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らくだメソッドの理念と実践

2008-07-07 18:27:29 | Weblog
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【新版】セルフラーニング
どの子にも学力がつく
新曜社 1,890円
セルフラーニングとはなにかをわかりやすく解説。入門書として最適。

らくだ学習法
実業之日本社 1,470円
「競争」だけでは、子どもは伸びない!子どもたちに「学ぶこと」の楽しさを気づかせた学習メソッド。


子どもの言いぶんおとなの聞きかた
ウェイツ 1,470円
本書は、16人の子どもに行ったインタビューの記録です。まず、質問に答える子どもの話にじっくり耳を傾けることに徹してみました。そうすると、子どもは実に雄弁に語ってくれます。

おすすめ映画書籍のご注文
『見えない学校』 VHS
定価(税込)¥5,250
監督:伊勢真一
企画・製作:『見えない学校』映画製作委員会/一隅社
〈教えない教育〉に取り組む私塾の指導者たち、福島県三春町の小・中学校の教育改革への挑戦など、全国各地の人から人へ〈見えない学校〉を訪ね歩いたヒューマンドキュメンタリーです。

平井雷太の著書書籍のご注文 らくだのひとり歩き
社会評論社
2,625円
1983年から約10年間発行し続けた『らくだ通信』を1冊に集約。「押しつけない・強制しない・命令しない」指導を学ぶ最適の書。らくだの全貌を知ることができる。
新・子育て廃業宣言
セルフラーニング研究所
1,890円
子どもにかかわる一人ひとりの大人が気づけなかった視点を、つぶやき(詞)という表現方法でつづる。

公文式“プリント狂時代”の終わり
太郎次郎社
1,890円
生きるとは、生かされること
イザラ書房
2,243円
平井が93年より1日も欠かさず書き記し、全国の仲間に送り続けたエッセー集。

いじめられっ子のひとりごと
創友舎
1,575円
平井のつぶやきをつづった絵本詞集。
見えない学校 教えない教育
日本評論社
1,575円
学校信仰の「勉強」から自分育ての「学び」へ

もうひとつの見えない学校
日本評論社
1,785円
どこで学ぶか、ではなく何を学ぶかが生涯学習の考え方に立つポイントだ。学校でしか物を学べないという偏狭な意識を打ち砕く。
『何もしない教育』対談
平井雷太・清水義晴
博進堂
525円
「教えない・規定しない・命令しない」をモットーとする「システムキャンプ」を実践する清水氏と「人が育つ」ことについて対談。

ニュースクール叢書 発行:カタツムリ社 編集:セルフラーニング研究所書籍のご注文 自然農から 農を超えて
川口由一
917円
農を超えて、病んだ現代を生きる私たちに語りかける。
のんだくれ モンゴルヘ
長友久美子
917円
最愛の娘を交通事故でなくした著者の草原の夢は…。

観る・集める・考える
原ひろ子
815円
日常生活の情報処理の基本についてわかりやすく説く
おいしく 楽しく ありがたく
船越康弘
917円
自然食料理を提供する民宿の主人。その料理の秘訣とは?

教育は越境する
平井雷太インタビュー集
917円
事前に問いを用意せず挑んだライブ感覚のインタビュー集。
政治っておもしろい
永井よし子
917円
PTA活動から始まった著者の活動は生活に密着している。

地球のバイオリズム
林 英臣
815円
地球の歴史や文明を大きな波としてとらえる。
子ミュニケーション
加藤裕子編
917円
精神薄弱児の施設には日常生活に役立つヒントがいっぱい。

宇宙の風に聴く
佐治晴夫
917円
超わかりやすく宇宙と人間の本質にせまる。
編集革命
松岡正剛
945円
身近な例やゲームをまじえながら、私たちが一瞬一瞬やっている編集についてわかりやすく説明。


その他、セルフラーニング研究所取り扱いの書籍(見えない学校叢書)
発行:博進堂 編集:「見えない学校」叢書編集委員会
書籍のご注文 誰もが映画の主人公~記憶映画を知っていますか~
伊勢真一
945円
ドキュメンタリー映画を撮り続けている著者 の、心地よいあいまいさの中に、確かな思い と生き方が浮かび上がる。
「叩く」であそぶ
和田啓
945円
著者はバリ島の打楽器クンダンの奏者。 シンプルな叩くという行為から音楽が生まれ てくる。手を叩く、足を踏む、それも音楽なんだよ…心優しいメッセージ。

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教育項目 らくだメソッド・セルフラーニング・平井雷太・ブログ・フィンランド

2008-07-07 18:27:13 | Weblog
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3月10日 JKK定例会2008.03.12
子どもを育成するとは? 教員養成のプログラムを再考する

今年に入って1回目のJKKの定例会が上野のルノアールであって、参加者は私もいれて、8名だった。

布浦さんからは経済的に豊かなフィンランドと貧しいネパールの教育についての報告があった。

フィンランドの話からは、「ハンディキャップのある生徒は小人数にして別枠で、必ず専門教育を受けている先生がかかわる」 「先生は8ヶ月の教育実習を経て、専門性の高い先生を育成しようとしている」等々の様子が伝わってきましたが、こんな話をネパールの人が聞いたら、どう思うのだろうかと思った。

というのは、ネパールは小学校に入学しても3分の2は退学してしまい、16歳で教員の資格がとれるということですから、フィンランドのように、大学院まで行って、より高い専門知識を身につけないといい先生になれないとしたら、ネパールの教育は絶望的ということになってしまいます。

しかし、大学で教育学を学べば、いい教育(先生に依存せず、自ら学ぶ生徒の育成ができる教育)ができる先生が育つのでしょうか。もし、できるとしたら、親も教育学を学ばないと、いい親になれないということになってしまいます。教育学を学ばなくても、いい教育ができる先生が育っている現実があることを塾をやっている先生方なら誰でも実感しているはずです。ですから、「フィンランドはお金をかけているから、いい教育をしている」というのは、単なる思い込みのような気がするのですが…。

 
   自ら学ぶ生徒の育成
学歴が高い、学習意欲が高い、授業が面白い、
子どもが好き だからといって
そんな先生が自ら学ぶ生徒の育成をしようとするわけじゃない
教員資格がなくても、知識がなくても、
授業なんてしたことがなくても、子どもが好きじゃなくても
親のなかには「勉強しなさい」と言わなくても
自ら学ぶ子どもを育成しようとしている親がいる
どうすれば自ら学ぶ子どもを育成しようと心がけるようになるのか
どうすれば自ら学ぶ子どもを育成をしようとする先生が育つか
これを考えることが、いままでの教職課程に欠けていたのかもしれない





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教職課程において、自ら学ぶ子どもの育成の観点の欠落は、同感。しかし、いわゆる文明国の間ならもフィンランドの子供のほうが自ら学ぶ子どもが高いと思いますが。

何がいい何が悪いと判断するのは、難しい。
こんな時は、いつも宮沢賢治の「どんぐりと山猫の」の一説を思い出します。「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」


投稿者 : 梶原賢治 | 2008年03月13日 08:35

コメントしなおし
教職課程において、自ら学ぶ子どもの育成の観点の欠落は、同感。しかし、貧しい国の子どもの学習意欲だけを先進国の子どもと比べれば、日本の戦後の子ども同様に学習意欲は、素晴らしいものがあります。
しかし、いわゆる先進国間の比較であれば総合的にフィンランドの子供のほうが自ら学ぶ意欲を持った子どもが多いのではないかと思います。
子どもを持ったら親もいい親となるべく他人の話に耳を傾けるべきではないか。特に子育てを一回体験した自らの親の体験は、大切なのではないか。

何がいい何が悪いと判断するのは、難しい。
こんな時は、いつも宮沢賢治の「どんぐりと山猫の」の一説を思い出します。「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」


投稿者 : 梶原 | 2008年03月16日 20:26


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保険

2008-07-07 18:26:54 | Weblog
あいおい損害保険(大東京火災海上保険+千代田火災海上保険)
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
236-0038 横浜市金沢区六浦南2-27-18-201
nakamurayoshio@gmail.com
http://www.shirabemono.com/
http://www.shirabemono.com/i/
参考文献・資料提供
       あいおい損害保険(大東京火災海上保険+千代田火災海上保険)

       合資会社コスモプランニング 
       有限会社コスモエキスポートジャパン
       コスモ教育学院(坂巻憲一:空手:日本大学:日本私塾会会員)
       あっぱー22
      
       本社:〒125-0052 東京都葛飾区柴又4-24-10
       TEL:03-3671-0157
       FAX:03-3671-0156
       IP:050-3532-3653
       e-mail :info@cosmogrp.co.jp info@cosmogrp.co.jp

        記:2008-04-25 


調べもの文庫「保険」の基礎知識

保険

保険(ほけん 、英:insurance)とは、偶然に発生する事故(保険事故)によって生じる財産上の損失に備えて、多数の者が金銭(保険料)を出し合い、その資金によって事故が発生した者に金銭(保険金)を給付する制度。保険の対象とされる保険事故には交通事故・海難事故・火災・地震・死亡など様々な事象があり、人間生活の安定を崩す事件・事故・災害などの危険に対処するための制度である。

保険関係の設定を目的とする契約を保険契約といい、保険契約の当事者として、保険料の支払義務を負う者を保険契約者、保険事故が発生した場合に保険金を支払うことを引き受ける者を保険者という[1]。保険者として保険事業(保険業)を営む会社を保険会社といい、日本では保険業法(平成7年法律第105号)により規制されている。なお、保険に関する法分野を研究する学問、および保険に関する法令を総称して保険法という。日本では保険法という題名の法律はなく、保険に関しては商法(第2編第10章)等に定められている。

なお、各種共済団体が行う共済は、保険の一種である。日本では、保険業法に基づく免許を受けた保険会社が取り扱う保険を保険といい、協同組合や共済組合その他の団体が扱う保険を共済といって区別する[2]。


[編集] 概要
保険は、確率論の基本法則である大数の法則の考え方に基づく仕組みである(詳しくは保険の原理の節を参照。)。大数の法則は18世紀に確立された定理であるが、保険の萌芽は、古代ローマにおけるコレギウム(同業者葬儀組合、ラテン語:collegium)や中世・近世ヨーロッパにおけるギルド(商工業者の職種ごとの団体、英語:guild)などにみられる。その後、資本蓄積が進んだ貿易業者の間で金融取引の高度化が進み、14世紀後半のイタリア諸都市において行われた海上保険で、今日の保険契約とほぼ同じ仕組みが整った。

日本にも、古くから社倉・義倉、頼母子講(たのもしこう)、投銀 (なげがね)、海上請負など、保険に類似した仕組みはあった。しかし、今日の保険は、明治維新のときに欧米の保険制度を導入して始まったものである。1859年(安政6年)には、開港したばかりの横浜で、外国人を対象に外国保険会社によって火災保険や海上保険の引き受けが始められた。1867年(慶応3年)には、福澤諭吉が『西洋旅案内』の附録の中で、「災難請合の事 イシュアランス」として「生涯請合」(生命保険)、「火災請合」(火災保険)、「海上請合」(海上保険)の仕組みを広く紹介した[3][4]。1879年(明治12年)には東京海上保険会社(現、東京海上日動火災保険株式会社)が、1881年(明治14年)には明治生命保険会社(現、明治安田生命保険相互会社)が創立され、本格的に保険が行われるようになった。

保険は、種々の観点から分類することができる。国や地方自治体などの政府が運営する公営保険と民間会社が運営する私営保険(民営保険)、保険契約者が任意に加入する任意保険と加入が義務づけられる強制保険、営利を目的とする営利保険と相互扶助を目的とする相互保険、人の生死傷病など人体について生ずる事故を保険事故とする人保険(じんほけん)と物についての滅失・毀損を保険事故とする物保険(ぶつほけん)、航海に関する事故によって船や船荷につき生ずる損害を保険事故とする海上保険と陸上の各種保険である陸上保険、企業を主な保険契約者とする企業保険と個人を主な保険契約者とする家計保険などが、その例である。


私営保険は、民間の保険会社が販売・運営する保険で、主に生命保険と損害保険を扱う。生命保険とは人の生死に関して一定額の保険金を支払う保険で、損害保険とは一定の偶然の事故によって生ずることのある損害を填補する保険である。

日本で保険を販売する保険会社は、保険業法により、生命保険業免許を受けた生命保険会社、損害保険業免許を受けた損害保険会社、外国保険業者のうち内閣総理大臣の免許を受けた外国保険会社に分けられている。また、日本の保険会社には、営利(株主に損益帰属)を目的とする株式会社の形態をとる保険会社と、相互扶助(契約者に損益帰属)を目的とする相互会社の形態をとる保険会社がある。損害保険会社は株式会社の形態をとり、生命保険会社は相互会社または株式会社の形態をとる。

もっとも、1995年(平成7年)に公布され翌1996年(平成8年)に施行された新・保険業法により、多くの面で相互会社と株式会社を近接させ、相互会社と株式会社との双方的な組織変更をできるようにしたため、両者の違いはあまり大きくない。また、この新・保険業法では、生命保険会社と損害保険会社の両者が、ともに扱うことのできる保険分野(いわゆる第三分野保険)を定めた。第三分野保険とは、生命保険分野・損害保険分野の両者にまたがる保険で、医療保険、介護保険、がん保険などがこれにあたる。

なお、私営保険であっても、自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)や地震保険など、社会政策的目的を持って定められた保険もある。また、かつては政府が運営していた簡易保険(簡易生命保険)は、公営保険の一つであった。しかし、2007年(平成19年)10月1日からは株式会社かんぽ生命保険が取り扱っているため、私営保険に分類される[5]。




[[編集] 主な保険商品
生命保険(生保:第一分野)
終身保険
養老保険
個人年金保険
定期保険
生存保険(単体では存在せず、何かしらの死亡保障が付属される)
損害保険(損保:第二分野)
火災保険
住宅火災保険
住宅総合保険
地震保険(単独加入は不可。必ず住宅火災保険などと併せて加入する。)
普通火災保険
店舗総合保険
団地保険
海上保険
自動車保険
自賠責保険(俗称・強制保険)
任意保険
所得補償保険
賠償責任保険
個人賠償責任保険
企業賠償責任保険
専門職業人賠償責任保険
瑕疵保証責任保険
船客傷害賠償責任保険
傷害保険
普通傷害保険
家族傷害保険
ファミリー交通傷害保険
国内旅行傷害保険
海外旅行傷害保険
ゴルファー保険
第三分野保険(生保、損保)
医療保険
疾病保険 - がん保険その他の三大生活習慣病保険(=「特定疾病保険」<とくていしっぺいほけん>という)など
介護保険

