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梶井基次郎  蒼穹 2600字

2008-07-01 22:01:44 | 17 ◎調べもの文芸文庫
蒼穹
梶井基次郎


 ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨(おお)きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳(いんえい)を持っていた。そしてその尨大(ぼうだい)な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠(ぼうばく)とした悲哀をその雲に感じさせた。
 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁(へり)に当っていた。山と溪(たに)とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかった。風景は絶えず重力の法則に脅かされていた。そのうえ光と影の移り変わりは溪間にいる人に始終慌(あわただ)しい感情を与えていた。そうした村のなかでは、溪間からは高く一日日の当るこの平地の眺めほど心を休めるものはなかった。私にとってはその終日日に倦(あ)いた眺めが悲しいまでノスタルジックだった。Lotus-eater の住んでいるといういつも午後ばかりの国――それが私には想像された。
 雲はその平地の向うの果である雑木山の上に横(よこ)たわっていた。雑木山では絶えず杜鵑(ほととぎす)が鳴いていた。その麓(ふもと)に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶(ものう)さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。
 私は眼を溪(たに)の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙(さんい)からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子(くさび)のように立っている山と、前方を屏風(びょうぶ)のように塞(ふさ)いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣(ひとえ)のような山褶(やまひだ)が交互に重なっていた。そしてその涯(はて)には一本の巨大な枯木をその巓(いただき)に持っている、そしてそのためにことさら感情を高めて見える一つの山が聳(そび)えていた。日は毎日二つの溪を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの溪を渡ったばかりで、溪と溪との間に立っている山のこちら側が死のような影に安らっているのがことさら眼立っていた。三月の半ば頃私はよく山を蔽(おお)った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯(ガス)体のような若芽に煙っていた欅(けやき)や楢(なら)の緑にももう初夏らしい落ちつきがあった。闌(た)けた若葉がおのおの影を持ち瓦斯体のような夢はもうなかった。ただ溪間にむくむくと茂っている椎(しい)の樹が何回目かの発芽で黄な粉をまぶしたようになっていた。
 そんな風景のうえを遊んでいた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲が絶えず湧いて来るのを見たとき、不知不識(しらずしらず)そのなかへ吸い込まれて行った。湧き出て来る雲は見る見る日に輝いた巨大な姿を空のなかへ拡げるのであった。
 それは一方からの尽きない生成とともにゆっくり旋回していた。また一方では捲きあがって行った縁(へり)が絶えず青空のなかへ消え込むのだった。こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情を喚(よ)び起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺(おぼ)れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂(たか)まって来る。その感情は喉(のど)を詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。――
 私の眼はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情のなかへ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなりの距(へだた)りを持ったところにあったことであった。そこへ来てはじめて薄(うっす)り見えはじめる。それから見る見る巨(おお)きな姿をあらわす。――
 私は空のなかに見えない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持に捕えられた。そのとき私の心をふとかすめたものがあった。それはこの村でのある闇夜の経験であった。
 その夜私は提灯(ちょうちん)も持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈(ひ)がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈(ひ)が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝(じ)っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処(どこ)』というもののない闇に微かな戦慄(せんりつ)を感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――
 その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬(みさき)のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色(あいいろ)に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。


梶井基次郎  蒼穹(2830字)

2008-07-01 21:59:34 | 17 ◎調べもの文芸文庫
蒼穹
梶井基次郎



 ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨(おお)きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳(いんえい)を持っていた。そしてその尨大(ぼうだい)な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠(ぼうばく)とした悲哀をその雲に感じさせた。
 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁(へり)に当っていた。山と溪(たに)とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかった。風景は絶えず重力の法則に脅かされていた。そのうえ光と影の移り変わりは溪間にいる人に始終慌(あわただ)しい感情を与えていた。そうした村のなかでは、溪間からは高く一日日の当るこの平地の眺めほど心を休めるものはなかった。私にとってはその終日日に倦(あ)いた眺めが悲しいまでノスタルジックだった。Lotus-eater の住んでいるといういつも午後ばかりの国――それが私には想像された。
 雲はその平地の向うの果である雑木山の上に横(よこ)たわっていた。雑木山では絶えず杜鵑(ほととぎす)が鳴いていた。その麓(ふもと)に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶(ものう)さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。
 私は眼を溪(たに)の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙(さんい)からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子(くさび)のように立っている山と、前方を屏風(びょうぶ)のように塞(ふさ)いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣(ひとえ)のような山褶(やまひだ)が交互に重なっていた。そしてその涯(はて)には一本の巨大な枯木をその巓(いただき)に持っている、そしてそのためにことさら感情を高めて見える一つの山が聳(そび)えていた。日は毎日二つの溪を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの溪を渡ったばかりで、溪と溪との間に立っている山のこちら側が死のような影に安らっているのがことさら眼立っていた。三月の半ば頃私はよく山を蔽(おお)った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯(ガス)体のような若芽に煙っていた欅(けやき)や楢(なら)の緑にももう初夏らしい落ちつきがあった。闌(た)けた若葉がおのおの影を持ち瓦斯体のような夢はもうなかった。ただ溪間にむくむくと茂っている椎(しい)の樹が何回目かの発芽で黄な粉をまぶしたようになっていた。
 そんな風景のうえを遊んでいた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲が絶えず湧いて来るのを見たとき、不知不識(しらずしらず)そのなかへ吸い込まれて行った。湧き出て来る雲は見る見る日に輝いた巨大な姿を空のなかへ拡げるのであった。
 それは一方からの尽きない生成とともにゆっくり旋回していた。また一方では捲きあがって行った縁(へり)が絶えず青空のなかへ消え込むのだった。こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情を喚(よ)び起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺(おぼ)れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂(たか)まって来る。その感情は喉(のど)を詰らせるようになって来、身体からは平衝の感じがだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。――
 私の眼はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情のなかへ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなりの距(へだた)りを持ったところにあったことであった。そこへ来てはじめて薄(うっす)り見えはじめる。それから見る見る巨(おお)きな姿をあらわす。――
 私は空のなかに見えない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持に捕えられた。そのとき私の心をふとかすめたものがあった。それはこの村でのある闇夜の経験であった。
 その夜私は提灯(ちょうちん)も持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈(ひ)がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈(ひ)が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝(じ)っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処(どこ)』というもののない闇に微かな戦慄(せんりつ)を感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――
 その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬(みさき)のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色(あいいろ)に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。





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底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月20日公開
2005年10月5日修正
青空文庫作成ファイル:

宮沢賢治〔冒頭原稿数枚なし〕若い木霊(4200字)

