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葛西善蔵  「子をつれて】  全文   18164文字 の半分

2008-07-24 23:35:23 | 17 ◎調べもの文芸文庫
葛西善蔵
「子をつれて」 


     一

 掃除をしたり、お菜(さい)を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗(な)めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。
「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。
「否(いや)もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定(き)まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」
「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
 彼は起って行って、頼むように云った。
「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服装している。併(しか)し斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、他人の顔を正面(まとも)に視れないような変にしょぼ/\した眼附していた。
「……で甚だ恐縮な訳ですが、妻(さい)も留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、……」
「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」
 斯う呶鳴(どな)るように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、
「そうですか。わかりました。好(よ)ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。
「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たような訳ですからな、この上は一歩も仮借する段ではありません。如何なる処分を受けても苦しくないと云う貴方の証書通り、私の方では直ぐにも実行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。
「……実に変な奴だねえ、そうじゃ無い?」
 よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。
「……そう、変な奴」
 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。……

 狭い庭の隣りが墓地になっていた。そこの今にも倒れそうになっている古板塀に縄を張って、朝顔がからましてあった。それがまた非常な勢いで蔓が延びて、先きを摘んでも摘んでもわきから/\と太いのが出て来た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなっている。その癖もう八月に入ってるというのに、一向花が咲かなかった。
 いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月(ひとつき)程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕(あぶらかす)までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層の惨(みじ)めな痴呆者(たわけもの)であるような気もされた。そして最初に訪ねて来た時分の三百の煮え切らない、変に廻り冗(くど)く持ちかけて来る話を、幾らか馬鹿にした気持で、塀いっぱいに匐(は)いのぼった朝顔を見い/\聴いていたのであった。所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家(さと)へ金策に発(た)たしてやったのであった。……
「なんだってあの人はあゝ怒ったの?」
「やっぱし僕達に引越せって訳さ。なあにね、明日(あした)あたり屹度母さんから金が来るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒ったって平気さ」
 膳の前に坐っている子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい気持で盃を嘗め続けた。
 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持って帰るから――という手紙一本あったきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行った二女のこと、また常陸(ひたち)の磯原へ避暑に行ってるKのこと、――Kからは今朝も、二ツ島という小松の茂ったそこの磯近くの巌に、白い波の砕けている風景の絵葉書が来たのだ。それには、「勿来関(なこそのせき)に近いこゝらはもう秋だ」というようなことが書いてあった。それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。
「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿来関に避けたという訳さ」
 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を発った後で云っていた。それほど彼はこの三四ヵ月来Kにはいろ/\厄介をかけて来ていたのであった。
 この三四ヵ月程の間に、彼は三四の友人から、五円程宛金を借り散らして、それが返せなかったので、すべてそういう友人の方面からは小田という人間は封じられて了って、最後にKひとりが残された彼の友人であった。で「小田は十銭持つと、渋谷へばかし行っているそうじゃないか」友人達は斯う云って蔭で笑っていた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云っては、その度に五十銭一円と強請(ねだ)って来た。Kは小言を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は帰って来て、「そうらお土産……」と、赤い顔する細君の前へ押遣るのであった。(何処からか、救いのお使者(つかい)がありそうなものだ。自分は大した贅沢な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五円もあれば自分等家族五人が饑(う)えずに暮して行けるのである。たったこれだけの金を器用に儲けれないという自分の低能も度し難いものだが、併したったこれだけの金だから何処からかひとりでに出て来てもよさそうな気がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヵ月は、それが何処からも出ては来なかった。何処も彼処も封じられて了った。一日々々と困って行った。蒲団が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなった。自滅だ――終いには斯う彼も絶望して自分に云った。
 電灯屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあい――いろんなものがやって来る。室(へや)の中に落着いて坐ってることが出来ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふらふらする。胸はいつでもどきん/\している。……
 と云って彼は何処へも訪ねて行くことが出来ないので、やはり十銭持つと、Kの渋谷の下宿へ押かけて行くほかなかった。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあててある。彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入(めい)った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ――
 彼は歯のすっかりすり減った日和(ひより)を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるようにして、砂利を敷いた坂路を、ひょろ高い屈(まが)った身体してテク/\上って行くのであった。松の樹にはいつでも蝉がギン/\鳴いていた。また玄関前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寝そべっていた。彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……
「……K君――」
「どうぞ……」
 Kは毛布を敷いて、空気枕の上に執筆に疲れた頭をやすめているか、でないとひとりでトランプを切って占いごとをしている。
「この暑いのに……」
 Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持になって、ぐたりと坐るのであった。それから二人の間には、大抵次ぎのような会話が交わされるのであった。
「……そりゃね、今日の処は一円差上げることは差上げますがね。併しこの一円金あった処で、明日一日凌(しの)げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だって金持という訳ではないんだからね、そうは続かないしね。一体君はどうご自分の生活というものを考えて居るのか、僕にはさっぱり見当が附かない」
「僕にも解らない……」
「君にも解らないじゃ、仕様が無いね。で、一体君は、そうしていて些(ちっ)とも怖(こわ)いと思うことはないかね?」
「そりゃ怖いよ。何も彼(か)も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱり見当が附かないのだよ」
「フン、どうして君はそうかな。些とも漠然とした恐怖なんかじゃないんだよ。明瞭な恐怖なんじゃないか。恐ろしい事実なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事実なんだよ。それが君に解らないというのは僕にはどうも不思議でならん」
 Kは斯う云って、口を噤(つぐ)んで了(しま)う。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんとうは泣き出すほかないと云ったような顔附になる。彼にはまだ本当に、Kのいうその恐ろしいものの本体というものが解らないのだ。がその本体の前にじり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたように刻々と陥没しつゝある――そのことだけは解っている。けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずに活(い)きて行けるような新しい道が見出せないとも限らないではないか? ――無気力な彼の考え方としては、結局またこんな処へ落ちて来るということは寧ろ自然なことであらねばならなかった。
(魔法使いの婆さんがあって、婆さんは方々からいろ/\な種類の悪魔を生捕って来ては、魔法で以て悪魔の通力を奪って了う。そして自分の家来にする。そして滅茶苦茶にコキ使う。厭なことばかしさせる。終いにはさすがの悪魔も堪え難くなって、婆さんの処を逃げ出す。そして大きな石の下なぞに息を殺して隠れて居る。すると婆さんが捜しに来る。そして大きな石をあげて見る、――いやはや悪魔共が居るわ/\、塊り合ってわな/\ぶる/\慄えている。それをまた婆さんが引掴(ひっつか)んで行って、一層ひどくコキ使う。それでもどうしても云うことを聴かない奴は、懲(こ)らしめる為め何千年とか何万年とかいう間、何にも食わせずに壁の中や巌の中へ魔法で封じ込めて置く――)
 これがKの、西蔵(チベット)のお伽噺――恐らくはKの創作であろう――というものであった。話上手のKから聴かされては、この噺は幾度聴かされても彼にはおもしろかった。
「何と云って君はジタバタしたって、所詮君という人はこの魔法使いの婆さん見たいなものに見込まれて了っているんだからね、幾ら逃げ廻ったって、そりゃ駄目なことさ、それよりも穏(おと)なしく婆さんの手下になって働くんだね。それに通力を抜かれて了った悪魔なんて、ほんとに仕様が無いもんだからね。それも君ひとりだったら、そりゃ壁の中でも巌の中でも封じ込まれてもいゝだろうがね、細君や子供達まで巻添えにしたんでは、そりゃ可哀相だよ」
「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていう奴、そりゃ厭な奴だからね」
「厭だって仕方が無いよ。僕等は食わずにゃ居られんからな。それに厭だって云い出す段になったら、そりゃ君の方の婆さんばかしとは限らないよ」
 夕方近くになって、彼は晩の米を買う金を一円、五十銭と貰っては、帰って来る。(本当に、この都会という処には、Kのいうその魔法使いの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は帰りの電車の中でつく/″\と考える。――いや、彼を使ってやろうというような人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪え兼ねては、逃げ廻る。食わず飲まずでもいゝからと思って、石の下――なぞに隠れて見るが、また引掴まえられて行く。……既に子供達というものがあって見れば! 運命だ! が、やっぱし辛抱が出来なくなる。そして、逃げ廻る。……
 処で彼は、今度こそはと、必死になって三四ヵ月も石の下に隠れて見たのだ。がその結果は、やっぱし壁や巌の中へ封じ込められようということになったのだ。……
 Kへは気の毒である。けれども彼には何処と云って訪ねる処が無い。でやっぱし、十銭持つと、渋谷へ通(かよ)った。
 処が最近になって、彼はKの処からも、封じられることになった。それは、Kの友人達が、小田のような人間を補助するということはKの不道徳だと云って、Kを非難し始めたのであった。「小田のようなのは、つまり悪疾患者見たいなもので、それもある篤志な医師などに取っては多少の興味ある活物(いきもの)であるかも知れないが、吾々健全な一般人に取っては、寧ろ有害無益の人間なのだ。そんな人間の存在を助けているということは、社会生活という上から見て、正しく不道徳な行為であらねばならぬ」斯ういうのが彼等の一致した意見なのであった。
「一体貧乏ということは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏というものは、却て他人に謙遜な好い感じを与えるものだが、併し小田のはあれは全く無茶というものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストエフスキーでさえ、貧乏ということはいゝことだが、貧乏以上の生活というものは呪うべきものだと云っている。それは神の偉大を以てしても救うことが出来ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亜文学通が云った。
 また、つい半月程前のことであった。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日というので、彼の処へも香奠(こうでん)返しのお茶を小包で送って来た。彼には無論一円という香奠を贈る程の力は無かったが、それもKが出して置いて呉れたのであった。Yの父が死んだ時、友人同士が各自に一円ずつの香奠を送るというのも面倒だから、連名にして送ろうではないかという相談になって(彼はその席には居合せなかったが)その時Kが「小田も入れといてやろうじゃないか、斯ういう場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云って、彼の名をも書き加えて、Kが彼の分をも負担したのであった。
 それから四十九日が済んだという翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が来ていて、それがまだ二三度目かだったので、例の廻り冗(くど)い不得要領な空恍(そらとぼ)けた調子で、並べ立てていた処へ、丁度その小包が着いたのであった。「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで、自然人間の思想も健全になるというような訳で……」斯う云ったようなことを一時間余りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすっかり参っていた処なので、もう解ったから早く帰って呉れと云わぬばかしの顔していた処なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが気になって堪らぬと云った風をしては、座側(わき)に置いた小包に横目をやっていた。また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打った紅いレッテルの美(うる)わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈(めまい)すら感じたのであった。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚(みと)れたように眺め廻した。……と彼は、ハッとした態(さま)で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽(たちま)ち今までの嬉しげだった顔が、急に悄(しょ)げ垂れた、苦(にが)いような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひどい凹みであった。やがて、当然、彼の頭の中に、これを送った処のYという人間が浮んで来た。あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地(まっしぐ)らに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖(いえど)も除き去らずには措(お)かぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる為めに送って寄越したのだとは、彼にも考えることが出来なかった。……それは余りに理由(いわれ)ないことであった。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違いなかろうからな、一々開けて検(しら)べて見るなんて出来た訳のものではなかろう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」
 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分の身が恥じられ、また悲しく思われた。偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木(すりこぎ)で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかって詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかった。
 それから二三日経って、彼はKに会った。Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、
「君の処へも山本山が行ったろうね?」と訊いた。
「あ貰ったよ。そう/\、君へお礼を云わにゃならんのだっけな」
「お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?」
「異状? ……」彼にもKの云う意味が一寸わからなかった。
「……だと別に何でもないがね、僕はまた何処か異状がありやしなかったかと思ってね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」
 斯う云われて、彼の顔色が変った。――鑵の凹みのことであったのだ。
 それは、全く、彼にも想像にも及ばなかった程、恐ろしい意外のことであった。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鉄唖鈴(てつあれい)で以て、左りぎっちょの逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云うと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、殴りつけて寄越したのだそうであった。
「……K君そりゃ本当の話かね? 何でまたそれ程にする必要があったんかね? 変な話じゃないか。俺はYにも御馳走にはなったことはあるが、金は一文だって借りちゃいないんだからな……」
 斯う云った彼の顔付は、今にも泣き出しそうであった。
「だからね、そんな、君の考えてるようなもんではないってんだよ、世の中というものはね。もっと/\君の考えてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理というものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達









 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛(はし)った。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。
「……が、子供等までも自分の巻添えにするということは?」
 そうだ! それは確かに怖ろしいことに違いない!
 が今は唯、彼の頭も身体も、彼の子供と同じように、休息を欲した。

(大正七年三月「早稲田文学」)





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底本:「哀しき父・椎の若葉」講談社文芸文庫、講談社
   1994(平成6)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「日本現代文學全集45 近松秋江・葛西善藏集」講談社
   1965(昭和40)年10月19日発行
      「葛西善蔵全集 第一巻」文泉堂書店
   1974(昭和49)年10月刊
初出:「早稲田文学」
   1918(大正7)年3月
入力:任天堂
校正:小林繁雄、門田裕志
2008年3月13日作成
青空文庫作成ファイル:

早稲田大学 アジア太平洋研究科オープンスクール

2008-07-24 22:28:12 | 5 メールマガジン(大学)
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉

【早稲田大学 アジア太平洋研究科オープンスクール】


日時 :
Date : 2008年7月27日(日)13:00~15:30
Sunday July 27, 2008 13:00~15:30
場所 :
Place: 早稲田大学西早稲田ビル(早稲田大学19号館)7階 [MAP]
Sodai-Nishiwaseda Bldg.( Building #19 of Waseda University ) 7F
申込
方法:
Application
Method: アジア太平洋研究科オープンスクール申込と明記の上
gsaps@list.waseda.jp までメールにてお申込ください。
Please apply by email to gsaps@list.waseda.jp and indicate clearly "GSAPS Open School".
定員:
Capacity: 100名
100 persons

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受付開始 / Start Reception 12:30~

スケジュール / Schedule :

