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福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2016.5.22(日) 一年前の投稿を振り返る

2016-05-23 | 万葉紀行

一年前の投稿を振り返ってみた。卯の花が咲いていたのだ。今年もいま咲いている。

 
2015.5.17(日) 卯の花が咲く
卯の花(うのはな)が咲いている。文部省唱歌「夏は来ぬ」(佐々木信綱作詞)においても「卯の花のにおう垣根に、時鳥早もきなきて」と歌われている。卯の花(うのはな)  花空木(は...
 

 


2016.5.7(土) 二年前の投稿を振り返る

2016-05-09 | 万葉紀行

二年前の投稿を振り返ってみた。

 
2015.5.7(木) 一年前の投稿を振り返る(都府楼址)
 2014.4.1(火) 太宰府の都府楼址に桜を見る太宰府の都府楼址の北側に花見をした。大野山の南面の麓である。  都府楼址の北側の桜  前の写真のすぐ裏...
 

 


2015.9.19(土) 白い花の曼珠沙華が咲く

2015-09-25 | 万葉紀行

白い花の曼珠沙華が咲いている。万葉集には「壹師(いちし)の花」を詠んだ歌が唯一首あるが、この「壹師(いちし)の花」は「曼珠沙華」であるという説が有力である。しかも「壹師(いちし)の花」は白い花を咲かせる白い曼珠沙華(彼岸花)であろうというのが最有力となってきたと思う。

白い花を咲かせる曼珠沙華  白彼岸花(シロヒガンバナ)

路(みち)の辺の壱師(いちし)の花のいちしろく
      人皆知りぬわが恋妻を
                     柿本人麻呂(万葉集巻11-2480)

大意:道のほとりのイチシの花のようにはっきりと、人は皆知って
    しまった。私の恋しい妻を。
  (日本古典文学大系6 岩波書店)

イチシ:諸説がある。羊蹄(ぎしぎし)(タデ科の草木。淡緑の穂
     状の花が四、五月ごろ咲く)、
     クサイチゴ(バラ科の宿根草。初夏に白い目立つ花が咲く)、
     エゴノキ(エゴノキ科の落葉喬木。純白の五弁の合弁花が
     初夏のころ咲く。長い柄があり、総状に垂れ、目につく花)
     など。
                 (日本古典文学大系6 岩波書店)

イチシ(壱師)の花は、この外にも「イタドリ」や「赤い
     ヒガンバナ」を当てることがあり、定説がない。

僕はこれを「白いヒガンバナ(白曼珠沙華)」に当てたい。
     素人考えであるが、「壱師(いちし)の花いちしろく」を
     そのまま読めばいいのではなかろうかとも思うのだ。

     曼珠沙華が日本に渡来した時期は不明だが有史以前の
     ようだ。
     この花を表す方言、異名數多く、「日本植物方言集」には
     400ほどの方言が記録されているという。


藪蘭(ヤブラン)の花が咲く

2015-09-16 | 万葉紀行

藪蘭(ヤブラン)はユリ科の多年草で学名はリリオベというそうだ。藪蘭(ヤブラン)の古名を山菅(やますが、やますげ)というそうだ。万葉集には菅(すが、すげ)あるいは山菅(やますが、やますげ)を詠んだ歌が14首あるという。

藪蘭(ヤブラン)  山菅(やますが、やますげ)