2008-07-01 21:53:26 | 17 ◎調べもの文芸文庫
若い木霊
宮沢賢治



〔冒頭原稿数枚なし〕
「ふん。こいつらがざわざわざわざわ云(い)っていたのは、ほんの昨日のようだったがなあ。大抵(たいてい)雪に潰(つぶ)されてしまったんだな。」
 それから若い木霊(こだま)は、明るい枯草(かれくさ)の丘(おか)の間を歩いて行きました。
 丘の窪(くぼ)みや皺(しわ)に、一きれ二きれの消え残りの雪が、まっしろにかがやいて居(お)ります。
 木霊はそらを見ました。そのすきとおるまっさおの空で、かすかにかすかにふるえているものがありました。
「ふん。日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもないな。何かこう小さなすきとおる蜂(すがる)のようなやつかな。ひばりの声のようなもんかな。いや、そうでもないぞ。おかしいな。おれの胸までどきどき云いやがる。ふん。」
 若い木霊はずんずん草をわたって行きました。
 丘のかげに六本の柏(かしわ)の木が立っていました。風が来ましたのでその去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました。
 若い木霊はそっちへ行って高く叫(さけ)びました。
「おおい。まだねてるのかい。もう春だぞ、出て来いよ。おい。ねぼうだなあ、おおい。」
 風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサッとも云いませんでした。若い木霊はその幹に一本ずつすきとおる大きな耳をつけて木の中の音を聞きましたがどの樹(き)もしんとして居りました。そこで
「えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置こう。」と云いながら柏の木の下の枯れた草穂(くさぼ)をつかんで四つだけ結び合いました。
 そして又(また)ふらふらと歩き出しました。丘はだんだん下って行って小さな窪地になりました。そこはまっ黒な土があたたかにしめり湯気はふくふく春のよろこびを吐(は)いていました。
 一疋(ぴき)の蟇(ひきがえる)がそこをのそのそ這(は)って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。
 それは早くもその蟇の語(ことば)を聞いたからです。
「鴾(とき)の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧(あお)くはないんだ。
 桃色(ももいろ)のペラペラの寒天でできているんだ。いい天気だ。
 ぽかぽかするなあ。」
 若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えているように熱くはあはあするのでした。木霊はそっと窪地をはなれました。次の丘には栗(くり)の木があちこちかがやくやどり木のまりをつけて立っていました。
 そのまりはとんぼのはねのような小さな黄色の葉から出来ていました。その葉はみんな遠くの青いそらに飛んで行きたそうでした。
 若い木霊はそっちに寄って叫びました。
「おいおい、栗の木、まだ睡(ねむ)ってるのか。もう春だぞ。おい、起きないか。」
 栗の木は黙(だま)ってつめたく立っていました。若い木霊はその幹にすきとおる大きな耳をあててみましたが中はしんと何の音も聞こえませんでした。
 若い木霊はそこで一寸(ちょっと)意地悪く笑って青ぞらの下の栗の木の梢(こずえ)を仰(あお)いで黄金(きん)色のやどり木に云いました。
「おい。この栗の木は貴様らのおかげでもう死んでしまったようだよ。」
 やどり木はきれいにかがやいて笑って云いました。
「そんなこと云っておどそうたって駄目(だめ)ですよ。睡ってるんですよ。僕(ぼく)下りて行ってあなたと一緒(いっしょ)に歩きましょうか。」
「ふん。お前のような小さなやつがおれについて歩けると思うのかい。ふん。さよならっ。」
 やどり木は黄金色のべそをかいて青いそらをまぶしそうに見ながら「さよなら。」と答えました。
 若い木霊は思わず「アハアハハハ」とわらいました。その声はあおぞらの滑(なめ)らかな石までひびいて行きましたが又それが波になって戻(もど)って来たとき木霊はドキッとしていきなり堅(かた)く胸を押(おさ)えました。
 そしてふらふら次の窪地にやって参りました。
 その窪地はふくふくした苔(こけ)に覆(おお)われ、所々やさしいかたくりの花が咲いていました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却(かえ)ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せわしくあらわれては又消えて行く紫色(むらさきいろ)のあやしい文字を読みました。
「はるだ、はるだ、はるの日がきた、」字は一つずつ生きて息をついて、消えてはあらわれ、あらわれては又消えました。
「そらでも、つちでも、くさのうえでもいちめんいちめん、ももいろの火がもえている。」
 若い木霊ははげしく鳴る胸を弾(はじ)けさせまいと堅く堅く押えながら急いで又歩き出しました。
 右の方の象の頭のかたちをした灌木(かんぼく)の丘からだらだら下りになった低いところを一寸越(こ)しますと、又窪地がありました。
 木霊はまっすぐに降りて行きました。太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向うにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いていました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙(かえる)のことばの鴾の火のようにひかってゆらいで見えたからです。桜草はその靭(しな)やかな緑色の軸(じく)をしずかにゆすりながらひとの聞いているのも知らないで斯(こ)うひとりごとを云っていました。
「お日さんは丘の髪毛(かみけ)の向うの方へ沈(しず)んで行ってまたのぼる。
 そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった。
 さあ、鴾の火になってしまった。」
 若い木霊は胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出しましたのでびっくりして誰(たれ)かに聞かれまいかとあたりを見まわしました。その息は鍛冶場(かじば)のふいごのよう、そしてあんまり熱くて吐いても吐いても吐き切れないのでした。
 その時向うの丘の上を一疋(ぴき)のとりがお日さまの光をさえぎって飛んで行きました。そして一寸からだをひるがえしましたのではねうらが桃色にひらめいて或(ある)いはほんとうの火がそこに燃えているのかと思われました。若い木霊の胸は酒精(アルコール)で一ぱいのようになりました。そして高く叫びました。
「お前は鴾という鳥かい。」
 鳥は
「そうさ、おれは鴾だよ。」といいながら丘の向うへかくれて見えなくなりました。若い木霊はまっしぐらに丘をかけのぼって鳥のあとを追いました。丘の頂上に立って見るとお日さまは山にはいるまでまだまだ間がありました。鳥は丘のはざまの蘆(あし)の中に落ちて行きました。若い木霊は風よりも速く丘をかけおりて蘆むらのまわりをぐるぐるまわって叫びました。
「おおい。鴾。お前、鴾の火というものを持ってるかい。持ってるなら少しおらに分けて呉(く)れないか。」
「ああ、やろう。しかし今、ここには持っていないよ。ついてお出(い)で。」
 鳥は蘆の中から飛び出して南の方へ飛んで行きました。若い木霊はそれを追いました。あちこち桜草の花がちらばっていました。そして鳥は向うの碧いそらをめがけてまるで矢のように飛びそれから急に石ころのように落ちました。そこには桜草がいちめん咲いてその中から桃色のかげろうのような火がゆらゆらゆらゆら燃えてのぼって居りました。そのほのおはすきとおってあかるくほんとうに呑(の)みたいくらいでした。
 若い木霊はしばらくそのまわりをぐるぐる走っていましたがとうとう
「ホウ、行くぞ。」と叫んでそのほのおの中に飛び込(こ)みました。
 そして思わず眼(め)をこすりました。そこは全くさっき蟇(ひきがえる)がつぶやいたような景色でした。ペラペラの桃色の寒天で空が張られまっ青な柔(やわ)らかな草がいちめんでその処々(ところどころ)にあやしい赤や白のぶちぶちの大きな花が咲いていました。その向うは暗い木立で怒鳴(どな)りや叫びががやがや聞えて参ります。その黒い木をこの若い木霊は見たことも聞いたこともありませんでした。木霊はどきどきする胸を押えてそこらを見まわしましたが鳥はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「鴾、鴾、どこに居るんだい。火を少しお呉れ。」
「すきな位持っておいで。」と向うの暗い木立の怒鳴りの中から鴾の声がしました。
「だってどこに火があるんだよ。」木霊はあたりを見まわしながら叫びました。
「そこらにあるじゃないか。持っといで。」鴾が又答えました。
 木霊はまた桃色のそらや草の上を見ましたがなんにも火などは見えませんでした。
「鴾、鴾、おらもう帰るよ。」
「そうかい。さよなら。えい畜生(ちくしょう)。スペイドの十を見損(みそこな)っちゃった。」と鴾が黒い森のさまざまのどなりの中から云いました。
 若い木霊は帰ろうとしました。その時森の中からまっ青な顔の大きな木霊が赤い瑪瑙(めのう)のような眼玉をきょろきょろさせてだんだんこっちへやって参りました。若い木魂(こだま)は逃(に)げて逃げて逃げました。
 風のように光のように逃げました。そして丁度前の栗の木の下に来ました。お日さまはまだまだ明るくかれ草は光りました。
 栗の木の梢(こずえ)からやどり木が鋭(するど)く笑って叫びました。
「ウワーイ。鴾にだまされた。ウワーイ。鴾にだまされた。」
「何云ってるんだい。小(ぴゃ)っこ。ふん。おい、栗の木。起きろい。もう春だぞ。」
 若い木霊は顔のほてるのをごまかして栗の木の幹にそのすきとおる大きな耳をあてました。
 栗の木の幹はしいんとして何の音もありません。
「ふん、まだ、少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。おい。小(ぴゃっ)こ、さよなら。」若い木霊は大分西に行った太陽にひらりと一ぺんひらめいてそれからまっすぐに自分の木の方にかけ戻りました。
「さよなら。」とずうっとうしろで黄金(きん)色のやどり木のまりが云っていました。





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底本:「ポラーノの広場」新潮文庫、新潮社
   1995(平成7)年2月1日発行
   1997(平成9)年5月25日3刷
※「木霊」と「木魂」の混在は、底本通りです。
入力:土屋隆
校正:うてな
2005年3月17日作成
青空文庫作成ファイル:

(大正十一年七月)芥川龍之介『魚河岸』 3000字

2008-07-01 21:21:26 | 14 用語集:②人物以外
魚河岸
芥川龍之介



 去年の春の夜(よ)、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴(さ)えた夜(よる)の九時ごろ、保吉(やすきち)は三人の友だちと、魚河岸(うおがし)の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴(ろさい)、洋画家の風中(ふうちゅう)、蒔画師(まきえし)の如丹(じょたん)、――三人とも本名(ほんみょう)は明(あか)さないが、その道では知られた腕(うで)っ扱(こ)きである。殊に露柴(ろさい)は年かさでもあり、新傾向の俳人としては、夙(つと)に名を馳(は)せた男だった。
 我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸(げこ)、如丹は名代(なだい)の酒豪(しゅごう)だったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴はどうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、腥(なまぐさ)い月明りの吹かれる通りを、日本橋(にほんばし)の方へ歩いて行った。
 露柴は生(き)っ粋(すい)の江戸(えど)っ児(こ)だった。曾祖父(そうそふ)は蜀山(しょくさん)や文晁(ぶんちょう)と交遊の厚かった人である。家も河岸(かし)の丸清(まるせい)と云えば、あの界隈(かいわい)では知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷(さんや)の露路(ろじ)の奥に、句と書と篆刻(てんこく)とを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質(したまちかたぎ)よりは伝法(でんぼう)な、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪(まぐろ)の鮨(すし)と、一味相通ずる何物かがあった。………
 露柴はさも邪魔(じゃま)そうに、時々外套(がいとう)の袖をはねながら、快活に我々と話し続けた。如丹は静かに笑い笑い、話の相槌(あいづち)を打っていた。その内に我々はいつのまにか、河岸の取(とっ)つきへ来てしまった。このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が一軒、片側(かたかわ)を照らした月明りに白い暖簾(のれん)を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好(い)いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。
 店の中には客が二人、細長い卓(たく)に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰(もら)った。それから平貝(たいらがい)のフライを肴(さかな)に、ちびちび正宗(まさむね)を嘗め始めた。勿論下戸(げこ)の風中や保吉は二つと猪口(ちょく)は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々(なかなか)健啖(けんたん)だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木(しらき)だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀(よしず)だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂(あつら)えたビフテキが来ると、これは切り味(み)じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有(ありがた)かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽(とりうちぼう)を阿弥陀(あみだ)にしたまま、如丹と献酬(けんしゅう)を重ねては、不相変(あいかわらず)快活にしゃべっていた。
 するとその最中(さいちゅう)に、中折帽(なかおれぼう)をかぶった客が一人、ぬっと暖簾(のれん)をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟(えり)に肥った頬(ほお)を埋(うず)めながら、見ると云うよりは、睨(にら)むように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言(いちごん)の挨拶(あいさつ)もせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を割りこませた。保吉はライスカレエを掬(すく)いながら、嫌な奴だなと思っていた。これが泉鏡花(いずみきょうか)の小説だと、任侠(にんきょう)欣(よろこ)ぶべき芸者か何かに、退治(たいじ)られる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた。
 客は註文を通した後(のち)、横柄(おうへい)に煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、敵役(かたきやく)の寸法(すんぽう)に嵌(はま)っていた。脂(あぶら)ぎった赭(あか)ら顔は勿論、大島(おおしま)の羽織、認(みと)めになる指環(ゆびわ)、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中(あ)てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴(ろさい)へ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好(い)い加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中(あ)てられたのか、電燈の光に背(そむ)きながら、わざと鳥打帽を目深(まぶか)にしていた。
 保吉(やすきち)はやむを得ず風中(ふうちゅう)や如丹(じょたん)と、食物(くいもの)の事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥(ふと)った客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。
 客は註文のフライが来ると、正宗(まさむね)の罎(びん)を取り上げた。そうして猪口(ちょく)へつごうとした。その時誰か横合いから、「幸(こう)さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主(ぬし)を見たと思うと、たちまち当惑(とうわく)の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那(だんな)でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主(ぬし)に御時儀(おじぎ)をした。声の主は俳人の露柴(ろさい)、河岸(かし)の丸清(まるせい)の檀那だった。
「しばらくだね。」――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空(から)になると、客は隙(す)かさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目(はため)には可笑(おか)しいほど、露柴の機嫌(きげん)を窺(うかが)い出した。………
 鏡花(きょうか)の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未(いまだ)にあの通りの事件も起るのである。
 しかし洋食屋の外(そと)へ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関(かかわ)らず妙に陽気(ようき)にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履(ふ)みながら、いつかそんな事を考えていた。