[編集] 保険会社
保険業法第3条の定めにより、保険会社は生命保険会社と損害保険会社に分かれ、いずれも内閣総理大臣の免許を受けた者でなければ行うことができない。また、一つの会社が生命保険業と損害保険業を同時に行うことはできない。

外国の保険会社が日本に支店や支社を開設して日本で営業する場合も同様の規制があり、免許が必要(保険業法第185条)。


[編集] 保険会社一覧
上記の日本における保険業免許を取得している会社のみ記す。

※「株式会社」「相互会社」は省略


[編集] 生命保険
2006年10月1日現在、日本で生命保険業免許を取得している会社は、すべて生命保険協会に加盟している。

アイエヌジー生命保険(旧:ナショナーレ・ネーデルランデン生命保険)
あいおい生命保険(大東京しあわせ生命保険 + 千代田火災エビス生命保険)
アクサ生命保険(アクサ生命保険 + 旧:日本団体生命保険→ニチダン生命保険→アクサグループライフ生命保険)
朝日生命保険
アメリカンファミリー生命保険(通称:アフラック。正式には、American Family Life Assurance Company of Columbus 日本支社)
アリコジャパン(正式には、 American Life Insurance Company 日本支社)
AIGエジソン生命保険(旧:東邦生命保険→GEエジソン生命保険 + セゾン生命保険)
エーアイジー・スター生命保険(旧:千代田生命保険)
SBIアクサ生命保険株式会社
オリックス生命保険
カーディフ生命保険
かんぽ生命保険(旧:日本郵政公社の生命保険事業)
共栄火災しんらい生命保険
ウインタートウル・スイス生命保険(旧:ニコス生命保険→クレディ・スイス生命保険。※ウインタートウルグループはアクサグループ傘下)
ジブラルタ生命保険(旧:協栄生命保険)
住友生命保険
ソニー生命保険
損保ジャパン・ディー・アイ・ワイ生命保険(旧:ディー・アイ・ワイ生命保険)
損保ジャパンひまわり生命保険(アイ・エヌ・エイ生命→アイ・エヌ・エイひまわり生命→安田火災ひまわり生命保険)
第一生命保険
大同生命保険(T&Dホールディングスの子会社)
太陽生命保険(T&Dホールディングスの子会社)
チューリッヒ・ライフ・インシュアランス・カンパニー・リミテッド
T&Dフィナンシャル生命保険(旧:東京生命保険。T&Dホールディングスの子会社)
東京海上日動あんしん生命保険(東京海上あんしん生命保険 + 日動生命保険。ミレアホールディングスの子会社)
東京海上日動フィナンシャル生命保険(旧:スカンディア生命保険。ミレアホールディングスの子会社)
日本興亜生命保険(興亜まごころ生命保険 + 日本火災パートナー生命保険)
日本生命保険(生命保険を吸収)
ハートフォード生命保険
ピーシーエー生命保険(旧:オリコ生命保険)
富国生命保険
富士生命保険
プルデンシャル生命保険(旧:日産生命保険→あおば生命保険+プルデンシャル生命保険)
マスミューチュアル生命保険(旧:平和生命保険→エトナヘイワ生命保険)
マニュライフ生命保険(旧:第百生命保険→マニュライフセンチュリー生命保険)
三井生命保険
三井住友海上きらめき生命保険(三井みらい生命保険+住友海上ゆうゆう生命保険)
三井住友海上メットライフ生命保険(旧:三井住友海上シティインシュアランス生命保険)
明治安田生命保険(明治生命保険+安田生命保険)
大和生命保険(旧:大正生命保険→あざみ生命保険+大和生命保険)

[編集] 損害保険
損害保険会社については業界団体が日本損害保険協会と外国損害保険協会とに分かれており、さらにそのいずれにも加盟していない会社もある。

日本損害保険協会加盟会社
あいおい損害保険(大東京火災海上保険+千代田火災海上保険)
朝日火災海上保険
共栄火災海上保険
ジェイアイ傷害火災保険
スミセイ損害保険
セコム損害保険(旧:東洋火災海上保険→セコム東洋損害保険)
セゾン自動車火災保険(旧:オールステート自動車火災保険)
ソニー損害保険
損害保険ジャパン(安田火災海上保険+日産火災海上保険+第一ライフ損害保険+大成火災海上保険+安田火災フィナンシャルギャランティー損害保険→損害保険ジャパン・フィナンシャルギャランティー)
そんぽ24損害保険(旧:安田ライフダイレクト損害保険)
大同火災海上保険
東京海上日動火災保険(東京海上火災保険+日動火災海上保険)
トーア再保険(旧:東亜火災海上再保険)
日新火災海上保険
ニッセイ同和損害保険(同和火災海上保険+ニッセイ損害保険)
日本興亜損害保険(興亜火災海上保険+日本火災海上保険+太陽火災海上保険)
日本地震再保険
日立キャピタル損害保険(旧:ユナム・ジャパン傷害保険)
富士火災海上保険
三井住友海上火災保険(大正海上火災保険→三井海上火災保険+住友海上火災保険)
三井ダイレクト損害保険
明治安田損害保険(明治損害保険+安田ライフ損害保険)



外国損害保険協会加盟会社
※カッコ内に会社名等がある場合は、カッコ内が日本における免許会社名またはグループ会社名。 ※アルファベット順

エース保険(エース損害保険、英国領バミューダ)
AIU保険(エイアイユー インシュアランス カンパニー、アメリカ合衆国)
アメリカンホーム保険(アメリカン・ホーム・アシュアランス カンパニー、アメリカ合衆国)
アトラディウス信用保険(オランダ)
アリアンツジャパン(アリアンツ火災海上保険、ドイツ)
アクサ損害保険(フランス)
カーディフ損害保険(カーディフ・アシュアランス・リスク・ディヴェール、フランス)
コファスジャパン信用保険(コンパニー・フランセーズ・ダシュランス・プール・ル・コメルス・エクステリュール、フランス)
フェデラル保険(フェデラル・インシュアランス・カンパニー、アメリカ合衆国)
ゼネラリ保険(アシキュラチオニ・ゼネラリ・エス・ピー・エイ、イタリア)
ゲーリング・コンツェルン・アルゲマイネ・保険(ゲーリング・コンツェルン・アルゲマイネ・フェアジッヒャルングス・アクツィーエンゲルゼルシャフト、ドイツ)
ジェンワース・モーゲージ保険(日本支社が所属、アメリカ合衆国)
ユーラーヘルメス信用保険(ユーラー・ヘルメス・クレジットフェアズイヘルングス アクテイエンゲゼルシャフト、ドイツ)
現代海上火災保険(韓国)
ロイズ保険組合(ザ・ソサイエティー・オブ・ロイズ総代理店 ロイズ・ジャパン、イギリス)
ニューインディア保険(ザ・ニュー・インディア・アシュアランス・カンパニー・リミテッド、インド国営)
アールジーエー再保険(アメリカ合衆国)
スイス再保険(スイス)
大成再保険(英国領バミューダ、大成火災海上保険から会社分割)
トランスアトランティック再保険(トランスアトランティック リインシュアランスカンパニー、アメリカ合衆国)
チューリッヒ保険(チューリッヒ・インシュアランス・カンパニー、スイス)



上記両協会に加盟していない会社
アールジーエー・リインシュアランス・カンパニー(アメリカ合衆国)
アシュアランスフォアニンゲン・ガード・イェンシディグ(ノルウェー)
イーグル・スター・インシュアランス・カンパニー・リミテッド(イギリス)
ザ・ブリタニア・スティーム・シップ・インシュアランス・アソシエーション・リミテッド(イギリス)
ジ・ユナイテッド・キングドム・ミューチュアル・スティーム・シップ・アシュアランス・アソシエーション(バミューダ)リミテッド(英国領バミューダ)

[編集] 損害保険会社の行政処分
保険会社 処分発令日 処分の種類 処分の原因
日動火災海上保険 2002年4月25日 業務停止命令
業務改善命令 基礎書類違反(虚偽説明による基礎書類の認可申請等)
日動火災海上保険 2002年8月1日 業務改善命令 業務停止命令違反(代理店に対する本店の統制力不備)
損害保険ジャパン 2002年8月2日 業務改善命令 不適正契約の是正処理の放置
ユナムジャパン 2003年1月9日 業務停止命令
業務改善命令 法令違反(特別利益の提供及び無登録募集等)
あいおい損害保険 2003年5月29日 業務改善命令 法令違反(特別利益の提供等)
日本興亜損害保険 2003年11月6日 業務停止命令
業務改善命令 法令違反、募集にかかる内部管理態勢の不備、代理店による不適正募集の看過
日動火災海上保険 2004年8月20日 業務改善命令 法令違反(威迫募集、特別利益の提供等)
東京海上日動火災保険
三井住友海上火災保険
損害保険ジャパン
日本興亜損害保険
あいおい損害保険
ニッセイ同和損害保険
富士火災海上保険
共栄火災海上保険
朝日火災海上保険
セコム損害保険
スミセイ損害保険
大同火災海上保険
ソニー損害保険
セゾン自動車火災保険
三井ダイレクト損害保険
そんぽ24損害保険
エース損害保険
アクサ損害保険
ジェイアイ損害火災保険
アメリカンホーム保険
AIU保険
チューリッヒ保険
アシキュラチオニゼネラリ保険
ニューインディア保険 2005年11月25日 業務改善命令 支払管理態勢の不備等
チューリッヒ保険 2005年11月30日 業務改善命令 重要事項説明不十分、保険金支払処理の長期滞留等
損害保険ジャパン 2006年5月25日 業務停止命令
業務改善命令 法令違反、 法令等遵守態勢(募集行為における法令違反等)、経営管理態勢等の不備
三井住友海上火災保険 2006年6月21日 業務停止命令
業務改善命令 法令違反、 保険金支払管理態勢
(第三分野商品に係る保険金の多数の不適切な不払い等)、経営管理態勢等の不備
大同火災海上保険 2006年11月24日 業務改善命令 法令等遵守態勢、経営管理態勢等の不備
東京海上日動火災保険
日本興亜損害保険
あいおい損害保険
富士火災海上保険
共栄火災海上保険
日新火災海上保険 2007年3月14日 業務停止命令
業務改善命令 第三分野商品に係る保険金の多数の不適切な不払い
ニッセイ同和損害保険
日立キャピタル損害保険
アメリカンホーム保険
AIU保険 2007年3月14日 業務改善命令 第三分野商品に係る保険金の多数の不適切な不払い


[編集] 保険の問題点



[編集] 募集手数料体系
保険会社の新契約偏重・利益先行型姿勢の煽りを受け、一部の保険販売員や募集人・保険代理店が同じく新契約偏重・利益先行の姿勢をとるようになり、新契約締結のためならば違法行為をしても構わないと考える者が増えてきており、モラルの低下が進んでいる。これは、新契約の締結によって手厚い募集手数料や待遇(高額な商品の贈呈など)が受けられるというシステムがその一因になっており、契約者軽視かつ金を重視するようになっている業界の姿勢が問題となっている。

例えば生命保険においては、募集人や代理店へ支払われる募集手数料体系が顧客サービスの品質を大きく下げている。手数料の支払いにはL字払い(新規契約を締結するとまず大きな手数料が支払われ、その後数年間に渡り一定の手数料が支払われるというもの。初年度の手数料は、顧客が支払った初年度の保険料と同額以上、といった保険会社もある)という独特のシステムが定着しているが、これは言わば「新規契約を最重要視させる」システムであり、それゆえ既存顧客への対応が悪化する最大の要素となっているほか、中にはその大きな募集手数料を狙った悪質な代理店により、自身へ支払われる募集手数料が切れるタイミングを見計らって既存契約者へ新たな契約を提案したり、また過大な内容の契約や必要の無い契約を推し進めるなどして新契約を締結させてしまい、最終的に顧客に損害を与えてしまう事も実際にある。

このような募集手数料体系は、募集人や代理店のモラル低下を招き、保険業法に違反する行為に走らせてしまう原因となっているため、無視できない状況下にある。また銀行代理店など大手代理店に対して、各保険会社が競って手数料をつりあげており、契約者軽視となりやすい状況がある。


[[編集] 乗せ換え
乗せ換えは、他社の商品を解約させて自社の商品に切り替えさせる事を指して俗に言われるが、自社商品の間でも、より自社に有利な商品に切り替えさせる場合にも言う。殊に、バブル期に高利率を約束して契約した商品を解約させて、バブル崩壊後に設計された低利率の商品へ切り替えさせる場面で用いられる。

バブル崩壊後は資金の運用利回りを確保することが出来ず、従前に顧客に約束した利率の方が高くなる所謂逆ざや状態に陥った。これを解消するために、顧客に対して低利率の商品へ切り替えさせることが推奨された。この際に、商品の不利な情報(利率の低下)について充分に説明せずに、特約の追加や、それまでの契約の返戻金を組み込んで月々の支払額を下げるなどして、顧客に不利な情況をカモフラージュして契約に至らせ、実質的に予定利率を引き下げて顧客の受け取る保険金を削減する。


[編集] 死差益
保険金の運用の3つの要素として、利差損益(市場での運用益と支払いの利率の差)、費差損益(業務費用の予算と実際の費用の差、いわゆる節約で益を出す)、そして死差損益(商品設計上の死亡率と、実際の死亡率との差)がある。この中で、死差損益については、人口統計等から算出される死亡率を基に商品設計を行う一方で、保険加入時には医師の診断や告知を要求してリスクの高い顧客を排除することから、概して契約者の範囲では死亡率が低くなる傾向にあり、恒常的に利益を生む、という指摘がある。また、戦後日本では概ね寿命は延び続け、死亡率が下がる傾向にあり、対して商品設計に用いる従前の統計では死亡率が高いことから、この面でも恒常的に利益を生む、という指摘がある。

これに対して、バブル崩壊後の経営の窮状を訴える際には、もっぱら費差損益にかかる経費削減・企業努力の限界と、利差損益における逆鞘を訴え、上記の「乗せ換え」による、予定利率削減の動きを正当化する主張がなされた。さらには、利率の逆ざやをアピールした上で、既存契約についても保険会社による一方的な予定利率変更(予定利率削減)のスキームを確立する試みがなされている。一方で、死差損益に関しては触れず、恒常的に利益を生みやすい要素を隠匿して顧客に不利益を転嫁している、という指摘がなされている。