  咲く花は移ろふ時ありあしひきの

     山菅(やますが)の根し長くはありけり     万葉集巻20-4484

       右の〈上の)一首は、大伴宿祢家持、物色の変化を悲しびあはれびて作れり

日本古典文学大系7(岩波)万葉集の大意と解説

    大意:美しく咲く花は一時のもので散り過ぎて行く時がある。目に見えない山菅の根こそ長く保つものであるのだと思う。

   解説:政変の企てに参画しなかった家持の心境を植物の変化に託した歌であろう。

万葉集の最終的な編者といわれる中納言・大伴家持は延暦4年8月28日(785.10.15)に亡くなったといわれている。その翌月、すなわち桓武天皇の長岡遷都の翌年にあたる延暦4年9月22日の夜陰に、長岡京建設の総責任者というべき造長岡宮使・藤原種継が矢を射かけられ、その翌日に死去した。藤原種継暗殺事件は桓武天皇の命を受けて、犯人がただちに検挙された。暗殺犯十数名の中に大伴竹良、大伴継人ら大伴家の者がいたため、ひと月前に亡くなっていた前の中納言・大伴家持が主犯とされた。家持は官籍除名されたうえ、遺体の埋葬も許されなかったという。藤原氏にとっては一族の長であった家持を犯罪者にすることで、政権の中枢部から大伴一族を一掃したことになった。

藤原種継暗殺事件はその後、桓武天皇の実弟・皇太弟(皇太子)・早良親王廃太子事件で、早良親王の憤死へと続き、平安遷都へとつながって行くのだ。

水引の花

  さかりとて寂かに照るや水引草     渡辺 水巴


万葉集に詠まれた花 合歓の花

2015-07-16 | 万葉紀行

合歓(ねむ)は古名を「ねぶ」といい、昼間は開いていた葉が、夜になるとしぼんで、羽のような葉を閉じ合わせて眠ったように見えることから、「合歓」の名がついたといわれる。「ねむ」の字に当てられた「合歓」は、男女が共寝することを意味するという。

合歓(ねむ)の花  ねぶの花  合昏(ごうこん)  ねむり木

    紀郎女(きのいらつめ)の大伴宿祢家持に贈る歌二首(の内の一首)

  昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花

     君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ   紀郎女 万葉集巻8-1461

  訳:合歓の花は午後から夕方にかけて咲き夜は閉じてしまう。その花のように、昼ははなやかに咲き夜はひっそりと恋にこがれて寝るわたしーご主人さまであるわたしだけこんな目にあっていいんでしょうか。あなただって同じ目をみなさい。(「恋ひ寝る」は共寝の意ではなく、一緒でないから一人で「恋ひ寝る」のだという)

    大伴家持の送り和(こた)ふる歌二首(の内の一首)

  吾妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに

     咲きてけだしく実にならじかも     大伴家持 万葉集巻8-1463

  訳:あなたからもらった合歓木(ねぶ)は花が咲くばかりで、実にはならないかもしれません。(上に述べた、紀郎女と大伴家持の相聞歌が詠まれたころ、紀郎女は若くとも三十代後半で、大伴家持は二十代前半だったと思われます。若い家持は、年齢など意に介さないけれども、この恋心は成就しないのではないか、いや、必ず成就したいと答えているのだ。)

合歓(ねむ)の花  ねぶの花  合昏(ごうこん)  ねむり木

  象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花     芭蕉

西施は紀元前5世紀の中国春秋時代の越の美女である。呉との戦いに敗れた越王が降伏の証として差し出したのが西施だという。その美貌に心を奪われた呉王はついに国を傾けたという。「傾国の美女」、「傾城」の言葉をうんだと。

この句は雨に濡れる象潟の、ねむの木の花と西施の美しさを想い描いた夢のような景色を詠んでいるんだろうけれど、私としてはもっともっとロマンチックな想いを込めたものと思いたい。

 


2015.6.12(金) 紫陽花 あじさい 味狭藍

2015-06-24 | 万葉紀行

万葉集には4516首が集録されているが、紫陽花(あじさい)を詠んだ歌はわずかに2首のみであるという。万葉集では約1500首が何らかの植物を詠んでおり、170種を超える植物が登場すると云われている。最高歌数は萩の137首、次いで梅の119首であり、桜は42首という。これに対して紫陽花(あじさい)を詠んだ歌はわずかに2首である。

万葉の時代(5世紀前半から8世紀半ばまで)に、何故に紫陽花はこんなにも人気がないのか?紫陽花は七変化とも称されるように、開花してから花の色が変わっていくので、心変わりとかあるいは不道徳であると考えられたからだという説もあるそうだ。