(大正十一年七月)





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底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年12月28日公開
2004年3月9日修正
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夏目漱石 [艇長の遺書と中佐の詩](約2000字)

2008-07-01 12:52:57 | 17 ◎調べもの文芸文庫
艇長の遺書と中佐の詩
夏目漱石



 昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云(い)つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此(この)遺書に比して甚(はなは)だ月並(つきなみ)なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人(ごじん)の脳裏に一種痛ましい対照を印(いん)した。
 露骨に云へば中佐の詩は拙悪(せつあく)と云はんより寧(むし)ろ陳套(ちんたう)を極(きは)めたものである。吾々(われ/\)が十六七のとき文天祥(ぶんてんしやう)の正気(せいき)の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨(かうがい)家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄(できばえ)である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有(いう)してゐる以上は(又如何(いか)に高等な翫賞(くわんしやう)家でも此(この)誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉(く)れたならと思ふだらう。
 まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手(まづ)いに違ない。けれども佐久間大尉のは已(やむ)を得ずして拙(まづ)く出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈(だけ)文字を連らねるのは超凡(てうぼん)の努力を要する訳(わけ)である。従つて書かなくては済まない、遺(のこ)さなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖(いへど)も漫(みだ)りに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏(まと)はる自己広告の衒気(げんき)は殆(ほとん)ど意識に上(のぼ)る権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤(もつと)も苦しき声である。又尤(もつと)も拙(せつ)な声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑婆気(しやばけ)を離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私(わたくし)の少い声である。そこに吾人(ごじん)は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其(その)一言一句を真(まこと)の影の如く読みながら、今の世にわが欺(あざむ)かれざるを難有(ありがた)く思ふのである。さうして其(その)文の拙(せつ)なれば拙なる丈真(まこと)の反射として意を安んずるのである。
 其上(そのうへ)艇長の書いた事には嘘を吐(つ)く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等(これら)の現象に自己広告は平時と雖(いへ)ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡(すべ)ての苦悶を忍んだので、他(ひと)によく思はれるがために、徒(いたづ)らな言句(げんく)を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又其(その)報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他(ひと)の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。
 広瀬中佐の詩に至つては毫(がう)も以上の条件を具(そな)へてゐない。已(やむ)を得ずして拙(せつ)な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已(やむ)を得るにも拘(かゝ)はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真似(まね)の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。(其外(そのほか)徒然(とぜん)であつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが)中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其(その)詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼(あ)の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢(あへ)てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其(その)内容が如何(いか)にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期(さいご)を遂げた。さうして銅像迄(まで)建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影(おもかげ)がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。
 道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其(その)言辞を実現し得たるとき始めて他(た)をして其(その)誠実を肯(うけが)はしむるのが常である。余に至つては、更(さら)に懐疑の方向に一歩を進めて、其(その)言辞を実現し得たる時にすら、猶且(なほかつ)其誠実を残りなく認むる能(あた)はざるを悲しむものである。微(かす)かなる陥欠(かんけつ)は言辞詩歌の奥に潜(ひそ)むか、又はそれを実現する行為の根に絡(から)んでゐるか何方(どつち)かであらう。余は中佐の敢(あへ)てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟(さしはさ)むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁(か)するのである。



夏目漱石 艇長の遺書と中佐の詩

2008-07-01 12:48:22 | 17 ◎調べもの文芸文庫
艇長の遺書と中佐の詩
夏目漱石



 昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云(い)つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此(この)遺書に比して甚(はなは)だ月並(つきなみ)なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人(ごじん)の脳裏に一種痛ましい対照を印(いん)した。
 露骨に云へば中佐の詩は拙悪(せつあく)と云はんより寧(むし)ろ陳套(ちんたう)を極(きは)めたものである。吾々(われ/\)が十六七のとき文天祥(ぶんてんしやう)の正気(せいき)の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨(かうがい)家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄(できばえ)である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有(いう)してゐる以上は(又如何(いか)に高等な翫賞(くわんしやう)家でも此(この)誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉(く)れたならと思ふだらう。
 まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手(まづ)いに違ない。けれども佐久間大尉のは已(やむ)を得ずして拙(まづ)く出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈(だけ)文字を連らねるのは超凡(てうぼん)の努力を要する訳(わけ)である。従つて書かなくては済まない、遺(のこ)さなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖(いへど)も漫(みだ)りに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏(まと)はる自己広告の衒気(げんき)は殆(ほとん)ど意識に上(のぼ)る権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤(もつと)も苦しき声である。又尤(もつと)も拙(せつ)な声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑婆気(しやばけ)を離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私(わたくし)の少い声である。そこに吾人(ごじん)は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其(その)一言一句を真(まこと)の影の如く読みながら、今の世にわが欺(あざむ)かれざるを難有(ありがた)く思ふのである。さうして其(その)文の拙(せつ)なれば拙なる丈真(まこと)の反射として意を安んずるのである。
 其上(そのうへ)艇長の書いた事には嘘を吐(つ)く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等(これら)の現象に自己広告は平時と雖(いへ)ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡(すべ)ての苦悶を忍んだので、他(ひと)によく思はれるがために、徒(いたづ)らな言句(げんく)を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又其(その)報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他(ひと)の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。
 広瀬中佐の詩に至つては毫(がう)も以上の条件を具(そな)へてゐない。已(やむ)を得ずして拙(せつ)な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已(やむ)を得るにも拘(かゝ)はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真似(まね)の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。(其外(そのほか)徒然(とぜん)であつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが)中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其(その)詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼(あ)の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢(あへ)てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其(その)内容が如何(いか)にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期(さいご)を遂げた。さうして銅像迄(まで)建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影(おもかげ)がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。
 道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其(その)言辞を実現し得たるとき始めて他(た)をして其(その)誠実を肯(うけが)はしむるのが常である。余に至つては、更(さら)に懐疑の方向に一歩を進めて、其(その)言辞を実現し得たる時にすら、猶且(なほかつ)其誠実を残りなく認むる能(あた)はざるを悲しむものである。微(かす)かなる陥欠(かんけつ)は言辞詩歌の奥に潜(ひそ)むか、又はそれを実現する行為の根に絡(から)んでゐるか何方(どつち)かであらう。余は中佐の敢(あへ)てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟(さしはさ)むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁(か)するのである。





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底本:「漱石全集 第十六巻」岩波書店
   1995(平成7)年4月19日発行
初出:「東京朝日新聞 文芸欄」
   1910(明治43)年7月20日
※本作品で言及されている広瀬中佐(広瀬武夫:1868年-1904年(戦死))の詩とは、広瀬武夫が旅順港口閉塞作戦出発前に書き残した、次のものである。
「七生報国、一死心堅、再期成功、含笑上船」
※底本のテキストは、初出による。
※底本には、初出のルビを「適宜削除した。」旨の記述がある。
入力:砂場清隆
校正:小林繁雄
2003年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:

新美南吉  蟹のしょうばい

2008-07-01 11:47:56 | 17 ◎調べもの文芸文庫
蟹のしょうばい
新美南吉



 蟹(かに)がいろいろ考えたあげく、とこやをはじめました。蟹(かに)の考えとしてはおおできでありました。
 ところで、蟹(かに)は、
「とこやというしょうばいは、たいへんひまなものだな。」
と思いました。と申(もう)しますのは、ひとりもお客さんがこないからであります。
 そこで、蟹(かに)のとこやさんは、はさみをもって海っぱたにやっていきました。そこにはたこがひるねをしていました。
「もしもし、たこさん。」
と蟹(かに)はよびかけました。
 たこはめをさまして、
「なんだ。」
といいました。
「とこやですが、ごようはありませんか。」
「よくごらんよ。わたしの頭に毛があるかどうか。」
 蟹(かに)はたこの頭をよくみました。なるほど毛はひとすじもなく、つるんこでありました。いくら蟹(かに)がじょうずなとこやでも、毛のない頭をかることはできません。
 蟹(かに)は、そこで、山へやっていきました。山にはたぬきがひるねをしていました。
「もしもし、たぬきさん。」
 たぬきはめをさまして、
「なんだ。」
といいました。
「とこやですがごようはありませんか。」
 たぬきは、いたずらがすきなけものですから、よくないことを考えました。
「よろしい、かってもらおう。ところで、ひとつやくそくしてくれなきゃいけない。というのは、わたしのあとで、わたしのお父さんの毛もかってもらいたいのさ。」
「へい、おやすいことです。」
 そこで、蟹(かに)のうでをふるうときがきました。
 ちょっきん、ちょっきん、ちょっきん。
 ところが、蟹(かに)というものは、あまり大きなものではありません。蟹(かに)とくらべたら、たぬきはとんでもなく大きなものであります。その上たぬきというものは、からだじゅうが毛むくじゃらであります。ですから仕事はなかなかはかどりません。蟹(かに)は口から泡(あわ)をふいていっしょうけんめいはさみをつかいました。そして三日かかって、やっとのこと仕事はおわりました。
「じゃ、やくそくだから、わたしのお父さんの毛もかってくれたまえ。」
「お父さんというのは、どのくらい大きなかたですか。」
「あの山くらいあるかね。」
 蟹(かに)はめんくらいました。そんなに大きくては、とてもじぶんひとりでは、まにあわぬと思いました。
 そこで蟹(かに)は、じぶんの子どもたちをみなとこやにしました。子どもばかりか、まごもひこも、うまれてくる蟹(かに)はみなとこやにしました。
 それでわたくしたちが道ばたにみうける、ほんに小さな蟹(かに)でさえも、ちゃんとはさみをもっています。