[編集] 参考
和文通話表で、「ほ」を送る際に「保険のほ」という。



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最終更新 2008年4月20日 (日) 10:26。Wikipedia®



日本庭園

2008-07-07 18:26:31 | Weblog
日本庭園

[編集] 特徴
日本庭園は寺院にあるものや、大名屋敷の庭園/庭園跡などがあり、そのほかでは政治家・実業家の邸宅/邸宅跡のほか、公共施設やホテルの敷地に造られたものもある。

構成としては池を中心にして、土地の起伏を生かすか、築山を築いて、庭石や草木を配し、四季折々に鑑賞できる景色を造るのが一般的である。滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。

庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。また枯山水といわれる、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。庭園のことを山水といったのもそのためである。室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。

日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタファーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタファー発生装置を作り上げたためだと述べている。作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタファーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。このようなメタファーを用いたのは、それが表現するものを不特定多数の人に伝える浄土式や神仙などのような古来の思想を含んだ庭には表現すべきモデルとしての、斎庭などの儀式の庭はその場の神や同調者とが、禅寺の庭も景を修行のひとつである思想を持つ人々が共有する景が必要であるからとされる。

建築から外部空間の問題は近代期の日本においては逆説的とされるが、これは日本の伝統的な建築的風土は外部空間を自明なものとして現前させてきているからで、近代建築のように様式という縛りがなくなり、すべての空間構成要素は等価となり、べつの空間構成言語として外部空間は意識されると、近代建築のフィルターをとおして日本の伝統的空間対する理解を深めていったモダニストたちは外部空間の重要性に気付き、これを自らの空間表現の遡上に載せたのである。

それを建築家堀口捨己は意識的に挙げている。堀口は明治大学建築学科での造園論の講義の中で、日本庭園の起源としての自らの庭園観を披露しているが、このとき従来の庭園イメージとは異なる庭園について述べるといって、3つの要素、古代の古墳、厳島神社、皇居の堀端を上げている。そこでは建築も、庭園も自然もそういうものがあいよりあいまて、ひとつの何か空間構成、スペースデザインというような言葉に丁度ぴったり合ったような非常に大きな空間構成をやっていると語っている。すなわち庭園を庭園と建築とに分けてしまうのではなく、建築や自然さらには敷地が持つ雰囲気をも含めた総合的で都市計画的な空間構成を持って庭園といっている。1934年に発表した岡田邸は洋室部分と和室とを外部空間である庭で媒介している。しかしここではいえとにわをつなぐ月見台が南面した広間から延び、そこから秋草の庭へと空間が遷移し、建物を外部へと開く魅力的な場所を提供している。こうした空間構成は堀口の戦後の作品にもみられる。和洋を並存させ、また建築と庭とを一体化させることで場面や奥行きを生じさせ、日本の美意識に通じる空間構成を完成させるに至る。


[編集] 庭園史

[編集] 古代

[編集] 平安期以前
3世紀から日本列島ではクニの統合や政治的連合などが進み、ヤマト王権が確立し国家が成立していく時期になるが、また高塚式の墳墓を伴う古墳が造られ始めた時代と考えられ、石室の造営や石棺の製作と古墳の葺石および居館周濠の貼石などに大量の石材の使用と、大きな石材を積み上げ固い石を加工するといった技術がみられ、墳丘の造成に版築と呼ばれる工法が使用されたり、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事が行われるようになっていた。
ヤマト王権の時代になると日本書紀にも庭園に関する記事が記載されるようになっているが、庭園に関する表現は中国の典籍からの引用があり、注意を要する。記述として、たとえば紀元1世紀に在位した景行天皇4年春2月には、泳(くくり)の宮の庭をたいそう気に入り、庭にある池を金色の鯉で充たしたというくだりがある。この少し後の古墳時代には、庭園は古代から仏教世界の中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわりに営まれているとされる。この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている。仲哀天皇8年春正月では周文王の徳を尊んで庶民が集まって霊沼が日ならずしてできた様子が記載され、白鳥は高々と飛んで魚は沼池に満ち跳ねるといった故事を思わせる。充恭天皇2年は一人で園に遊ぶ皇后にまがきにのぞんで内の薗になっているアララギをもとめる記事がある。宅地を区画するまがきを設け薗をつくって蔬菜を栽培したりするような実質的な庭空間が成立し、充恭天皇8年の、井の傍らの櫻華をみる、といった記事は自然環境的な美意識が確立していた段階と見て妥当とされる。
日本書紀によると、7世紀前半に在位していた推古天皇も宮の南に須弥山と呉橋のある庭を持っていたことや、7世紀後半に在位する斉明天皇についても同様であったとされる。斉明天皇の宮では、612年百済の帰化人が皇居南庭石上の池畔に須弥山と呉橋を築いたとされる。また620年ごろ蘇我馬子が邸宅敷地に方形の池を設け、このために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園が珍しく、評判になっていたという記録がある。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池を掘り、小島を築いて観賞の対象としての「庭園」が造られたのであるが百済から仏教が伝えられたとき、崇仏か否かの論争があったが、崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め、飛鳥寺が建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは、庭園の技術も百済より伝来したと想像させる。
推古天皇期に創建された厳島神社は、空間的特徴は海上に浮かぶ大鳥居と平舞台、本殿を結ぶ軸線に対し、曲折する回廊が取り囲み、自然に溶け込む社殿や大鳥居がアプローチにしたがって見え隠れする配置で、海を庭園の池泉に見立て、背後を囲む山岳を神体に見立てたもので、海と山を一体的に取込んだ雄大な風景が組みこまれている。対岸の地御前神社と厳島神社の対応に至っては、身をもって味わい得ても、図示することは不可能だったと、厳島神社の建築と庭園の実測を行った建築家西澤文隆の言葉がある。
三重県伊賀市で発掘されている祭事の関連遺跡である城之越遺跡は後の庭園の修景意識と技術にかんする遺構を有していたため国の名勝及び史跡に指定されて保護されている。この遺跡は古墳時代前期の4世紀後半に属するとみられ、3箇所からの涌き水が合流して大溝となって集落付近を流下し、涌き水点近くは石組みや加工木材で井戸状に囲い、貼り石護岸を有する。合流地点の岬部分は大石を配していくつかは立石として景を整える様子がうかがわれている。これは後世の流の屈曲点に石を添える手法につながる工法意識であるとされる。
大化改新後、天武天皇の皇子、草壁皇子の邸宅にも庭が設けられ、その様子は「万葉集」に草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が『万葉集』巻二に残されている。この歌から草壁皇子の庭園がかなりはっきり知られる。庭園には池がうがたれ、荒磯の様を思わせる石組みがあり、石組みの間にはツツジが植えられ、池中には島があり、このために「橘の島宮」と称せられたという。このように、池を掘り海の風景を表そうとしたことは、以後の日本庭園にも長く受け継がれる。記録に海浜・荒磯・島など海景描写の多いことは日本庭園形成の基幹を位置付けるものとして重要で海からはるかに遠い山国にあっても海景とくに瀬戸内海の美しい風景はこのころから追憶、あこがれの対象であり、これを庭園に再現する努力から筑山・池・島・白砂・水流・滝など自然要素で構成する日本の伝統様式に発展し、すでにこの時代に位置付けられていたことを示している。
飛鳥宮や平城京跡の庭園発掘がすすみ、文献では得られない知見を加えている。1975(昭和50)年に発掘された平城京の左京三条二坊六坪からは、長さ55メートル、最大幅5メートルの、細長く屈曲し、底に玉石を敷きつめた池が発掘され、公的な曲水の宴が催された庭園として注目された。池の水深は浅く汀線が複雑に湾曲しており、池底に玉石を敷き池縁に石を立てるなど、奈良時代の作庭技法と当時の庭園の様子を伺うことができる。

[編集] 平安期以後
8世紀末になって都が平安京に遷されたが、京都は三方が山に囲まれた濃い緑に囲まれる山紫水明の、清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれたがこうした自然環境は樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し、地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえる。
京には東西2町南北4町に及ぶとされる神泉苑や冷泉院、朱雀院、淳和院などの庭園があったとされているが、わずかにその一部を残す神泉苑に当時の豊富な湧水を貯えて巧みに利用した往時の姿をしのぶことができる。また郊外の景勝地を選び離宮や別荘を営んで庭園をつくることはこの頃から始まっているとされ、京都市右京区嵯峨にある大覚寺の大沢池は、嵯峨天皇が離宮の苑池として作ったものの遺構とされ、平安時代初期庭園の貴重な遺構である。その庭園の主要部である大沢の池は北岸に近い大小二つの中島と池中の立石、また北側の名古曽の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影を今日にしのばせている。
平安時代の貴族の邸宅の形式は寝殿造と呼ばれ、その建築様式は普遍化し、それに伴って庭園の様式も寝殿造り庭園としてその形式を整えていった。寝殿の正面(南側)には遣水から中島のある池に水を流し込む庭園が設けられた。また右大臣源融の邸宅河原院の庭園は奥州塩釜の海景や松島の浮島、六条院は丹後の天の橋立の模写などがそれであり、これらは前時代からの自然風景の縮景手法の延長線上に行われたことが伺える。奈良時代から受け継がれてきた海景の縮景庭園はこの時代にも広く用いられているが、莫然とした海景の模写から特定の海景の模写へと変化していった。またこれらを主題に歌合せの催しが行われていることから日本庭園が文学的・情緒的であることも一つの特色といえるが、このころは「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活形式が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」の成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。
また平安時代中期から浄土教の影響で西方浄土の極楽に見たてた浄土庭園が流行した。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り、中島を経て御堂に達するようになっていた。なお池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは、浄土曼荼羅の構図がもとになっているためと推測されている。
例:大乗院庭園跡(奈良)、平等院(京都府宇治市)、浄瑠璃寺庭園、毛越寺(岩手県平泉町)など。
この時代の庭がとくに詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』が残されているからである。平安時代後期に庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された秘伝書『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが<乞はんに従う>という言葉で表現されている。これは自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというもので、自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとする意味である。また<池なき所の遣水は、事外にひろくながして>とあるように見せ方を種々述べているが、その見せ方の記述に、後に展開される日本作庭手法の先駆的表現が示されている。四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界と建物近くに配される滝・遣水・野筋・前栽については日本人の好む作庭感が述べられている。『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は、平等院をつくった藤原頼通である。藤原頼通も庭園をつくろうとしたとき、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれる。

[編集] 中世
初めて武家政治を打ち立てた源頼朝も、鎌倉に浄土式庭園の形式を受け継いだ、永福寺の庭を造っている。頼朝が1189(文治5)年7月の奥州合戦で平泉を見聞した中尊寺、毛越寺、無量光院など精舎の荘厳さに感激し、合戦で死んだ弟義経や藤原泰衡ほか多くの将兵の鎮魂のために建立したと伝えている。1978年から鎌倉市教育委員会によって二階堂と阿弥陀堂、薬師堂を中心とする主要伽藍とこれら建物の前面に広がる庭園の遺構を確認することに主眼を定めた発掘調査が継続して行われている。1993年までに約12000平方メートルもの面積について発掘されその結果伽藍の配置や堂の規模、庭園の様子などは徐々に明らかになってきている。
13世紀初めには京都の北西に鎌倉時代初期の公卿で太政大臣であった西園寺公経は仲資王の所領であった北山山荘の地を得て北山第を建てたが、公経はこの地に巨万の富を投入し、作庭された庭園は変化に富んだ大きな池を中心に本堂西園寺をはじめ多くの御堂と住宅が配置されたもので、池に臨んで釣殿が配され、池中には中島を築き松が植えられていたとされる。1225年にこの地を訪れた藤原定家は明月記に、45尺の滝があり池水は瑠璃のようで泉石は清澄、まことに比類がない、と記し激賞している。また増鏡にも記述され、当時の地形眺望の巧みさが伺うことができる。
時の室町将軍足利義満は1397年に北山山荘の地を譲り受け北山殿と呼ばれたが、さらに規模を拡大し、山荘北山第を営み、有名な三層楼閣の舎利殿(金閣)が建立された。金閣は庭の中心をなす建築物で池に望んで建てられ、これはこの時代から楼閣からの俯瞰という、庭園鑑賞の新たな視点を生み出しているとされるが、さらに北側に建つ天橋閣と往来が可能だったとされる。竜門瀑や広大な鏡湖池と池中の大小の島々や岩島・丸山八海石を配した庭園は西方極楽に変え難く、足利義政は西方寺にも劣らない風景であると賞したとされる。義満はここを仙洞御所になぞられ、明の国史を迎えたり、天皇の行幸を仰ぐなどの公式の用に充てていたとされる。義満の死後、鹿苑寺(金閣寺)となり1422年には禅寺になっていくが、主要な建築物の大部分は移築されその際に庭園も相当な影響をうけたらしく破壊された庭石は長らく放置されていたという。現在の景観は江戸時代における住職鳳林章承の修復、復興整備によるものである。
鎌倉時代から室町時代にかけて五山を中心に禅僧たちの間に文学が隆盛し、また南宋から水墨画・山水画が伝来し、公家をも含めた詩会のためのサークルをつくっていた。このサークルの場として禅寺の書院が使われることが多く、したがって書院の庭が当然発達することになった。この小さい書院の前庭としての狭い空間に、自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。大仙院の庭は書院の東側に位置し100平方メートル余の平面に岩石を立て、刈込みを配し岩山として2段滝の石を組み、白砂で表した流れには石橋を架け岩島を設け、石堰を横たえた下流に石橋を浮かべるといった景はすべて山水画と相通ずるものがある。枯山水を参照。
この時代には夢窓疎石をはじめとする多くの作庭家が輩出される。夢窓国師は自然を愛好し、行くさきざきに名園を造った。なかでも西芳寺の庭は、禅宗の世界観で構成された傑作で、この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。ここは『作庭記』にいう山里の景に似ながら、きびしい禅の世界を思わせる。夢窓国師が庭園を造るときは、それは遊興のためではなく修行の一部であり、庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録も残されている。他の一流芸術に匹敵する庭園は、こうした心のあり方から生まれたともいえる。禅堂の前庭として非常に相応しい環境の構成であり、石組みの最高峰といえる。
例:夢窓疎石の作とされる庭園として西芳寺(京都)、天龍寺(京都)、瑞泉寺(鎌倉)などが挙げられるが、帰化僧の蘭渓道隆が関わったという説もあり確定されているものではない。代表的な枯山水庭園では、大徳寺大仙院のほか、龍安寺方丈石庭(ともに京都市)などがある。