内容
(Contents) 時間
(Time) 場所
(Place)
研究科長挨拶
Dean's Welcome Speech 研究科長 天児 慧 教授
Dean AMAKO Satoshi 13:00-13:10 711
プログラム概略説明
Program Overview
Presentation
[日本語 / Japanese] 担当:アドミッションズオフィス
Presentation by Admissions Office 13:10-13:40 711
1. オープンスクールスケジュール説明 Today's Schedule
2. 入試 Admission
3. カリキュラム Curriculum
4. 交換留学・インターンシップ Exchange Program/Internship
5. 奨学金・宿舎・就職 Scholarships/Housings/Jobs
個別相談 Q&Aコーナ
Q&A Session
[日本語・英語 /
Japanese&English] アドバイザー / Advisory Members 13:50-15:30 710
- MA/PhD プログラム担当教員
Faculty of MA/PhD Program
- 在学生
 Current Students
- アドミッションズオフィス
Admissions Office
模擬授業
Mock Lecture
[日本語 / Japanese]
  担当教員:植木(川勝) 千可子 教授
講義テーマ:「東アジアの国際関係と安全保障」
Lecture by Prof, UEKI Chikako Kawakatsu Theme of Lecture: 「International Relations and Security in East Asia」 13:50-14:20 711




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[ MBA] 経営学修士   日本語  全7951字

2008-07-24 22:27:12 | 5 メールマガジン(大学)
経営学修士

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈経営学修士・ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

経営学修士(けいえいがくしゅうし)とは、経営学を修めたものに対して授与される学位(修士)である。

欧米においては、学位の名称からMBA(Master of Business Administration)と略称される。日本では、文部科学省による「専門職大学院」制度の新設に基づくものと、従来の修士課程によるものとの二通りがあり、「日本版MBA」と呼ばれる。

欧米においてはビジネススクール(経営大学院)、日本においては大学大学院(修士課程)が、これを授与する。

目次 [非表示]
1 概説
2 学位の認証
3 主な経営学修士、及びMBAプログラム・ビジネススクール
3.1 日本
3.2 アメリカ合衆国
3.3 カナダ
3.4 ヨーロッパ
3.5 オーストラリア
3.6 南米
3.7 中国
4 出典
5 外部リンク
6 関連項目



[編集] 概説
MBAは、米国において企業経営を科学的アプローチによって捉え、経営の近代化を進めるとの考え方のもとに、19世紀末に登場した高等教育コースである。1881年にウォートン・スクールが最初のビジネススクールとして設立され、1920年代にはハーバード・ビジネス・スクールが状況分析と経営判断の能力を訓練するケースメソッドという教育アプローチを開発し、多くのビジネススクールに採用されるようになった。1970年代後半にはMBAは米国でビジネス界の「エリート」の学位として知られるようになり、企業の経営幹部へのパスポートとして定着した。現在でも、特にトップスクールのMBA取得者は、能力のみならずその同窓の人脈の広さなどから、大企業の幹部候補として高額の給与で採用される例も多い。

MBAプログラムは、研究者ではなく企業経営の実務家を養成することを狙いとしていたため、早くから実務家の利便性を考えたコース開発が行われてきた。1940年にはシカゴ・ビジネス・スクールが初の現役エグゼクティブ(企業幹部)向けのMBA(EMBA)を設置したのを皮切りに、多くのMBAスクールがEMBAコースを併設している。[1] 2年修了が標準的であるが、1年の短期コース、夜間や週末に行われるパートタイムコース、通信コースなどさまざまな形態のプログラムが存在する。それらの多くは、実務家が職務を中断することなく学べるように配慮されたものである。米国では、1980年代末を転機としてエリート学生の大企業志向が終わり、独立起業に価値を見出す価値観が強まった。これに伴い、MBAも起業家養成の意味合いを強めており、バブソン・カレッジ・MBAに代表されるような起業家育成に特化したMBAプログラムも登場した。[2]


[編集] 学位の認証
各教育機関は、政府に公認された民間かつ非営利の認定団体による認証(Accreditation)を受けることにより、自校のMBAコースの質を保証している。現在、国際的に最も権威があると考えられているMBA認証機関はAACSBであり、米国を中心とする30カ国、約500のビジネススクールが加盟している。このほかの主だった認証機関(システム)には、イギリスに本拠を置くAMBA(Association of MBAs)、ベルギーに本拠を置くEFMD(European Foundation for Management Development)の発行するEQUIS(European Quality Improvement System)などがある。現在、日本では慶應義塾大学および名古屋商科大学の2校がAACSBからの認証を受けている。

2003年、文部科学省は従来の大学院研究課程とは別に、企業経営や会計、法務などの実務家を養成する「専門職大学院」の制度を作り、修士論文作成という一定の研究成果を要求せず(あるいは修士論文提出を不要とする)、授業の履修及び知識習得に重きを置く、欧米のMBAに近い考え方の「経営学修士号」の学位発行も認めるようになった。これにより、2007年3月(平成18年度末)現在、国立・私立大学合わせて29校が「経営学/経営管理修士(専門職)」の学位発行を認められるようになった。専門職大学院の設置基準の中には、従来の研究成果重視での大学院では見られなかった「第三者機関による定期的な評価」の義務づけがうたわれており、修士論文を執筆しなくともその教育の質が一定レベルに達するよう意図されているが、その履行の実態はほぼ不明である。また、日本の大学院による経営学修士教育は初期段階にあり、前述のAACSB等による国際認証のないビジネススクールの学位は、国際的なMBAとして認知されていないのが実状である。[3]


[編集] 主な経営学修士、及びMBAプログラム・ビジネススクール

[編集] 日本
日本国内では、慶應義塾大学が1978年に経営学修士コースとして社会人向けに2年制の修士課程を設けたものが最古である。今日では、社会人を対象とした経営学修士プログラムは、オンサイト型、完全遠隔型などがあり、通学の便宜を図るため、従来のフルタイム型以外に、土日あるいは平日夜間を利用したパートタイム型のカリキュラムを開講する大学院が多い。受講生も文理問わず社会人の入学が多く、ビジネス街の中心部にサテライト教室を設ける大学院もある。




国際認証機関に認証されたMBA[4]
慶應義塾大学 (2000年4月 AACSB認証取得)
名古屋商科大学 (2006年4月 AACSB認証取得)
文部科学省認可の経営学修士[5]
SBI大学院大学 経営管理修士(専門職)
青山学院大学大学院 経営管理修士(専門職)
小樽商科大学大学院 経営管理修士(専門職)
香川大学大学院 経営修士(専門職)
関西学院大学大学院 経営管理修士(専門職)
九州大学大学院 経営修士(専門職)
京都大学大学院 経営学修士(専門職)
グロービス経営大学院大学 経営学修士(専門職)
神戸大学大学院 経営学修士(専門職)
事業創造大学院大学 経営管理修士(専門職)
同志社大学大学院ビジネス研究科(ビジネススクール)(専門職)
ビジネス・ブレークスルー大学院大学 経営管理修士(専門職)
一橋大学大学院 経営修士(専門職)
法政大学大学院 経営管理修士(専門職)
明治大学大学院 経営管理修士(専門職)
横浜国立大学大学院 修士(経営学)(MBA)
立教大学大学院 経営管理修士(専門職)
立命館大学大学院 経営修士(専門職)
早稲田大学大学院 経営管理学修士(専門職)
この他にも、文部科学省発行では会計修士(専門職)、企業経営修士(専門職)、ビジネス修士(専門職)、ファイナンス修士(専門職)などをMaster of Business Administrationとして学位を発行している。
日本で取得できる海外のMBA
ウェールズ大学経営大学院 英国
テンプル大学 (AACSB認証取得、2005年2月に文科省より「外国大学の日本校」として指定を受ける)
(五十音順)


[編集] アメリカ合衆国
米国では現在、500を越す大学・教育機関がMBAコースを設置している。 アイビーリーグ8校のうち、ブラウン大学とプリンストン大学はMBAコースを持たない。MBAは学校によって特色があり一概にどの学校がトップであるかとは判断しにくいが、アメリカでは主要マスコミから毎年ランキングが発表されており、そのランキングは就職率や初任給の多寡、また生徒や実業界からの評価により変動している。

アメリカの主なMBAプログラム

A.B.フリーマン・スクール・オブ・ビジネス(A.B.Freeman School of Business):ルイジアナ州ニューオーリンズにあるテューレーン大学Tulane Universityの経営学大学院
アンダーソン・スクール・オブ・マネジメント(Anderson School of Management):カリフォルニア州ロサンゼルスにあるカリフォルニア大学ロサンゼルス校の大学院
ボストン大学・スクール・オブ・マネージメント(Boston University School of Management):マサチューセッツ州ボストンにあるボストン大学の経営大学院。*[6]
ブロード・スクール・オブ・マネジメント(Broad School of Management):ミシガン州イーストランシングにあるミシガン州立大学の大学院
カールソン・スクール・オブ・マネジメント(Carlson School of Management):ミネソタ州ミネアポリスにあるミネソタ大学ツインシティー校の大学院
コロンビア・ビジネス・スクール(Columbia Business School):ニューヨーク州ニューヨーク市にあるコロンビア大学の経営学大学院。
フュークア・スクール・オブ・ビジネス(Fuqua School of Business):ノースカロライナ州ダーラムにあるデューク大学の大学院
ハース・スクール・オブ・ビジネス(Haas School of Business):カリフォルニア州バークレーにあるカリフォルニア大学バークレー校(UCB)の経営学部・大学院
ハーバード・ビジネス・スクール(Harvard Business School、HBS):マサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学の経営学大学院。
ジョンソン・スクール(Johnson School):ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学の大学院
クラナート・スクール・オブ・マネジメント(Krannert School of Management):インディアナ州ウェストラファイエットにあるパデュー大学の経営学部・大学院。
ケロッグ・スクール・オブ・マネジメント(Kellogg School of Management):イリノイ州エバンストンにあるノースウェスタン大学の大学院。
ケナン・フラグラー・ビジネス・スクール(Kenan Flagler Business School):ノースカロライナ州チャペルヒルにあるノースカロライナ大学チャペルヒル校の大学院
マリオット・スクール・オブマネジメント(Marriott School of Management):ユタ州プロボにあるブリガムヤング大学の大学院
ケリー・スクール・オブ・ビジネス(Kelly School of Management):インディアナ州ブルーミントンにあるインディアナ大学の大学院。
マーシャル・スクール・オブ・ビジネス(Marshall School of Business):カリフォルニア州ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学(USC)の経営大学院
マーティン・J・ウィットマン・スクール・オブ・マネージメント(Martin J. Whitman School of Management):ニューヨーク州シラキューズにあるシラキューズ大学の大学院
メイソン・スクール・オブ・ビジネス(Mason School of Business):バージニア州ウィリアムズバーグにあるウィリアム・アンド・メアリー大学の経営大学院。
マコームズ・スクール・オブ・ビジネス(McCombs School of Business):テキサス州オースティンにあるテキサス大学オースティン校の大学院
MITスローン・スクール・オブ・マネジメント(MIT Sloan School of Management):マサチューセッツ州ケンブリッジにあるマサチューセッツ工科大学の経営大学院。
ロバート・H・スミス・スクール・オブ・ビジネス(Robert H. Smith School of Business):メリーランド州カレッジパークにあるメリーランド大学の大学院
スタンフォード大学経営大学院(Stanford Graduate School of Business):カリフォルニア州スタンフォードにあるスタンフォード大学の経営学大学院。
ロス・スクール・オブ・ビジネス(Stephen M. Ross School of Business):ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学の経営学部及び大学院。
テッパー・スクール・オブ・ビジネス(Tepper School of Business):ペンシルバニア州ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学の大学院
トービン・カレッジ・ビジネス・スクール (Tobin College of Business School) ニューヨーク州ニューヨーク市にあるセント・ジョーンズ大学の経営学大学院。
タック・スクール・オブ・ビジネス(Tuck School of Business at Dartmouth):ニューハンプシャー州ハノーバーにあるダートマス大学の経営学大学院。
シカゴ大学経営大学院(University of Chicago Graduate School of Business、Chicago GSB):イリノイ州シカゴにあるシカゴ大学の経営学部大学院。
ウォートン・スクール(Wharton School):ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学の大学院。
ズィックリン・スクール・オブ・ビジネス(Zicklin School of Business):ニューヨーク州ニューヨーク市にあるニューヨーク市立大学バルーク校の経営大学院。
(アルファベット順)


[編集] カナダ
ジョセフ・ロットマン・スクール・オブ・ビジネス(Joseph Rotman School of Business):オンタリオ州トロントにあるトロント大学の経営学大学院
リチャード・アイヴィー・スクール・オブ・ビジネス(Richard Ivey School of Business):オンタリオ州ロンドンにあるウェスタン・オンタリオ大学の経営学大学院
(アルファベット順)


[編集] ヨーロッパ
ヨーロッパでは、INSEAD、ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)、IMDの3校が有名である。

イギリス

ジャッジ・ビジネス・スクール(Judge Business School):イギリス・ケンブリッジにあるケンブリッジ大学の経営大学院*[7]
ロンドン・ビジネス・スクール(London Business School):イギリス・ロンドン*[8]
マンチェスター・ビジネス・スクール(Manchester Business School):イギリス・マンチェスター*[9]
サイード・ビジネス・スクール(Said Business School):イギリス・オックスフォードにあるオックスフォード大学の経営大学院[10]
イタリア

SDA Bocconi(SDA Bocconi School of Management):イタリア・ミラノ*[11]
オランダ

RSM(RSM Erasmus University):オランダ・ロッテルダム*[12]
スペイン

ESADE(ESADE Business School):スペイン・バルセロナ*[13]
IE(Instituto de Empresa):スペイン・マドリード*[14]
IESE:スペイン・バルセロナ*[15]
スイス

IMD(International Institute for Management Development):スイス・ローザンヌ*[16]
フランス

HEC経営大学院(École des hautes études commerciales):フランス・パリ*[17]
INSEAD:フランス・フォンテンブロー及びシンガポール*[18]
(国別、アルファベット順)


[編集] オーストラリア
Australian Graduate School of Management
Curtin University of Technology
Queensland University of Technology
The University of Queensland
The University of Sydney
University of Technology, Sydney

[編集] 南米
アルゼンチン

IAE, Argentine*[19]
Universidad de Torcuato Di Tella*[20]:ブエノスアイレス
UCEMA*[21]
Universidad de San Andrés*[22]
(アルファベット順)


[編集] 中国
中国ではMBAが過剰なまでに注目されており、現在MBA取得者が200万人も居ると言われている。[23]


[編集] 出典




[編集] 外部リンク
[24] 世界MBAランキング(日本)
Exduco Best Graduate School Guide
Association to Advance Collegiate Schools of Business (AACSB)
MBA Sciences-Po
skoolix MBA admission tips and search tool for US MBA programs
[25] MBA tips
Fortune/Universum Universum 100 Top MBA Employers
「ディプロマ(ディグリー)・ミル」問題について

[編集] 関連項目
経済学
専門職大学院、専門職学位
法務博士
教職修士
技術経営修士
公共経営修士
この「経営学修士」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育)

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カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 教育に関するスタブ | アメリカ合衆国の経営大学院 | 学位 | ビジネススキル

Master of Business Administration {英文} 1万字

2008-07-24 22:26:29 | 5 メールマガジン(大学)
Master of Business Administration

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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫 宮正孝


The Master of Business Administration (MBA) is a master's degree in business administration, which attracts people from a wide range of academic disciplines. The MBA designation originated in the United States, emerging from the late 19th century as the country industrialized and companies sought out scientific approaches to management. The MBA degree has since achieved worldwide recognition.

