<砲弾>相次ぎ「発見」一カ月で200個 九州・山口
6/25(日) 2:31配信 毎日新聞
九州・山口各県で古い砲弾が相次いで「発見」されている。5月24日に大分県内の神社で1発の砲弾が見つかったのをきっかけに、「うちにもある」と広がった。大分県警への届け出数は今月22日現在で157個にのぼり、他の県でも少なくとも48個が確認されている。大分は多くが日露戦争時に奉納されたものとみられている。古い砲弾が今になって続々と「発見」される背景には、戦争の記憶の風化がありそうだ。
◇日露戦争時に奉納か 地域の記憶伝わりにくく
「神社に不発弾がある」。先月24日、大分県杵築市の八旗八幡神社近くの住民の通報で警察官が駆けつけると、神社の本殿裏に野ざらしになった砲弾2個(全長45センチ、直径15センチなど)があった。信管の付いた旧日本軍の砲弾と判明し、陸上自衛隊が処分した。
この件が報道されると、「そういうものならうちにもある」「長年放置していた」との通報が神社から相次いだ。県警が先月31日付の文書で県神社庁に砲弾が見つかれば相談するよう呼びかけたところ、さらに通報が増えた。通報は一般住民からもあるが、神社が6割以上を占めている。
神社関係者の多くは「なぜここにあるのか分からない」と口をそろえるが、年配の住民の中には「砲弾は昔から神社にあり、持ち上げて力比べをしていた」などと記憶している人たちがいる。
そもそも「発見」された砲弾はいつのものなのか。日本の大砲研究の第一人者とされる埼玉県飯能市の佐山二郎さん(69)は「日露戦争に勝った当時、政府が戦勝記念として、ロシア軍から接収した砲弾を安全処理した後で全国の神社や仏閣、一部の学校に展示するように配った。それではないか」と推測する。戦前・戦中は、慰霊碑や石碑と同様のものに砲弾を見立てて、戦死した兵士を弔ったともいう。
しかし中には危険な砲弾もある。別府大学の段上達雄教授(民俗学)は「武運長久のお礼として、兵士が個人的に持ち帰った砲弾を神社に奉納したケースがあった」と話す。この場合は安全処理をしていない可能性があり、県警などは注意を呼びかけている。
砲弾はかつて住民に身近なものだったが、太平洋戦争中に金属供出で回収されたり、戦後は連合国によって破棄されたりした。残った一部が長い年月の中で持ち込まれた経緯が分からなくなり、今回の騒動に至った可能性がある。
今月に入り、各県で通報による「発見」が続出している。毎日新聞の集計で▽山口県5個▽福岡県18個▽佐賀県15個▽長崎県3個▽熊本県4個▽宮崎県3個--を確認。大分の件が影響しているとみられ、神社からの通報が目立っていた。
佐山さんは「すぐに処分せず、安全で歴史的に意味あるものは展示することも検討してほしい」と語る。【尾形有菜、柳瀬成一郎】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
偉大な日露戦勝の記憶が風化していることは悲しいことです。
ロシア帝国はモンゴル系民族を次々と征服しながらシベリアまで到達し、不凍港を求め、満州・朝鮮を我が物にしようとしていました。
そのロシアに対し、極東の小さな島国が闘いを挑んだ。
圧倒的な国力の差をはね除け、陸海共に日本は世界最強のロシア陸軍とバルチック艦隊を撃滅した。
この勝利に大航海時代以来、苦杯を味わい続けた世界の有色人種が歓喜の声を上げたのです。
「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入 れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」(レジナルド・カーニー著「20世紀の日本人」 p.65-66)
ネール(インドの首相)
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」
「もし日本が最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろうか?」
「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかまわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、その日本が勝ったのだ。私は、自分達だって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは日本なのだ」
チャンドラ・ボース(インド仮政府の首相)
今から約40年前、私がようやく小学校に通い始めたころ、一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させた。このニュースは全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆った。いたるところで、旅順攻撃や奉天大海戦、日本海海戦の勇壮な話で持ちきりだった。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬した」
バ・モー(ビルマ独立後の最初の首相)