枯池式枯山水(太山寺 安養院庭園)
池泉座視式(智積院庭園)室町時代から京都、堺の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行した。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのである。茶の湯は数寄と呼ばれ、市中の山居で営まれる。それは町屋の奥まりに位置し、茶の湯を楽しみにやってくる客人は玄関とは別に、専用の細い通路を通り茶の座敷へと向かう。これが路地であるが、この路地と市中の山居が機能的に融合させたわび茶のための庭園空間が露地と呼ばれ、海の風景表現から深山の趣に変わり、庭園表現にあらたな新境地を開く。
例:待庵露地(京都府乙訓郡大山崎町)、官休庵露地(京都市)など

[編集] 近世
江戸時代、将軍あるいは大名は、城や(江戸の)屋敷を築く際に庭園内を回遊することができる廻遊式庭園を盛んに築いた(大名屋敷の庭園に代表される池、築山を中心にした回遊できる庭園は池泉回遊式庭園といわれる。大名庭園を参照)。
例:小石川後楽園(東京都)、兼六園(金沢市)、後楽園(岡山市)、栗林公園(高松市)、水前寺成趣園(熊本市)など

[編集] 近現代
明治になると、三菱財閥の岩崎家が旧大名屋敷を次々と取得する。そうして受け継いだ旧大名庭園のいくつかは整備され、戦火を潜り抜けて現在東京都の公園として、また旧安田庭園のように区立として公開されている。また西洋の影響で生活様式や建築が変わり、それにつれて庭園にも新しい動きがみられた。大名庭園の池を芝に変えた旧岩崎邸庭園、青森の盛美園、徳川昭武の別邸戸定邸庭園など、旧大名や政府の高官、新しい実業家たちが日本庭園をつくったが、従来の池の広い水面の変わりに芝生面を広くとった明るい庭、園内に洋館を建てるなどの和洋折衷の庭で、ここで園遊会などが行われたとされる。
当時の首都東京では江戸時代の大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊され、この現状を目の前にして小沢圭次郎は職務の余暇として古い庭園の記録と資料収集を行っており、退職してからはさらに庭園研究に励み、1915(大正4)年『明治庭園記』を発表するに至る。収集した資料は800余巻に及んだ。小沢は単なる庭園史の研究家でなく自らも日本庭園を作庭し、天王寺公園や伊勢内宮・外宮の外苑、栗林公園の修景のほか、ロンドンで開催された日英博覧会に出展された日本庭園、また自身の故郷三重県桑名市では1928年に松平定信百年祭にともない造られた九華公園などの作品がある。また庭園研究のほか、漢学への造詣が深く、漢詩文集『晩成堂詩草』15巻を書いている。
明治後半期の東京に数多く建てられた新興ブルジョアジーたちの大邸宅庭園の様子は近藤正一『名園五十種』にも紹介されている。同書で折衷式の庭の様子がよくわかり、渋沢栄一の邸宅愛依村荘は広大な敷地の中に日本家屋と洋館が建ち並び、洋風と和風の庭園、また茶室と茶庭を兼ね備えていることがわかる。また京都武者小路一門の茶匠で造園家の磯谷宗庸設計の三菱深川親睦園日本庭園内の洋館はジョサイア・コンドルが手がけたが、コンドルはこの後和風住居や庭園と洋館・洋風庭園を並存した旧岩崎邸庭園や三井網町別邸、旧諸戸清六邸、旧古河庭園などを手がけていく。




[編集] 日本三名園
以下の三つの日本庭園は、それぞれ雪月花を鑑賞する代表的な大名庭園として、日本三名園あるいは日本三大庭園と呼ばれる。

ただし、その由来や選定基準は明確でない。いずれも江戸時代につくられた広大な大名庭園が選ばれている点で、日本庭園すべてを考慮したものといえないことも指摘されている

兼六園(石川県金沢市)
後楽園(岡山県岡山市)
偕楽園(茨城県水戸市)


カテゴリ: 日本の住宅の歴史 | 日本庭園 | 日本文化関連のスタブ項目


最終更新 2008年3月26日 (水) 06:24。Wikipedia®


毎月 満月の夜 海 の 公園 音楽 おたけび 自由に

2008-07-07 18:26:13 | Weblog

今月のイベント
定期教室
ばおはい
満月に吠える会
ばおぼん
ばお農
お仲間リンク
ばおばぶって? CAFEメニュー ギャラリー 陶芸くらぶ MAP 満月に吠える会

毎月 満月の夜

海 の 公園

音楽

おたけび

自由に


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今月は21日です。

満月の出は早いので時間をチェックして昇るところから見られるとよいでしょう。

東の空に紅く大きな光の塊がゆらゆらとあのぼってきます。

集まって観るのも楽しいけど、各々が各々の場でお月様を眺めて見ませんか?

今月から海の公園に集まるのを止めます。

あなたの月をあなたが見つけてください。

ばおばぶは満月には吼え続けていますから、あなたもあなたの場でね。

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株式会社 葉山ガーデン

2008-07-07 18:25:51 | Weblog
 
神奈川

参番館
元町店(B-CREST)
藤沢・長後店
上大岡店
宮前店
平塚店
相模原店
リーフキッズ

東京
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町田店
環八砧店
昭島店
三鷹店
成城店



その他
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八千代店
松戸店
大宮店
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B-CREST


株式会社 葉山ガーデン
神奈川県三浦郡葉山町上山口2178-2 〒240-0115
Tel.0468(79)2250 Fax.0468(79)2202

■第16回葉山芸術祭 HAYAMA ART & MUSIC FESTIVAL 2008

2008-07-07 18:25:35 | Weblog
森山神社「雑木囃子・LIVE」には、たくさんのご来場をありがとうございました!
次回の森山神社イベント「はっぴー・クラフトバザール(5月10日)」もお楽しみに。

今年の葉山芸術祭、いよいよスタートです。パンフレット片手に春の葉山を存分に楽しんでください。これから約3週間、葉山のアチコチに点在するオープンハウス・主催企画の各会場でお会いしましょうね。


■第16回葉山芸術祭 HAYAMA ART & MUSIC FESTIVAL 2008
 2008年4月19日(土)~5月11日(日)
 主催 葉山芸術祭実行委員会/後援予定 葉山町、逗子市,葉山町・逗子市の各教育委員会 
 葉山町観光協会 *一部の催しは葉山町との共催予定です。

■総合問合せ先:アートカフェ 〒240-0112 三浦郡葉山町堀内1870
 E-mai:art-cafe@ki.rim.or.jp TEL&FAX :046-877-1441

以下の日付をクリックすると、その日に開催されている企画イベントが表示されます。

APRIL MAY
19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
土 日 月 火 水 木 金 土 日 月 火 水 木 金 土 日 月 火 水 木 金 土 日
GoogleMapによる参加企画の詳細地図も参考にしてください。
おすすめページ



開催中 4/19~5/11

American goods. atelier MAARU& le petit atelier de Mma wada.

●American goodsはアルミ、ミルクガラス、ビンテージクロスなどアメリカの古き良き時代を感じ見てください。4月19日(土)~24日(木) ●atelier MAARUはキッチングッズを製作中!4月25日(金)~30日(水) ●le petit atelier de Mma wada.はディナー後の男女四人なぜか険悪なムード、見る人によっ…

Live HAYAMA Deli



開催中 4/19~5/06

ハヤマ・ブルース

葉山に移り住んで4年目になります。自然に触れ、人との交流を通して葉山ならではの題材に取り組んで出来上がった写真作品を、今回は、葉山大道かやのきテラス内にある“もうひとつの風景”で展示します。会期中の4月25日(金)に、NHK教育TV「にほんごであそぼ」でもおなじみのおおたか静流さんと、ピアニカ奏者であり…

bruce



開催中 4/24~4/29

ANIMAL WARNINGー銀で種を蒔く’08

自宅兼工房shopにて、原始的な製法による手造りのシルバーアクセサリーの展示、販売をします。 芸術祭期間中は、通常の営業以外にご希望者対象のワークショップ(シルバークラフト体験)を受付しています。 銀を溶かして、ハンマーで叩いてかたちを造る、ペンダント¥5.000~、ピアスひとつ¥5.000、左右セット¥…

ハブト



開催中 4/25~4/27

ガーナの布/HIGH LIFE2008

アフリカはガーナとご縁があり、パワーを貰いつつその布でいろんなものを、私オリジナルの解釈で作る。今年は今年の風が吹きますよ~!布販売、受注受付あります。シンジマンのガーナスープ&disco jackでnice musicもお楽しみに。場所はいつもお世話になってます、逗子のchahat!

リコ



開催中 4/24~4/27

海とアロマ

青い海、潮風の香り、波の音に耳をかたむけ、まるでプライベートビーチみたいな海を眺めながら 手作りピザやパスタ、香り高いコーヒーを楽しむ。  そしてアロマセラピートリートメントで、ひと休み・・・そんな葉山じかんを過ごしませんか。 <アロマトリートメント> 心地良いと感じる香りを選んでいただき、…

海とアロマ



開催中 4/24~4/26

ライフアファ展 Organic life clothing

3年以上農薬を使わない畑で取れたコットンは糸そのものに優しい感性を秘めている。無撚糸のタオルのフワフワ感や細番手のニットで作ったTシャツの感触は赤ちゃんの肌のよう。ピュアーな大地のめぐみをそのままにライフアファの日常着は地球着です。モエレワ(ハワイ語でハンモック)も展示します。

Life afa



開催中 4/24~5/11

ロケットバナナの不思議な円~カップ&コースター

今年は、「カップ&コースター」と題し、普通に使えるカップとコースターを取り揃えます。カップは、行商先で出会った作家さんから取り寄せます。 カップは、諏訪から陶房「焔」の楽しいカップたちです。今年で3回目のお取り寄せです。東京三鷹から「風露花」のフリーカップたち。こちらは、今年初めて。 …

ロケットバナナ



開催中 4/19~5/11

【陶芸体験】2008~悠楽窯

 うららかな春の陽が差しこむ悠楽窯アトリエで、今年も【一日陶芸体験】を行います。2時間半の講座で気軽に体験できます。 鳥のさえずりや風に揺れる葉音を聞きながら、陶芸を楽しみませんか。良質な素材と確かな焼成で雰囲気のある作品に仕上がります。   ■手びねりコース 3,150円 (税込) 湯呑、フリーカ…

悠楽窯



開催中 4/19~5/11

水そー屋さんの水槽ギャラリー

”虹で繋がる森と海岸”→森戸海岸の風景を水槽の中で表現してみました。大中小サイズの電気類を使わないエコ金魚鉢→さかなと貝と緑とバクテリアで小さな金魚鉢の中に生態系ができています。世界に一つしかないオリジナルアート金魚鉢→アーティスト狩集さんとのコラボ作品!狩集さんが金魚鉢に彫りを入れ、水そー屋が…

水そー屋さん



開催中 4/23~4/29

「ぐるうぷ創」水彩画展

「ぐるうぷ創」は。朝日カルチャーセンター湘南の「蝦名協子先生(国画会)水彩画教室」の仲間です。先生はじめメンバーの作品から、静物、風景、人物などを展示いたします。水彩画に興味のある方、水彩画を始めてみたい方、皆様でお楽しみ頂けると思います。プライベートギャラリーで、ゆったりとした時間をお過ごしになっ…

バレンシア










自分のカラダを旅しよう#2
コメント数:2件 天空洞
ロケットバナナの不思議な円~カップ…
コメント数:1件 ロケットバナナ




イルカのKちゃん 絵本原画展~海か…
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Friends
コメント数:5件 さっちゃん








自分のカラダを旅しよう#2

天空洞治療室/旅部隊では、今年もまたまた自分のカラダの旅をオススメします。 今年のテーマはカラダの構成要素「気 血 津液」 …

4/25 リンク: 17 コメント: 2

天空洞


INSPIRING PAINTINGS/yudai meets nas at chahat zushi

inspiring=インスパイアリング=鼓舞する 葉山の住宅建設現場から出た廃材にアクリルペイントやコラージュをほどこした、絵とオブジェの…

4/24 リンク: 22 コメント: 2

nas




海いろの天然石アクセサリー 

季節ごとに自然の色みを生かした、ふだん着のアクセサリーを作っています今回は海に似合う夏物のアクセサリーを中心に展示したいと思いま…

4/24 リンク: 0 コメント: 0

yayoi&co.