紫陽花 あじさい 味狭藍

    大伴宿祢家持、久邇京より坂上大嬢に贈る歌五首・・・(の内の一首)

  言問(ことと)はぬ木すら紫陽花(あじさい)諸茅等(もろちら)が

    練(ねり)の村戸(むらと)にあざむかえけり  万葉集巻4-773 大伴家持

(大意)物を言わない木でさえ、色の変わりやすい紫陽花や諸茅などの、一筋縄で行かない心にあざむかれたということです。(まして人間である私は、変わりやすいあなたの心にあざむかれて、とまどいすることです。)・・岩波 日本古典文学大系 万葉集一

紫陽花 あじさい 味狭藍

    (右の一首は、)左大臣、味狭藍(あじさい)の花に寄せて詠めり。

  紫陽花(あじさい)の八重咲く如く弥(や)つ代にを

    いませわが背子見つつ偲(しの)はむ   万葉集巻20-4448 橘諸兄

(大意)紫陽花の八重に咲くように、幾重にも栄えておいで下さい。わが君よ。私はその立派さを仰いで讃嘆いたしましょう。・・岩波 日本古典文学大系 万葉集四

紫陽花を詠んだ万葉集の二首は、いずれも心変わりを詠んだものと思われる。

大伴家持の歌はずばり心変わりを読んでいる。

左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の歌は、大弁・丹比国人真人(たじひのくにひとのまひと)の宅に宴したときの歌で、橘諸兄が女性の立場で丹比国人真人を想っているという祝い歌である。この歌が詠まれた数か月後に橘諸兄は聖武天皇を誹謗したとして讒言され、これがもとで左大臣の職を辞したというのだ。であるならば、この歌は紫陽花を詠みこんだ心変わりの歌ということになろう。

また、万葉の時代の人達は紫陽花が食中毒を起こす有害植物であることを充分承知していたに違いない。そういえば紫陽花が虫に食われているのを見たことがない。万葉の時代の人達の感覚では紫陽花は心変わりして毒があるとして、歌に詠うには避けるべき植物であったのではないか。

紫陽花を詠んだ歌は万葉集に大伴家持と橘諸兄の二首があるが、平安時代には殆ど見えなくなる。源氏物語や枕草子にも見えないし、古今集から新古今集までの八代集にも紫陽花を詠んだ歌は一首もないという。      

 


2015.5.7(木) 一年前の投稿を振り返る(都府楼址)

2015-05-07 | 万葉紀行
 
2014.4.1(火) 太宰府の都府楼址に桜を見る
太宰府の都府楼址の北側に花見をした。大野山の南面の麓である。  都府楼址の北側の桜  前の写真のすぐ裏側である大野山の麓にある万葉歌碑  万葉集巻五の巻頭を飾る大伴旅人...
 

 


2014.4.1(火) 太宰府の都府楼址に桜を見る

2014-05-06 | 万葉紀行
太宰府の都府楼址の北側に花見をした。大野山の南面の麓である。

IMG_3885-1.jpg  都府楼址の北側の桜

IMG_3882-1.jpg  前の写真のすぐ裏側である大野山の麓にある万葉歌碑

IMG_3880-1.jpg  万葉集巻五の巻頭を飾る大伴旅人の万葉歌碑

  世の中は空しきものと知る時し

     いよよますます悲しかりけり    

   大伴旅人 万葉集巻五-793

IMG_3881-1.jpg  大伴旅人の万葉歌碑の説明プレート 

IMG_3879-1.jpg  大伴旅人の万葉歌碑  万葉集巻五・雑歌の巻頭を飾る大伴旅人の歌が刻まれている

雑歌

大宰帥大伴卿の、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首


     世の中は空しきものと知る時し

        いよよますます悲しかりけり  

         (大伴旅人 万葉集巻五-793)