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底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書
   1988(昭和63)年7月8日第1刷発行
底本の親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書
入力:めいこ
校正:もりみつじゅんじ
2002年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:

北原白秋  「お月さまいくつ」抜粋

2008-07-01 11:44:38 | 17 ◎調べもの文芸文庫
お月さまいくつ
北原白秋




お月(つき)さまいくつ。
十三(じふさん)七(なな)つ。
まだ年(とし)や若(わか)いな。
あの子(こ)を産(う)んで、
この子(こ)を産(う)んで、
だアれに抱(だ)かしよ。
お万(まん)に抱(だ)かしよ。
お万(まん)は何処(どこ)へ往(い)た。
油(あぶら)買(か)ひに茶(ちや)買(か)ひに。
油屋(あぶらや)の縁(えん)で、
氷(こほり)が張(は)つて、
油(あぶら)一升(しよう)こぼした。
その油(あぶら)どうした。
太郎(たろう)どんの犬(いぬ)と
次郎(じらう)どんの犬(いぬ)と、
みんな嘗(な)めてしまつた。
その犬(いぬ)どうした。
太鼓(たいこ)に張(は)つて、
あつちの方(はう)でもどんどんどん。
こつちの方(はう)でもどんどんどん。(東京)


 この「お月さまいくつ」の謡(うた)は、みなさんがよく御存じです。私たちも子供の時は、よく紅(あか)い円(まる)いお月様を拝みに出ては、いつも手拍子をうつては歌つたものでした。この童謡は国国(くにぐに)で色色(いろいろ)と歌ひくづされてゐます。然(しか)し、みんなあの紅(あか)い円いつやつやしたお月様を、若い綺麗(きれい)な小母(をば)さまだと思つてゐます。まつたくさう思へますものね。


お月(つき)さんぽつち。
あなたはいくつ。
十三(じふさん)七(なな)つ。
そりやまだ若(わか)いに。
紅鉄漿(べにかね)つけて、
お嫁入(よめい)りなされ。(伊勢)
   
ののさまどつち。
いばらのかげで、
ねんねを抱(だ)いて、
花(はな)つんでござれ。(越後)
   
あとさんいくつ。
十三(じふさん)一(ひと)つ。
まだ年(とし)若(わか)いの。
今度(こんど)京(きやう)へ上(のぼ)つて、
藁(わら)の袴(はかま)織(お)つて着(き)しよ。(紀伊)
   
お月(つき)さんいくつ。
十三(じふさん)七(なな)つ。
まだ年(とし)は若(わか)い。
七折(ななをり)着(き)せて、
おんどきよへのぼしよ。
おんどきよの道(みち)で、
尾(を)のない鳥(とり)と、
尾(を)のある鳥(とり)と、
けいつちいや、あら、
きいようようと鳴(な)いたとさ。(伊勢)
  「おんどきよへ」とは、「今度(こんど)京(きやう)へ」といふのがなまつたのです。
   
お月(つき)さまいくつ。
十三(じふさん)七(なな)つ。
そりやちと若(わか)いに。
お御堂(みだう)の水(みづ)を、
どうどと汲(く)もに。(美濃)
   
お月(つき)さま。お年(とし)はいくつ。
十三(じふさん)七(なな)つ。
お若(わか)いことや。
お馬(うま)に乗(の)つて、
ジヤンコジヤンコとおいで。(尾張)


 かういふ風(ふう)に、「そりやまだ若(わか)いに。」と、みんな歌つてゐるから面白いのです。京へ上(のぼ)つたり、紅(べに)かねつけたり、お嫁入りしたり、赤ん坊を生んだりしてゐます。お馬のジヤンコジヤンコもおもしろいでせう。それにまた、「そりやまだ若(わか)い。若船(わかぶね)に乗(の)つて、唐(から)まで渡(わた)れ。」(紀伊)といふのもあります。それから少し変つてゐるのに、一寸(ちよつと)西洋(せいやう)の童謡見たやうなのがあります。それは珍らしいものです。


小林多喜二  「防雪林」(抜粋)

2008-07-01 11:40:04 | 17 ◎調べもの文芸文庫
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞編集室 中村惇夫



防雪林
小林多喜二



[#ページの左右中央]

      北海道に捧ぐ

[#改丁]

      一

 十月の末だつた。
 その日、冷たい氷雨(ひさめ)が石狩のだゞツ廣(ぴろ)い平原に横なぐりに降つてゐた。
 何處(どつち)を見たつて、何んにもなかつた。電信柱の一列がどこまでも續いて行つて、マツチの棒をならべたやうになり、そしてそれが見えなくなつても、まだ平(たひら)であり、何んにも眼に邪魔になるものがなかつた。所々箒のやうに立つてゐるポプラが雨と風をうけて、搖れてゐた。一面に雲が低く垂れ下つてきて、「妙に」薄暗くなつてゐた。烏が時々周章てたやうな飛び方をして、少しそれでも明るみの殘つてゐる地平線の方へ二、三羽もつれて飛んで行つた。
 源吉は肩に大きな包みを負つて、三里ほど離れてゐる停車場のある町から歸つてきた。源吉たちの家は、この吹きツさらしの、平原に、二、三軒づゝ、二十軒ほど散らばつてゐた。それが村道に沿つて並んでゐたり、それから、ずツと畑の中にひツこんだりしてゐた。その中央にある小學校を除いては、みんなどの家もかやぶきだつた。屋根が變に、傾いたり、泥壁にはみんなひゞが入つたり、家の中は、外から一寸分らない程薄暗かつた。どの家にも申譯程位にしか窓が切り拔いてなかつた。家の後か、入口の向ひには馬小屋や牛小屋があつた。
 農家の後からは心持ち土地が、石狩川の方へ傾斜して行つてゐた。そこは畑にはなつてゐたが、所々に、石塊が、赤土や砂と一緒にムキ出しにころがつてゐた。石狩川が年一囘――五月には必ずはんらんして、その時は、いつでもその邊は水で一杯になつたからだつた。だから、そこへは五月のはんらんが濟んでからでなくては、作物をつけなかつた。畑が盡きると、丈が膝迄位の草原だつた。そして、それが石狩川の堤に沿つて並んでゐる雜木林に續いてゐた。そこからすぐ、石狩川だつた。幅が廣くて底氣味の惡い程深く、幾つにも折れ曲つて、音もさせずに、水面の流れも見せずに、うね/\と流れてゐた。河の向ふは砂の堤になつてゐて、やつぱり野良が續いてゐた。こつち同樣のチヨコレートのやうな百姓家の頭が、地平線から浮かんでぼつ/\見えた。雄鷄が向ふでトキをつくると、こつちの鷄が、それに答へて、呼び交はすこともあつた。
 源吉は何か考へこんで、むつしりして歸つてきた。通つてくるどの家も、焚火をしてゐるらしく、窓や入口やかやぶきの屋根のスキ間から煙が出てゐた。が、出た煙が雨のために眞直ぐ空に上れずに、横ひろがりになびいて、野面(づら)にすれ/″\に廣がつて行つた。家の前を通ると、だしぬけに、牛のなく幅廣い聲がした。野良に放してある牛が口をもぐ/\動かしながら頭をあげて、彼の方を見た。源吉が、自分の家にくると、中がモヤ/\とけむつてゐた。母親が何か怒鳴つてゐるのが表へ聞えた。すると、弟の由がランプのホヤをもつてけむたさに眼をこすりながら、出て來た。眼のはりが汚く輪をつくつてゐた。
「えゝ、糞母(ちゝ)!」惡態をついた。
 源吉はだまつて裏の方へつて[#「つて」は底本では「って」]行つた。
 由は裂目が澤山入つて、ボロ/\にこぼれる泥壁に寄りかゝりながら、ランプのホヤを磨きにかゝつた。ホヤの端の方を掌で押へて、ハアーと息を吹きこんで、新聞紙の圓めたのを中に入れてやつて磨いた。それを何度も繰り返した。石油ツ臭い油煙が手についた。由は毎日々々のこのホヤ磨きが嫌で/\たまらなかつた。由がそれを磨きにかゝる迄には、母親のせきが何十邊とどならなければならなかつた。それから、由の頬を一度はなぐらなければならなかつた。
「えゝ、糞母(ちゝ)。」由は、磨きながら、思ひ出して、獨言した。
「由、そつたらどこで、今(えま)迄なにしてるだ!」
「今(えま)いくよオ!」さう返事をした。「えゝ、糞ちゝ、」
 母親はへつつひの前にしやがんで火をプウ/\吹いてゐた。髮の毛がモシヤ/\となつて、眼に煙が入る度に前掛でこすつた。薄暗い煙のなかでは、せきは人間ではない何か別な「生き物」が這ひつくばつてゐるやうに思はれた。へつつひの火でその顏の半面だけがめら/\光つて見えるのが、又なほ凄かつた。由が入つてくると、
「早ぐ、ランプばつけれ!」と云つた。
 由は煙(けむ)いのと、何時ものむしやくしやで、半分泣きながら上つて行つて、戸棚の上からランプを下した。涙や鼻水が後から後から出た。ランプの臺を振つてみると、石油が入つてゐなかつた。
「母(ちゝ)、油ねえど。」
「阿呆、ねがつたら、隣りさ行(え)つてくるべ、糞たれ。」
「じえんこ(錢)は?」
「兄がら貰つて行(え)け。」
「――隣りの犬(えぬ)おつかねえでえ。」
 由はランプの臺を持つたまゝ、母親の後にウロ/\して立つてゐた。
 せきは臺所にあげてあるザルの米を、釜の中に入れた。
「行(え)げたら、行げ。」
 由は、なぐられると思つて外へ出た。
「兄――!」さう呼んでみた。
 それから裏口にりながら、もう一度「兄――」と呼んだ。源吉は裏の入口の側で茶色のした網を直してゐた。きまつた間隔を置いておもりを網につけてゐた。
「兄、じえんこ――油ば貰つてくるんだ。」
 源吉はだまつて、腰のポケツトから十錢一枚出して渡した。由は一寸立ち止つて、兄のしてゐることを見てゐた。
「兄、あのなあ道廳の人(しと)來てるツて、入江の房云(え)つてたど。」
「何時(えつ)。」
「さつき、學校でよ。」
「何處さ泊つてるんだ?」
「知(す)らない。――」
「馬鹿。」源吉は一寸身體をゆすつた。
「房どこで、んだから、網かくしたツて云(え)つてだど。――兄、こゝさ道廳の人でも來てみれ、これだど。」由は、後に手をはしてみせた。
「――馬鹿。――行(え)け、行(え)け!」
 由が行つてしまふと、源吉は、獨りでにやりと笑つた。それから幅の廣い、厚い肩をゆすつて笑つた。
 日が暮れ出すと、風が少し強くなつてきた。そして寒くなつてきた。一寸眼さへ上げれば、限りなく廣がつてゐる平原と、地平線が見えた。その廣大な平原一面が暗くなつて、折り重なつた雲がどん/\流れてゐた。