Accreditation bodies exist specifically for MBA programs to ensure consistency and quality of graduate business education, and business schools in many countries offer MBA programs tailored to full-time, part-time, executive, and distance learning students, with specialized concentrations.

Each year, well-known business publications such as Business Week, US News & World Report, Fortune, Financial Times, and the Wall Street Journal publish rankings of selected MBA programs that, while controversial in their methodology, nevertheless can directly influence the prestige of schools that achieve high scores.

Contents [hide]
1 Background
1.1 Accreditation
1.2 Basic types of MBA programs
2 Admissions criteria
3 Program content
3.1 Breadth
3.2 Specialization
4 The MBA degree in Europe
4.1 History of the MBA in Europe
4.2 Bologna Accord
4.3 Accreditation
4.4 United Kingdom
4.5 Germany and Austria
4.6 France and French speaking countries
4.7 Ukraine
5 The MBA degree in Africa and Asia
5.1 South Africa
5.2 Ghana
5.3 India
5.4 Rest of Asia
6 MBA program rankings
7 See also
7.1 Related information
7.2 Other business degrees and certifications
7.3 MBA accreditation agencies
8 References and Notes
9 External links
9.1 MBA ranking resources



[edit] Background
The first American business school, Wharton School of the University of Pennsylvania, was established in 1881. The Tuck School of Business, part of Dartmouth College, was the first graduate school of management in the United States. Founded in 1900, it was the first institution conferring advanced degrees (masters) in the commercial sciences, the forebearer of the modern MBA. The University of Chicago Graduate School of Business first offered working professionals the Executive MBA (EMBA) program in 1940, and this type of program is now offered by most business schools today.

In 1950 the first MBA degrees were awarded outside the United States by the University of Western Ontario in Canada,[1] followed in 1951 with the degree awarded by the University of Pretoria in South Africa.[2] The Institute of Business Administration, Karachi in Pakistan was established in 1955 as the first Asian business school by the Wharton School of the University of Pennsylvania. In 1957, INSEAD became the first European business school to offer an MBA program.

The MBA degree has been adopted by universities worldwide.


[edit] Accreditation
Business schools or MBA programs may be accredited by external bodies which provide students and employers with an independent view of their quality, and indicate that the school's educational curriculum meets specific quality standards. The Association to Advance Collegiate Schools of Business (AACSB) and the International Assembly for Collegiate Business Education (IACBE) both accredit business schools worldwide.

The United States also has six regional accreditation agencies as members of the Council for Higher Education Accreditation (CHEA): Middle States Association of Colleges and Schools (MSA), New England Association of Schools and Colleges (NEASCSC), North Central Association of Colleges and Schools (NCA), Northwest Commission on Colleges and Universities (NWCCU), Southern Association of Colleges and Schools (SACS), and Western Association of Schools and Colleges (WASC).[3]

Other U.S. accreditation agencies include the Association of Collegiate Business Schools and Programs (ACBSP) which typically accredits smaller, private American schools, and the International Assembly for Collegiate Business Education (IACBE). In addition, MBA programs with specializations for students pursuing careers in healthcare management also eligible for accreditation by the Commission on the Accreditation of Healthcare Management Education (CAHME).

Accreditation agencies outside the United States include the Association of MBAs (AMBA), a UK based organization that accredits MBA, DBA and MBM programmes worldwide; the Council on Higher Education (CHE) in South Africa; the European Quality Improvement System (EQUIS) for mostly European and Asian schools; and the Foundation for International Business Administration Accreditation (FIBAA) in Europe.


[edit] Basic types of MBA programs
Two year MBA programs normally take place over two academic years (i.e. approximately 18 months of term time), in the Northern Hemisphere beginning in late August/September of year one and continuing until May of year two, with a three to four month summer break in between years one and two. Students enter with a reasonable amount of prior real-world work experience and take classes during weekdays like other university students.

Accelerated MBA programs are a variation of the two year programs. They involve a higher course load with more intense class and examination schedules. They usually have less "down time" during the program and between semesters. For example, there is no three to four month summer break, and between semesters there might be seven to ten days off rather than three to five weeks vacation.

Part-time MBA programs normally hold classes on weekday evenings, after normal working hours. Part-time programs normally last three years or more. The students in these programs typically consist of working professionals, who take a light course load for a longer period of time until the graduation requirements are met.

Executive MBA (EMBA) programs developed to meet the educational needs of managers and executives, allowing students to earn an MBA or another business-related graduate degree in two years or less while working full time. Participants come from every type and size of organization – profit, nonprofit, government — representing a variety of industries. EMBA students typically have a higher level of work experience, often 10 years or more, compared to other MBA students. In response to the increasing number of EMBA programs offered, The Executive MBA Council was formed in 1981 to advance executive education.

Distance learning MBA programs hold classes off-campus. These programs can be offered in a number of different formats: correspondence courses by postal mail or email, non-interactive broadcast video, pre-recorded video, live teleconference or videoconference, offline or online computer courses. Many respectable schools offer these programs; however, so do many diploma mills. Potential students should check the school's accreditation before undertaking distance learning coursework.

Dual MBA programs combine MBA degree with others (such as an MS or a J.D., etc) to let students cut costs (dual programs usually cost less than pursuing 2 degrees separately), save time on education and to tailor the business education courses to their needs. Some business schools offer programs in which students can earn both a bachelor's degree in business administration and an MBA in four or five years.


[edit] Admissions criteria
Most programs base admission on the Graduate Management Admission Test (GMAT), significant work experience, academic transcripts, essays, references or letters of recommendation, and personal interviews. Schools are also interested in extracurricular activities, community service activities and how the student can improve the diversity and contribute to the student body as a whole. All of these qualifications are important for admission; however, some schools do not weigh GMAT scores as heavily as other criteria. In order to achieve a diverse class, business schools also consider the target male-female ratio and local-international student ratios.

Most schools are first concerned with whether or not the applicant can handle the quantity of course work. The GMAT (the quantitative score) and academic transcripts help determine this. Once the school determines that the student can succeed academically, they examine the remainder of the application to evaluate the applicant's experience and leadership abilities.


[edit] Program content
Most top MBA programs cover similar subjects within their core required courses. For information about the typical content of an MBA program's core curriculum, see the overview at the Wikiversity MBA topic page.


[edit] Breadth
MBA programs expose students to a variety of subjects, including economics, organizational behavior, marketing, accounting, finance, strategy, operations management, international business, information technology management, supply chain management, project management, government policy, and ethics. Students traditionally study a wide breadth of courses in the program's first year, then pursue a specialized curriculum in the second year. Full-time students typically seek an internship during the interim.




















【大学 MBA:①~⑩】 の検索結果 約 827万 件

2008-07-24 22:26:08 | 5 メールマガジン(大学)
【大学 MBA:①~⑩】 の検索結果 約 827万 件

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【大学 法曹界:①~⑩】

2008-07-24 21:53:38 | 5 メールマガジン(大学)
【大学 法曹界:①~⑩】 の検索結果 約 63万2000 件

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日本大学法科大学院日本大学は創立以来,法曹界に多くの人材を輩出してきました。その日本大学出身の法曹関係者により結成されているの ... 現在,約600 余名の会員が,裁判官,検察官,弁護士等として,法曹界で活躍しています。 ▲Page Top. 日本大学法曹会からの応援 ...
www.nihon-u.ac.jp/lawschool/hosokai.htm - 16k - キャッシュ - 関連ページ

中央大学 | イベント | 法曹界支部平成20年春叙勲受章をされた皆様 ...中央大学ウェブサイトを正しく表示するにはJavaScriptが必要です。設定をオンにしてからページをリロードしてください。 ... 法曹界支部平成20年春叙勲受章をされた皆様に対する祝賀の会のご案内[学員会]. | 前のページへ戻る | ...
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司法試験情報・立教法曹会[立教大学大学院法務研究科]その多くは弁護士として活躍していますが、裁判官、検察官、大学教授として執務している会員も少なくありません。現在の会員数は約150名で、その数はそれほど多くはありません。 しかし、現在の法曹界の中堅として社会に貢献されている方を多数輩出してい ...
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法曹界で中央大学卒業生が持つ力を教えて下さい。 - Yahoo!知恵袋2008年4月29日 ... TAKECHANさんはバカですのでスルーしてください笑 中央大学法学部の法曹界の実力は東大の次です。それは明らかな事実です。 今は新司法で中央法科>>>>>>>>早慶ですよ. アバター. 知恵コイン: 0枚; グレード: 1-3; ライフ ...
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龍谷大学新聞社 [ 講演会 ] 法曹界の現状を伝える 弁護士という職業 ...また泉谷氏は、テレビなどで放映されている法曹界を描いたものと、現場の相違についても説明した。「テレビのように、弁護士や検事が証拠探しに事件現場を駆け巡るようなことはない。検事であれば調書ばかり作っていたりするのが現実だ」と語った。 ...
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明治大学:明治ですから!:大学史の散歩道:一瀬勇三郎「法曹界の乃木 ...明治大学のオフィシャルサイトです。大学案内、受験生向けの入学案内、在学生向けコンテンツ、また一般の方向けの公開講座情報など、明治大学に関する情報をご覧頂けます。
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法曹界の雄日本大学法学部法曹界の雄日本大学法学部; 1 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/09/19( 火) 13:41: あつまれ~; 2 名前: 国士舘大学政経学部 投稿日: 2000/09/19(火) 13:54: おお、名門!! 3 名前: 政治経済学科。 投稿日: 2000/09/19(火) 15:56 ...
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【大学 スポーツ推薦:①~⑩】

2008-07-24 21:27:34 | 14 用語集:②人物以外
【大学 スポーツ推薦:①~⑩】 の検索結果 約 8万4700 件

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法政大学 入試情報 推薦入学時代に流されず、時代を動かしていく人材を育成すること。それが法政大学のゴールです。
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大学スポーツ推薦入試情報 学生スポーツ団体のリンクを希望される方は ...「入試情報」項目内にある「SF入試」に掲載されています。 中央大学 ※トップページの「受験生の方へ」から「学部入試情報」をクリックしてください。 「各学部特別入試情報(多様な入試制度)」項目内にある「スポーツ推薦入学試験」に掲載されています。 ...
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[PDF] 2006年度 スポーツ推薦入学試験合格者 早稲田大学スポーツ科学部 氏名 ...ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
2006年度 スポーツ推薦入学試験合格者. 早稲田大学スポーツ科学部. 氏名. 性別 出身学校所在地. 出身高校. 学科. 種目. 大前 佑輔. 男. 兵庫県. 社. スポーツ文化学科. 野球. 楠田 裕介. 男. 岡山県. 岡山理科大学附属. スポーツ文化学科 ...
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福島大学はスポーツ推薦がありますか? - 教えて!goo2007年5月4日 ... 福島大学は、スポーツ推薦制度があるのですか?陸上競技走り幅跳びの日本記録保持者、 池田久美子さんが、福島大学出身なものですから。
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早稲田大学スポーツ科学部 スポーツ推薦入学試験の合格者が決定:東京六 ...80名のみなさん、早稲田大学合格おめでとうございます! 早稲田大学にスポーツ推薦で合格するのは、 一般入試で合格するよりもはるかにハイレベルで狭き門です。 皆さんのこれからの一層の活躍を心から期待してます。 また、早稲田大学進学を目指す夏の ...
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大阪産業大学 入試情報サイト スポーツ推薦前期入学試験大阪産業大学の入試情報サイト。入試日程やオープンキャンパス情報、インタビュー動画なども。
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旺文社 大学進学INFORMATION/平成17年度/私立大 推薦入試 ...旺文社 大学進学インフォメーション. ... 法, 国際企業関係法, スポーツ推薦, 2, 2, 1.0. 総合政策, 政策科学, スポーツ推薦, 5, 5, 1.0. 総合政策, 国際政策文化, スポーツ推薦, 5, 5, 1.0. 経済, 経済, スポーツ推薦, 33, 20, 1.7 ...
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順天堂大学 スポーツ健康科学部〈学校長推薦〉, スポーツ推薦〈自己推薦〉. 募集人数, スポーツ科学科 20名 スポーツマネジメント学科 10名 ... 総合的な学力及び運動能力を有し、順天堂大学を第1志望とする方で、健康・スポーツ・教育の分野で活躍できる方 ...
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入試情報|スポーツ推薦試験|大阪経済法科大学募集種目; 募集人員・日程・試験会場; 選考方法; 入学検定料; 出願資格; スポーツ推薦試験データ ... 2008年度スポーツ推薦試験データ(10月7日) ... 大阪経済法科大学 〒581-8511 大阪府八尾市楽音寺6-10 TEL 072-941-8211(代表) FAX 072-941-4426.
www.keiho-u.ac.jp/entrance/yokou/sports.html - 14k - キャッシュ - 関連ページ



ぴあ

2008-07-24 15:38:01 | 28 BtoB(企業紹介)
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ぴあ

ぴあ株式会社
Pia Corporation 種類 株式会社
市場情報 東証1部 4337

本社所在地 東京都千代田区三番町5-19
設立 1974年12月20日
業種 サービス業
事業内容 チケット事業(チケットぴあ)
出版事業(ぴあ、TVぴあなど)


情報サービス他事業(@ぴあ・けっこんぴあなど)
代表者 代表取締役社長 矢内廣
資本金 34億7500万円(2006年3月31日現在)
売上高 961億9000万円(2006年3月期)
従業員数 312名(2006年3月31日現在)
決算期 3月
外部リンク http://www.pia.co.jp/
表・話・編・歴
ぴあ(英文社名 Pia Corp.)は、東京都千代田区三番町にあるサービス業・出版事業の会社あるいは同社が発行している雑誌である。東京証券取引所市場一部に上場している。

社長の矢内廣が中央大学在学中に起業。学生起業の走りとなる。当初は映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌の出版業だったが、近年ではオンラインによるチケット販売を行うなど、情報サービスの側面が強くなっている。

目次 [非表示]
1 沿革
2 主な発行物
2.1 定期刊行
2.2 ムック
3 その他
4 主なサービス
5 外部リンク



[編集] 沿革
1972年7月10日 月刊『ぴあ』を創刊。
1974年12月20日 ぴあ株式会社を設立。
1975年9月より表紙イラストを及川正通が担当している。
1984年4月 「チケットぴあ」のサービス開始。
2002年1月 東京証券取引所市場第二部に上場。
2003年5月 東京証券取引所市場第一部に上場。

[編集] 主な発行物
WORLD SOCCER GRAPHIC=2007年3月号より発行元が「フルキャストスポーツ」に=を含む出版事業は、以前ビクターエンタテインメントの展開していた出版事業=ビクターブックスが撤退後、ぴあが引き受けるようになり、雑誌だけでなく書籍の発行も強化されるようになった。


[編集] 定期刊行
ぴあ(首都圏版、関西版、中部版)※首都圏版は週刊、関西版・中部版は隔週刊
グルメぴあ
TVぴあ(関東版、関西版、東海版、北海道・青森版、福岡・山口版)
Invitation
WORLD SOCCER GRAPHIC
R&R NEWSMAKER(2007年12月28日発売号にて休刊)
けっこんぴあ(首都圏版、関西版)
月刊SKY PerfecTV!