          神亀五年(728)六月二十三日

大宰府の帥(そち)(長官)として大伴旅人が赴任したのは、728(神亀五)年の冬一、二月ごろという。そのとき帯同した妻の大伴の郎女(いらつめ)は、大宰府到着後まもなく病死したという。
この歌は大宰府に赴任し、まもなく妻を失った悲しみがうたわれているという。

IMG_3875-1.jpg  枝垂れ桜の万葉歌碑の前で

   
  
  


2013.2.16(土) 梅の花が満開

2013-03-18 | 万葉紀行
梅の花の歌で先ず思い浮かぶのは、万葉集に載せられている大宰府の帥・大伴旅人邸で開かれた梅花の宴で詠まれた梅花の歌三十二首のことである。

2013_02_23 002a 梅   実梅「豊後」

大伴旅人は神亀五年(726)春以来、大宰の帥として府務をとり、妻を失い、瘡(そう)を病んで生命の危機におののき、酒によって憂いをまぎらしていたという。その大伴旅人が天平二年(730)正月十三日、自邸において、府官および管下諸国の国史から、沙弥満誓(さみまんせい)までを招き、盛大な梅花の宴をもよおした。それが万葉集巻五ー815~846に「梅花の歌三十二首」と題して集録されている。

  わが園に梅の花散るひさかたの
     天(あめ)より雪の流れ来るかも    主人(大伴旅人)
                             巻五ー822

  青柳(あおやなぎ)梅との花を折りかざし
     飲みての後は散りぬともよし      笠沙弥(沙弥満誓)
                             巻五ー821

注。沙弥満誓(さみまんせい) 
    俗名は笠朝臣麿。慶雲元年(704)従五位下。美濃・尾張の守、按察使を経て、養老四年右大弁。その間、守としての政績と木曽路を通じた功とにより、再度賞を受け、養老の泉への元正天皇行幸の際、従四位上を授かった。養老五年元正太上天皇の御病気平癒を願って出家、七年(723)観世音寺を造るための長官として九州に遣わされた。大伴旅人と歌の交わりがあった。 (岩波日本古典文学大系の注釈による。)


2012.12.29(金) 太宰府天満宮に句碑、歌碑を訪ねる

2013-01-28 | 万葉紀行
太宰府天満宮に漱石の句碑、道真の歌碑、それに万葉歌碑を訪ねた。

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西鉄太宰府駅前から太宰府天満宮参道を望む

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西鉄太宰府駅前の灯明台の一面を飾る夏目漱石の句碑

   反橋(そりばし)の小さく見ゆる芙蓉かな      夏目漱石

この句の句稿は前書きつきで次のようになっているとのこと。

   太宰府天神   反橋の小さく見ゆる芙蓉哉

夏目漱石は妻鏡子と二人で明治29年9月の初めに1週間九州地方を汽車旅行したという。明治29年6月9日、漱石は熊本市光琳寺町の自宅で中根鏡子と結婚式を挙げている。

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太宰府天満宮の心字池に架かる太鼓橋(反橋・・そりばし)の第一橋

漱石が詠んだ「反橋の小さく見ゆる芙蓉かな」の反橋は、太宰府天満宮境内の心字池に架かる三連の太鼓橋で、本殿への参拝路となっている。三連といったが実際は第一橋は反橋(太鼓橋)、第二橋は平橋(平らな橋)、第三橋は反橋(太鼓橋)と成っている。太宰府天満宮は鳥居をくぐって境内に入る前に、左手斜めの方向に第一橋と第三橋の反橋を見ることができるのだが、普段は気付かない。第一橋は近く第三橋は遠くにあるので、二つの反橋のうち第三橋の反橋の方が小さく見える。よって、漱石が「小さく見ゆる」と詠んだ「反橋」はどちらかというと、二つ目の反橋(第三橋)の方が相応しいとする論考がある。

そこはかとなく艶っぽくて気品漂う淡紅色の芙蓉の花越しに太宰府天満宮の太鼓橋が望まれる。華やかな風景の先には太宰府天神のお社があるのだ。

ここのところ、ずっと長い間、芙蓉の花木を見つけることができない。

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太宰府天満宮参道   突き当りの三の鳥居をくぐった境内の右手に東風吹かばの歌碑がある