 暗くなつてから、源吉は兩手で着物の前についたゴミを拂ひ落しながら家の中に入つてきた。由はランプの下に腹這ひになつて、二、三枚位しかくつついてゐない繪本の雜誌をあつちこつちひつくりかへして見てゐた。
「姉(ねね)、ここば讀んでけれや。」
 由がさう云つて、爐邊で足袋を刺してゐた姉の袖を引つ張つた。
「馬鹿!」姉は自分の指を口にもつて行つて、吸つた。「馬鹿、針ば手にさしてしまつたんでないか。」
「なあ、姉(ねね)、この犬どうなるんだ。」
「姉(ねね)に分らなえよ。」
「よオ、――」
「うるさいつて。」
「んだら、いたづらするど。」
 源吉が上り端で足を洗ひながら、お文に、
「吉村の勝居(え)たか?」ときいた。
 お文は顏をあげて兄の方を見たが、一寸だまつた。「何(なん)しただ?」
 源吉も次を云はなかつた。
「居(え)だつたよ。」それからお文がさう云つた。
「んか……何んか云つてながつたか





北原白秋  1200字「孟宗と七面鳥」

2008-07-01 11:35:32 | 17 ◎調べもの文芸文庫
孟宗と七面鳥
北原白秋



 閑雅な孟宗の枯れ色は私にとつて何より親しく感じられる。私は階上の書斎から硝子戸越しに朝夕その眺めを楽しんでゐる。どの窓を眺めても孟宗がしだれてゐる。寒くて風の少ない日などはその揺れる秀(ほ)さきばかりがこまかな光りを反(かへ)してゐる。
 聖ヶ獄にも斑ら雪が残つてゐる。庭の寒枇杷も冷(ひ)えきつてよい。時とすると、思ひもかけず、ちらちらと牡丹雪がふつてくる。さうしたしつとりとした曇り日もうれしい。
 私の家は半潰れのままだが二階だけはどうにか住めるのである。ほとんど廃墟とも云つてよいこの家の生活も住み馴れて見るといよいよに執着が増す。やはりここに落ちついて、しづかな詩作生活に耽らう。
 先達つての再度の大震では、もう潰れることと思つたし、命もないものと観念してゐたが、どうやら無事に済んだ。よくも此の壊れ家が倒れないものである。

 晴れた日には、大概私たちは庭前の小卓で食事をする。時とすると隣の別荘の芝山へ行つて、のびのびと酒を温めたり茶を立てたりする。箱根の連山や相模灘の大景を展望して、私達は食後も日向ぼつこをする。隣の白孔雀のやうな七面鳥が、番ひで、私たちのまはりを求食(あさ)つてあるく。かうした楽しみは壊れ家に住む私たちで無ければ味はへまい。まことに長閑な日常である。
 七面鳥と云へば、つい二三日前、犬に噛み殺されて了つた。まつしろで、実にすがすがしい番ひであつたが、可哀相なことをして了つた。この頃はよく馴れて、私の庭にも遊びに見えた。朝などは入口から傲然と羽根を拡げて、食堂の土間にはいつて来る。すると私たちは椅子から立ち上つて最敬礼をする。『まあまあ、どうぞこちらへ。』

 もひとつをかしい小話がある。東宮殿下の御慶事の朝のことである。私たちも枇杷の木の下の小卓で、つつましい祝杯を挙げた。済んでから坊やだけ地面に坐つて遊んでゐたが、そこへ七面鳥がおそろひで堂堂とやつて来た。伯爵夫人と云つた風である。しばらくすると、坊やが『どうぞ、どうぞ。』と云つてゐる。何をしてゐるのかと、硝子扉から覗いて見ると、坊やはその伯爵様に、仰向いて、しきりに盃をさしつけてゐるのであつた。

 その七面鳥も殺されて了つた。隣の監督さんがその赤い肉を盛つて来た。流石に寂しさうにしてゐたが、私たちも急に寂しくなつて了つた。
 それでも、その赤い肉は晩には焼いてたべた。坊やは『おいちい、おいちい。』と云つた。寒ざむとした孟宗林の中のかうした私たちの生活である。
 白い梅の花もちらほらと咲き出したやうである。





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底本:「花の名随筆1 一月の花」作品社
   1998(平成10)年11月30日初版第1刷発行
底本の親本:「白秋全集 第一七巻」岩波書店
   1985(昭和60)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2008年5月11日作成

宮本百合子 5000字『鴎外・漱石・藤村など――「父上様」をめぐって――

2008-07-01 11:31:59 | 17 ◎調べもの文芸文庫
鴎外・漱石・藤村など
――「父上様」をめぐって――
宮本百合子



 つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている一種の美をつよく感じながら、愛情と羞らいのまじった心でもって、鴎外の方は馬上にあるからというばかりでなく、自分を低く小さい者に感じながら少し道をよけたものであった。観潮楼から斜かいにその頃は至って狭く急であった団子坂をよこぎって杉林と交番のある通りへ入ったところから、私は毎朝、白山の方へ歩いて行ったのであった。
 最近、本を読んで暮すしか仕方のない生活に置かれていた時、私は偶然「安井夫人」という鴎外の書いた短い伝記を読む機会があった。ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男であった安井仲平のところへ、十六歳の時、姉にかわって進んで嫁し、質素ながら耀きのある生涯を終った佐代子という美貌の夫人の記録である。「ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとして纔(わずか)に免れ」「辺務を談ぜないということを書いて二階に張り出し」たりした安井息軒の生きかたをそのままに眺めている鴎外の眼も、私に或る感興を与えた。この短い伝記の中に、鴎外にとって好ましい女の或る精神的な魅力の典型の一つを語っているらしいところも面白い。最後に、鴎外は、外見には労苦の連続であった「お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであったとは誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥に尋常でない望みがあり」「必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで美しい目の視線は遠い遠い所に注がれていて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、或は何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか」と結んでいる。多くの言葉は費されていないが、私はこの条を読んだ時、一すじの閃光が鴎外という人の複雑な内部の矛盾・構成の諸要素の配列の上に閃いたという感銘を受けた。そして、彼が自分の子供たちに皆マリ、アンヌ、オットウ、ルイなどという西洋の名をつけていたことに思い到り、しかもそれをいずれも難しい漢字にあてはめて読ませている、その微妙な、同時に彼の生涯を恐らく貫ぬいているであろう重要な心持を、明治文学研究者はどう掴んでいるのだろうか、と感想を刺戟された。漱石全集を読み直していた時だったので、明治時代のインテリゲンツィアが持っていた錯雑性という点からもいろいろ考えられた。
 小堀杏奴さんの「晩年の父」は、「安井夫人」から受けた鴎外についての私の印象の裏づけをして、いろいろさまざまの興味を与えた。父鴎外によって深く愛された娘としての面から父を描き、家庭における父の周囲に或る程度までふれ、文章は、いかにも鴎外が愛した女の子らしい情趣と観察、率直さを含んでいる。
 この趣の深い回想から、母親思いで「即興詩人」の活字を特に大きくさせたという鴎外の生涯は、その美しい噂の一重彼方では、一通りでなく封建的な親子の関係でいためつけられて来ていたこともうかがわれる。鴎外はそれと正面から争うことに芸術家としての気稟を評価するたちではなかった。それを外部に示さずに耐えている態度に叡智があるという風に処していたことも分る。ゲーテが現実生活に処して行ったようなやりかたを鴎外は或る意味での屈伏であるとは見ず、その態度にならうことは、いつしか日本の鴎外にとっては非人間的な事情に対してなすべき格闘の放棄となっていたことをも、鴎外自身は自覚しなかったであろう。
 杏奴さんが、自身の筆でそこまで歴史的に父の姿を彫り出すことの出来ないのは、寧ろ自然であるとされなければなるまい。