[編集] ムック
ぴあMAP
季節・地域限定ぴあ
こどもぴあ
最新!最強!のグルメ
シネマクラブ

[編集] その他
プロレスラーの本間朋晃(2006年初期まで全日本プロレス所属、現在フリー)が2003年頃から、リングコスチュームに”ぴあ”の文字が入ったものを着用して戦っている。(リングショートタイツの臀部にでっかく”ぴあ”の文字。更に両膝のサポーターにはチケットぴあのフリーダイヤルが書いてあったが、プロレスという激しい動きをする中で、細かい番号まではなかなか読み取れる人はいなかった模様)現在はGBH加入でそのコスチュームでは試合をしない。


[編集] 主なサービス
チケットぴあ
ぴあフィルムフェスティバル

[編集] 外部リンク
@ぴあ[チケット販売・総合情報]
@ぴあ電子チケットぴあ[チケット情報・販売]
Canauぴあ(かなうぴあ)[元気な大人の夢と好きなこと実現サイト]
楊さちこ先生のアジアの美人はミロウミビョウ[美容情報サイト]
シネマぴあ[映画情報サイト]
@ぴあトラベル[旅行オンライン予約サイト]
私のアルバイト時代[私のアルバイト時代サイト]
ぴあ こどもとおでかけ365日[子育て家族のためのおでかけ情報サイト]
ぴあ代表 矢内 廣氏 インタビュー [独立・起業ならDREAM GATE(財団法人ベンチャーエンタープライズセンター)]
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B4%E3%81%82" より作成
カテゴリ: 日本のサービス業 | 日本の出版社 | 情報誌 | 東京都の企業 | 東証一部上場企業

【大学 教育再生:①~⑩】

2008-07-24 14:50:58 | 1 【①~⑩】⇒コピー&ペースト
【大学 教育再生:①~⑩】 の検索結果 約 331万 件

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

福田総理の動き-教育再生懇談会-福田総理は今後の議論について、「第一に、子ども達が勉学をはじめ何事にも意欲的、 主体的に取り組むための環境や教育の在り方について、第二に大学全入時代における高校教育、大学入試、さらには大学教育そのものの在り方について、第三に教育再生会議の ...
www.kantei.go.jp/jp/hukudaphoto/2008/03/25kyouiku.html - 4k - キャッシュ - 関連ページ

教育再生会議・有識者教育再生会議有識者 ... 陰山 英男, 立命館大学大学教育開発・支援センター教授、 立命館小学校副校長. 葛西 敬之, 東海旅客鉄道株式会社代表取締役 ... 小宮山 宏, 東京大学総長. 品川 裕香, 教育ジャーナリスト. 白石 真澄, 関西大学政策創造学部教授 ...
www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kousei.html - 4k - キャッシュ - 関連ページ
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詳報/教育再生会議の最終報告全文国民の皆様も、国や地方の行政の方々も、校長・教員はじめ学校関係者も大学関係者、保護者や地域の方々も、これらの報告をしっかり受け止めて頂き、国民一人ひとりがあらゆる場を通じて、教育再生に参画することをお願いしたいと思います。 ...
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大学進学に資格テスト、教育再生会議検討 : ニュース : 教育 : YOMIURI ...大学進学に資格テスト、教育再生会議検討. 政府の教育再生会議(野依良治座長)は20 日の合同分科会で、大学進学希望者に「高卒学力テスト」(仮称)を実施し、合格者に大学受験の資格を与える制度の検討に着手する。 受験生の負担増につながるとして、 ...
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大学を考える | 教育再生会議提案 高卒テストについて考える大学の入学定員と志願者が同数になる「大学全入時代」の到来をにらみ、大学進学者の学力を担保するため「高卒学力テスト(仮称)」導入を提唱した政府の教育再生会議( 座長・野依良治理化学研究所理事長)の大学入試制度に関する改革素案が18日、明らか ...
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京都大学-お知らせ/イベント情報 2008年2月15日教育再生の夢と大学改革. 講師. 独立行政法人 日本学術振興会理事長 小野 元之 氏. 講演概要 ... わが国に明るい未来を築いていくため、学校教育の再生と大学改革にどのように取り組んでいくべきなのか。ともに考えていきたい。 参加資格 ...
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教育再生会議 - Wikipedia大学・大学院教育の充実と、成績評価の厳格化により、卒業者の質を担保する; 国立大学 法人は、学部の壁を破り、学長リーダーシップによる徹底したマネジメント改革を自ら進める; 「国際化」「地域再生」に貢献する大学を目指す; 大学・大学院を適正に評価 ...
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教育再生会議、存続:大学プロデューサーズ・ノート 【アーカイブス】2007年10月15日 ... 所信表明演説などでも、「家庭、地域、行政が一体となって教育再生に取り組む」といった説明があっただけだ。 (上記記事より). 上記の教育バウチャー制度の他、小学校からの英語教育、大学への九月入学推進など、具体的なトピックで、 ...
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合格しないと大学受験できない「高卒テスト」 教育再生会議/教育 ...政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は20日の合同分科会で、 大学入試制度に関する改革素案として大学進学希望者に「高卒学力テスト」(仮)を実施し、合格者に大学受験の資格を与える制度の検討に着手する。 「大学全入時代」の ...
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主張/大学予算削減/「教育再生」を語る資格なし科学技術予算を増やしたといいますが、産業競争力に寄与する研究に集中投資するもので、基礎研究や高等教育にかかわる予算は抑制されています。 国立・私立両方の大学予算を削減して安倍内閣に「教育再生」を語る資格はありません。国公私立の大学関係 ...
www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-12-27/2006122702_01_0.html - 16k - キャッシュ - 関連ページ



