福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2007.2.3(土) 豊前の国 香春・鏡山に遊ぶ

2011-09-25 | まち歩き

万葉集に七首が載せられているという、福岡県田川郡香春町を訪ねた。
香春は大宰府と豊前国府を結ぶ官道「田河道」の駅家(うまや)であった。
豊前国府は昭和の終わり頃の発掘調査により福岡県京都郡みやこ町国作に
あったことが確認されているという。
前日の残雪も見たさに、福岡から県道60号線(飯塚大野城線)でショウケ峠を
超えようとしたが、チェーン規制でやむなく断念し、国道201号線に迂回して
八木山峠を越えて飯塚、田川を通って、香春の鏡山神社についた。


前日、福岡市博多区の麦野交差点から三郡山系を望む ここから三郡山系の
尾根まで約10km、その先約30kmに目指す香春があるはずだ。
太宰府は三郡山系右手の山麓にある。


田川市に入ろうとする「関の山」から香春三岳を望む。左から香春三ノ岳、二ノ岳、
一ノ岳である。一ノ岳は石灰石の採掘で頂上が削られ、平らである。香春の町は
香春一ノ岳の向こう側にある。


香春町の鏡山神社の正面石段上り口の左手にある万葉歌碑

 按作(くらつくり)の村主益人(すぐりのますひと)の、
    豊前の国より京に上る時の歌一首。

   梓弓(あずさゆみ) 引き豊国(とよくに)の 鏡山

      見ず久ならば 恋(こほ)しけむかも    (巻三ー311)

 筑紫豊 訳  梓弓を引き響(とよ)める、その豊国の鏡山は、
            見ないで久しくなったなら、恋しいだろうなあ。


正面の低い丘が宮内庁管轄の勾金(まがりかね)陵墓参考地であるところの、
河内(かふち)の王(おほきみ)の墓である。
その右手通路沿いに河内王を偲ぶ手持(たもち)の女王(おほきみ)の万葉歌碑が
小さくみえる。    奥の山は香春二ノ岳で、その左に一ノ岳が続く。   


河内の王の墓の傍で、西日を透かして行く雲を映す万葉歌碑

 河内(かふち)の王(おほきみ)を、豊前の国の鏡の山に葬りし時に、
   手持(たもち)の女王(おほきみ)の作れる歌三首。(のうちの三首目)

   岩戸(いはと)破(わ)る 手力(たぢから)もがも 手弱(たよわ)き

     女(おみな)にしあれば 術(すべ)の知らなくに   (巻三ー419)

 筑紫豊 訳  御墓の石戸を打ち破る力も欲しいなあ。わたしは弱々しい
          女子のことだから、せむすべを知らないことです。      
 

河内(かふち)の王(おほきみ)の墓
河内王の墓はこことは別個に民間伝承地があるという。それは鏡山神社から北東方
500m位のところの箒原(ほうきばる)、ははき原、または王原(おほきみばる)という
ところにあるらしい。

河内の王は持統天皇三年(689年)八月に筑紫大宰帥に任ぜられ、持統天皇八年
(694年)春に任地大宰府で没したと(日本書紀)


箒原(ははき原)と思われる近辺から南西の方角に鏡山神社の小高い森を見る。
そもそもこの森が万葉に詠まれた鏡山であるのだろうか。
勿論現在は鏡山といえばこの鏡山神社のある、この小さな山を指す。
しかし人家のある集落で鏡山というのは、箒原(ははき原)の東となりである。
台状となって見えるのが香春一ノ岳


車の後ろに万葉歌碑の背面が黒く写っている。


箒原(ははき原)近辺に建てられた河内王を偲ぶ手持(たもち)の
女王(おほきみ)の万葉歌碑
 
 河内(かふち)の王(おほきみ)を、豊前の国の鏡の山に葬りし時に、
   手持(たもち)の女王(おほきみ)の作れる歌三首。(のうちの一首目)

   大王(おおきみ)の 親魄(むつたま)合へや 豊国(とよくに)の

         鏡の山を 宮と定むる     (巻三ー417)

 筑紫 豊 訳  河内の王の御心にかなってか、豊国の鏡の山を御墓と
           お定めになることです。


鏡山神社のある鏡山が西日を受けて耀く


大王(おおきみ)の 親魄(むつたま)合へや 豊国(とよくに)の
鏡の山を 宮と定むる(巻三ー417)の歌碑から鏡山の隣りにある河内の王
の墓方向を望む。万葉歌碑はこの王墓の方を向いて建っている。


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