 鴎外の子供は、皆文筆的に才能がある。於菟さんも只の医学者ではない。このひとの随筆を折々よみ、纏めて杏奴さんの文章をも読み、私はこれらの若い時代の人々が文章のスタイルに於て、父をうけついでいるのみならず、各自の生活の輪が、何かの意味で大きかった父という者の描きのこした輪廓の内にとどめられていることを痛感した。
 漱石は、その作品の中で、生れて来る子供たちに向ってどうしていいのか、なるようにならせるしか手がない、と云っている。鴎外は反対であったらしい。「晩年の父」の中には、女学校に入る娘を博物館の勤めさきまでつれて行ってやって算術の稽古をしてやっている父鴎外の姿が、溢れるなつかしさをこめて描かれている。従って、子供たちが、有形無形に父から与えられているものは、深く、しっかり根を張っているであろう。女の子の心持にすれば、結婚をするにも父鴎外を自分に近い程度で敬愛するひと、少くとも熱中している自分の感情を傷けるようなものを(客観的にそれが正当な性質のものでも)持たぬひととの結合が、自ら生じがちであろう。
 長女茉莉子さんの長子が、やはり西洋風の発音で、漢字名をつけられている。そのように、根はひろく、ふかいのである。
 卓抜な芸術家は人間的磁力がきついものである。家庭のまわりのものに影響の及ぼさぬ程の熱気とぼしい存在で、巨大な芸術的天分を発揮し得よう筈はなく、それらの人々の子は誇りをもって父を語ることこそ自然である。だが私は、最も人間性の発展、独自性、時代性、そこに生じるさまざまの軋轢、抗争の価値を理解する筈の芸術家の生活の中でも、親子の関係は人間的先輩が次代の担いてである若い人間を観るという風に行っていない場合が多く、よきにせよ、あしきにせよ、家長風なものが尾を引いていることに注意をひかれる。日本文化の一つの負担として注意をひかれているのである。
 漱石のように生き、生涯を終った作家の周囲では、先輩の弟子たち、親友たちが、没後何とはなし家長的位置におかれる。伯林の国立銀行の広間の人ごみの間で、私は不図自分にそそがれている視線を感じ、振りかえってその方を見たら、そこにはまがうかたなき漱石の面影をもった一人の若者が佇んでいた。ヴァイオリンが上手だときいた漱石の長男とはこのひとか。どちらかというと背の低い体の上に、四十代の漱石の写真にあるとおりの質量のある、美しさの可能をもった大きめの顔がのって、こちらを、まだ内容のきまっていない眼ざしで眺めているのを見て、私は一ふきの風が胸をふきとおす感じに打たれた。
 先年物故した或る作家の遺族の話が出た折、ある事情に通じたひとが「こんなになる位なら、早く結婚させてやるのだった」云々という意味のことを云い、その、させてやる云々という言葉づかいのうちにある重い、家長権的な表情を、私は一人の女として苦痛と恐怖なしにきくことが出来なかった。
 日本の作家の実生活の中での感情は、親子のいきさつに対してもまだ非常に旧いままの内容形式で生きている。丹羽文雄氏が、放蕩はしてもよそへ子供は拵えない、何しろ子供にはかなわないからね、というようなことを、その常套性と旧い態度とに対して揶揄的高笑いをうける気づかいなしに、二十歳前後の若い女の座談会で云っていられる状態なのである。
『文芸』十月号に島崎蓊助が「父上様」という感想を書いている。あの一文を若いジェネレーションは何と読んだであろうか。

「夜明け前」が一つの記念碑的な作品であることに異議ない。七年間の労作に堪ゆる人間が、枯淡であろうとも思わないし、無計画であるとも思わない。同じ十月の『文芸』に中村光夫氏が短い藤村研究「藤村氏の文学」を書いていて、中に「氏は自己の精神の最も大切な部分を他人の眼から隠すことを学んだのであろう」「おそらく氏は我国の自然主義者中最も自己の制作を一箇の技術として自覚し、この明瞭な自覚の上に文学を築いた作家であろう。いわば氏は我国の自然主義作家を通じてもっとも意識的に『自然』に対した作家なのだ」と云っているのはそれとして当っているのである。
 だが、私には質問がある。意識的に人生に向っている、そのことはそのままによいとし、さて、その意識の内容をなすものは、どういうものなのであろうか、と。
 これも、強制読書生活の間でのことであるが、私は、第一書房から出ている『藤村文学読本』というのを送られて読んだ。なにか、芭蕉の句を引いて、芭蕉の芸術境に対する自己の傾倒をのべた一文があった。引用されている句の中には「あか/\と日は難面(つれなく)も秋の風」「馬をさへながむる雪の朝哉」そのほか心に刻まれた句があった。藤村氏は、それらに対する味到の心持をのべている。その現実に対する角度は、芭蕉のように身を捨てて天地の間に感覚を研ぎすました芸術家の生涯にある鋭い直角的なものではなく、謂わば芭蕉を味うその境地を自ら味うとでも云うべき、二重性、並行性があり、それは、藤村の文章の独特な持ち味である一種の思い入れを結果しているのである。文章における思い入れと芭蕉の云ったしほり余韻との本質的相異については云うまでもないことである。それらのことを、穢い、寒い板壁に向って感じた時も私の心に湧いた疑問は、藤村がしんから力を入れて、ねばっている動力は何なのであろうか。本質的には世故にたけた、十分妥協性をもったものなのだが、それを語る語りかたの独特に意識ある態度のために風格が発生し、その確信をもって押してゆく雰囲気の魅惑に大作家らしい趣、生活力が具わっているのではないのだろうかと考えたのであった。そして、いつかの折に藤村という一つの大きい明治文学の屋台をふわけして、生々しい機構を知りたいという慾望を刺戟されたのであった。
 アルゼンチンの国際ペンクラブの大会に藤村氏が出席したからには、能うかぎり進歩的効果のあげられることを、私たちはまじり気ない心持で希望している。柿本人麿の和歌を記念碑に刻んで来ることも一つの趣であろう。けれども、藤村氏は、どういう好尚から、その出発の前夜に勘当していた蓊助を旅館によんで、勘気をゆるしたのであったろう。藤村氏自身の青年時代を考えいろいろすると、勘当そのものが解せないようにもある。微妙な事情があって、そういう形式がとられたとして、何故、外国旅行に出るという前の外見は華やかであって、実は平凡な夜、その勘当は許され得るのであろう。「夜明け前」が完結した時に、老境に在る芸術家にとって真に感想深かるべき時に於てではなく。――何か、云うに云われぬ作家藤村の人間的面、裂け目がここにあることを感じた。私は「父上様」という文章の中に、偶然藤村氏の息子として生れ事毎に父との連関で観られなければならない一青年蓊助の語りつくされない錯綜した激しい感情をよみとった。ここには、父の肖像を描いて二科に出品した鶏二さんの心持とは恐らく異っているだろうと思われるものが脈うっている。蓊助君は、漫画修行による人生観察の過程で、旧套の重荷に反撥して自らを破ることが、新世代にのしかかる圧力を克服することではないことを、既に学んでいるであろう。昨今の世界情勢の中を行く旅行について父藤村氏の「自由主義的慧眼」に希望している希望には、正しく息子蓊助一人のみならず、「夜明け前」を発展的に読む能力を具えた若き全員の希望が参加しているのである。
〔一九三六年十月〕





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底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「読売新聞」
   1936(昭和9)年10月11、14、15日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:



現代用語の基礎知識 百科事典 | 流行語

2008-07-01 09:57:25 | 14 用語集:②人物以外
現代用語の基礎知識

現代用語の基礎知識(げんだいようごのきそちしき)とは現代人として必要と考えられる用語にマスコミなどで使われる新語を加えて編集された事典・用語辞典の一種で、年鑑の性格も持つ。毎年11月頃に自由国民社から発行されている。略称:現基知(げんきち)、現代用語。

目次 [非表示]
1 特色
2 創刊・発足
3 同様の本
4 新語・流行語
5 外部リンク



[編集] 特色
一般の百科事典は定着した言葉を中心に編集されるのに比べ、その時々マスコミなどをにぎわせる言葉を毎年追加して編集している点が特徴である。また2005年版より、はてなのはてなダイアリーキーワードの一部が収録された。


[編集] 創刊・発足
『現代用語の基礎知識』は第二次世界大戦終了後の1948年10月10日、『自由国民』第14号として時局月報社から発行された。当時は長い軍国主義の時代、英語禁止の時代が終わり、新たに民主主義的な制度改革が行われるとともに世相も変転し、GHQ関連などの新しい風俗、言葉が次々に生まれる時代であった。創刊以来、毎年改定を加えられており(1949年末からは毎年末に発行)、新語・流行語を加えてページ数も増加している。

本のサイズは創刊時にはB5版で1960年からA5版に、1972年からB4版に拡大した。また1965年までは増補版を発行していたが、1966年から年1回発行に統一されている。

現在では本の形態(書店では書籍ではなく雑誌扱い)のみでなく、CD-ROM版やWeb版(有料)もある。


[編集] 同様の本
長らく一社独占の状況であったが、1986年11月17日に集英社から『イミダス 1987年版』、1989年11月17日に朝日新聞社から『知恵蔵 1990年版』と同様の本が刊行されるようになった。ただし、両者とも2006年11月発行の2007年版を最後に休刊となる。


[編集] 新語・流行語
1984年からは毎年12月初旬に、その年の世相を反映した言葉として新語・流行語大賞を選定し、発表も行っている(現在は「現代用語の基礎知識選 ユーキャン流行語大賞」と改称)。

第1回に受賞した新語は「オシンドローム」「鈴虫発言」「スキゾ・パラノ」「特殊浴場」、流行語は「まるきん まるび」「くれない族」「疑惑」「千円パック」「す・ご・い・で・す・ネッ」「教官!」であった。既に意味が不明になっているものがほとんどであり、新語・流行語の移り変わりの速さが伺われる。

[編集] 外部リンク
公式サイト

カテゴリ: 百科事典 | 流行語

最終更新 2008年3月25日 (火) 16:40。Wikipedia®

検索の達人     文藝春秋 (雑誌)

2008-07-01 09:57:10 | 14 用語集:②人物以外
文藝春秋 (雑誌)

『文藝春秋』(ぶんげいしゅんじゅう)は、株式会社文藝春秋が発行する雑誌(総合誌)である。

目次 [非表示]
1 概要
2 編集長
3 内容
3.1 常時連載
3.2 連載中
3.3 連載終了
4 話題となった記事
5 関連項目
6 外部リンク



[編集] 概要
1923年1月、菊池寛が大きく揺れ動いた時代を背景に私財を投じて創刊した(文藝春秋創刊の辞)。文藝春秋という誌名は菊池寛が『新潮』で連載していた文芸時評のタイトルから来ている。敗戦後、菊池寛が戦争犯罪の責任を問われたため一時廃刊の危機にあうが、鷲尾洋三が編集長となり文藝春秋新社を興して再スタート。

伝統、風格、売り上げ、質、以上の全ての面で日本を代表する言論誌である。月刊で、毎月1日発行、10日発売。判型はA5判、ページ数は通常は448ページ。目次は折り畳み式。カバーするジャンルは政治、経済、経営、社会、歴史、芸能、軍事、皇室、教育、医療、スポーツと多岐に及ぶ。政治家、研究者、実業家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家による論文や記事が、毎号三十本ほど掲載される。