坂口安吾  「我が人生観」(一)生れなかった子供

2008-07-24 14:43:29 | 17 ◎調べもの文芸文庫
我が人生観
(一)生れなかった子供
坂口安吾



 女房がニンシンしたが、子宮後屈ということで、生むことができなかった。
 女房からニンシンの話をきいて、うそ寒い気持になった。年若い夫婦たちが未来の設計を胸にえがいて、生れてくる子供を指折り算えて待つような気持は、私にはなかった。
 私の半生は身を持ちくずした半生だから、いろいろ病毒があるかも知れぬという怖れもあった。先般、東大神経科へ入院中、精密な病毒検査をうけたが、全部マイナスであった。医学の心得がないから確かなことは知らないが、スピロヘータにしても、ゲノコッケンにしても、潜伏期にはマイナスでしか現れないのだろう。
 私はそう思ったから担当の先生に談判して、念のため、私にも、亦、女房にも一千万単位ぐらいずつペニシリンを注射してもらいたいと頼んだ。せっかく二三ヶ月入院するのだから、この機会に、悪いところを全部治したいと慾を起したのである。歯も、鼻も、みんな治すつもりであった。担当の先生はいくらか淋しそうに笑って、
「厳密に云えば、プロスチチュートと遊んだ人は、みんなその危険があるものと考えてよいかも知れません。戦地へでたものは、みんな身に覚えのあることですから、医者だって例外ではありませんよ。ですが、厳密に云ってはキリがないから、マア、マアという程度で、一応安心しているのですね。あなたの年齢では、もう生涯危険がないものと考えてさしつかえないでしょう」
 ここは神経科だから、担当の先生は、もっぱらその方面を念頭に物を言ってらッしゃる。現在マイナスの私は、生存中に病菌が頭を犯すまでには至らないだろう、という意味のようであった。
 私もそれを怖れていた。この病院へ入院すると、誰しもそれを怖れるだろう。分裂病や、鬱病には、智能を犯されないが、スピロヘータにやられると、昔日の智能に恢復することができないという。
 同じ病棟に、スピロヘータに頭をやられた三十ぐらいの婦人患者がいた。毎日狂って、暴れていたが、暴れるスサマジサにも拘らず、意外に早くポックリ死ぬものだそうで、二三日うちに死ぬだろうと云われながら、生きつづけていた。
 どういうわけだか、この患者は、スリッパや草履にウラミを結んでおり、同室の患者たちのスリッパや草履を全部盗みとり、胸にだきしめて、フラフラと便所へ捨てに行く。また、一日に何回かは、廊下に見張って、通る人に、
「スリッパ、よこせえ! コラ! よこせと云うに!」
 と、影のように追ってくる。人工栄養で余命を支えているのだから、狂人の馬力によっても、フラフラとよろめく程度にしか歩かれない。しかし、私自身も心もとない足どりで、医者や看護婦には、便器でとるように言われていたが、便器がキライで、ムリに便所へフラついて行く。その往復に、この女に呼びとめられたり、追っかけられたりするのが、苦痛であった。彼女に病毒をうつした夫の方は健在で、時々見舞いに来ているという。
 私は自分の女房を考えて、この患者のことを思うたびに、暗い思いに落ちた。
「ボクは大丈夫かも知れませんが、女房が他日発病すると気の毒ですから、この機会に、やっていただきたいのです」
「ですが、本当に、その危険があるのでしょうか」
「あると思っています。それに、慢性のトリッペルは確実ですから、これから持続睡眠療法をやって衰弱すると、でてくる怖れがあるのですが」
 先生は困った顔で、うなずいて、
「ではお気に召すようにしますが、ペニシリンのことは、泌尿科にきいてみないと分量がわかりませんから、きいた上で、適当にやりましょう」
 泌尿科の話では五六十万単位で充分だとのことであったが、ムリにたのんで、三百万単位ずつうってもらった。
 あの時は奇妙であった。私は二六時中、焦躁や不安にみちた幻覚に苦しめられたが、その一つが女房の血液のことだ。女房が南雲さんで血液検査をうけて陽性だったという幻覚なのである。幻覚というよりも、催眠薬で昏睡中にみた夢なのだ。夢で見てきたことが現実に経てきた事として自覚され、目がさめて、その続きを行う。夢と現実の区別を失っていたのである。
 その幻覚は、罪の意識と悔恨が主要なものであった。なぜだか、分らない。酒場へ、いくらでもない借金を払いに行っていたりした。文人らしい趣きがどこにも見当らないミミッチイ幻覚である。その一つが女房の血液のことだ。
 酒場の借金については過去に払いに行ってやりたいと思うことがあったが、女房の血液を病毒で濁らせたという悔恨で、それまで苦しんだことがあったか、どうか、どうも疑問だ。時々苦しんだことがあった気もする。しかし、ふと目がさめて、今の夢は前に何回も見たことがあった、ような気がする場合と同じ程度に茫漠として、捉えどころがない。
 私の女房は前夫との間に二人の子供がある。又、前夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
 私は心理の表現に、カナリだとか、イクラカだとか、数量的にこだわるタチがあるのだが、持って生れた根性で、どうしても、そうなる。心理の数量上の微妙さが頭にからみついているのである。時々、それを全部払い落したくなる。そうすると、全部の説明を省く以外に手がなくなる。この方法で、気持の一端を満足させるが、他の気持をギセイにした不満によって、苦しむ。これは私の職業上の秘密の一つだ。
 女房は、私からでなく、他の誰かしらから病毒をうけたかも知れないという可能性はあるのだが、それによって、私自身の罪の意識を安心させるワケにもいかない。
 私は女房のニンシンの話をきいて、まず病毒のことを考えて、暗くなった。
 それからニンシン日時をかぞえてみて、その期間に(正月前後だが)酒も過度に飲んでいるし、催眠薬も、覚醒剤も、のんでいる。どれ一つとして、生れてくる子供に遺伝して健全なものはない。
 私はちかごろ再びかなり過度の仕事をしはじめた。時にはやむを得ず覚醒剤や催眠薬のヤッカイにもなるが、その用法には注意をはらっているし、過労に対処する方法として、ムリの限度をこさぬよう、そして、過労後の休養についても考慮を忘れたことはない。私自身としては、生活は健全で、仕事に対する緊張は爽快でもあり、毎日がかなり明るい。私自身としてはそうであるが、座右の品々が生れてくる子供に健全だとは云われない。
 けれども、それらの遺伝を怖れて、ダタイするだけの決断もない。ニンシンの前後に、クリスマスの前夜であったが、女房の貞操を疑ってもいいような事件があった。女房の父母と男が謝罪にきて話はすんでいたが、生れる子供が私の子供ではないかも知れぬという理窟をつけてダタイするだけの気持はない。
 私は女房の貞操を信じていたし、過去は忘れるというのが私の心構えの一つでもあったが、この考えが、女房のニンシンで、ちょッとばかしグラついたのも事実であった。
 どうしても私の子供のようには思われない。なぜなら、私に子供が生れるなら、とッくに生れていなければならないはずだ。女房の場合だけでなく、ほかの女の場合にも。その機会は過去に幾度かあったが、女がニンシンしたということがなかった。
 淋病を患ったり、腰を冷やしたりすると、精子を失って、ニンシンに無能力になるという。二つながら、私には思い当るところがある。
 私は戦争中から一昨年まで、七ヶ年にわたって、冷水浴の習慣があった。真冬はやれないが、春から秋まで、時には初冬まで、やる。
 事の起りは、戦争中、燃料が不足して風呂がわかせなかったことと、銭湯が休業がちであったことが原因だが、元来が、夏になると、日に何回となく水風呂をあびて暑気を払う習慣があったのを、風呂代りに冬まで延長したのである。
 その家は水道がなくて井戸水だったから、夏ですら水につかった瞬間にはドキリとするが、秋から冬には同じ瞬間に失心状態となる。意識が冷感の彼方に距てられ、霞んでしまう。一分二分と失われた意識が次第に霞を払いながら戻ってくると、一時はいくらかの爽快感にひたる何分何秒かがあるのである。そのうちに、骨にまで寒気が徹して、たえがたくなって、とびだす。とびだしたとたんに今度は完全に気を失って、ボーとかすみ、ヘタヘタくずれて膝をつき、背中をまるめて、前方へのめっていたことがある。どれぐらい気を失っていたか知らないが、何年かの十二月六日だった。それ以来、冬はやらないことにして、だいたい十月一ぱいぐらいで打ちきることにした。
 七ヶ年もこんな荒っぽいことをしていたから、腰を冷やす段ではない。全身を冷やしつづけたワケで、精子というものが冷気で死ぬなら、とっくに死んだであろう。水風呂以前にも、私は七ツ八ツの頃からの海水浴狂で、東京に住みはじめて、何が切なかったかというと、夏に思うように海水浴のできないことなどが、その一つであった。毎年、ふるさとの海で、秋がふけると、海辺に立つ人の姿は私一人だけになる。秋になると、日本海は連日の荒天だ。浜には人の姿もなく、人の歩いた跡もない。波にクルクルまかれているのは、言うまでもなく、私だけだ。海も愛したが、孤独も愛したのだ。それがいつの年も秋の荒天まで私を海へひきとめたのである。
 しかし、秋の海は、日本海に於てすら、十月になっても、そう冷めたくはない。真夏に熱せられた海の水というものは、なかなかさめないものだ。たぶん、日本海に於ては、十月の海は六月の海よりも、時には七月はじめの海よりも、あたたかい。温度がなかなかさめない代りには、いったんさめると、なかなか温まらないのじゃないかと思われる。八月の中ごろに海水の温かさは頂点に達し、ゆっくり冷えて行くのである。私はこういうバカげたことを、経験によって知るようになった。天性冷えていたのである。
 去年から伊東の温泉地へ住みついたので、旅館はとにかく、家庭風呂は、湯はあれども、水なし。かくて水風呂は終りである。
 水風呂が終りをつげたので、女房がニンシンするという事態を生ずるに至ったのかな、とも考えた。しかし、いったん失われたものが、再び生じうるであろうか。疑問。
 こういう年来の事情があるところへ、疑えば疑うこともできるようなイキサツなどもあったから、私の子供ではないような気がした。三日間ぐらい、そのことで、思いふけった夜があった。たしか、三日間ぐらい、である。それ以上ではなかったようだ。
 その疑いつづけた三日間ですら、私はダタイさせようという気持にはならなかった。
 そして、私は、一度だけ、女房に云った。
「オレの子供じゃないだろうと疑っているのだ」
「疑ってるの、知ってたわ。疑るなら、生まないから。ダタイするわ」
「ダタイするには及ばないさ。生れてくるものは、育てるさ」
「誰の子かってこと、証明する方法がある?」
「生れた後なら判るだろう。血液型の検査をすればね」
 私はこう云い残して、催眠薬をのんで眠ってしまったから、女房が泣いたか怒ったか、一切知らない。
 そして、この問題は、それで打ちきってしまった。
 しかし、その翌日からの女房はケロリとして、落着きはらっていた。誰の子か科学的に証明する方法があると知って安心したのかも知れないし、誰の子にしろ、自分の家で生れたからには、若干うちこんで育てる気持もあるらしい私の思いを見ぬいて安心しているのかも知れなかった。
 私は半年ほど前にも、女房の前夫の子供をひきとるか否か、一週間ぐらい考えたことがあった。その子供は女房の母のもとに育っていた。五ツぐらいだろう。別に女房がひきとってくれと頼んだワケではないが、折にふれ子供を忘れかねている様子がフビンであったからである。
 しかし、一日、遊びにきた子供を観察して、愛す自信がなかったので、やめることにした。
「愛す自信があれば育てるつもりだったが、自信がないから、やめた」
「頼みもしないのに。何を云うのよ」
「人手に加工された跡が歴然としていて、なじめないし、可愛げが感じられないのだ。コマッチャクレているよ」
「そんなこと云うのは、可哀そうよ。あの子の罪じゃなくってよ」
 女房は、いささか、色をなして叫んだ。
 過去に起ったそれらの事どもを通観して、私のもとで生れた子供なら、私が案外喜んで育てるだろうことを女房は見ていたのかも知れない。私自身はどうかと云えば、万事生れてみなければ分らない。目下の状態としては、生れるものは仕方がないというアキラメだけであった。ごくワズカに、自分の子供ならうれしいかも知れない、という気持が、探してみれば突きとめることが出来る程度に、存在するだけであった。
 そして、もしも自分の子供であるとすれば、私の怖れたことは、子供に遺伝するかも知れぬクサグサの事どもであった。
 私は昨年から、毎日、天城先生に健康診断していただき、ブドウ糖とビタミンBの注射をうっていただいていた。
 私は天城さんに相談した。
「女房がニンシンしたようですが、生れてくる子供を、生れぬ先に、病毒から救う方法がありますか」
「ええ、ありますとも。婦人科の先生にレンラクしておきますから、さッそくお出かけになったがよろしいでしょう」
 そこで女房は出かけて行ったが、血液検査は例によってマイナスである。しかし、子宮後屈で、お産がむつかしいと云う。私と一しょになってのち、盲腸で手術した結果だそうだ。
「子供を生みたいと思いますか」
 婦人科の先生は、女房にこうきいた。
「生みたいのです」
 女房はそう答えた。
「ムリかも知れませんが、当分、一週に一度ずつ来てみなさい」
 との話であったそうだ。
 私はその話をきいてるウチに、なんだいバカバカしい、というような気持になった。張りつめたものが弛んだようであった。私は、ダタイさせない、という気持に、こだわっていたのかも知れない。そんなコダワリがあったようには思われないが、張りつめた気が弛んだ時には、そんな気がした。
 色々の取越苦労もナンセンスである。
 私の気持は素直になった。
「さッそく東京へ行って、南雲さんにみてもらうんだね。たぶん、同じ診断だろう。同じ診断だったら、さッそく手術をうけることだ。一日も早い方がいい」
 女房も、その気持であった。女房は、東京ではズッと南雲さんに診てもらっており、信頼しきっていた。私も、そうだ。南雲さんは婦人科医だが、そんなことはお構いなしに、ムシ歯以外は南雲さんに委せッ放しにしていた。ずいぶん柄の悪いことまで、お手数をわずらわしたが、先生も、看護婦も、みんな親切であった。
 どうも、私のように、過労を覚悟の仕事をしていると、仕事の責任は自分でもつが、身体の方は信頼できる先生に委せきった方がよい。その安心感で、瑣末な心配は忘れられるし、これ以上はどうなっても仕方がないのさと覚悟もつく。
 蒲田にいた時は南雲さんにお委せしていたが、事ある場合だけで、平常は没交渉であった。
 伊東へきてからは、天城さんに、毎日健康診断していただく。毎日、ブドウ糖とビタミンをうっていただく。これは大変いゝ方法であった。私はよくカゼをひくが、毎日診てもらっていると、今日はカゼだな、熱があるな、と思っても、安全感から、先生のすすめて下さる服薬を辞退するような気持になり、毎日先生にかかりながら、たいがい我流で処置している。安心感から逆にそうなるのである。
 そして、これ以上のことは仕方がないと見きわめがつけば、どんな過労に対しても、労働のよろこび、完成のよろこびを主にして暮すことができる。過労に対して、私はかなり爽快ですらある。現在苦しいのは、深夜の寒気と、眼の痛みだ。
 伊豆の山々は炭焼き地だから、炭はいくらでもあるが、私は炭酸ガスに弱いので、炭火をおこして仕事をすると、頭痛がし、メマイがし、全身の関節の力がぬけ、喪失状態にちかづいてくる。電気でやると、ヒューズがきれる。温泉につかる以外に仕方がないが、私の家の温泉はぬるくて(三十六度ぐらい)冬の用に立たないので、加熱しなければならない。それにしては、よく、やった。家族の協力のタマモノだ。女房は私の仕事の苦痛をやわらげるためなら、深夜に寒風の吹きすさぶ戸外でお風呂をわかすぐらいは平気であり、そんな時には、自分よりも私の方を大事にしていることがハッキリしている。それを自分の仕事だと思っているようである。その代り、私に無断で、容赦なく彼女はサラリーを消費する。女房というものが職業なら、彼女は私以上に高給をとっており、税務署は私の代りに彼女から取り立てるべきかも知れない。
 眼の痛みは、老眼と近眼のゴチャまぜから視覚が狂い、視力の減退と変調にともなう眼の過労の結果のようだ。すこし読書して眼をとじると、涙がにじみ、眼の焼けつくような痛みが分ってくる。そして、いつも、眼が乾きすぎたためのような痛さがつきまとっている。砂漠の砂上に落ちた目だ。

  ゆく春や 鳥啼き 魚の目に涙

 芭蕉は何を見てこの句をつくったのだろう。これは、たしか、奥州の旅に立ってまもなく、よんだ句のようだが、旅日記を読むと、意味がハッキリする句だったかな? 私は温泉につかりながら、天城さんが持ってきて下さった洗眼器で、目に噴水の水をあてる。この時は、やや爽快である。疲れが、眼からだけでなく、頭全部からも、やや、ひいたように思われる。
「魚の目だ」
 私は、そう考える。水にぬらしたからではなく、乾いて、風に吹きさらされて、ザラザラ痛いから魚の目なのだ。死んで、乾いた、魚の目。
「芭蕉の奴、乾物屋の店先で、シッポを荒縄でくくってブラ下げた塩鮭を見やがったのかも知れないな」
 私は忘れていたのである。魚の目というのは、お魚の目の玉のことではなくて、足にできる腫物のような魚の目のことだろう。しかし、どうも、そう分ってみると面白くない。お魚の目の玉であってくれると、私の方にはピッタリするのであった。
 女房は東京へ出かけて行った。
 南雲さんの診断も同じで、即日、ダタイ手術したそうだが、胎児はすでに死んでいたそうである。
「ダタイ手術も、お産も、疲れは同じことです」
 と、天城さんは女房に同情した。私は哀れを覚えて、使いの者にさらに余分の金を届けさせたが、女房は雑誌社からも原稿料をとりよせ、退院と同時に銀座に現れ、所持金使い果して、悠々御帰館であった。
 女房は私に買ってきたミヤゲの品をくれたが、ダタイ手術の報告は一言もしなかった。私も、きかなかった。女房が私にミヤゲをくれる時は、自分がその十倍ぐらいの買い物をした時にきまっていた。
「お前はダタイして残念がっているかも知れぬが、その方が身のためだってことを気がつかないな」
 私は深夜に起き上って、机に向い、机の向うに見える女房の寝姿を見ながら考えた。
 子供が生れなくて良かった、ということの方が、ほとんど私の気持の全部を占めていた。
 私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。
 私は彼女に云った。
「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」
 彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。
 ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
 このとき来てくれたのが、南雲さんであった。もっと近いところに二三医者がいたが、ヤブ医者のくせに、未明の往診に応じてくれなかった。この時が南雲さんとの交渉のハジマリだが、私のためにも、女房のためにも、幸運であったと云えよう。そして、南雲さん以外の医者は、たぶん女房を殺したであろう。なぜなら、手術に一時を争う状態であるのに、この界隈では、南雲さんのほかに手術室をもつ医者がなかったからである。
 女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。
 しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。
 私は、しかし、不満ではなかったと言えよう。彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。
 私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。
 女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。
 私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。
 私は、よい仕事をしたいとは思っているが、聖人になりたいとは思っていない。
 










 人の子は、必ず、うなされる。哀れな定めである。その定めに於て、私と人とのツナガリがあるのだし、別して、女房とのツナガリがあるのだろう。誰も解くことのできない定め。それ故、この上もなく、なつかしい定めが。
 女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。





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底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第五号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第五号」
   1950(昭和25)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:

