒 | 週間日程
7月29日〜8月4日の日程
公式HPより



(担任忌引で7/29-8/2まで忌引となります。)

2名三者面談予定でしたが、別日に変更おねがいします。

(担任の独り言)・・・母の思い出
7/25の夕方、実家の兄より「母が危篤で1ヶ月持たない」と電話連絡があり、週末二本松市の病院まで様子を見に行こうと予定していましたが、翌7/26の午後三者面談中に再度電話があり、かなり危ないと連絡あり、面談終了後まっすぐ病院へ。疲れ切っていた兄がいて、1ヶ月前から肺炎で入院し肺炎は治ったが老衰で血圧が半分なので1日持つかどうかと看護師から説明を受けました。兄の奥さんも入院中、3人の子供も家を出て独立しているので、実家の電気屋さんを兄一人で切り盛りしていたが、看病中もお客さんから電話があり、交代して少しだけ仕事に行って息抜きしてもらった。夜中に3人の姪や甥が病院にきて、久しぶりの再会。少し安定していたので、一旦自宅に帰ることにした。翌日の早朝2時40分に老衰で息をひきとったと兄から連絡を受け、7/27の午前中の学校見学会を滞りなく終了させ、急遽生徒の願書用調査書を作成し、同僚の先生に処理を依頼して、葬儀の準備。実母のため、葬儀前後の準備を喪主を手伝うため忌引きでお休みをいただくことにしました。まずは、ご迷惑おかけします。なんとか、就職の分析会も見学会も就職主任に依頼代行をおねがいできましたので、ご安心ください。

さて、実母は私の人生で強烈な存在でした。年下の父を内助の功で支え、郡山市守山から二本松市岩代町の田舎まで自営業の電気屋さんに嫁いだ。父の兄弟12名の末っ子の父に祖母の面倒を引き受けて、実質本家として巨大な親戚の対応もしつつ、電気屋さんと言っても何でも屋で石油の配達、家電販売、小物販売、修理、電気工事、まだ車が高価な時代に、大型ラジオと大型バイクを物物交換で入手して石油の配達するも、免許制度改定で、父は自動的に免許はもらえたが、母は県内でも初めて自動車学校で大型自動二輪の免許取得のためにたった一人女性でバイクの免許取得にチャレンジし、一緒に免許を取りに来た男性たちと猛烈に検定を受けて、免許取得し、大型バイクで石油や家電の配達を毎日行っていた。その影響で私を含め、高校入学と同時にバイクの免許を取らされ、配達の手伝い。高校3年で自動車の免許、大学時代に「男なら大型自動二輪の免許とってこい!」とバイクの免許を取らせに生かされ、唯一私だけ、限定解除がとれず、その後ずーっと、「お前は大型バイク乗れないなさけないやつ」とバカにされていました。

親戚の中でいとこ30名以上、実祖母の葬式の時、姉の結婚式などは、300名を越す集合に、誰が誰だかわからないのに、母はよく低姿勢に陰で切り盛り準備などしていた。父は12人兄弟の末っ子なのに、年上女房の母には亭主関白で口の悪いガキのように、好きなことをなんでもやりたい放題。何度か夫婦の危機があったらしいけど我慢していたようです。ま、祖母も強烈な人で嫁姑のいびりの大変だし、認知症の介護も壮絶なのは小さい頃見ていた。でも祖母の死ぬ間際に、母を寝ている側に呼び「いままですみませんでした。ありがとう。」と本当は感謝していた祖母の本音を実母は聞いたそうで、それで気持ちがチャラになったといっていた。

大学に進学するときも、大学院に行くときも、大学に残り研究員として残るときも、結婚するときも、母は陰で支えてくれた。いつか恩返しをしたいと、初任給を母に渡すも、毎月仕送り微々たるしたものの、結婚式の費用に回してくれていた。母親はいつまでも母で、子供はいつまでも子供なんだと痛感させられたものです。

母は決して勉強しろとはいいませんでした。悪さをしても学校に謝りに行く、悪いことを裏山の神社の柱に縄で縛って「反省しろ!」という竹を割ったような性格(ダンプカーのようなすごい女性)。小さい頃から珍しい病気になっていた私は母に「カタワに産んで!」と悪口を言っていたが、インターネットのない時代に、テレビ局や新聞社に問い合わせて、新しい治療法を探してきてくれて、海外の治療論文も探してくれていた。震災の時に、どうしても実家を守るために、自分で開発した線量計を6000台製造し、最初の1台を母に渡して、使ってくれといったら、本気で喜んでくれていた。線量計をもらったことよりも、世の中のために頑張っている息子が誇らしかったのだろう。父はその1年後に私の目の前で「じいさん、アイス食うか?」と声をかけたら「いらねー!」と言って数分後息をひきとった。息子が実家に来てくれて安心したのか。その後は母すこしずつ認知症になっていったが、今も私の中で偉大な母親であり、超えることのできない存在になっていた。父もまた、ガキで母を苦労させたけれど、家電販売の世界では最先端の勉強をしていた人で、この両親の影響で、最先端の研究を大学でしたいというようになり、また、今ボランティアで人のために汗を流すことになっているのかもしれないです。

妻の両親、私の両親、4名全員を震災の前後に亡くし、次の順番が自分になってきて、果たして、父や母のように自分の子供に見本となれる存在だったのか、おそらくだめだろうなと反省しています。親はいつまでも親、子供はどんなに成長しても子供。それが、続いていくのが世代を超えた人生なのだろうと思っています。

高校3年生になり、社会に出ようとしている人、自分の夢を探すために進学する人、どんなときも親の背中を見て成長し、親の恩恵と愛情を受けて一生支えてくれることを、3i1の生徒には自覚してほしいな。どんなに頑張っても親に恩返しはできない。親不孝しかできない。恩返しする気持ちがあるなら、社会にでて自立して、家庭を持って、元気に家族を育てている姿を見せることが、もしかして、恩返しになるのかもしれません。
いままさに、そのスタートに立っているので、その自覚を持って、1日、1日を大切に過ごしてください。

では、今週は葬儀に集中させていただきます。