まったりベリーダンス&ギター演奏会 2008

5月3日、まったりロッカに、ベリーダンサーズとギター弾きが現れます! (←写真はクリックすると大きくなります。ぜひ♪) …

4/23 リンク: 0 コメント: 0

Oツカ




豆太珈琲&HAKUフォトギャラリー(ポストカード)

淹れたての新鮮な秋谷ブレンド珈琲を愉しみながら HAKUのフォトギャラリーで心を癒してみませんか?ポストカードを販売します、是非誰か…

4/22 リンク: 0 コメント: 0

HAKU


SHONAN COAST LINEー湘南の海光と暮らしー 鈴木増一 写真展

海岸線を照らす光、そこに住む人のあたたかい暮らし。ずっと伝えていきたい、かけがえのない美しさ。 何代も前からのネイティブ葉山民…

4/21 リンク: 19 コメント: 3

鈴木増一@町屋倶楽部




まったりロッカ ふたたび♪

今年も葉山の空にTシャツが泳ぎます。 初夏の散歩のお休み処。まったり浮かぶロッカ亭にぜひ、お立ち寄りください。 ******* …

4/21 リンク: 0 コメント: 0

Oツカ


Sorairo

昨年の3月に、普通の一軒家の2階を利用して和菓子カフェをオープンしました。場所は、デニーズと森戸神社の間くらい。とてもわかりにくく…

4/20 リンク: 0 コメント: 0

そら




2008パンフレットがあるお店

パンフレットが入手できるお店をリストしてみました。



湘南国際村 フリーマーケット [2008年5月3日~6日]

2008-07-07 18:25:16 | Weblog
湘南国際村 フリーマーケット [2008年5月3日~6日]


湘南国際村 地図 路線&徒歩ルート





海の見える高台に立地する「元町ユニオン」店頭広場。さわやかな潮風と掘り出し物に誘われて、毎週多くの方が来場する人気会場です。

【開 催 日】 2008年5月3日(土)~6日(火) ※雨天中止
【時  間】 10:00~15:00
【出 店 数】 約100店
【開催場所】 湘南国際村
【お問合せ】 サークルライフ:0466-81-4944
【備  考】 駐車場:無料

≪アクセス≫
横横道路「横須賀インター」より10分。
【最寄駅】「逗子」駅よりバス「湘南国際村センター前」下車。


※出店に関しては主催団体にお問合わせください。
※ご注意:日程・時間・場所などは、天候や諸事情により変更される場合があります。


湘南国際村フェスティバル2008
湘南国際村 フリーマーケット [2008年5月11日]
湘南国際村 フリーマーケット [2008年5月18日]
湘南国際村 フリーマーケット [2008年5月25日]


出典
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薄田泣菫  利休と遠州

2008-07-07 14:22:40 | 17 ◎調べもの文芸文庫
利休と遠州
薄田泣菫



        一

 むかし、堺衆の一人に某といふ数寄者がありました。その頃の流行にかぶれて、大枚の金子を払つて出入りの道具屋から、雲山といふ肩衝(かたつき)の茶入を手に入れました。太閤様御秘蔵の北野肩衝も、徳川家御自慢の初花肩衝も、よもやこれに見勝るやうなことはあるまいと思ふにつけて、某はその頃の名高い茶博士から、何とか折紙つきの歎賞の言葉を得て、雲山の誉れとしたいものだと思つてゐました。
 機会は来ました。ある日のこと、某は当時の大宗匠千利休を招いて、茶会を催すこととなりました。
 かねて主人の口から、この茶入について幾度ならず吹聴せられてゐた利休は、主人の手から若狭盆に載せられたこの茶入を受け取つてぢつと見入りました。名だたる宗匠の口から歎美の一言を待ち設けた主人の眼は、火のやうに燃えながら、利休の眼を追つて幾度か茶入の肩から置形(おきがた)の上を走りました。
 あらゆる物の形を徹(とほ)してその心を見、その心の上に物の調和を味はふことに馴れてゐる利休の眼は、最初にちらとこの肩衝を見た時から、この茶入の持つ心持がどうも気に入らなかつた。しかしできるだけその物の持つてゐる美しい点を見逃すまいとする利休の平素(ふだん)からの心掛けは、隠れた美しさを求めて、幾度か掌面(てのひら)の茶入を見直さしました。肩の張りやうにも難がありました。置形にも批の打ちどころがありました。一口に言へば衒気(げんき)に満ちた作品でした。
 利休は何にも言はないで、静かにその肩衝を若狭盆の上に返さうとしました。その折でした。利休が自分に注がれた主人の鋭い眼付きを発見しましたのは。その眼には驕慢(けうまん)と押しつけがましさとが光つてゐました。利休はその一刹那に、主人の表情に茶入の心持を見てとりました。茶入の表情に主人の心持を味はひました。
 主人は得意さうに利休の一言を待ち構へてゐました。利休は何にも言ひませんでした。狭い茶室はこの沈黙に息づまるやうに感ぜられました。
 湯はしづかに煮え沸(たぎ)つてゐました。主人の顔からはいつのまにか押しつけがましさが消えて、物を頼むときのやうな弱々しい表情が見え出しました。利休は眼ざとくそれを見て取りましたが、何事にも気のつかない振りをしてゐました。いつだつたか、利休は前田玄以(げんい)の茶会で、主人の玄以が胴高(どうたか)の茶入を持ち出してきて、
「この肩衝が……」
と、茶入の胴高なのに気がつかないで、しきりと肩衝を繰り返して、利休の意見を聞きたがつてゐるのに出会つたことがありました。利休はいまさらそれを胴高だと教へもならず、をかしさをこらへてただ黙つてゐると、それがひどく玄以の機嫌を損じたかして、その後はうばうで自分のことを悪様(あしざま)に言ひふらし、果ては太閤殿下にまで讒訴(ざんそ)を試みてゐるといふことを聞いてゐるので、こんな場合の沈黙が、どうかすると自分の一身にとんでもない災難をもたらさないものでもないことをよく知つてゐました。しかし自分はこの道の宗匠である。自分の一挙手一投足は長くこの道の規範として残り、自分の一言は器の真の価値を定める最後の判断であるのを思ふと、滅多なことは口に出せませんでした。利休はただ黙つてゐました。

 茶がすんで、利休が席を退くと、その少し前からやつと気持の平静を取り返したらしい主人は、雲山の肩衝を手のひらに載せて、しばらくぢつと見とれてゐましたが、いきなりそれを炉(いろり)の五徳に叩きつけました。茶入は音をたてて砕け散りました。
「何をなされます、こんな名器を……」
 席に居残つて、何かと世間話に興じてゐた二人の相客は、びつくりして主人の顔を見つめました。
 主人はそれには何も答へないで、静かに羽箒(はばうき)を取つてそこらに飛び散つた挽茶(ひきちや)の細かい粉を払つてゐました。
「何をそんなにお腹立ちで、こんな名器をお毀(こは)しなされた」
 二人の客はいくらか不興げな顔をして、腑に落ちなささうに訊きました。
「いま時利休が賞め言ひとつ申さぬものを……」主人はどうかすると興奮しさうになる自分の心を、強ひて抑へつけるやうに、一語一語力を籠めながら、ぼつりぼつりと息を切つて言ひました。
「賞め言ひとつ申さぬものを秘蔵したとあつては、末代までの恥辱でござるからな」
 誇りを持つた主人の言前(いひまへ)に、二人の客は顔を見合せて口を噤(つぐ)むよりほかには仕方がありませんでした。急に茶室のなかが薄暗くなつたかと思ふと、時雨がはらはらと軒の板庇を叩いて通りました。
「御主人……」しばらくしてから客の一人が口を切りました。「少し趣向もござれば、その茶入の破片は拙者において所望いたしたい」
「最早手前には無用の品、どうか御随意になされますやう」
 主人はほがらかな気持で答へました。その客は静かに炉縁ににじり寄つて、灰のなかから茶入の破片をこくめいに拾ひ上げました。
 時雨はいつか通り過ぎたかして、室のなかはまたぱつと明るくなつてきました。

        二

 雲山肩衝の破片を拾ひ集めた茶人の手で、間もなく茶会がまた催されました。
 客の一人としてその席に招かれた利休の顔は、若狭盆に載せられた肩衝の茶入が眼につくと、驚きの色で輝きました。それはばらばらに幾つかに毀れたのを、無雑作に継ぎ合せたもので、なかには破片と破片とが互ひに入違ひになつてゐるところもあつて、誰の眼にも素人の手で繕はれたものとはすぐに見別けられました。
 が、利休の驚いたのは、この席で疵(きず)入りの肩衝を見つけたからではありません。その茶入が紛(まが)ふ方もなく、ついこなひだ堺衆なにがしの茶席で見かけた雲山そのものだつたからでした。それに気がつくと同時に、利休の眼の前には、驕慢と押しつけがましさとで火のやうに燃えてゐたその持主の顔が描き出されました。
「たうとう割りをつたな」利休は心のなかでさう思ひました。「大抵の者ならば、割るよりもまづ売るはうを考へたらうにな」
 利休はしづかに盆の上から茶入をとりあげました。そして初めて気付いたもののやうに言ひました。
「ほう、これはいつぞやの雲山でござるな」見ると素人の手でへたに繕はれただけに、茶入には以前の衒気は跡方もなく消えてゐました。利休にはそれが以前の持主の名器に対する執着の抛擲(はうてき)のやうにも見えました。利休は独語のやうに言ひました。「これでこそ、結構至極ぢや……」

        三

「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は、たちまちその頃の茶人たちのなかに拡がりました。そして前にはこれを見て何ひとつ言はなかつた利休に、結構至極と折紙をつけさせるやうになつたのは、茶入の割れ目を繕つたその無雑作加減が、茶道の極意にかなつたからだと噂されました。
「こんな名器を貰ひ徳にしておいては、茶人冥利につきまいものでもない」
 かう思つた持主は、その肩衝を持参して、訳を話して以前の持主に返さうとしました。以前の持主は強くかぶりをふつて、
「うち砕いて土に戻した雲山に、まためぐりあはふなどとは思ひもかけませぬことぢやて」
といつて、てんで相手にもしなかつたさうです。

        四

「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は器の値打をだんだんとせり上げました。疵入の雲山は数寄者から富豪へ、富豪から大名へと、次々に譲渡されて、最後にすばらしい値打と評判とをもつて、ある東国の大名の手に納まりました。
 それを聞きつけたのが、その頃丹後宮津の城主であつた京極安知でした。安知は茶器のためだつたら自分の家来はいふまでもないこと、ただひとつしか持つてゐなかつた小さな魂をも売るのを厭はないといつた性(たち)の大名でした。
「雲山が所持したい。あれさへ所持できたなら、茶入の望みは生涯またと持つまいに」
 安知はかう言つて、しみじみと歎きました。そして病気にさへなりました。その容態を看るべく京極家に迎へられた某といふ医者は、安知の病気が自分の持ち合せの医薬では、とても治らないことを見てとりました。そして別の医療法をとることに決めました。別の医療法といふのは、
「欲しがるものは与へる」
といふことでした。医者は雲山肩衝の今の持主である東国の大名にも出入りを許されてゐましたから、早速その旨を通じました。
「京極侯には、雲山を所望して病気にまで罹(かか)られたとか。それはお気の毒なことぢや。さやうに所望せらるれば遣(つか)はさないものでもないが、あれは利休も結構至極と賞めた当家秘蔵の品ぢやによつて、金二駄を少しでも欠いでは………」
 その大名はかう言つて笑ひました。この人は京極安知よりも、人間が少し賢く生れてゐましたから、頭から拒(は)ねつけないで、金二駄ならば相談に乗つてもいいと答へたのです。金二駄と言へば一万二千両ですから、小藩の京極家では指をくはへて引つ込むよりほかには仕方があるまいといふ腹なのでした。しかし、ものに溺れやすい安知には、そんな銭勘定を飛び越すくらゐは何でもなかつたのです。医者から事情を聞いた彼は、
「利休の賞め立てた品ぢや。金二駄は安からうて」
といつて喜びました。案に相違したのは東国の大名です。この場合唯一の方法は、
「あれは戯談(じようだん)ぢや」
と逃げを打つことでしたが、大名といふものは、仮にも戯談なぞ言ふものではないと、常々からたしなめられてゐましたから、さうも言へませんでした。で、雲山は金二駄を身の代として、めでたく京極家に引きとられました。
 京極安知は、気のくさくさするときには、いつも雲山を二重箱の中から取り出しました。そして、
「利休がこれを見て、結構至極ぢやと言つたさうな」
と、口のなかで呟きながら、幾度か見直し、見直ししてゐると、心はおのづとこんな名器を秘蔵してゐる誇りに満たされて、言はうやうのない安慰を覚えるのでした。
 が、こんなことを繰り返してゐるうちに、安知は不思議なことを発見しました。それは茶入の割れ目があまりぞんざいに継がれて、破片と破片とが互ひに入れ違ひになつてゐるところのあるのが、どうも気になつてならないといふことでした。
「その無雑作なのがいい、茶道の極意にかなつてゐるところぢや」
 安知は世間の評判を言葉通りに胸のなかで繰り返してみました。しかし、これまで長い間いろんな名器から訓練せられた彼の趣味と鑑識とは、さういふ口の下からむつくりと頭を持ち上げて、
「さうかと言つて、この疵が……」
と強く不服を唱へました。そして入れ違ひになつてゐるその破片を、も一度正しく継ぎ直したなら、茶入はもつと見栄えがするやうになるだらうと考へました。
 安知は思ひあまつて、自分の茶道の師範役である小堀遠州に相談を持ちかけました。
 遠州は雲山を取り上げて、仔細に見直しました。
「京極侯のお言葉には、いかにももつともな節がある。さりながら……」
 遠州はその瞬間、
「利休が結構至極ぢやと言つたさうな」
といふ世間の言伝へを思ひ出しました。そして腑に落ちない節はありながら、古い宗匠の言ひ遺した言葉は、そのままに立てておいたはうが無難であると思ひました。
「この茶入は、継ぎ目の合はぬところこそ、利休にも面白がられ、世間にも取り囃(はや)されたので、どうかこのまま大事に残しおかるるやうに」
 遠州はかう言つて返事をしました。

        五

 遠州は間もなく亡くなりました。
 寂しい、灰色の死の国をさまよつてゐるうちに、遠州はゆくりなくも大樹のかげで一人の老人を見かけました。粒桐(つぶきり)の紋の小袖に八徳(はつとく)を着、角(つの)頭巾を右へなげ、尻切れをはき、杖をついて遠見をしてゐるらしいその姿は、遠州をしてすぐに宗匠利休を思はせました。そのむかし、利休自身の手で大徳寺の山門の上に置かれたのを、太閤の命令で船岡山に投げ捨てられたこの茶人の木像を、遠州は一、二度見かけたことがありました。
「これは、これは、利休宗匠でいらせられますか」
 遠州は自分の工風(くふう)した遠州流のものごしで叮嚀(ていねい)に挨拶しました。
「あんたはどなたかな」
 利休は悲しさうな眼をしよぼしよぼさせて訊きました。
「私は小堀政一と申して、宗匠の流れを汲む茶人の一人でございます」
「ほう、茶をやられるか。それは奇特なことぢやな」
 利休はなつかしさうに言つて、生前に茶器を鑑定(めきき)した時のやうな眼つきをして、しげしげと遠州の顔を見ました。
 その眼つきを見ると、遠州はふとあることを思ひ出しましたので、顔を老人の耳にすりつけるやうにして言ひました。
「宗匠、ここでお目にかかりましたのを御縁に、ちよつとしたことをお訊ね申したいと思ひますが……」
「何か訊ねたいといはつしやるか」
 利休は、老人が年下のものに何か訊かれる折のやうに、意地悪く気取つて見せましたが、それは気の毒なほど弱々しいものでした。
「はい。お伺ひしたいのは、実はあの雲山のことですが、……」
「雲山?」老人はその名前がどうしても飲み込めないやうに訊き返しました。「雲山といふとどなたのことかな」
 遠州はちよつと笑ひ顔を見せました。
「雲山と申しますのは、肩衝の名前です」
「肩衝? 肩衝といふと――」老人の寂しい顔に一脈の火が点ぜられました。言葉にも何となく元気がありました。「太閤御秘蔵の北野肩衝、徳川家の初花肩衝、そのほか肩衝にはいろいろあるが、雲山といふのは一向覚えがない」
 遠州はもどかしさうに声を高めました。
「雲山と申しますのは、以前堺衆が秘蔵してゐたのを、宗匠の御挨拶がなかつたばかりに五徳に叩きつけて割りました……」
 老人はやつと記憶を取り返しました。
「さう、さう。そんなこともあるにはあつたやうぢやな。しかし、そんなことを訊いてどうしなさるのぢや」
 遠州は言葉を次ぎました。
「その後、茶入が素人の手で無雑作に継がれたのを御覧になつて、宗匠がこれでこそ結構至極と、その肩衝をお賞めなさいました」
「いや、違ふ。それは違ふ」老人は樹の枝のやうな手を振りながら、遠州の言葉を抑へました。「わしが賞めたのは、千金にも代へ難いその誇りと執着とを、茶器とともに叩き割つた持主のほがらかな心の持ち方ぢや。ただそれだけの話ぢや」
「それでは、茶入をお賞めになつたのぢや……」遠州は呆気にとられて、老人の顔を見つめました。
「さうとも。さうとも。賞めたのは、ただその心持ばかりぢや」
 老人はきつぱりと言ひ切りました。
 それを聞くと、遠州はすぐにあの茶入に対する世間の評判を思ひ出しました。今の持主の京極安知が彼に相談したことを思ひ出しました。そしてそれに対する自分の返事をそつと思ひ出して、覚えず顔を赤らめました。
 老人はそれには一向気がつかない容子でした。