薄田泣菫  『利休と遠州』〔昭和2年刊『猫の微笑』〕6400字

2008-07-24 14:36:58 | 17 ◎調べもの文芸文庫
薄田泣菫



        一

 むかし、堺衆の一人に某といふ数寄者がありました。その頃の流行にかぶれて、大枚の金子を払つて出入りの道具屋から、雲山といふ肩衝(かたつき)の茶入を手に入れました。太閤様御秘蔵の北野肩衝も、徳川家御自慢の初花肩衝も、よもやこれに見勝るやうなことはあるまいと思ふにつけて、某はその頃の名高い茶博士から、何とか折紙つきの歎賞の言葉を得て、雲山の誉れとしたいものだと思つてゐました。
 機会は来ました。ある日のこと、某は当時の大宗匠千利休を招いて、茶会を催すこととなりました。
 かねて主人の口から、この茶入について幾度ならず吹聴せられてゐた利休は、主人の手から若狭盆に載せられたこの茶入を受け取つてぢつと見入りました。名だたる宗匠の口から歎美の一言を待ち設けた主人の眼は、火のやうに燃えながら、利休の眼を追つて幾度か茶入の肩から置形(おきがた)の上を走りました。
 あらゆる物の形を徹(とほ)してその心を見、その心の上に物の調和を味はふことに馴れてゐる利休の眼は、最初にちらとこの肩衝を見た時から、この茶入の持つ心持がどうも気に入らなかつた。しかしできるだけその物の持つてゐる美しい点を見逃すまいとする利休の平素(ふだん)からの心掛けは、隠れた美しさを求めて、幾度か掌面(てのひら)の茶入を見直さしました。肩の張りやうにも難がありました。置形にも批の打ちどころがありました。一口に言へば衒気(げんき)に満ちた作品でした。
 利休は何にも言はないで、静かにその肩衝を若狭盆の上に返さうとしました。その折でした。利休が自分に注がれた主人の鋭い眼付きを発見しましたのは。その眼には驕慢(けうまん)と押しつけがましさとが光つてゐました。利休はその一刹那に、主人の表情に茶入の心持を見てとりました。茶入の表情に主人の心持を味はひました。
 主人は得意さうに利休の一言を待ち構へてゐました。利休は何にも言ひませんでした。狭い茶室はこの沈黙に息づまるやうに感ぜられました。
 湯はしづかに煮え沸(たぎ)つてゐました。主人の顔からはいつのまにか押しつけがましさが消えて、物を頼むときのやうな弱々しい表情が見え出しました。利休は眼ざとくそれを見て取りましたが、何事にも気のつかない振りをしてゐました。いつだつたか、利休は前田玄以(げんい)の茶会で、主人の玄以が胴高(どうたか)の茶入を持ち出してきて、
「この肩衝が……」
と、茶入の胴高なのに気がつかないで、しきりと肩衝を繰り返して、利休の意見を聞きたがつてゐるのに出会つたことがありました。利休はいまさらそれを胴高だと教へもならず、をかしさをこらへてただ黙つてゐると、それがひどく玄以の機嫌を損じたかして、その後はうばうで自分のことを悪様(あしざま)に言ひふらし、果ては太閤殿下にまで讒訴(ざんそ)を試みてゐるといふことを聞いてゐるので、こんな場合の沈黙が、どうかすると自分の一身にとんでもない災難をもたらさないものでもないことをよく知つてゐました。しかし自分はこの道の宗匠である。自分の一挙手一投足は長くこの道の規範として残り、自分の一言は器の真の価値を定める最後の判断であるのを思ふと、滅多なことは口に出せませんでした。利休はただ黙つてゐました。

 茶がすんで、利休が席を退くと、その少し前からやつと気持の平静を取り返したらしい主人は、雲山の肩衝を手のひらに載せて、しばらくぢつと見とれてゐましたが、いきなりそれを炉(いろり)の五徳に叩きつけました。茶入は音をたてて砕け散りました。
「何をなされます、こんな名器を……」
 席に居残つて、何かと世間話に興じてゐた二人の相客は、びつくりして主人の顔を見つめました。
 主人はそれには何も答へないで、静かに羽箒(はばうき)を取つてそこらに飛び散つた挽茶(ひきちや)の細かい粉を払つてゐました。
「何をそんなにお腹立ちで、こんな名器をお毀(こは)しなされた」
 二人の客はいくらか不興げな顔をして、腑に落ちなささうに訊きました。
「いま時利休が賞め言ひとつ申さぬものを……」主人はどうかすると興奮しさうになる自分の心を、強ひて抑へつけるやうに、一語一語力を籠めながら、ぼつりぼつりと息を切つて言ひました。
「賞め言ひとつ申さぬものを秘蔵したとあつては、末代までの恥辱でござるからな」
 誇りを持つた主人の言前(いひまへ)に、二人の客は顔を見合せて口を噤(つぐ)むよりほかには仕方がありませんでした。急に茶室のなかが薄暗くなつたかと思ふと、時雨がはらはらと軒の板庇を叩いて通りました。
「御主人……」しばらくしてから客の一人が口を切りました。「少し趣向もござれば、その茶入の破片は拙者において所望いたしたい」
「最早手前には無用の品、どうか御随意になされますやう」
 主人はほがらかな気持で答へました。その客は静かに炉縁ににじり寄つて、灰のなかから茶入の破片をこくめいに拾ひ上げました。
 時雨はいつか通り過ぎたかして、室のなかはまたぱつと明るくなつてきました。

        二

 雲山肩衝の破片を拾ひ集めた茶人の手で、間もなく茶会がまた催されました。
 客の一人としてその席に招かれた利休の顔は、若狭盆に載せられた肩衝の茶入が眼につくと、驚きの色で輝きました。それはばらばらに幾つかに毀れたのを、無雑作に継ぎ合せたもので、なかには破片と破片とが互ひに入違ひになつてゐるところもあつて、誰の眼にも素人の手で繕はれたものとはすぐに見別けられました。
 が、利休の驚いたのは、この席で疵(きず)入りの肩衝を見つけたからではありません。その茶入が紛(まが)ふ方もなく、ついこなひだ堺衆なにがしの茶席で見かけた雲山そのものだつたからでした。それに気がつくと同時に、利休の眼の前には、驕慢と押しつけがましさとで火のやうに燃えてゐたその持主の顔が描き出されました。
「たうとう割りをつたな」利休は心のなかでさう思ひました。「大抵の者ならば、割るよりもまづ売るはうを考へたらうにな」
 利休はしづかに盆の上から茶入をとりあげました。そして初めて気付いたもののやうに言ひました。
「ほう、これはいつぞやの雲山でござるな」見ると素人の手でへたに繕はれただけに、茶入には以前の衒気は跡方もなく消えてゐました。利休にはそれが以前の持主の名器に対する執着の抛擲(はうてき)のやうにも見えました。利休は独語のやうに言ひました。「これでこそ、結構至極ぢや……」

        三

「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は、たちまちその頃の茶人たちのなかに拡がりました。そして前にはこれを見て何ひとつ言はなかつた利休に、結構至極と折紙をつけさせるやうになつたのは、茶入の割れ目を繕つたその無雑作加減が、茶道の極意にかなつたからだと噂されました。
「こんな名器を貰ひ徳にしておいては、茶人冥利につきまいものでもない」
 かう思つた持主は、その肩衝を持参して、訳を話して以前の持主に返さうとしました。以前の持主は強くかぶりをふつて、
「うち砕いて土に戻した雲山に、まためぐりあはふなどとは思ひもかけませぬことぢやて」
といつて、てんで相手にもしなかつたさうです。

        四

「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は器の値打をだんだんとせり上げました。疵入の雲山は数寄者から富豪へ、富豪から大名へと、次々に譲渡されて、最後にすばらしい値打と評判とをもつて、ある東国の大名の手に納まりました。
 それを聞きつけたのが、その頃丹後宮津の城主であつた京極安知でした。安知は茶器のためだつたら自分の家来はいふまでもないこと、ただひとつしか持つてゐなかつた小さな魂をも売るのを厭はないといつた性(たち)の大名でした。
「雲山が所持したい。あれさへ所持できたなら、茶入の望みは生涯またと持つまいに」
 安知はかう言つて、しみじみと歎きました。そして病気にさへなりました。その容態を看るべく京極家に迎へられた某といふ医者は、安知の病気が自分の持ち合せの医薬では、とても治らないことを見てとりました。そして別の医療法をとることに決めました。別の医療法といふのは、
「欲しがるものは与へる」
といふことでした。医者は雲山肩衝の今の持主である東国の大名にも出入りを許されてゐましたから、早速その旨を通じました。
「京極侯には、雲山を所望して病気にまで罹(かか)られたとか。それはお気の毒なことぢや。さやうに所望せらるれば遣(つか)はさないものでもないが、あれは利休も結構至極と賞めた当家秘蔵の品ぢやによつて、金二駄を少しでも欠いでは………」
 その大名はかう言つて笑ひました。この人は京極安知よりも、人間が少し賢く生れてゐましたから、頭から拒(は)ねつけないで、金二駄ならば相談に乗つてもいいと答へたのです。金二駄と言へば一万二千両ですから、小藩の京極家では指をくはへて引つ込むよりほかには仕方があるまいといふ腹なのでした。しかし、ものに溺れやすい安知には、そんな銭勘定を飛び越すくらゐは何でもなかつたのです。医者から事情を聞いた彼は、
「利休の賞め立てた品ぢや。金二駄は安からうて」
といつて喜びました。案に相違したのは東国の大名です。この場合唯一の方法は、
「あれは戯談(じようだん)ぢや」
と逃げを打つことでしたが、大名といふものは、仮にも戯談なぞ言ふものではないと、常々からたしなめられてゐましたから、さうも言へませんでした。で、雲山は金二駄を身の代として、めでたく京極家に引きとられました。
 京極安知は、気のくさくさするときには、いつも雲山を二重箱の中から取り出しました。そして、
「利休がこれを見て、結構至極ぢやと言つたさうな」
と、口のなかで呟きながら、幾度か見直し、見直ししてゐると、心はおのづとこんな名器を秘蔵してゐる誇りに満たされて、言はうやうのない安慰を覚えるのでした。
 が、こんなことを繰り返してゐるうちに、安知は不思議なことを発見しました。それは茶入の割れ目があまりぞんざいに継がれて、破片と破片とが互ひに入れ違ひになつてゐるところのあるのが、どうも気になつてならないといふことでした。
「その無雑作なのがいい、茶道の極意にかなつてゐるところぢや」
 安知は世間の評判を言葉通りに胸のなかで繰り返してみました。しかし、これまで長い間いろんな名器から訓練せられた彼の趣味と鑑識とは、さういふ口の下からむつくりと頭を持ち上げて、
「さうかと言つて、この疵が……」
と強く不服を唱へました。そして入れ違ひになつてゐるその破片を、も一度正しく継ぎ直したなら、茶入はもつと見栄えがするやうになるだらうと考へました。
 安知は思ひあまつて、自分の茶道の師範役である小堀遠州に相談を持ちかけました。
 遠州は雲山を取り上げて、仔細に見直しました。
「京極侯のお言葉には、いかにももつともな節がある。さりながら……」
 遠州はその瞬間、
「利休が結構至極ぢやと言つたさうな」
といふ世間の言伝へを思ひ出しました。そして腑に落ちない節はありながら、古い宗匠の言ひ遺した言葉は、そのままに立てておいたはうが無難であると思ひました。
「この茶入は、継ぎ目の合はぬところこそ、利休にも面白がられ、世間にも取り囃(はや)されたので、どうかこのまま大事に残しおかるるやうに」
 遠州はかう言つて返事をしました。

        五

 遠州は間もなく亡くなりました。
 寂しい、灰色の死の国をさまよつてゐるうちに、遠州はゆくりなくも大樹のかげで一人の老人を見かけました。粒桐(つぶきり)の紋の小袖に八徳(はつとく)を着、角(つの)頭巾を右へなげ、尻切れをはき、杖をついて遠見をしてゐるらしいその姿は、遠州をしてすぐに宗匠利休を思はせました。そのむかし、利休自身の手で大徳寺の山門の上に置かれたのを、太閤の命令で船岡山に投げ捨てられたこの茶人の木像を、遠州は一、二度見かけたことがありました。
「これは、これは、利休宗匠でいらせられますか」
 遠州は自分の工風(くふう)した遠州流のものごしで叮嚀(ていねい)に挨拶しました。
「あんたはどなたかな」
 利休は悲しさうな眼をしよぼしよぼさせて訊きました。
「私は小堀政一と申して、宗匠の流れを汲む茶人の一人でございます」
「ほう、茶をやられるか。それは奇特なことぢやな」
 利休はなつかしさうに言つて、生前に茶器を鑑定(めきき)した時のやうな眼つきをして、しげしげと遠州の顔を見ました。
 その眼つきを見ると、遠州はふとあることを思ひ出しましたので、顔を老人の耳にすりつけるやうにして言ひました。
「宗匠、ここでお目にかかりましたのを御縁に、ちよつとしたことをお訊ね申したいと思ひますが……」
「何か訊ねたいといはつしやるか」
 利休は、老人が年下のものに何か訊かれる折のやうに、意地悪く気取つて見せましたが、それは気の毒なほど弱々しいものでした。
「はい。お伺ひしたいのは、実はあの雲山のことですが、……」
「雲山?」老人はその名前がどうしても飲み込めないやうに訊き返しました。「雲山といふとどなたのことかな」
 遠州はちよつと笑ひ顔を見せました。
「雲山と申しますのは、肩衝の名前です」
「肩衝? 肩衝といふと――」老人の寂しい顔に一脈の火が点ぜられました。言葉にも何となく元気がありました。「太閤御秘蔵の北野肩衝、徳川家の初花肩衝、そのほか肩衝にはいろいろあるが、雲山といふのは一向覚えがない」
 遠州はもどかしさうに声を高めました。
「雲山と申しますのは、以前堺衆が秘蔵してゐたのを、宗匠の御挨拶がなかつたばかりに五徳に叩きつけて割りました……」
 老人はやつと記憶を取り返しました。
「さう、さう。そんなこともあるにはあつたやうぢやな。しかし、そんなことを訊いてどうしなさるのぢや」
 遠州は言葉を次ぎました。
「その後、茶入が素人の手で無雑作に継がれたのを御覧になつて、宗匠がこれでこそ結構至極と、その肩衝をお賞めなさいました」
「いや、違ふ。それは違ふ」老人は樹の枝のやうな手を振りながら、遠州の言葉を抑へました。「わしが賞めたのは、千金にも代へ難いその誇りと執着とを、茶器とともに叩き割つた持主のほがらかな心の持ち方ぢや。ただそれだけの話ぢや」
「それでは、茶入をお賞めになつたのぢや……」遠州は呆気にとられて、老人の顔を見つめました。
「さうとも。さうとも。賞めたのは、ただその心持ばかりぢや」
 老人はきつぱりと言ひ切りました。
 それを聞くと、遠州はすぐにあの茶入に対する世間の評判を思ひ出しました。今の持主の京極安知が彼に相談したことを思ひ出しました。そしてそれに対する自分の返事をそつと思ひ出して、覚えず顔を赤らめました。
 老人はそれには一向気がつかない容子でした。

〔昭和2年刊『猫の微笑』〕





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底本:「泣菫随筆」冨山房百科文庫43、冨山房
   1993(平成5)年4月24日第1刷発行
   1994(平成6)年7月20日第2刷発行
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:

若山牧水  「湯槽の朝」  1300字 

2008-07-24 14:30:25 | 17 ◎調べもの文芸文庫
若山牧水
湯槽の朝


 三月廿八日、午前五時ころ、伊豆湯ケ島温泉湯本館の湯槽(ゆぶね)にわたしはひとりして浸つてゐた。
 温まるにつれて、昨夜少し過した酒の醉がまたほのかに身體に出て來るのを覺えた。わたしは立つて窓のガラスをあけた。手を延ばせば屆きさうな所に溪川の水がちよろ/\と白い波を見せて流れてゐた。ツイ其處だけは見ゆるが、向う岸は無論のこと、だう/\とひどい音をたてゝゐる溪の中流すらも見えぬ位ゐ深い霧であつた。
 流石に溪間の風は冷たい。わたしはまた湯に入つて後頭部を湯槽の縁に載せ、いまあけたガラス戸の方に向つて、出て行く湯氣、入つて來る霧の惶(あわただ)しい姿を見るともなく仰いでゐた。
 何しろ深い霧である。そして頻りとそれの動いてゐるのが見えて來た。くるり/\と大きな渦を卷きながら流れ走つてゐるらしい。
 三分か五分かゞ過ぎた。わたしはまた立つて其處の低い窓に腰かけた。今度は溪の流が見えて來た。天城山の雪解のため常より水の増してゐる激流は大きな岩と岩との間をたゞ眞白になつて泡だち渦卷きながら流れてゐる。その雪白な荒瀬のなかのところ/″\にうすらかな青みの宿つてゐるのをすらわたしは認めた。夜はいよ/\明けて來たのである。
 また湯槽に歸つた。溪に見入つてゐた間に霧はよほど薄らいでゐた。と共にしゆつ/\と流れ走る速度の速さはよく見えた。そして終(つひ)にその流の斷間々々に向う岸の、切りそいだ樣に聳えてゐる崖山の杉の木の青いのが見えて來た。
 宿醉(ふつかよひ)はいよ/\出て來た。霧を見るのをやめ、眼を瞑ぢてをると、だう/\と流れ下つてゐる瀬の音が、何となく自身の身體の中にでも起つてゐる樣に思ひなされて來た。
 三度び窓に腰かけた。其儘(そのまま)その窓を乘り越えて溪端の岩の上にでも立ちたいほどの身體のほてりである。然し、流石に雪解の風は冷たい。
『一體、今日の天氣はどうなのだらう』
 わたしは杉の森の茂つて居る崖山の端に空を求めた。が、其處はまだ霧が深くつて何ものも見えなかつた。
 もう一度湯の中に入つた。
 のぼせたせゐか、暫しの間わたしは瀬の音も霧も忘れてゐた。
 サテもう出ようと湯槽の縁に眼を開くと、丁度さうして仰ぐにいゝ具合になつてゐる向う岸の崖山の端のところを相變らず霧は走つてゐた。が、もう其處の霧も薄らいでゐた。そして薄らいだ霧のなかゝら何とも言へぬ鮮かなみづみづしい空の色が見えて來た。それこそ滴るやうな水色の空であつた。わたしはふら/\と先刻眞白な荒瀬の渦の中に見た水の深みのうすみどりを思ひ浮べてしみ/″\といかにも早春らしいその空の色に見入つた。


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底本:「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
ファイル作成:野口英司
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:

宮沢賢治 『ツェねずみ』  5400字

2008-07-24 14:22:49 | 17 ◎調べもの文芸文庫
ツェねずみ
宮沢賢治



 ある古い家の、まっくらな天井裏に、「ツェ」という名まえのねずみがすんでいました。
 ある日ツェねずみは、きょろきょろ四方を見まわしながら、床下街道(ゆかしたかいどう)を歩いていますと、向こうからいたちが、何かいいものをたくさんもって、風のように走って参りました。そしてツェねずみを見て、ちょっとたちどまって早口に言いました。
「おい、ツェねずみ。お前んとこの戸棚(とだな)の穴から、金米糖(こんぺいとう)がばらばらこぼれているぜ。早く行ってひろいな。」
 ツェねずみは、もうひげもぴくぴくするくらいよろこんで、いたちにはお礼も言わずに、いっさんにそっちへ走って行きました。ところが戸棚の下まで来たとき、いきなり足がチクリとしました。そして、「止まれ、だれかっ。」と言う小さな鋭い声がします。
 ツェねずみはびっくりしてよく見ますと、それは蟻(あり)でした。蟻の兵隊は、もう金米糖のまわりに四重の非常線を張って、みんな黒いまさかりをふりかざしています。二三十匹は金米糖を片っぱしから砕いたり、とかしたりして、巣へはこぶしたくです。ツェねずみはぶるぶるふるえてしまいました。
「ここから内へはいってならん。早く帰れ。帰れ、帰れ。」蟻の特務曹長(とくむそうちょう)が、低い太い声で言いました。
 ねずみはくるっと一つまわって、いちもくさんに天井裏へかけあがりました。そして巣の中へはいって、しばらくねころんでいましたが、どうもおもしろくなくて、おもしろくなくて、たまりません。蟻(あり)はまあ兵隊だし、強いからしかたもないが、あのおとなしいいたちめに教えられて、戸棚(とだな)の下まで走って行って蟻(あり)の曹長(そうちょう)にけんつくを食うとは、なんたるしゃくにさわることだとツェねずみは考えました。そこでねずみは巣からまたちょろちょろはい出して、木小屋の奥のいたちの家にやって参りました。
 いたちはちょうど、とうもろこしのつぶを、歯でこつこつかんで粉にしていましたが、ツェねずみを見て言いました。
「どうだ。金米糖がなかったかい。」
「いたちさん。ずいぶんお前もひどい人だね。私(わたし)のような弱いものをだますなんて。」
「だましゃせん。たしかにあったのや。」
「あるにはあっても、もう蟻が来てましたよ。」
「蟻が、へい。そうかい。早いやつらだね。」
「みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、償(まど)うてください。償うてください。」
「それはしかたない。お前の行きようが少しおそかったのや。」
「知らん、知らん。私のような弱いものをだまして。償うてください。償うてください。」
「困ったやつだな。ひとの親切をさかさまにうらむとは。よしよし。そんならおれの金米糖をやろう。」
「償うてください。償うてください。」
「えい、それ。持って行け。てめえの持てるだけ持ってうせちまえ。てめえみたいな、ぐにゃぐにゃした男らしくもねえやつは、つらも見たくねえ。早く持てるだけ持ってどっかへうせろ。」いたちはプリプリして、金米糖を投げ出しました。ツェねずみはそれを持てるだけたくさんひろって、おじぎをしました。いたちはいよいよおこって叫びました。
「えい、早く行ってしまえ。てめえの取った、のこりなんかうじむしにでもくれてやらあ。」
 ツェねずみは、いちもくさんに走って、天井裏の巣へもどって、金米糖をコチコチ食べました。
 こんなぐあいですから、ツェねずみはだんだんきらわれて、たれもあんまり相手にしなくなりました。そこでツェねずみはしかたなしに、こんどは、柱だの、こわれたちりとりだの、バケツだの、ほうきだのと交際をはじめました。中でも柱とは、いちばん仲よくしていました。
 柱がある日、ツェねずみに言いました。
「ツェねずみさん、もうじき冬になるね。ぼくらはまたかわいてミリミリ言わなくちゃならない。お前さんも今のうちに、いい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。幸いぼくのすぐ頭の上に、すずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるから、いまのうちに、すこしおろして運んでおいたらどうだい。僕(ぼく)の頭は、まあ少し寒くなるけれど、僕は僕でまたくふうをするから。」
 ツェねずみはもっともと思いましたので、さっそく、その日から運び方にかかりました。
 ところが、途中に急な坂が一つありましたので、ねずみは三度目に、そこからストンところげ落ちました。
 柱もびっくりして、
「ねずみさん、けがはないかい。けがはないかい。」と一生けん命、からだを曲げながら言いました。ねずみはやっと起き上がって、それからかおをひどくしかめながら言いました。
「柱さん。お前もずいぶんひどい人だ。僕のような弱いものをこんな目にあわすなんて。」
 柱はいかにも申しわけがないと思ったので、
「ねずみさん、すまなかった。ゆるしてください。」と一生けん命わびました。
 ツェねずみは図にのって、
「許してくれもないじゃないか。お前さえあんなこしゃくなさしずをしなければ、私はこんな痛い目にもあわなかったんだよ。償(まど)っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれよ。」
「そんなことを言ったって困るじゃありませんか。許してくださいよ。」
「いいや、弱いものをいじめるのは私はきらいなんだから、償っておくれ。償っておくれ。さあ、償っておくれ。」
 柱は困ってしまって、おいおい泣きました。そこでねずみも、しかたなく、巣へかえりました。それからは、柱はもうこわがって、ねずみに口をききませんでした。
 さてそののちのことですが、ちりとりはある日、ツェねずみに半分になった最中(もなか)を一つやりました。するとちょうどその次の日、ツェねずみはおなかが痛くなりました。さあ、いつものとおりツェねずみは、まどっておくれを百ばかりも、ちりとりに言いました。ちりとりもあきれて、もうねずみとの交際はやめました。
 また、そののちのことですが、ある日バケツはツェねずみに、せんたくソーダのかけらをすこしやって、
「これで毎朝お顔をお洗いなさい。」と言いましたら、ねずみはよろこんで次の日から、毎日それで顔を洗っていましたが、そのうちにねずみのおひげが十本ばかり抜けました。さあツェねずみは、さっそくバケツへやって来て、償(まど)っておくれ償っておくれを、二百五十ばかり言いました。しかしあいにくバケツにはおひげもありませんでしたし、償うわけにも行かず、すっかり参ってしまって、泣いてあやまりました。そして、もうそれからは、ちょっとも口をききませんでした。
 道具仲間は、みんな順ぐりにこんなめにあって、こりてしまいましたので、ついにはだれもツェねずみの顔を見るといそいでわきの方を向いてしまうのでした。
 ところがその道具仲間に、ただ一人だけ、まだツェねずみとつきあってみないものがありました。
 それは針がねを編んでこさえたねずみ捕(と)りでした。
 ねずみ捕りは全体、人間の味方なはずですが、ちかごろは、どうも毎日の新聞にさえ、猫(ねこ)といっしょにお払い物という札をつけた絵にまでして、広告されるのですし、そうでなくても、元来人間は、この針金のねずみ捕りを、一ぺんも優待したことはありませんでした。ええ、それはもうたしかにありませんとも。それに、さもさわるのさえきたないようにみんなから思われています。それですから実は、ねずみ捕りは人間よりはねずみの方に、よけい同情があるのです。けれども、たいていのねずみはなかなかこわがって、そばへやって参りません。ねずみ捕りは、毎日やさしい声で、
「ねずちゃん、おいで。今夜のごちそうはあじのおつむだよ。お前さんの食べる間、わたしはしっかり押えておいてあげるから。ね、安心しておいで。入り口をパタンとしめるようなそんなことをするもんかね。わたしも人間にはもうこりこりしてるんだから。おいでよ。そら。」
 なんてねずみを呼びかけますが、ねずみはみんな、
「へん、うまく言ってらあ。」とか、
「へい、へい。よくわかりましてございます。いずれ、おやじや、せがれとも相談の上で。」とか言ってそろそろ逃げて行ってしまいます。
 そして朝になると、顔のまっ赤(か)な下男(げなん)が来て見て、
「またはいらない。ねずみももう知ってるんだな。ねずみの学校で教えるんだな。しかしまあもう一日だけかけてみよう。」と言いながら、新しいえさととりかえるのでした。
 今夜も、ねずみ捕りは叫びました。
「おいでおいで。今夜はやわらかな半ぺんだよ。えさだけあげるよ。大丈夫さ。早くおいで。」
 ツェねずみが、ちょうど通りかかりました。そして、
「おや、ねずみ捕りさん、ほんとうにえさだけをくださるんですか。」と言いました。
「おや、お前は珍しいねずみだね。そうだよ。えさだけあげるんだよ。そら、早くお食べ。」
 ツェねずみはプイッと中にはいって、むちゃむちゃむちゃっと半ぺんを食べて、またプイッと外へ出て言いました。
「おいしかったよ。ありがとう。」
「そうかい。よかったね。またあすの晩おいで。」
 次の朝、下男が来て見ておこって言いました。
「えい。えさだけとって行きやがった。ずるいねずみだな。しかしとにかく中にはいったというのは感心だ。そら、きょうは鰯(いわし)だぞ。」
 そして鰯を半分つけて行きました。
 ねずみ捕りは、鰯をひっかけて、せっかくツェねずみの来るのを待っていました。
 夜になって、ツェねずみはすぐ出て来ました。そしていかにも恩に着せたように、
「今晩は、お約束どおり来てあげましたよ。」と言いました。
 ねずみ捕りは少しむっとしたが、無理にこらえて、
「さあ、食べなさい。」とだけ言いました。
 ツェねずみはプイッとはいって、ピチャピチャピチャッと食べて、またプイッと出て来て、それから大風(おおふう)に言いました。
「じゃ、あした、また、来て食べてあげるからね。」
「ブウ。」とねずみ捕りは答えました。
 次の朝、下男が来て見て、ますますおこって言いました。
「えい。ずるいねずみだ。しかし、毎晩、そんなにうまくえさだけ取られるはずがない。どうも、このねずみ捕りめは、ねずみからわいろをもらったらしいぞ。」
「もらわん。もらわん。あんまり人を見そこなうな。」とねずみ捕りはどなりましたが、もちろん、下男の耳には聞こえません。きょうも腐った半ぺんをくっつけていきました。
 ねずみ捕りは、とんだ疑いを受けたので、一日ぷんぷんおこっていました。夜になりました。ツェねずみが出て来て、さも大儀(たいぎ)らしく言いました。
「あああ、毎日ここまでやって来るのも、並みたいていのこっちゃない。それにごちそうといったら、せいぜい魚(さかな)の頭だ。いやになっちまう。しかしまあ、せっかく来たんだからしかたない。食ってやるとしようか。ねずみ捕りさん。今晩は。」
 ねずみ捕りは、はりがねをぷりぷりさせておこっていましたので、ただ一こと、
「お食べ。」と言いました。ツェねずみはすぐプイッと飛びこみましたが、半ぺんのくさっているのを見て、おこって叫びました、。
「ねずみとりさん。あんまりひどいや。この半ぺんはくさってます。僕のような弱いものをだますなんて、あんまりだ。償(まど)ってください。償ってください。」
 ねずみ捕りは、思わず、はり金をりゅうりゅうと鳴らすくらい、おこってしまいました。そのりゅうりゅうが悪かったのです。
「ピシャッ。シインン。」えさについていたかぎがはずれて、ねずみ捕りの入り口が閉じてしまいました。さあもうたいへんです。
 ツェねずみはきちがいのようになって、
「ねずみ捕りさん。ひどいや。ひどいや。うう、くやしい。ねずみ捕りさん。あんまりだ。」と言いながら、はりがねをかじるやら、くるくるまわるやら、地だんだふむやら、わめくやら、泣くやら、それはそれは大さわぎです。それでも、償ってください、償ってくださいは、もう言う力がありませんでした。
 ねずみ捕りの方も、痛いやら、しゃくにさわるやら、ガタガタ、ブルブル、リュウリュウとふるえました。一晩そうやってとうとう朝になりました。
 顔のまっ赤(か)な下男が来て見て、こおどりして言いました。
「しめた。しめた。とうとう、かかった。意地の悪そうなねずみだな。さあ、出て来い。こぞう。」