「この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点と呼べるものであった」
孫文(中華民国建国の父)
「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響をおよぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至り、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた」
ムスターファー・カミール(エジプト民族解放指導者)
「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」
ウィリアム・デ・ポイス(アフリカ開放の父といわれた)
「有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれるので、有色人種は日本を指導者として従い、われわれの夢を実現しなければならない」
シーラーズ(イランの詩人)
「日本の足跡をたどるなら、われわれにも夜明けがくるだろう」
デニス・ペギー、ウォナー夫妻(日露戦争全史の著者)
「苦力(クリー)も主人となりうるし、主人たる西洋人も苦力に落ちぶれかねないことを示した戦争であった」
エジプト
「私は日本の乙女、銃を持って戦うあたわずも、砲火飛び散る戦いの最中に、身を挺して傷病兵に尽くすはわが努め」という「日本の乙女」という詩が作られた。これはエジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載された。
なぜ、この詩がアラブ人に受けたかというと、当時、アラブ諸国がイギリスの支配下にあり、小国の日本が大国ロシアに勝ったことがアラブの人々に民族独立への希望と勇気を与えたからである。
また、エジプトの将校アフマド・ファドリーが桜井忠温の「肉弾」を翻訳した。これはアラビア語に翻訳された最初の日本の本だった。この本は日本ではほとんど注目されていないが「武士道」以上に世界に大きな影響を与えた。
イラン
「東方からまたなんという太陽が昇ってくるのだろう。文明に夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。どんなに困難であろうとも、日本の足跡を辿るならば、この地上から悲しみの汚点を消し去ることができる」と、明治天皇を中心に団結し、大国ロシアを破った日本を讃える「ミカド・ナーメ(天皇一代記)」が出版された。
イラク
詩人のマァルーフ・アッ=ルサーフィーが「対馬沖海戦」を発表した。
トルコ
観戦武官のペルテヴ・パシャ大佐が戦記「日露戦争」と、講演録「日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因」を刊行し、「日本軍の勇敢さや国民の一致団結を讃え、国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。国家の命運は国民にあり」と訴え、それが近代化を推進する青年党の運動、ケマル・アタチュルクのトルコ革命へと連なっていった。
トルコでは「トーゴー通り」があり、「ノギ」という大きな靴販売店があり、「トーゴー」や「ノギ」という男の子の名前がたくさんつけられたのは有名である。
エジプト
トーゴー・ミズラヒーという映画監督がいる。
ポーランド(当時はロシアの属領)
第一次世界大戦末期に独立を達成するとウスーツキー大統領は、日露戦争に参加した日本軍指揮官に軍功章を贈った。
「ノギ」という名をつけた人を集めたら、教会がいっぱいになる村があった。
フィンランド(当時はロシアの属領)
フィンランド独立の英雄マンネルハイムは、帝政ロシア軍の騎兵旅団長として奉天の会戦に参加したが、この会戦で敗北したことから、日本のような小国でも国民が団結すれば大国のロシアでも勝てると、ロシア革命の混乱を利用して独立を達成した。
東郷平八郎にちなんだビールが発売されたのは有名である。
アメリカ
日本を激励する詩が黒人の新聞に掲載され、アメリカの黒人は日本が有色人種のリーダーとして、支那やインドと協力し黒人を解放してくれると夢想した。
日露戦争に関しての発言など
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1904_nichiro_senso_hatsugen.html
そして、日本軍は敵のロシア軍に敬意を払いました。
降伏した敵将の着剣を認めることは異例なことです。
お互いを敬った乃木将軍とステッセル将軍は「昨日の敵は今日の友」となりました。
戦地において日本軍は、自軍戦没者と共にロシア軍戦没者を弔いました。
ロシア皇帝からも感謝されました。
支那事変・大東亜戦争でも敵軍の慰霊をしています。
有色人種だけではなく、白人にも感動を与えた。
それが日露戦争であり、大東亜戦争なのです。
全ての人種・民族が兄弟のようになれる世界の礎となった日露戦争の歴史的意義を現代に生きる我々は継承しなければいけません。
6/25(日) 2:31配信 毎日新聞