〔昭和2年刊『猫の微笑』〕





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底本:「泣菫随筆」冨山房百科文庫43、冨山房
   1993(平成5)年4月24日第1刷発行
   1994(平成6)年7月20日第2刷発行
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:

太宰治  令嬢アユ(6300字)

2008-07-07 14:18:14 | 17 ◎調べもの文芸文庫
令嬢アユ
太宰治



 佐野君は、私の友人である。私のほうが佐野君より十一も年上なのであるが、それでも友人である。佐野君は、いま、東京の或る大学の文科に籍を置いているのであるが、あまり出来ないようである。いまに落第するかも知れない。少し勉強したらどうか、と私は言いにくい忠告をした事もあったが、その時、佐野君は腕組みをして頸垂(うなだ)れ、もうこうなれば、小説家になるより他は無い、と低い声で呟(つぶや)いたので、私は苦笑した。学問のきらいな頭のわるい人間だけが小説家になるものだと思い込んでいるらしい。それは、ともかくとして、佐野君は此(こ)の頃いよいよ本気に、小説家になるより他は無い、と覚悟を固めて来た様子である。日、一日と落第が確定的になって来たのかも知れない。もうこうなれば、小説家になるより他は無い、と今は冗談でなく腹をきめたせいか、此の頃の佐野君の日常生活は、実に悠々たるものである。かれは未だ二十二歳の筈(はず)であるが、その、本郷の下宿屋の一室に於(お)いて、端然と正座し、囲碁の独(ひと)り稽古にふけっている有様を望見するに、どこやら雲中白鶴の趣さえ感ぜられる。時々、背広服を着て旅に出る。鞄(かばん)には原稿用紙とペン、インク、悪の華、新約聖書、戦争と平和第一巻、その他がいれられて在る。温泉宿の一室に於いて、床柱を背負って泰然(たいぜん)とおさまり、机の上には原稿用紙をひろげ、もの憂げに煙草のけむりの行末を眺め、長髪を掻き上げて、軽く咳(せき)ばらいするところなど、すでに一個の文人墨客の風情がある。けれども、その、むだなポオズにも、すぐ疲れて来る様子で、立ち上って散歩に出かける。宿から釣竿(つりざお)を借りて、渓流の山女(やまめ)釣りを試みる時もある。一匹も釣れた事は無い。実は、そんなにも釣を好きでは無いのである。餌(えさ)を附けかえるのが、面倒くさくてかなわない。だから、たいてい蚊針を用いる。東京で上等の蚊針を数種買い求め、財布にいれて旅に出るのだ。そんなにも好きで無いのに、なぜ、わざわざ釣針を買い求め旅行先に持参してまで、釣を実行しなければならないのか。なんという事も無い、ただ、ただ、隠君子の心境を味わってみたいこころからである。
 ことしの六月、鮎(あゆ)の解禁の日にも、佐野君は原稿用紙やらペンやら、戦争と平和やらを鞄にいれ、財布には、数種の蚊針を秘めて伊豆の或る温泉場へ出かけた。
 四五日して、たくさんの鮎を、買って帰京した。柳の葉くらいの鮎を二匹、釣り上げて得意顔で宿に持って帰ったところ、宿の人たちに大いに笑われて、頗(すこぶ)るまごついたそうである。その二匹は、それでもフライにしてもらって晩ごはんの時に食べたが、大きいお皿に小指くらいの「かけら」が二つころがっている様を見たら、かれは余りの恥ずかしさに、立腹したそうである。私の家にも、美事な鮎を、お土産(みやげ)に持って来てくれた。伊豆のさかなやから買って来たという事を、かれは、卑怯(ひきょう)な言いかたで告白した。「これくらいの鮎を、わけなく釣っている人もあるにはあるが、僕は釣らなかった。これくらいの鮎は、てれくさくて釣れるものではない。僕は、わけを話してゆずってもらって来た。」と奇妙な告白のしかたをしたのである。
 ところで、その時の旅行には、もう一つ、へんなお土産があった。かれが、結婚したいと言い出したのである。伊豆で、いいひとを見つけて来たというのであった。
「そうかね。」私は、くわしく聞きたくもなかった。私は、ひとの恋愛談を聞く事は、あまり好きでない。恋愛談には、かならず、どこかに言い繕(つくろ)いがあるからである。
 私が気乗りのしない生返事をしていたのだが、佐野君はそれにはお構いなしに、かれの見つけて来たという、その、いいひとに就(つ)いて澱(よど)みなく語った。割に嘘の無い、素直な語りかただったので、私も、おしまいまで、そんなにいらいらせずに聞く事が出来た。
 かれが伊豆に出かけて行ったのは、五月三十一日の夜で、その夜は宿でビイルを一本飲んで寝て、翌朝は宿のひとに早く起してもらって、釣竿をかついで悠然と宿を出た。多少、ねむそうな顔をしているが、それでもどこかに、ひとかどの風騒の士の構えを示して、夏草を踏みわけ河原へ向った。草の露が冷たくて、いい気持。土堤にのぼる。松葉牡丹(まつばぼたん)が咲いている。姫百合(ひめゆり)が咲いている。ふと前方を見ると、緑いろの寝巻を着た令嬢が、白い長い両脚を膝(ひざ)よりも、もっと上まであらわして、素足で青草を踏んで歩いている。清潔な、ああ、綺麗(きれい)。十メエトルと離れていない。
「やあ!」佐野君は、無邪気である。思わず歓声を挙げて、しかもその透きとおるような柔い脚を確実に指さしてしまった。令嬢は、そんなにも驚かぬ。少し笑いながら裾(すそ)をおろした。これは日課の、朝の散歩なのかも知れない。佐野君は、自分の、指さした右手の処置に、少し困った。初対面の令嬢の脚を、指さしたり等して、失礼であった、と後悔した。「だめですよ、そんな、――」と意味のはっきりしない言葉を、非難の口調で呟いて、颯(さ)っと令嬢の傍をすり抜けて、後を振り向かず、いそいで歩いた。躓(つまず)いた。こんどは、ゆっくり歩いた。
 河原へ降りた。幹が一抱え以上もある柳の樹蔭(こかげ)に腰をおろして、釣糸を垂れた。釣れる場所か、釣れない場所か、それは問題じゃない。他の釣師が一人もいなくて、静かな場所ならそれでいいのだ。釣の妙趣は、魚を多量に釣り上げる事にあるのでは無くて、釣糸を垂れながら静かに四季の風物を眺め楽しむ事にあるのだ、と露伴先生も教えているそうであるが、佐野君も、それは全くそれに違いないと思っている。もともと佐野君は、文人としての魂魄(こんぱく)を練るために、釣をはじめたのだから、釣れる釣れないは、いよいよ問題でないのだ。静かに釣糸を垂れ、もっぱら四季の風物を眺め楽しんでいるのである。水は、囁(ささや)きながら流れている。鮎が、すっと泳ぎ寄って蚊針をつつき、ひらと身をひるがえして逃れ去る。素早いものだ、と佐野君は感心する。対岸には、紫陽花(あじさい)が咲いている。竹藪(たけやぶ)の中で、赤く咲いているのは夾竹桃(きょうちくとう)らしい。眠くなって来た。
「釣れますか?」女の声である。
 もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服(かんたんふく)を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。
「いや、釣れるものではありません。」へんな言いかたである。
「そうですか。」令嬢は笑った。二十歳にはなるまい。歯が綺麗だ。眼が綺麗だ。喉(のど)は、白くふっくらして溶けるようで、可愛い。みんな綺麗だ。釣竿を肩から、おろして、「きょうは解禁の日ですから、子供にでも、わけなく釣れるのですけど。」
「釣れなくたっていいんです。」佐野君は、釣竿を河原の青草の上にそっと置いて、煙草をふかした。佐野君は、好色の青年ではない。迂濶(うかつ)なほうである。もう、その令嬢を問題にしていないという澄ました顔で、悠然と煙草のけむりを吐いて、そうして四季の風物を眺めている。
「ちょっと、拝見させて。」令嬢は、佐野君の釣竿を手に取り、糸を引き寄せて針をひとめ見て、「これじゃ、だめよ。鮠(はや)の蚊針じゃないの。」
 佐野君は、恥をかかされたと思った。ごろりと仰向(あおむけ)に河原に寝ころんだ。「同じ事ですよ。その針でも、一二匹釣れました。」嘘を言った。
「あたしの針を一つあげましょう。」令嬢は胸のポケットから小さい紙包をつまみ出して、佐野君の傍にしゃがみ、蚊針の仕掛けに取りかかった。佐野君は寝ころび、雲を眺めている。
「この蚊針はね、」と令嬢は、金色の小さい蚊針を佐野君の釣糸に結びつけてやりながら呟く。「この蚊針はね、おそめという名前です。いい蚊針には、いちいち名前があるのよ。これは、おそめ。可愛い名でしょう?」
「そうですか、ありがとう。」佐野君は、野暮(やぼ)である。何が、おそめだ。おせっかいは、もうやめて、早く向うへ行ってくれたらいい。気まぐれの御親切は、ありがた迷惑だ。
「さあ、出来ました。こんどは釣れますよ。ここは、とても釣れるところなのです。あたしは、いつも、あの岩の上で釣っているの。」
「あなたは、」佐野君は起き上って、「東京の人ですか?」
「あら、どうして?」
「いや、ただ、――」佐野君は狼狽(ろうばい)した。顔が赤くなった。
「あたしは、この土地のものよ。」令嬢の顔も、少し赤くなった。うつむいて、くすくす笑いながら岩のほうへ歩いて行った。
 佐野君は、釣竿を手に取って、再び静かに釣糸を垂れ、四季の風物を眺めた。ジャボリという大きな音がした。たしかに、ジャボリという音であった。見ると令嬢は、見事に岩から落ちている。胸まで水に没している。釣竿を固く握って、「あら、あら。」と言いながら岸に這(は)い上って来た。まさしく濡れ鼠のすがたである。白いドレスが両脚にぴったり吸いついている。
 佐野君は、笑った。実に愉快そうに笑った。ざまを見ろという小気味のいい感じだけで、同情の心は起らなかった。ふと笑いを引っ込めて、叫んだ。
「血が!」
 令嬢の胸を指さした。けさは脚を、こんどは胸を、指さした。令嬢の白い簡単服の胸のあたりに血が、薔薇(ばら)の花くらいの大きさでにじんでいる。
 令嬢は、自分の胸を、うつむいてちらと見て、
「桑の実よ。」と平気な顔をして言った。「胸のポケットに、桑の実をいれて置いたのよ。あとで食べようと思っていたら、損をした。」
 岩から滑り落ちる時に、その桑の実が押しつぶされたのであろう。佐野君は再び、恥をかかされた、と思った。
 令嬢は、「見ては、いやよ。」と言い残して川岸の、山吹の茂みの中に姿を消してそれっきり、翌日も、翌々日も河原へ出ては来なかった。佐野君だけは、相かわらず悠々と、あの柳の木の下で、釣糸を垂れ、四季の風物を眺め楽しんでいる。あの令嬢と、また逢いたいとも思っていない様子である。佐野君は、そんなに好色な青年ではない。迂濶すぎるほどである。
 三日間、四季の風物を眺め楽しみ、二匹の鮎を釣り上げた。「おそめ」という蚊針のおかげと思うより他は無い。釣り上げた鮎は、柳の葉ほどの大きさであった。これは、宿でフライにしてもらって食べたそうだが、浮かぬ気持であったそうである。四日目に帰京したのであるが、その朝、お土産の鮎を買いに宿を出たら、あの令嬢に逢ったという。令嬢は黄色い絹のドレスを着て、自転車に乗っていた。
「やあ、おはよう。」佐野君は無邪気である。大声で、挨拶した。
 令嬢は軽く頭をさげただけで、走り去った。なんだか、まじめな顔つきをしていた。自転車のうしろには、菖蒲(あやめ)の花束が載せられていた。白や紫の菖蒲の花が、ゆらゆら首を振っていた。
 その日の昼すこし前に宿を引き上げて、れいの鞄を右手に、氷詰めの鮎の箱を左手に持って宿から、バスの停留場まで五丁ほどの途(みち)を歩いた。ほこりっぽい田舎道である。時々立ちどまり、荷物を下に置いて汗を拭いた。それから溜息(ためいき)をついて、また歩いた。三丁ほど歩いたころに、
「おかえりですか。」と背後から声をかけられ、振り向くと、あの令嬢が笑っている。手に小さい国旗を持っている。黄色い絹のドレスも上品だし、髪につけているコスモスの造花も、いい趣味だ。田舎のじいさんと一緒である。じいさんは、木綿の縞(しま)の着物を着て、小柄な実直そうな人である。ふしくれだった黒い大きい右手には、先刻の菖蒲の花束を持っている。さては此の、じいさんに差し上げる為に、けさ自転車で走りまわっていたのだな、と佐野君は、ひそかに合点した。
「どう? 釣れた?」からかうような口調である。
「いや、」佐野君は苦笑して、「あなたが落ちたので、鮎がおどろいていなくなったようです。」佐野君にしては上乗(じょうじょう)の応酬である。
「水が濁ったのかしら。」令嬢は笑わずに、低く呟いた。
 じいさんは、幽(かす)かに笑って、歩いている。
「どうして旗を持っているのです。」佐野君は話題の転換をこころみた。
「出征したのよ。」
「誰が?」
「わしの甥(おい)ですよ。」じいさんが答えた。「きのう出発しました。わしは、飲みすぎて、ここへ泊ってしまいました。」まぶしそうな表情であった。
「それは、おめでとう。」佐野君は、こだわらずに言った。事変のはじまったばかりの頃は、佐野君は此の祝辞を、なんだか言いにくかった。でも、いまは、こだわりもなく祝辞を言える。だんだん、このように気持が統一されて行くのであろう。いいことだ、と佐野君は思った。
「可愛いがっていた甥御さんだったから、」令嬢は利巧そうな、落ちついた口調で説明した。「おじさんが、やっぱり、ゆうべは淋(さび)しがって、とうとう泊っちゃったの。わるい事じゃないわね。あたしは、おじさんに力をつけてやりたくて、けさは、お花を買ってあげたの。それから旗を持って送って来たの。」
「あなたのお家は、宿屋なの?」佐野君は、何も知らない。令嬢も、じいさんも笑った。
 停留場についた。佐野君と、じいさんは、バスに乗った。令嬢は、窓のそとで、ひらひらと国旗を振った。
「おじさん、しょげちゃ駄目よ。誰でも、みんな行くんだわ。」
 バスは出発した。佐野君は、なぜだか泣きたくなった。
 いいひとだ、あの令嬢は、いいひとだ、結婚したいと、佐野君は、まじめな顔で言うのだが、私は閉口した。もう私には、わかっているのだ。
「馬鹿だね、君は。なんて馬鹿なんだろう。そのひとは、宿屋の令嬢なんかじゃないよ。考えてごらん。そのひとは六月一日に、朝から大威張りで散歩して、釣をしたりして遊んでいたようだが、他の日は、遊べないのだ。どこにも姿を見せなかったろう? その筈だ。毎月、一日(ついたち)だけ休みなんだ。わかるかね。」
「そうかあ。カフェの女給か。」
「そうだといいんだけど、どうも、そうでもないようだ。おじいさんが君に、てれていたろう? 泊った事を、てれていたろう?」
「わあっ! そうかあ。なあんだ。」佐野君は、こぶしをかためて、テーブルをどんとたたいた。もうこうなれば、小説家になるより他は無い、といよいよ覚悟のほどを固くした様子であった。
 令嬢。よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ、とも思うのだけれども、嗚呼(ああ)、やはり私は俗人なのかも知れぬ、そのような境遇の娘さんと、私の友人が結婚するというならば、私は、頑固に反対するのである。