創刊時は倉田百三、島田清次郎などの女学生に人気のあった作家のゴシップを掲載する記事も多く見られた。70年代前半までは菊池寛時代の名残から作家の人物批評やゴシップ記事が何度も取り上げられた事があったが、80年代に入ると出版社の肥大化によって商業主義的色彩を強めざるをえなくなりこうした記事は一切見られなくなった。近頃は読者層の高齢化に合わせてか、団塊の世代が好む昭和ネタを組む事が多い。

傾向としては日本共産党、社会民主党など左派政党には批判的で、これらの政党の政治家の文章は全くと言っていいくらい掲載されない(2005年9月号では、社会民主党元党首土井たか子の戦争体験談が掲載されるなどしており若干の例外がある)。公明党と創価学会も同じ。

複数の文学賞を主催しており、2月号で文藝春秋読者賞、3月号と9月号で芥川賞、6月号で大宅壮一ノンフィクション賞、7月号で松本清張賞、12月号で菊池寛賞の受賞者が発表される。特に芥川賞等の時は販売部数が大きく増大する。金原ひとみや綿矢りさの受賞作掲載では記録的な販売となったこともあり、受賞者選定自体が販売を念頭にした話題作りではないかという声もあがった。

会社の看板媒体でもあることから、文春社内では「本誌」と通称されている。


[編集] 編集長
菊池寛
池島信平(1944年 -)
鷲尾洋三
半藤一利
上林吾郎(- 1959年)
田中健五(1972年 - 1977年)
岡崎満義(1982年 -)
白石勝
飯窪成幸(現在)

[編集] 内容

[編集] 常時連載
日本の顔 - モノクログラビアで、その時々の話題の人物を紹介する。
小さな大物 - 各界の著名人の子供の時の写真を掲載。
同級生交歓 - 同じ学校出身の有名人が面会して、昔を懐かしむ。
巻頭随筆 - 10人の著名人による、四段組の短いエッセイ。同時に短歌、俳句、詩も掲載される。
丸の内コンフィデンシャル - 経済、金融、実業家の情報。無記名。
霞が関コンフィデンシャル - 官僚、政治家の情報。無記名。
文春LOUNGE - カラー写真で様々な最新の流行、賞品を紹介。アンケートもある。官製はがきにその回答を書いて編集部に郵送すると抽選で30名に、出版社にゆかりのある小説家の写真を使用した、非売品の特製図書カード3000円分が贈呈される。
新聞エンマ帖 - 無記名の新聞批評。「朝日新聞」、「読売新聞」、「毎日新聞」、「産経新聞」、「東京新聞」、「日本経済新聞」を、厳しく批評する。
オヤジとおふくろ - 各界の著名人が自分の親への思いを語る。
赤坂太郎 政局ドキュメント - 複数の記者が持ち回りで書いている匿名コラムである。
BOOK倶楽部 - 書評。評者は麻木久仁子、猪木武徳、加藤陽子、佐藤優。
新書一点賭け - 日垣隆が話題の新書1冊を論じる。
本屋探訪 - 全国にある個性的な書店の紹介。
今月買った本 - 恩田陸、斎藤環、なぎら健壱、成毛眞の4人が1ヶ月間に購入した本の内訳を語る。
三人の卓子 - 読者の投稿。
蓋棺録 - 最近亡くなった著名人5人を悼む。
社中日記 - 無記名の日記。編集部での失敗談、笑える話、エピソードを、面白おかしく紹介。

[編集] 連載中
表紙の絵 平松礼二
巻頭随筆の中でも、以下は特別な連載である。
阿川弘之「葭の髄から」 - 保守的な社会時評、又は身辺雑記。
塩野七生「日本人へ」 - 保守的な社会時評。
宮城谷昌光「三国志」
山崎豊子「運命の人」
福田和也「昭和天皇」 
あさのあつこ「おとなの絵本館」 
坪内祐三「人声天語」 - 社会時評。
江上剛「アジア・ビジネス最前線」
芝山幹郎「スターは楽し」 - 往年の映画スターの知られざるエピソードを紹介。
鴨下信一「昭和のことば」
東嶋和子「新・養生訓」
岩崎元郎「悠々山歩き」

[編集] 連載終了
巻頭随筆の中でも、以下は特別に連載されていた。
司馬遼太郎「この国のかたち」 - 日本歴史論。本誌の長い歴史の中でも、最も人気のあった連載。司馬の急死により突然の終了を迎えた。
自伝
浅利慶太「時の光の中で」
小林信彦「テレビの黄金時代」
石原慎太郎「わが人生の時の人々」
評論
山本夏彦「笑わぬでもなし」
小説
山崎豊子「大地の子」
村上龍「希望の国のエクソダス」
ノンフィクション
柳田邦男「がん50人の勇気」
映画
わたしの映画スタア - 各界の著名人が自分の好きな映画俳優、女優を語る。
映画漫歩 - 無記名の映画批評。4本の最新作を大変に丁寧に解説する。

[編集] 話題となった記事
1974年11月特別号で、田中健五編集長は「田中政権を問い直す」という特集を組み、立花隆「田中角栄研究-その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」の2つのレポートを掲載する。これが田中角栄の内閣を退陣へと追い遣るきっかけになった。
1990年12月号に「昭和天皇の独白8時間 太平洋戦争の全貌を語る」を掲載。話題を呼び、発行部数は105万部を記録。その後「昭和天皇独白録」(文春文庫)として出版された。
2004年3月号では第130回芥川賞の受賞作が掲載され、金原ひとみと綿矢りさという同賞史上最年少者が受賞したことが話題を呼び、初回刷数が80万部、最終的には過去最高の118万5000部を発行した。このことからか、話題作りの芥川賞選定の傾向が強まったとも言われる。
2005年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」の記事をめぐって、「歴史を誤って伝えるものである」としてユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」から抗議を受けた。

[編集] 関連項目
阿川弘之
立花隆
半藤一利
本多勝一
後藤謙次
滑稽新聞

[編集] 外部リンク
文藝春秋 - 公式サイト

カテゴリ: 書籍に関するスタブ | 文藝春秋 | 日本の雑誌

最終更新 2008年2月21日 (木) 10:39。 Wikipedia®

井伏鱒二  野間文芸賞を受賞。同年に⑩■■勲章も受章した

2008-07-01 09:56:50 | 13 用語集:①人物一覧   
検索の達人  www.shirabemono.com

調べもの新聞  中村惇夫





【井伏鱒二】

文学

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詩人・小説家
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①■■■■(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)は、日本の小説家。広島県福山市加茂町の生まれ。本名、満壽二。筆名は②■り好きだったことによる。学歴は広島県立福山中学校を経て③■■■大学文学部仏文科中退。称号は広島県名誉県民、福山市名誉市民、東京都名誉都民に選ばれている。

目次 [非表示]
1 経歴
2 受賞歴
3 弟子
4 影響
5 主な作品
6 参考文献
7 外部リンク



[編集] 経歴
1898年2月15日に、深安郡加茂村粟根(現在の福山市加茂町栗根)に、父郁太、母ミヤの次男として誕生。井伏家は嘉吉2年(1442年)までさかのぼれる旧家で、家号を「中ノ士居」という代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。1905年、加茂小学校入学。1912年、福山中学校に進学。学校の庭には池があって、二匹の④■■■が飼われており、のちの処女作④「■■■」に結びついた。中学校3年生ころから画家を志し、卒業すると3ヶ月間奈良、京都を写生旅行。そのスケッチを持って橋本関雪に入門を申し込んだが、断られ帰郷。

その後、前々からの兄の勧めで文学に転向し、③■■■大学に入学。青木南八と親交を結び、ともに文学部仏文学科に進む。このころ、岩野泡鳴や谷崎精二を訪ねている。1921年、片上伸教授からのホモセクハラ行為に恐れをなして休学。約半年後に復学手続をとるも、片上からの反対で退学となった。またこの年、無二の親友であった青木を失い、日本美術学校も中退している。

1923年、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。1924年、聚芳社に入社、退社をくりかえしたのち、佐藤春夫に師事。1927年、「歪なる図案」を『不同調』に発表、初めて小説で原稿料を得た。10月、秋元節代と結婚。1929年、「朽助のいる谷間」を『創作月間』に、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。翌年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を刊行、小林秀雄などが出していた雑誌『作品』の同人となる。また、初めて⑤■■治と会ったのもこの年であった。1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回⑥■■賞受賞、『文学界』の同人となる。戦時中は陸軍に徴用され、開戦時には南シナ海上の輸送船の中にいた。日本軍が占領したシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わった。この経験が、その後の作品に大きな影響を与えている。

⑥■■賞選考委員を1943年(第17回)から1957年(第38回)まで、⑦■■賞選考委員を1958年(第39回)から1962年(第47回)まで、⑧新■■人雑誌賞選考委員を1955年(第1回)から1968年(第14回)まで務めた。

1965年、『新潮』に、⑨「■い雨」(連載当初は「姪の結婚」)を連載。この作品で1966年、野間文芸賞を受賞。同年に⑩■■勲章も受章した。1970年、「私の履歴書(半生記)」を日本経済新聞に連載した。1993年6月24日、東京衛生病院に緊急入院し、7月10日午前11時40分に死去。享年96(95歳没)。戒名は照観院文寿日彗大居士。


[編集] 受賞歴
1938年 『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞
1950年 『本日休診』などで第1回読売文学賞小説賞
1956年 『漂民宇三郎』などで第12回日本芸術院賞
1966年 『黒い雨』で第19回野間文芸賞、文化勲章
1972年 『早稲田の森』で第23回読売文学賞随筆紀行賞
1990年 東京都名誉都民

[編集] 弟子
太宰治
中村地平
小山祐士
伊馬鵜平
小沼丹
小山清
庄野潤三
三浦哲郎

[編集] 影響
映画
川島雄三が大の井伏ファンとして有名。井伏の「サヨナラダケガ人生ダ」という科白を愛用した。井伏の『貸間あり』を映画化したが、井伏には「下品すぎる」として不評だったらしい。川島の弟子である今村昌平は『黒い雨』を映画化し、カンヌ国際映画祭高等技術委員会賞を受賞。他に井伏原作で森繁久弥が主演した『駅前旅館』は駅前シリーズの誕生のきっかけとなった。