九州・山口各県で古い砲弾が相次いで「発見」されている。5月24日に大分県内の神社で1発の砲弾が見つかったのをきっかけに、「うちにもある」と広がった。大分県警への届け出数は今月22日現在で157個にのぼり、他の県でも少なくとも48個が確認されている。大分は多くが日露戦争時に奉納されたものとみられている。古い砲弾が今になって続々と「発見」される背景には、戦争の記憶の風化がありそうだ。
◇日露戦争時に奉納か 地域の記憶伝わりにくく
「神社に不発弾がある」。先月24日、大分県杵築市の八旗八幡神社近くの住民の通報で警察官が駆けつけると、神社の本殿裏に野ざらしになった砲弾2個(全長45センチ、直径15センチなど)があった。信管の付いた旧日本軍の砲弾と判明し、陸上自衛隊が処分した。
この件が報道されると、「そういうものならうちにもある」「長年放置していた」との通報が神社から相次いだ。県警が先月31日付の文書で県神社庁に砲弾が見つかれば相談するよう呼びかけたところ、さらに通報が増えた。通報は一般住民からもあるが、神社が6割以上を占めている。
神社関係者の多くは「なぜここにあるのか分からない」と口をそろえるが、年配の住民の中には「砲弾は昔から神社にあり、持ち上げて力比べをしていた」などと記憶している人たちがいる。
そもそも「発見」された砲弾はいつのものなのか。日本の大砲研究の第一人者とされる埼玉県飯能市の佐山二郎さん(69)は「日露戦争に勝った当時、政府が戦勝記念として、ロシア軍から接収した砲弾を安全処理した後で全国の神社や仏閣、一部の学校に展示するように配った。それではないか」と推測する。戦前・戦中は、慰霊碑や石碑と同様のものに砲弾を見立てて、戦死した兵士を弔ったともいう。
しかし中には危険な砲弾もある。別府大学の段上達雄教授(民俗学)は「武運長久のお礼として、兵士が個人的に持ち帰った砲弾を神社に奉納したケースがあった」と話す。この場合は安全処理をしていない可能性があり、県警などは注意を呼びかけている。
砲弾はかつて住民に身近なものだったが、太平洋戦争中に金属供出で回収されたり、戦後は連合国によって破棄されたりした。残った一部が長い年月の中で持ち込まれた経緯が分からなくなり、今回の騒動に至った可能性がある。
今月に入り、各県で通報による「発見」が続出している。毎日新聞の集計で▽山口県5個▽福岡県18個▽佐賀県15個▽長崎県3個▽熊本県4個▽宮崎県3個--を確認。大分の件が影響しているとみられ、神社からの通報が目立っていた。
佐山さんは「すぐに処分せず、安全で歴史的に意味あるものは展示することも検討してほしい」と語る。【尾形有菜、柳瀬成一郎】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
偉大な日露戦勝の記憶が風化していることは悲しいことです。
ロシア帝国はモンゴル系民族を次々と征服しながらシベリアまで到達し、不凍港を求め、満州・朝鮮を我が物にしようとしていました。
そのロシアに対し、極東の小さな島国が闘いを挑んだ。
圧倒的な国力の差をはね除け、陸海共に日本は世界最強のロシア陸軍とバルチック艦隊を撃滅した。
この勝利に大航海時代以来、苦杯を味わい続けた世界の有色人種が歓喜の声を上げたのです。
「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入 れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」(レジナルド・カーニー著「20世紀の日本人」 p.65-66)
ネール(インドの首相)
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」
「もし日本が最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろうか?」
「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかまわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、その日本が勝ったのだ。私は、自分達だって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは日本なのだ」
チャンドラ・ボース(インド仮政府の首相)
今から約40年前、私がようやく小学校に通い始めたころ、一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させた。このニュースは全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆った。いたるところで、旅順攻撃や奉天大海戦、日本海海戦の勇壮な話で持ちきりだった。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬した」
バ・モー(ビルマ独立後の最初の首相)
「この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点と呼べるものであった」