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東風吹かばの歌碑

  東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅(むめ)の花
       あるじなしとて春な忘れそ      菅原道真

福岡県瀬高町出身の書家・助弘桂雪の書 昭和23年(1948)建立

結句が「春な忘れそ」であるこの歌は十訓抄(1252年頃成立)や太平記(1370年頃成立)に出てくるという。拾遺和歌集(1005年頃成立)と大鏡(1080年頃成立)では結句を「春を忘るな」としているようだ。
道真は901年(昌泰四年)2月1日に京都を出発し流罪の地、筑紫大宰府に下ったという。

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太宰府天満宮楼門から本殿を拝す

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太宰府天満宮内庭から楼門を見る

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太宰府天満宮本殿

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太宰府天満宮 飛梅 左近の梅 (右近の橘、左近の梅)

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太宰府天満宮の菖蒲池越しに左右を梅林に彩られている万葉歌碑を見る 背景には宝物館と文書館がある

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万葉集梅花の宴の梅花の歌三十二首のうちの一首・筑前介佐氏子首(こびと)の万葉歌碑

  萬代(よろずよ)に年は来経(きふ)とも梅の花
      絶ゆることなく咲き渡るべし     筑前介佐氏子首
             万葉集巻五-830

  筑前介(ちくぜんのすけ):介は国司の二等官。令制では大国と上国とにおかれた。大国では正六位下、上国では従六位上相当。筑前は上国。当時筑前介は山上憶良のすぐ下の役だったわけである。佐氏(さし):佐伯氏か。子首(こびと):伝未詳。

天平二年(730)正月十三日、大宰の帥・大伴旅人は自邸において、府官および管下諸国の国吏等をまねき、盛大な梅の花の宴を催した。その折の人々が詠んだ歌が梅花の歌三十二首と題されて万葉集に収録されている。


2012.9.26(水) 名残りの曼珠沙華と白曼珠沙華

2012-09-26 | 万葉紀行
ヒガンバナ科の多年草。「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」の名は法華経の摩訶曼陀羅華曼珠沙華(まかまんだらげまんじゅしゃげ)から出たともいわれ、梵語で赤い花の意という。

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曼珠沙華(まんじゅしゃげ)  手前の赤い穂状の花はコッキネア(サルビアの一種)

 曼珠沙華群れて日暮れを拒み居り  高橋 治

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白曼珠沙華(しろまんじゅしゃげ) 手前の赤紫の花はオシロイバナ

   路(みち)の辺の壱師(いちし)の花いちしろく
      人皆知りぬわが恋妻を
                     柿本人麻呂(万葉集巻11-2480)

 大意:道のほとりのイチシの花のようにはっきりと、人は皆知って
    しまった。私の恋しい妻を。
  (日本古典文学大系6 岩波書店)

 イチシ:諸説がある。羊蹄(ぎしぎし)(タデ科の草木。淡緑の穂
     状の花が四、五月ごろ咲く)、
     クサイチゴ(バラ科の宿根草。初夏に白い目立つ花が咲く)、
     エゴノキ(エゴノキ科の落葉喬木。純白の五弁の合弁花が
     初夏のころ咲く。長い柄があり、総状に垂れ、目につく花)
     など。
                 (日本古典文学大系6 岩波書店)

     イチシ(壱師)の花は、この外にも「イタドリ」や「赤い
     ヒガンバナ」を当てることがあり、定説がない。

     僕はこれを「白いヒガンバナ(白曼珠沙華)」に当てたい。
     素人考えであるが、「壱師(いちし)の花いちしろく」を
     そのまま読めばいいのではなかろうかとも思うのだ。

     曼珠沙華が日本に渡来した時期は不明だが有史以前の
     ようだ。
     この花を表す方言、異名數多く、「日本植物方言集」には
     400ほどの方言が記録されているという。