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底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年1月29日公開
2005年10月27日修正
青空文庫作成ファイル:

有島武郎   碁石を呑んだ八っちゃん

2008-07-07 14:04:04 | 17 ◎調べもの文芸文庫
碁石を呑んだ八っちゃん
有島武郎



 八(や)っちゃんが黒い石も白い石もみんなひとりで両手でとって、股(もも)の下に入れてしまおうとするから、僕は怒ってやったんだ。
「八っちゃんそれは僕んだよ」
 といっても、八っちゃんは眼(め)ばかりくりくりさせて、僕の石までひったくりつづけるから、僕は構わずに取りかえしてやった。そうしたら八っちゃんが生意気に僕の頬(ほっ)ぺたをひっかいた。お母さんがいくら八っちゃんは弟だから可愛(かあい)がるんだと仰有(おっしゃ)ったって、八っちゃんが頬ぺたをひっかけば僕だって口惜(くや)しいから僕も力まかせに八っちゃんの小っぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先きが眼にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配だった。ひっかいたらすぐ泣くだろうと思った。そうしたらいい気持ちだろうと思ってひっかいてやった。八っちゃんは泣かないで僕にかかって来た。投げ出していた足を折りまげて尻(しり)を浮かして、両手をひっかく形にして、黙ったままでかかって来たから、僕はすきをねらってもう一度八っちゃんの団子鼻の所をひっかいてやった。そうしたら八っちゃんは暫(しばら)く顔中(かおじゅう)を変ちくりんにしていたが、いきなり尻をどんとついて僕の胸の所がどきんとするような大きな声で泣き出した。
 僕はいい気味で、もう一つ八っちゃんの頬ぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足許(あしもと)にころげている碁石(ごいし)を大急ぎでひったくってやった。そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物(きもの)を縫っていた婆(ばあ)やが、眼鏡(めがね)をかけた顔をこちらに向けて、上眼(うわめ)で睨(にら)みつけながら、
「また泣かせて、兄さん悪いじゃありませんか年かさのくせに」
 といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそうに泣くものだから、いきなり立って来て八っちゃんを抱き上げた。婆やは八っちゃんにお乳を飲ませているものだから、いつでも八っちゃんの加勢をするんだ。そして、
「おおおお可哀(かあい)そうに何処(どこ)を。本当に悪い兄さんですね。あらこんなに眼の下を蚯蚓(みみず)ばれにして兄さん、御免(ごめん)なさいと仰有(おっしゃ)いまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」
 誰(たれ)が八っちゃんなんかに御免なさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆やを睨みつけてやった。
 婆やはわあわあ泣く八っちゃんの脊中を、抱いたまま平手でそっとたたきながら、八っちゃんをなだめたり、僕に何んだか小言(こごと)をいい続けていたが僕がどうしても詫(あやま)ってやらなかったら、とうとう
「それじゃよう御座(ござ)んす。八っちゃんあとで婆やがお母さんに皆んないいつけてあげますからね、もう泣くんじゃありませんよ、いい子ね。八っちゃんは婆やの御秘蔵(ごひぞう)っ子。兄さんと遊ばずに婆やのそばにいらっしゃい。いやな兄さんだこと」
 といって僕が大急ぎで一(ひと)かたまりに集めた碁石の所に手を出して一掴(ひとつか)み掴もうとした。僕は大急ぎで両手で蓋(ふた)をしたけれども、婆やはかまわずに少しばかり石を拾って婆やの坐(すわ)っている所に持っていってしまった。
 普段なら僕は婆やを追いかけて行って、婆やが何んといっても、それを取りかえして来るんだけれども、八っちゃんの顔に蚯蚓ばれが出来ていると婆やのいったのが気がかりで、もしかするとお母さんにも叱(しか)られるだろうと思うと少し位(ぐらい)碁石は取られても我慢する気になった。何しろ八っちゃんよりはずっと沢山こっちに碁石があるんだから、僕は威張っていいと思った。そして部屋の真中(まんなか)に陣どって、その石を黒と白とに分けて畳の上に綺麗(きれい)にならべ始めた。
 八っちゃんは婆やの膝(ひざ)に抱かれながら、まだ口惜(くや)しそうに泣きつづけていた。婆やが乳をあてがっても呑(の)もうとしなかった。時々思い出しては大きな声を出した。しまいにはその泣声が少し気になり出して、僕は八っちゃんと喧嘩(けんか)しなければよかったなあと思い始めた。さっき八っちゃんがにこにこ笑いながら小さな手に碁石を一杯(いっぱい)握って、僕が入用(いら)ないといったのも僕は思い出した。その小さな握拳(にぎりこぶし)が僕の眼の前でひょこりひょこりと動いた。
 その中(うち)に婆やが畳の上に握っていた碁石をばらりと撒(ま)くと、泣きじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆やの膝からすべり下りてそれをおもちゃにし始めた。婆やはそれを見ると、
「そうそうそうやっておとなにお遊びなさいよ。婆やは八っちゃんのおちゃんちゃんを急いで縫い上(あげ)ますからね」
 といいながら、せっせと縫物(ぬいもの)をはじめた。
 僕はその時、白い石で兎(うさぎ)を、黒い石で亀(かめ)を作ろうとした。亀の方は出来たけれども、兎の方はあんまり大きく作ったので、片方の耳の先きが足りなかった。もう十ほどあればうまく出来上るんだけれども、八っちゃんが持っていってしまったんだから仕方がない。
「八っちゃん十だけ白い石くれない?」
 といおうとしてふっと八っちゃんの方に顔を向けたが、縁側の方を向(むい)て碁石をおもちゃにしている八っちゃんを見たら、口をきくのが変になった。今喧嘩したばかりだから、僕から何かいい出してはいけなかった。だから仕方なしに僕は兎をくずしてしまって、もう少し小さく作りなおそうとした。でもそうすると亀の方が大きくなり過(すぎ)て、兎が居眠りしないでも亀の方が駈(かけ)っこに勝(かち)そうだった。だから困っちゃった。
 僕はどうしても八っちゃんに足らない碁石をくれろといいたくなった。八っちゃんはまだ三つですぐ忘れるから、そういったら先刻(さっき)のように丸い握拳だけうんと手を延ばしてくれるかもしれないと思った。
「八っちゃん」
 といおうとして僕はその方を見た。
 そうしたら八っちゃんは婆やのお尻の所で遊んでいたが真赤(まっか)な顔になって、眼に一杯涙をためて、口を大きく開いて、手と足とを一生懸命にばたばたと動かしていた。僕は始め清正公様(せいしょうこうさま)にいるかったいの乞食(こじき)がお金をねだる真似(まね)をしているのかと思った。それでもあのおしゃべりの八っちゃんが口をきかないのが変だった。おまけに見ていると、両手を口のところにもって行って、無理に口の中に入れようとしたりした。何んだかふざけているのではなく、本気の本気らしくなって来た。しまいには眼を白くしたり黒くしたりして、げえげえと吐(は)きはじめた。
 僕は気味が悪くなって来た。八っちゃんが急に怖(こ)わい病気になったんだと思い出した。僕は大きな声で、
「婆や……婆や……八っちゃんが病気になったよう」
 と怒鳴(どな)ってしまった。そうしたら婆やはすぐ自分のお尻の方をふり向いたが、八っちゃんの肩に手をかけて自分の方に向けて、急に慌(あわ)てて後(うしろ)から八っちゃんを抱いて、
「あら八っちゃんどうしたんです。口をあけて御覧(ごらん)なさい。口をですよ。こっちを、明(あかる)い方を向いて……ああ碁石を呑んだじゃないの」
 というと、握り拳をかためて、八っちゃんの脊中を続けさまにたたきつけた。
「さあ、かーっといってお吐きなさい……それもう一度……どうしようねえ……八っちゃん、吐くんですよう」
 婆やは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中をたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中(うち)に婆やの側に来て立ったままで八っちゃんの顔を見下(みおろ)していた。八っちゃんの顔は血が出るほど紅(あか)くなっていた。婆やはどもりながら、
「兄さんあなた、早くいって水を一杯……」
 僕は皆まで聞かずに縁側に飛び出して台所の方に駈(か)けて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気はなおるにちがいないと思った。そうしたら婆やが後(うしろ)からまた呼びかけた。
「兄さん水は……早くお母さんの所にいって、早く来て下さいと……」
 僕は台所の方に行くのをやめて、今度は一生懸命でお茶の間の方に走った。
 お母さんも障子を明けはなして日なたぼっこをしながら静かに縫物をしていらしった。その側(そば)で鉄瓶(てつびん)のお湯がいい音をたてて煮えていた。
 僕にはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中(うち)は駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった。
「お母さん……お母さん……八っちゃんがね……こうやっているんですよ……婆やが早く来てって」
 といって八っちゃんのしたとおりの真似(まね)を立ちながらして見せた。お母さんは少しだるそうな眼をして、にこにこしながら僕を見たが、僕を見ると急に二つに折っていた背中を真直(まっすぐ)になさった。
「八っちゃんがどうかしたの」
 僕は一生懸命真面目(まじめ)になって、
「うん」
 と思い切り頭を前の方にこくりとやった。
「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」
 僕はもう一度前と同じ真似をした。お母さんは僕を見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急ぎで頭にさしていた針を抜いて針さしにさして、慌(あわ)てて立ち上って、前かけの糸くずを両手ではたきながら、僕のあとから婆やのいる方に駈けていらしった。
「婆や……どうしたの」
 お母さんは僕を押しのけて、婆やの側に来てこう仰有(おっしゃ)った。
「八っちゃんがあなた……碁石でもお呑(の)みになったんでしょうか……」
「お呑みになったんでしょうかもないもんじゃないか」
 お母さんの声は怒った時の声だった。そしていきなり婆やからひったくるように八っちゃんを抱き取って、自分が苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足を動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。
「象牙(ぞうげ)のお箸(はし)を持って参(まい)りましょうか……それで喉(のど)を撫(な)でますと……」婆やがそういうかいわぬに、
「刺(とげ)がささったんじゃあるまいし……兄さんあなた早く行って水を持っていらっしゃい」
 と僕の方を御覧(ごらん)になった。婆やはそれを聞くと立上ったが、僕は婆やが八っちゃんをそんなにしたように思ったし、用は僕がいいつかったのだから、婆やの走るのをつき抜(ぬけ)て台所に駈けつけた。けれども茶碗(ちゃわん)を探してそれに水を入れるのは婆やの方が早かった。僕は口惜(くや)しくなって婆やにかぶりついた。
「水は僕が持ってくんだい。お母さんは僕に水を……」
「それどころじゃありませんよ」
 と婆やは怒ったような声を出して、僕がかかって行くのを茶碗を持っていない方の手で振りはらって、八っちゃんの方にいってしまった。僕は婆やがあんなに力があるとは思わなかった。僕は、
「僕だい僕だい水は僕が持って行(ゆ)くんだい」
 と泣きそうに怒って追っかけたけれども、婆やがそれをお母さんの手に渡すまで婆やに追いつくことが出来なかった。僕は婆やが水をこぼさないでそれほど早く駈けられるとは思わなかった。
 お母さんは婆やから茶碗を受取ると八っちゃんの口の所にもって行った。半分ほど襟頸(えりくび)に水がこぼれたけれども、それでも八っちゃんは水が飲めた。八っちゃんはむせて、苦しがって、両手で胸の所を引っかくようにした。懐(ふとこ)ろの所に僕がたたんでやった「だまかし船(ふね)」が半分顔を出していた。僕は八っちゃんが本当に可愛そうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死ぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死ぬにちがいないと思った。
 今まで口惜しがっていた僕は急に悲しくなった。お母さんの顔が真蒼(まっさお)で、手がぶるぶる震えて、八っちゃんの顔が真紅(まっか)で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ぼっちになってしまったようで、我慢のしようもなく涙が出た。
 お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やは膝(ひざ)をついたなりで覗(のぞ)きこむように、お母さんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。
 その中(うち)に八っちゃんが胸にあてがっていた手を放して驚いたような顔をしたと思ったら、いきなりいつもの通りな大きな声を出してわーっと泣き出した。お母さんは夢中になって八っちゃんをだきすくめた。婆やはせきこんで、
「通りましたね、まあよかったこと」
 といった。きっと碁石がお腹(なか)の中にはいってしまったのだろう。お母さんも少し安心なさったようだった。僕は泣きながらも、お母さんを見たら、その眼に涙が一杯たまっていた。
 その時になってお母さんは急に思い出したように、婆やにお医者さんに駈けつけるようにと仰有った。婆やはぴょこぴょこと幾度(いくど)も頭を下(さげ)て、前垂(まえだれ)で、顔をふきふき立って行った。
 泣きわめいている八っちゃんをあやしながら、お母さんはきつい眼をして、僕に早く碁石をしまえと仰有った。僕は叱(しか)られたような、悪いことをしていたような気がして、大急ぎで、碁石を白も黒もかまわず入れ物にしまってしまった。
 八っちゃんは寝床の上にねかされた。どこも痛くはないと見えて、泣くのをよそうとしては、また急に何か思い出したようにわーっと泣き出した。そして、
「さあもういいのよ八っちゃん。どこも痛くはありませんわ。弱いことそんなに泣いちゃあ。かあちゃんがおさすりしてあげますからね、泣くんじゃないの。……あの兄さん」
 といって僕を見なすったが、僕がしくしくと泣いているのに気がつくと、
「まあ兄さんも弱虫ね」
 といいながらお母さんも泣き出しなさった。それだのに泣くのを僕に隠して泣かないような風(ふう)をなさるんだ。
「兄さん泣いてなんぞいないで、お坐蒲団(ざぶとん)をここに一つ持って来て頂戴(ちょうだい)」
 と仰有った。僕はお母さんが泣くので、泣くのを隠すので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になってお母さんの仰有るとおりにしたら、ひょっとして八っちゃんが助かるんではないかと思って、すぐ坐蒲団を取りに行って来た。
 お医者さんは、白い鬚(ひげ)の方のではない、金縁(きんぶち)の眼がねをかけた方のだった。その若いお医者さんが八っちゃんのお腹(なか)をさすったり、手くびを握ったりしながら、心配そうな顔をしてお母さんと小さな声でお話をしていた。お医者の帰った時には、八っちゃんは泣きづかれにつかれてよく寝てしまった。
 お母さんはそのそばにじっと坐(すわ)っていた。八っちゃんは時々怖(こ)わい夢でも見ると見えて、急に泣き出したりした。
 その晩は僕は婆やと寝た。そしてお母さんは八っちゃんのそばに寝なさった。婆やが時々起きて八っちゃんの方に行(ゆ)くので、折角(せっかく)眠りかけた僕は幾度も眼をさました。八っちゃんがどんなになったかと思うと、僕は本当に淋(さび)しく悲しかった。
 時計が九つ打っても僕は寝られなかった。寝られないなあと思っている中(うち)に、ふっと気が附(つ)いたらもう朝になっていた。いつの間に寝てしまったんだろう。
「兄さん眼がさめて」
 そういうやさしい声が僕の耳許(みみもと)でした。お母さんの声を聞くと僕の体はあたたかになる。僕は眼をぱっちり開いて嬉(うれ)しくって、思わず臥(ね)がえりをうって声のする方に向いた。そこにお母さんがちゃんと着がえをして、頭を綺麗(きれい)に結(い)って、にこにことして僕を見詰めていらしった。
「およろこび、八っちゃんがね、すっかりよくなってよ。夜中にお通じがあったから碁石が出て来たのよ。……でも本当に怖(こわ)いから、これから兄さんも碁石だけはおもちゃにしないで頂戴ね。兄さん……八っちゃんが悪かった時、兄さんは泣いていたのね。もう泣かないでもいいことになったのよ。今日こそあなたがたに一番すきなお菓子をあげましょうね。さ、お起き」
 といって僕の両脇に手を入れて、抱き起(おこ)そうとなさった。僕は擽(くすぐ)ったくってたまらないから、大きな声を出してあははあははと笑った。
「八っちゃんが眼をさましますよ、そんな大きな声をすると」
 といってお母さんはちょっと真面目(まじめ)な顔をなさったが、すぐそのあとからにこにこして僕の寝間着を着かえさせて下さった。





