牡丹の花が咲いた。原産地は中国で、6世紀には観賞用の栽培が始まり、「花王」「富貴花」と称されているという。日本に渡来した当初は薬草として利用されたが、その美しさは古く清少納言の「枕草子」でも称えられています。
枕草子138段(前半部抜粋)
[古文・原文]
138段
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来(いでき)、騒がしうなりて、宮もまゐらせ給はず、小二条殿(こにじょうどの)といふ所におはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里に居たり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほ、え絶えてあるまじかりける。
右中将(うちゅうじょう)おはして、物語し給ふ。「今日、宮にまゐりたりつれば、いみじう、物こそあはれなりつれ。女房の装束、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、折にあひ、たゆまで侍ふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいと茂きを、『などか。かき払はせてこそ』と言ひつれば、『ことさら露置かせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にて答へ(いらえ)つるが、をかしうもおぼえつるかな。(女房)『御里居(おんさとい)、いと心憂し。かかる所に住ませ給はむほどは、いみじき事ありとも、必ず侍ふべき物に思し召されたるに、甲斐なく』と、あまた言ひつる。語り聞かせ奉れ、となめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対(たい)の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」など、のたまふ。(清少納言)「いさ、人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえ侍りしかば」と、答へ聞ゆ。(右中将)「おいらかにも」とて、笑ひ給ふ。
枕草子138段(前半部抜粋)
現代語訳]
138段
殿(藤原道隆)がお亡くなりになって後、世の中に変化が起こってきて、情勢が騒がしくなり、中宮様も参内なさらず、小二条殿という所にいらっしゃる頃、私(清少納言)はどうという理由もないが、面白くない気分だったので、長く里に下がっていた。中宮様の周辺が落ち着かない心配な状態だったので、やはり、そのまま里にばかり引き下がってはいられなかった。
右中将がいらっしゃって、色々と雑談をされた。「今日、中宮の御所に参ったところ、とても寂しくされている悲しい様子でした。女房の衣裳も、裳や唐衣が季節に合っていて、きちんとした身なりで中宮にお仕えしていました。御簾の脇の開いているところから覗き見をすると、8~9人ほど、朽葉の唐衣、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、色とりどりの綺麗な衣裳で並んで侍っていました。お庭の草がとても生い茂っているので、『どうしてこんなままにしているのですか。お刈り取りになられれば良いのに』と言うと、『わざと草に露を置かせて御覧になりたいと(中宮様がおっしゃっておられますので)』と、宰相の君の声で答えたのが、風情があるなと思われました。『あなたが里に下がっておられることが、とても悩ましいのです。このような所に住まなければならなくなる時には、どんなに大変なことがあっても、必ずあなたが側に仕えてくれるものと中宮様はお思いになられていたのに、その甲斐もありません』と大勢の女房たちが言いました。私からあなたにこういったことを語って聴かせて欲しいと、中宮様はお思いだったのでしょう。参って中宮様を御覧になられて下さい。しみじみとした物さみしい御所の様子ですよ。対の前に植えられていた牡丹などの風情のあること」などとおっしゃる。(清少納言)「さあ、どうしましょう。皆さんが私のことを憎たらしいと思っているので、また私のほうもあなた方を憎く思ってしまいましたので」とお答えして言った。右中将が「よくも言えたものだ」とお笑いになられる。
牡丹(ぼたん) ぼうたん
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨
牡丹(ぼたん) ぼうたん
ぼうたんのいのちのきはとみゆるなり 日野草城