かって在った御笠の森の案内板と新製された黒御影石に白地磁器に
書かれた案内板を比べてみよう。
1996年作製の御笠の森の案内板と2005年作製のものでは、それぞれ
次のように紹介されている。
民家の垣根の傍にひそやかにたてられていた1996年作製の旧案内板
2003.01.30撮影
念(おも)はぬを 思ふといはば 大野なる
三笠の杜(もり)の 神し知らさむ
という万葉集の歌が紹介されている
2005年作製の新案内板 2006.11.30撮影
この2005年作製の新案内板は黒御影石に文章・絵の陶板を埋め込んで新調されている。
新旧の案内板を比較して気付くのは、万葉集巻四ー561 大伴の宿禰百代の恋の歌
念(おも)はぬを 思ふといはば 大野なる
三笠の杜(もり)の 神し知らさむ
という歌が新しい案内板から消えていることである。
このことは時代の変遷を示すとともに、残念であるといはざるを得ない。
なぜ案内板から消えたのか?
万葉集巻四ー561 大伴の宿禰百代が詠んだ時代の御笠の森はここではなかったからだ
という単純極まりない理由で済ますには、あまりに情けないという想いがする。
貝原益軒の筑前国続風土記にも紹介されているこの御笠の森なのに・・・。
日本書紀に
「戊子(つちのえねのひ)に、皇后(きさき)、熊鷲(くまわし)を撃たむと欲
(おもほ)して、橿日宮(かしひのみや)に遷(うつ)りたまふ。
飄風(つむじかぜ)忽(たちまち)に起りて、御笠(みかさ)堕風(ふけおと)されぬ。
故(かれ)、時人(ときのひと)、其の処を号(なづ)けて御笠(みかさ)と曰ふ。・・・」
とある。
皇后とは神功皇后であり、皇后のかぶられていた笠がつむじ風に吹き
飛ばされて、森の木にひっかかったことから、この地を御笠というように
なった。
このことは1996年作製の旧案内板にも2005年作製の新案内板にも書
かれている。
御笠という地名は太宰府市の竈門(かまど)神社の西の谷間で、太宰府
天満宮から北に1キロメートルほど行った県道35号線(筑紫野・古賀線)
沿いに今もある。
3世紀頃の神功皇后の時代の御笠の森は、この竈門(かまど)神社の
付近にあったのであろうか。
念(おも)はぬを思ふといはば大野なる三笠の杜(もり)の神し知らさむ
という歌が詠われたのは、奈良時代(715~806)の神亀(じんき)五年
(728)ごろと思われることから、この歌に詠われた御笠の森(三笠の杜)
は大野山の麓にあたる大宰府の都府楼や観世音寺付近にあったもので
あろうか。
この地は当時、御笠と呼ばれていたという。
貝原益軒の筑前国続風土記は宝永六年(1709)益軒八十歳のときに
完成したとされている。
これによれば、現在の御笠の森は「又むかしは此森の廻りに山田村あり。
近年雑餉隈のひがしのかたはらにうつせり」と記して、
太宰大監大伴百代の万葉歌として
思はぬをおもふといはヾ大野なる
美笠の森の神ししるらん
を紹介している。
現在の御笠の森の廻りにあった山田村は、水害か何かの天変地異
によって、17世紀後半には500メートル程西南に移転せざるを得な
かったのであろう。
つい最近、大規模道路建設に先立って、御笠の森周辺の大規模発掘
調査が行われ17世紀後半以前の主に江戸時代前半の陶磁器類や
羽子板、独楽などの用品が出土したとされ、かなり裕福な村であった
ようだという。
この出土品のなかに石帯(せきたい)と呼ばれる、古代の帯飾り(ベルト)
の一部である、研磨され6つの穴を有する蛇紋岩(黄緑色の石)があった
という。
奈良時代から平安時代にかけて使用された古代のベルトの装飾品である。
このことから、御笠の森にあった山田村に住んでいた人々の先祖は、奈良
時代には大宰府の都府楼や観世音寺付近にいた人々であったろうと
思えてくる。
だからこそこの地に御笠の森を創ったのではなかろうか。
万葉集に詠われた頃の御笠の森はどこにあったのだろうか。
想像するに、御笠の森は
観世音寺の裏側に礎石だけが残る僧房跡からすぐ近くの日吉神社の鎮座
する小高い森がそうではなかろうかと思えてくるのだ。
この森は勿論、大野山の麓にあって、昔は御笠と呼ばれていた地区である。
だが都府楼址や観世音寺のあたりを歩いてみると御笠の森と思われそうな
ところはいくつもあるのだ。
2006.11.30撮影の御笠の森
右端に黒御影石に陶板を埋め込んだ案内板が見える。
中央下部に万葉歌碑の背面を見る
JAL機が御笠の森の上をかすめて福岡空港に着陸しようとしている
2006.11.30撮影
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