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底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行
底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣
   1922(大正11)年6月
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年10月18日公開
2005年11月18日修正
青空文庫作成ファイル:

LES MISERABLES 改訳について 豊島与志雄

2008-07-07 14:02:06 | 17 ◎調べもの文芸文庫
レ・ミゼラブル
LES MISERABLES
改訳について
豊島与志雄



「レ・ミゼラブル」の翻訳を私が仕上げたのは、ずいぶん以前のことである。年少菲才(ひさい)の身をもって事にあたったので、意に満たぬ点が多々あった。しかるに今度改訂の機会を得て、旧稿に手を入れてみた。
 翻訳の仕事の難事であることは言うまでもない。ことに、自由奔放にペンを走らしたと思える「レ・ミゼラブル」のような浩瀚(こうかん)なものについては、種々の困難が伴なうものである。だが私としては相当の努力はしたつもりである。私がとくに意を用いたのは、原文の調子を、気分を、なるべく保存したいということであった。そのため、時には、荘重ではあっても拮屈(きっくつ)のきらいがあるかも知れない。それは余儀ないことであった。「レ・ミゼラブル」は、世間で往々想像されてるような卑俗な作品ではなく、高遠な理想主義で一貫されてる作品である。
 私はこの改訳をもって、自分の「レ・ミゼラブル」翻訳の決定版としたい。再訂の余暇を持たないだろうからである。そして巻頭の私の序文は、この作品に対する私の若き日の感懐の記念である。
 なお、書中傍点付きのところは、原書にておもにラテン語もしくはイタリック字体となってる部分である。

豊島与志雄





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底本:「レ・ミゼラブル(一)」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年4月16日改版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:

【座右の銘にしたい四字熟語:①~⑩】

2008-07-07 13:57:05 | 19 ▽資格・検定・応募(文学賞)
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

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陣頭指揮(じんとうしき):四字熟語データバンク四字熟語」でムリなく覚えて毎日の習慣に! ※まぐまぐ【殿堂入り】 · 毎年恒例!2006年「創作 四字熟語」入選作品(住友生命) · 当サイトは人気ランキング参加中です!現在の順位は? 「座右の銘にしたい名言集」であなたの人生の座右の銘を探そう! ...
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かっこいい四字熟語とか言葉を座右の銘にしたいのですが何かいいの ...2007年9月9日 ... かっこいい四字熟語とか言葉を座右の銘にしたいのですが何かいいのありませんか? kin_tama_dekaiさん. かっこいい四字熟語とか言葉を座右の銘にしたいのですが何かいいのありませんか? アバター. 知恵コイン: 7517枚; グレード ...
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【大学通信:①~⑩】

2008-07-07 13:48:41 | 5 メールマガジン(大学)
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

【大学通信:①~⑩】 の検索結果 約 439万 件中 1 - 10 件目




Campus Navi Network ||| 大学通信国公私立大学・大学院および短期大学、専門学校、私立中学校・高等学校、小学校の入試や学び、卒業後の進路など、教育関連情報を提供する出版社『大学通信』の公式ホームページです。教育、進学、受験、就職に関する最新ニュースをはじめ、学校検索や資料 ...
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私立大学通信教育協会財団法人私立大学通信教育協会は、通信教育課程を設置する私立大学相互の協力によって、大学通信教育の振興を図ることを目的に設立されており、その趣旨に賛同した下記の大学・大学院・短期大学が加盟校となって運営されています。 ...
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慶應義塾大学通信教育課程慶應義塾大学通信教育課程は、福澤諭吉創業の精神に則り、独立自尊の人格を育成し,精深な学術の理論と応用とを研究教授し ... 昭和23年大学通信教育講座として開講された当課程は、昭和25年新制大学通信教育部としての認可を受け、現在に至っています。 ...
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法政大学通信教育部 トップページ法政大学通信教育部は、日本で最も早く設立された歴史と伝統ある通信制大学です。幅広い科目や様々なスクーリングを数多く開講、ご自分のペースに合わせて学ぶことが可能です。
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中央大学通信教育部 | 法学部通信教育課程へようこそより深い法律知識を身につけて仕事にいかしたい」「職務上必要に迫られている」中央大学法学部通信教育課程では、税理士など職業柄法律に接することの多い方が、より高い目標をもって学んでいます。授業料は年額8万円。1科目から学べる制度もあります。
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日本大学通信教育部2008年6月5日, 日本大学通信教育部創設60周年記念懸賞論文作品募集について. 2008年5月28日, 日本大学進学相談会で通信教育部の入学説明会を行います. 2008年2月29日, 感染症予防について. 2008年1月24日, 平成20年度入学説明会・模擬授業の情報を ...
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武蔵野大学通信教育部武蔵野大学通信教育部【人間関係学科】はインターネットを利用して学習する通信制大学です。
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佛教大学通信教育部(トップ)佛教大学通信教育部 : 公式ホームページ(トップ) | 「自立と共生」の佛教精神に立脚した社会人に開かれた通信制大学として、昭和28年に関西で最初の大学通信教育を開設して以来、多くの卒業生を輩出するとともに数多くの教員養成をも行ってきました。
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通信制大学特集大学通信教育は、向学心を持ちながらも、地理的、時間的制約などがあって、その実現に困難を伴う人たちの期待に応えようとする正規の大学教育課程です。平成19年度現在、40大学、23大学院、9短期大学が通信教育を実施(放送大学を含む)。 ...
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通信制大学体験記慶応義塾大学通信通信教育課程の入学から卒業までの記録を記した体験記。社会人のための大学のすすめでもあります。
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【マーシャル コミンフォルム コメコン NATO 】

2008-07-07 13:34:06 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

【マーシャル コミンフォルム コメコン NATO 】の検索結果 約 1210 件

コミンフォルム - Wikipediaコミンフォルム(英Cominform)は共産党・労働者党情報局(Communist Information Bureau)の略。 ... 大戦前のコミンテルンの後身に相当するが、コミンテルンが労働者の統一戦線樹立を目指したのに対して、コミンフォルムでは各国共産党の情報交換が主な ...
ja.wikipedia.org/wiki/コミンフォルム - 60k - キャッシュ - 関連ページ

マーシャル・プラン - Wikipedia冷戦時代のヨーロッパとマーシャル・プラン支援を受けた国を示している地図。赤いグラフは、各国の援助の規模の数値 ... マーシャル・プラン(Marshall Plan)とは第二次世界大戦後にアメリカが計画し、実行したヨーロッパ復興計画である。1947年6月5日に ...
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チェコスロヴァキア、三つの転機まず政治部門ではトルーマン=ドクトリン(西)とコミンフォルム(東)、経済部門ではマーシャル=プラン(西)とコメコン(東)、そして軍事部門ではNATO(西)とワルシャワ条約機構(東)です。要注意ですね。 次回は9月初旬(2学期スタート時)に更新します。 ...
www.mantoman.co.jp/sub/108.htm - 14k - キャッシュ - 関連ページ

冷たい戦争しかし、西ドイツが再軍備を始めNATOに加盟すると、1955年5月14日、ソ連は、アルバニア、ブルガリア、チェコ .... 戦争 鉄のカーテン トルーマン宣言 マーシャル=プラン トルーマンマーシャル ポイント=フォア計画 コミンフォルム コメコン ...
www.hm.h555.net/~hajinoue/print/55tumetaisensou.htm - 18k - キャッシュ - 関連ページ

世界史猛特訓第 133 号 [The World History]以 後、東西両陣営の対立は軍事同盟結成へと進んだ。1949年、西欧連合を母体と して北大西洋条約機構(NATO)が結成され、 .... 3:第四共和政 4:人民民主主義 5:封じ込め政策 6:マーシャル 7:コミンフォルム 8:コメコン 9:ブリュッセル ...
www.sekaishi.com/mailmag/sekamo/133.html - 18k - キャッシュ - 関連ページ

経済相互援助会議 - フレッシュアイペディア1980年代のコメコン加入国. 経済相互援助会議(けいざいそうごえんじょかいぎ、Council for Mutual Economic Assistance)は、1949年、 ... 通称はCOMECON(コメコン)。東欧の加盟国が多かったことから、東欧経済相互援助会議と呼称されることもある。 ...
wkp.fresheye.com/wikipedia/経済相互援助会議 - 58k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] 39 東西陣営成立 38 第二次大戦 41 多極化と終結 40 東西冷戦ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
マーシャル= プラ. イラク. イラク. コミンフォルム. ン. カストロ. スエズ運河. チェコ. コミンフォルム. 非同盟諸国 ... コメコン. パリ. ィア. 英印円卓. ソ連. NATO. METO. 部分核実験. 新インド統治. 独ソ不可侵. ドイツ連邦共和国 ...
yyyajinet.hp.infoseek.co.jp/goku4.pdf - 関連ページ

二大陣営の対立Ⅰ(縮図、ドイツの東西分裂)ーエピソード高校日本史 ...これをセフ、またはコメコンといいます。 2月22日、フランス共産党のトレーズ書記長は、「仏ソ戦争勃発の場合、フランス ... 鉄のカーテン、トルーマン=ドクトリン、マーシャル=プラン、コミンフォルム. 1, 個人レベルでも気の合わない人もいます。 ...
www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/272_01.htm - 19k - キャッシュ - 関連ページ

COMECONマーシャル=プランを非難したソ連と東欧諸国は,相互援助条約を発展させて,1947年10月,コミンフォルム(共産党情報局)をワルシャワで結成した ... 【波紋】コメコンが設立されると,西側諸国は北大西洋条約機構(NATO)を1949年4月4日に発足させた。 ...
www.tabiken.com/history/doc/G/G297C100.HTM - 5k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] 第4章 冷戦期のブレトンウッズ体制 1)戦後世界の始まりファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
ソ連・東欧は「マーシャル・プラン」を拒否. コミンフォルム、コメコン、ワルシャワ条約機構. 欧州:OEEC→OECD、NATO. 対日政策:ドッジ・ライン、朝鮮特需. 西側も政治的枠組が経済体制の作動を可能にした. 5)経済封鎖体制. 1950年、ココム ...
ps.ll.u-ryukyu.ac.jp/~hoshino/class/ipe/chap4.pdf - 関連ページ