マンガ
つげ義春が大きな影響を受けた。井伏の『言葉について』へのオマージュである『もっきり屋の少女』を初めとして、井伏の作風を感じさせる作品は数多い。

ガンダム
もともと、ガンダムシリーズの製作者である富野由悠季は、井伏の「黒い雨」に影響を受けていた。それが、既存のアニメとは一線を画す、ガンダムシリーズでのリアルな戦争描写の参考のひとつとなる(現に、機動戦士ガンダムΖΖで、マシュマー・セロのコロニー落としによってダブリンに黒い雨が降り注ぎ、ジュドー・アーシタがそれに打たれながら「黒い・・・雨が・・・」と呟くシーンがある)。その後、事情を知った井伏もガンダムを鑑賞し、感銘を受け大ファンになった、という経緯がある。


[編集] 主な作品
夜ふけと梅の花(1930年、新潮社)
「朽助のゐる谷間」「山椒魚」「屋根の上のサワン」「鯉」など。
なつかしき現実 (1930年、改造社)
「谷間」など。
仕事部屋 (1931年、春陽堂)
「丹下氏邸」「悪い仲間」など。
川 (1932年、江川書房)
随筆 (1933年、椎の木社)
「日本漂民」「風貌・姿勢」など。
逃亡記 (1934年、改造社)
「掏摸の桟三郎」「言葉について」「青ヶ島大概記」など。
鶏肋集 (1936年、竹村書房)
集金旅行(1937年、版画荘) →映画化(監督:中村登) 
厄除け詩集 (1937年、野田書房)
ジョン萬次郎漂流記(1937年、河出書房)
さざなみ軍記(1938年、河出書房)
多甚古村 (1939年、河出書房) →映画化(監督:今井正)
おこまさん (1941年、輝文館) →『秀子の車掌さん』として映画化(監督:成瀬巳喜男)。
花の町 (1943年、文藝春秋)
侘助 (1946年、鎌倉文庫)
「経筒」「二つの話」
追剥の話 (1946年、昭森社)
貸間あり (1948年、鎌倉文庫) →映画化(監督:川島雄三)
本日休診 (1950年、文藝春秋) →映画化(監督:渋谷実)
「遙拝隊長」など。
漂民宇三郎 (1956年、講談社)
駅前旅館 (1957年、新潮社) →映画化(監督:豊田四郎)
珍品堂主人 (1959年、中央公論社) →映画化(監督:豊田四郎)
武州鉢形城 (1963年、新潮社)
黒い雨 (1966年、新潮社) →映画化(監督:今村昌平)
早稲田の森 (1971年、新潮社)
「半世記-私の履歴書」など。
荻窪風土記(1982年、新潮社)
鞆ノ津茶会記 (1986年、福武書店)

[編集] 参考文献
現代日本文学「盗作疑惑」の研究 竹山哲

[編集] 外部リンク
早稲田と文学・井伏鱒二
福山誠之館・井伏鱒二
猪瀬直樹 『黒い雨』と井伏鱒二の深層



カテゴリ: 文人関連のスタブ | 日本の小説家 | 日本の詩人 | 直木賞受賞者 | 1898年生 | 1993年没 | 広島県出身の人物 | 福山市の歴史

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【井伏鱒二】

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井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)は、日本の小説家。広島県福山市加茂町の生まれ。本名、満壽二。筆名は釣り好きだったことによる。学歴は広島県立福山中学校を経て早稲田大学文学部仏文科中退。称号は広島県名誉県民、福山市名誉市民、東京都名誉都民に選ばれている。

目次 [非表示]
1 経歴
2 受賞歴
3 弟子
4 影響
5 主な作品
6 参考文献
7 外部リンク



[編集] 経歴
1898年2月15日に、深安郡加茂村粟根(現在の福山市加茂町栗根)に、父郁太、母ミヤの次男として誕生。井伏家は嘉吉2年(1442年)までさかのぼれる旧家で、家号を「中ノ士居」という代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。1905年、加茂小学校入学。1912年、福山中学校に進学。学校の庭には池があって、二匹の山椒魚が飼われており、のちの処女作「山椒魚」に結びついた。中学校3年生ころから画家を志し、卒業すると3ヶ月間奈良、京都を写生旅行。そのスケッチを持って橋本関雪に入門を申し込んだが、断られ帰郷。

その後、前々からの兄の勧めで文学に転向し、早稲田大学に入学。青木南八と親交を結び、ともに文学部仏文学科に進む。このころ、岩野泡鳴や谷崎精二を訪ねている。1921年、片上伸教授からのホモセクハラ行為に恐れをなして休学。約半年後に復学手続をとるも、片上からの反対で退学となった。またこの年、無二の親友であった青木を失い、日本美術学校も中退している。

1923年、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。1924年、聚芳社に入社、退社をくりかえしたのち、佐藤春夫に師事。1927年、「歪なる図案」を『不同調』に発表、初めて小説で原稿料を得た。10月、秋元節代と結婚。1929年、「朽助のいる谷間」を『創作月間』に、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。翌年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を刊行、小林秀雄などが出していた雑誌『作品』の同人となる。また、初めて太宰治と会ったのもこの年であった。1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞、『文学界』の同人となる。戦時中は陸軍に徴用され、開戦時には南シナ海上の輸送船の中にいた。日本軍が占領したシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わった。この経験が、その後の作品に大きな影響を与えている。

直木賞選考委員を1943年(第17回)から1957年(第38回)まで、芥川賞選考委員を1958年(第39回)から1962年(第47回)まで、新潮同人雑誌賞選考委員を1955年(第1回)から1968年(第14回)まで務めた。

1965年、『新潮』に、「黒い雨」(連載当初は「姪の結婚」)を連載。この作品で1966年、野間文芸賞を受賞。同年に文化勲章も受章した。1970年、「私の履歴書(半生記)」を日本経済新聞に連載した。1993年6月24日、東京衛生病院に緊急入院し、7月10日午前11時40分に死去。享年96(95歳没)。戒名は照観院文寿日彗大居士。


[編集] 受賞歴
1938年 『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞
1950年 『本日休診』などで第1回読売文学賞小説賞
1956年 『漂民宇三郎』などで第12回日本芸術院賞
1966年 『黒い雨』で第19回野間文芸賞、文化勲章
1972年 『早稲田の森』で第23回読売文学賞随筆紀行賞
1990年 東京都名誉都民

[編集] 弟子
太宰治
中村地平
小山祐士
伊馬鵜平
小沼丹
小山清
庄野潤三
三浦哲郎

[編集] 影響
映画
川島雄三が大の井伏ファンとして有名。井伏の「サヨナラダケガ人生ダ」という科白を愛用した。井伏の『貸間あり』を映画化したが、井伏には「下品すぎる」として不評だったらしい。川島の弟子である今村昌平は『黒い雨』を映画化し、カンヌ国際映画祭高等技術委員会賞を受賞。他に井伏原作で森繁久弥が主演した『駅前旅館』は駅前シリーズの誕生のきっかけとなった。

マンガ
つげ義春が大きな影響を受けた。井伏の『言葉について』へのオマージュである『もっきり屋の少女』を初めとして、井伏の作風を感じさせる作品は数多い。

ガンダム
もともと、ガンダムシリーズの製作者である富野由悠季は、井伏の「黒い雨」に影響を受けていた。それが、既存のアニメとは一線を画す、ガンダムシリーズでのリアルな戦争描写の参考のひとつとなる(現に、機動戦士ガンダムΖΖで、マシュマー・セロのコロニー落としによってダブリンに黒い雨が降り注ぎ、ジュドー・アーシタがそれに打たれながら「黒い・・・雨が・・・」と呟くシーンがある)。その後、事情を知った井伏もガンダムを鑑賞し、感銘を受け大ファンになった、という経緯がある。


[編集] 主な作品
夜ふけと梅の花(1930年、新潮社)
「朽助のゐる谷間」「山椒魚」「屋根の上のサワン」「鯉」など。
なつかしき現実 (1930年、改造社)
「谷間」など。
仕事部屋 (1931年、春陽堂)
「丹下氏邸」「悪い仲間」など。
川 (1932年、江川書房)
随筆 (1933年、椎の木社)
「日本漂民」「風貌・姿勢」など。
逃亡記 (1934年、改造社)
「掏摸の桟三郎」「言葉について」「青ヶ島大概記」など。
鶏肋集 (1936年、竹村書房)
集金旅行(1937年、版画荘) →映画化(監督:中村登) 
厄除け詩集 (1937年、野田書房)
ジョン萬次郎漂流記(1937年、河出書房)
さざなみ軍記(1938年、河出書房)
多甚古村 (1939年、河出書房) →映画化(監督:今井正)
おこまさん (1941年、輝文館) →『秀子の車掌さん』として映画化(監督:成瀬巳喜男)。
花の町 (1943年、文藝春秋)
侘助 (1946年、鎌倉文庫)
「経筒」「二つの話」
追剥の話 (1946年、昭森社)
貸間あり (1948年、鎌倉文庫) →映画化(監督:川島雄三)
本日休診 (1950年、文藝春秋) →映画化(監督:渋谷実)
「遙拝隊長」など。
漂民宇三郎 (1956年、講談社)
駅前旅館 (1957年、新潮社) →映画化(監督:豊田四郎)
珍品堂主人 (1959年、中央公論社) →映画化(監督:豊田四郎)
武州鉢形城 (1963年、新潮社)
黒い雨 (1966年、新潮社) →映画化(監督:今村昌平)
早稲田の森 (1971年、新潮社)
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荻窪風土記(1982年、新潮社)
鞆ノ津茶会記 (1986年、福武書店)

[編集] 参考文献
現代日本文学「盗作疑惑」の研究 竹山哲

[編集] 外部リンク
早稲田と文学・井伏鱒二
福山誠之館・井伏鱒二
猪瀬直樹 『黒い雨』と井伏鱒二の深層



カテゴリ: 文人関連のスタブ | 日本の小説家 | 日本の詩人 | 直木賞受賞者 | 1898年生 | 1993年没 | 広島県出身の人物 | 福山市の歴史

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