孫文(中華民国建国の父)
「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響をおよぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至り、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた」
ムスターファー・カミール(エジプト民族解放指導者)
「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」
ウィリアム・デ・ポイス(アフリカ開放の父といわれた)
「有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれるので、有色人種は日本を指導者として従い、われわれの夢を実現しなければならない」
シーラーズ(イランの詩人)
「日本の足跡をたどるなら、われわれにも夜明けがくるだろう」
デニス・ペギー、ウォナー夫妻(日露戦争全史の著者)
「苦力(クリー)も主人となりうるし、主人たる西洋人も苦力に落ちぶれかねないことを示した戦争であった」
エジプト
「私は日本の乙女、銃を持って戦うあたわずも、砲火飛び散る戦いの最中に、身を挺して傷病兵に尽くすはわが努め」という「日本の乙女」という詩が作られた。これはエジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載された。
なぜ、この詩がアラブ人に受けたかというと、当時、アラブ諸国がイギリスの支配下にあり、小国の日本が大国ロシアに勝ったことがアラブの人々に民族独立への希望と勇気を与えたからである。
また、エジプトの将校アフマド・ファドリーが桜井忠温の「肉弾」を翻訳した。これはアラビア語に翻訳された最初の日本の本だった。この本は日本ではほとんど注目されていないが「武士道」以上に世界に大きな影響を与えた。
イラン
「東方からまたなんという太陽が昇ってくるのだろう。文明に夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。どんなに困難であろうとも、日本の足跡を辿るならば、この地上から悲しみの汚点を消し去ることができる」と、明治天皇を中心に団結し、大国ロシアを破った日本を讃える「ミカド・ナーメ(天皇一代記)」が出版された。
イラク
詩人のマァルーフ・アッ=ルサーフィーが「対馬沖海戦」を発表した。
トルコ
観戦武官のペルテヴ・パシャ大佐が戦記「日露戦争」と、講演録「日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因」を刊行し、「日本軍の勇敢さや国民の一致団結を讃え、国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。国家の命運は国民にあり」と訴え、それが近代化を推進する青年党の運動、ケマル・アタチュルクのトルコ革命へと連なっていった。
トルコでは「トーゴー通り」があり、「ノギ」という大きな靴販売店があり、「トーゴー」や「ノギ」という男の子の名前がたくさんつけられたのは有名である。
エジプト
トーゴー・ミズラヒーという映画監督がいる。
ポーランド(当時はロシアの属領)
第一次世界大戦末期に独立を達成するとウスーツキー大統領は、日露戦争に参加した日本軍指揮官に軍功章を贈った。
「ノギ」という名をつけた人を集めたら、教会がいっぱいになる村があった。
フィンランド(当時はロシアの属領)
フィンランド独立の英雄マンネルハイムは、帝政ロシア軍の騎兵旅団長として奉天の会戦に参加したが、この会戦で敗北したことから、日本のような小国でも国民が団結すれば大国のロシアでも勝てると、ロシア革命の混乱を利用して独立を達成した。
東郷平八郎にちなんだビールが発売されたのは有名である。
アメリカ
日本を激励する詩が黒人の新聞に掲載され、アメリカの黒人は日本が有色人種のリーダーとして、支那やインドと協力し黒人を解放してくれると夢想した。
日露戦争に関しての発言など
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1904_nichiro_senso_hatsugen.html
そして、日本軍は敵のロシア軍に敬意を払いました。
降伏した敵将の着剣を認めることは異例なことです。
お互いを敬った乃木将軍とステッセル将軍は「昨日の敵は今日の友」となりました。
戦地において日本軍は、自軍戦没者と共にロシア軍戦没者を弔いました。
ロシア皇帝からも感謝されました。
支那事変・大東亜戦争でも敵軍の慰霊をしています。
有色人種だけではなく、白人にも感動を与えた。
それが日露戦争であり、大東亜戦争なのです。
全ての人種・民族が兄弟のようになれる世界の礎となった日露戦争の歴史的意義を現代に生きる我々は継承しなければいけません。
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