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底本:「童話集 銀河鉄道の夜 他十四編」岩波文庫、岩波書店
   1951(昭和26)年10月25日第1刷発行
   1966(昭和41)年7月16日第18刷改版発行
   2000(平成12)年5月25日改版第71刷発行
入力:のぶ
校正:noriko saito
2005年5月12日作成
青空文庫作成ファイル:

(明治三十三年二月十七日、衆議院提出)田中正造 「亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問

2008-07-24 14:15:31 | 17 ◎調べもの文芸文庫
亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問
田中正造



        亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問


(明治三十三年二月十七日、衆議院提出)
民を殺すは國家を殺すなり。
法を蔑にするは國家を蔑にするなり。
皆自ら國を毀つなり。
財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。

右質問に及候也。

          演説


(明治三十三年二月十七日、衆議院に於て)
 今日の質問は、亡國に至つて居る、我日本が亡國に至つて居る、政府があると思ふと違ふのである、國があると思ふと違ふのである、國家があると思ふと違ふのである、是が政府にわからなければ則ち亡國に至つた。之を知らずに居る人、己の愚を知れば則ち愚にあらず、己の愚なることを知らなければ是が眞の愚である。民を殺すは國家を殺すなり、法を蔑にするは國家を蔑にするなり、人が自ら國を殺すのである。財用を紊つて、民を殺して、法を亂して亡びないと云ふものは、私未だ曾て聞かないのでございます。
 自分で知つて居つて爲されるのでは無かろうと思ふ。知つて居つてすれば、是は惡人と云ふ暴虐無道である。其本人其の人間が暴虐無道である。政府と云ふものは集まつた集合體の上で知らず/\惡るい事に陷つて行く。是は政府が惡るい。此政府と云ふ集合體の上で惡るいのである乎。之を知つて居るのである乎。本人が承知して居るのである乎。承知して居て直ほすことが出來ないのである乎。是が質問の要點であります。國家が亂るからと申して、俄に亂るものでは無い、段々歴史のあるものである。
 精が盡きて御話の出來ない時に惡るうございますから、一つ簡單に、當局大臣に忘れないやうに話して置きたい事がございます。大臣は那須郡の原を開墾することを知つて居る。此の地面の惡るいのを開墾することを知つて居るならば、今ま[#「今ま」はママ]此の鑛毒地の渡良瀬川、關東一の地面の良いのが惡るくなる――此の關東一の地面を開墾すると云ふことはドンなものであつたか、頭に浮かばなければならぬと云ふことを此間話しましたが、今日は尚ほ一歩進んで御話しなければならぬ。
 己の持つて居る公園とか別莊とか持地とか云ふものは、どんな惡るい地面でも、是は大切にすることを知つて居る。大切にすることを知つて居れば、則ち慾が無いと云ふ譯では無い。國家を粗末にすると云ふ頭で無いものは、大切にすると云ふ頭を持つて居るものである。馬鹿ぢやない。其頭を持つて居りながら、那須郡と云へば則ち栃木縣の中である、其から僅か數里隔つたる所の、而かも所有者のある所の田畑が、肥沃な天産に富んで居る熟田が、數年の間に惡るくなつて行く※[#「こと」の合字、249-8]が、目に入らぬと云ふはどうしたのである。甚しきは其の被害地を歩くのである。被害地を見ないのでは無い、其の被害地の上を通行するのである。那須へは栃木茨城埼玉地方を廻つて行くのである。自分の持物は那須野ヶ原のやうな、黒土の僅か一寸位しか地層のない所も開墾して、丹青を加へて拓くと云ふことを知つて居るではないか。其れだけに善い、其れだけに力を用ゆる頭を、國家の爲に何故公けに用ひない。――他人のだから――他人の災難と云へばドウなつても構はぬと云ふ頭が、國務大臣と云ふ者にあつて堪まるもので無いのである。他の者でも然う云ふ頭はいけない、特に國務大臣にソンなことがあつて堪まるものじや無い。彼の那須野の地面と云ふものは、大抵國務大臣が持つて居る。内務大臣の西郷君を始として、政府に在る所の者、元の大臣で持たない者と云へば伊藤侯と大隈伯、其他は大抵持たない者は無い、皆な持つて居るではないか。然うすれば覺えて居りさうなものだ。自分の子供を持つて見れば、人の子の可愛いと云ふことが判らなければならぬ。六ヶしい話でも何でも無い。
 又た簡單に歴史を申上げますると、此の鑛毒の流れ始まつたのは明治十二年からです。足尾銅山に製銅の機械を据えつけたのが十二年。十三年から毒が流れたのを栃木縣知事が見付けて、十三年十四年十五年と此の鑛毒の事を八釜しく言ふと、此の藤川爲親と云ふ知事が忽ち島根縣へ放逐されたのが、政府が鑛毒に干渉した手始である、古い事でございます。此の藤川爲親と云ふ者が放り出されると、其後の知事は、最早鑛毒と云ふことは願書に書いてはならない、官吏は口に言つてはならない、鑛毒と云ふ事は言つてはならないと云ふことにしてしまつた。其れが爲に無心な人民は十年鑛毒を知らずに居たが、二十三年に至て不毛の地が出來たについて、非常に驚ひて始めて騷ぎ出した。其は明治二十三年からでございます。是から先は段々諸君の御承知の通でございますから、敢て申上ぐる必要は無い。斯樣な歴史になつて居るので、各所の鑛毒の關係及び追々惡くなつた所を一と通御話申さぬと、唯だ苦情を申すやうに御聞取になると惡るうございます。
         ×   ×   ×   ×   ×
 關東の中央に於て能登國の二倍程の鑛毒地――此點に就て諸君に關東の事情を御訴へ申す悲しひ事がある。此の關八州は人間が卑屈でございまする。今日は誠に殘念だが據ない。何故ならば、徳川の三百年穩和なる所の膝下で育ちましたので、家庭教育と云ふものが極く惡るくなつて居りまする爲に斯樣な次第である。
 鑛毒事件で關東の眞中へ大きな沙漠地を拵へるのは誰である。是は即ち京都で生れた上方の人である、古河市兵衞である。此の仕事を大きくさせたのは誰である。即ち薩長土肥である。又た今日、此の鑛毒地を可哀さうだと言ふて、來て見て呉れる人も矢張上方の人で、關東の人間は、自分の膝下をやられるのを平氣の平左衞門で居る、殆ど無能力――腦味噌が無い。
 關東の眞中へ一大沙漠地を造られて平氣で居る病氣の人間が、殺されないやうにして呉れいと言ふ請願人を、政府が打ち殺すと云ふ擧動に出でたる以上は、最早自ら守るの外は無い。一本の兵器も持つて居ない人民に、サーベルを持つて切つて掛り、逃げる者を追ふと云ふに至つては如何である。是を亡國で無い、日本は天下泰平だと思つて居るのであるか。
 古い頭は是はもういけない。古い頭はいけない、去りながら今日の若い方の側に、未だ取つて代つて國を背負つて立つ所の元氣の人も現はれて來ず、若い方も年寄もどつちも役に立たぬから、恰も二つの國が寄合つたやうなものである、日本人として互に通辯が無ければ判らぬと云ふ位不便である。年寄は譯がわからぬ。若い方は腰拔だ。其でも、腰拔でも譯がわからぬでも、日本が御互に眞面目であると言ふならば、眞面目であると云ふならば、ひよつとしたならば此國を持ち堪へることが出來るかも知れぬが、馬鹿なくせに生意氣で、惡るい方へばかり上手になつたと云ふに至りましては、何處までも見所は無くなつたのである。
 政府ばかりを言ふわけにはいかぬ。吾々は固より教育は惡るし、年は取る。惡るい教育でも、あれば宜しいが、其れも無し。固より國家を背負つて立つ器量は無い。幸に若い諸君は學問を有つて居るからして、若い諸君が御眞面目におやりになりますならば、ひよツとしたらば、萬が一に僥倖したらば、此國を亡ぼさずして濟むが――今日の有樣でございますれば、亡ぼすじやない、亡びた、亡びてしまつたんである。此の通りにいけば、國が亡びると言ふじやない、亡びた。亡びても未だ亡びないやうに思つて居るのは、是はどうしたのであるか。
 今日の質問は、左樣な國情中の一つである所の鑛毒事件である。如何せん、此問題が諸君の御聽に達することを得ない、世の中に訴へても感じないと云ふのは、一つは此問題が無經驗問題であり又た目に見えないからと云ふ不幸もございませうが、一つは世の中全體が段々鑛毒類似の有樣になつて來た爲に、鑛毒問題に驚かない。――三百人の警察官がサーベル[#「サーベル」は底本では「サーペル」]を揃へて、鐺を以て鎗の如くにして吶喊した。又た撲ぐる時には聲を掛けた、土百姓土百姓と各々口を揃へて言ふたのである。巡査が人民を捕まへて「土百姓」と云ふ掛聲で撲つた。此の「土百姓」と云ふ掛聲は何處から出るのであるか。是れ即ち古河市兵衞に頼まれて居るからして、鑛業主にあらざれば人間にあらず、土百姓は人間に非ざる樣に常に聞ひて居るからして、ツイ其れが出る。三百人の巡査が悉く土百姓と云ふ掛聲を以て酷どい目に逢はせた、鬨の聲を揚げた、大勝利を揚げた、大勝利萬歳の勝鬨を揚げたのでございます。何たる事である。被害民の方は、是までも棒もステツキも持つて居なかつた。特に今度は能く世話人が指揮して、品行を方正にし靜肅を旨とせよと云ふ申渡までした位でございますから、煙管一本持つた者が無い位靜肅である。是に對して何である。勝鬨を揚げるとは何だ。
 今日政府は安閑として、太平樂を唱へて、日本は何時までも太平無事で居るやうな心持をして居る。是が心得が違ふといふのだ。一體如何いふ量見で居るのであるか、是が私の質問の要點でございます。
 大抵な國家が、亡びるまで自分は知らないもの。自分に知れないのは何だと云ふと、右左に付いて君主を補佐する所の人間が、ずツと下まで腐敗して居つて、是が爲に貫徹しなくなるのである。即ち人民を殺す――人民を殺すは己の身體に刄を當てると同じであると云ふことを知らない。自分の大切なる處の人民を、自分の手に掛けて殺すと云ふに至ては最早極度で、是で國が亡びたと言はないで如何するものでございます。陛下の臣民を警察官が殺すと云ふことは、陛下の御身に傷つけ奉る事、且又た己の身體に傷つけるのであると云ふ此道理が、此の大なる天則が分からなくなつて、尚ほ且つ之を蔽ふ爲めに、兇徒嘯集と云ふ名で召捕つて裁判所へ送る。可し。兇徒嘯集と云ふやうなものであれば、私も其中の一人でありますから、此の議場の開會と閉會とに拘らず、何故先きに私を捕まへて行かないのであるか。普通の事件なら別の話、兇徒嘯集と云ふやうな大きな事なれば、議員でも何でも容赦は無い筈だ。私は是まで隨分人民の權利を主張すること衞生に關する事など演説して歩るいた。世の中の馬鹿には教唆のやうに見えるであろうから、引つ張つて行くことがあるなら、此の私を一番に引つ張つて行くが宜い。兇徒嘯集などゝ大層な事を言ふなら、何故田中正造に沙汰をしなかつた。人民を撲ち殺す程の事をするならば、何故田中正造を拘引して調べないか。大ベラ棒と言はうか、大間拔と言はうか、若し此の議會の速記録と云ふものが皇帝陛下の御覽にならないものならば、思ふさまきたない言葉を以て罵倒し、存分ひどい罵りやうもあるのであるが、勘辨に勘辨を加へて置くのである。苟も立憲政體の大臣たるものが、卑劣と云ふ方から見やうが、慾張と云ふ方から見やうが、腰拔と云ふ方から見やうが、何を以て此國を背負つて立てるか。今日國家の運命は、そんな樂々とした氣樂な次第ではございませぬぞ。
 今日の政府――伊藤さんが出ても、大隈さんが出ても、山縣さんが出ても、まア似たり格恰の者と私は思ふ、何となれば、此人々を助ける所の人が、皆な創業の人に非ずして皆な守成の人になつてしまひ、己の財産を拵へやうと云ふ時代になつて來て居りますから、親分の技倆を伸ばすよりは己の財産を伸べやうと云ふ考になつて、親分が年を取れば子分も年を取る、どなたが出てもいかない。此先きどうするかと云へば、私にも分らない。只だ馬鹿でもいゝから眞面目になつてやつたら、此國を保つことが出來るか知らぬが、馬鹿のくせに生意氣をこいて、此國を如何するか。私の質問はこれに止まるのでございます。
 誰の國でもない、兎に角今日の役人となり、今日の國會議員となつた者の責任は重い。既往のことは姑く措いて、是よりは何卒國家の爲に誠實眞面目になつて、此國の倒れることを一日も晩からしめんことを、御願ひ申すのでございます。
 政府におきましては、是れだけ亡びて居るものを、亡びないと思つて居るのであるか。如何にも田中正造の言ふ如く亡びたと思ふて居るのであるか。





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底本:「田中正造之生涯」國民圖書
   1928(昭和3)年8月20日発行
※この質問に対して政府は以下のように答えただけであった。「政府の答辯書/(明治三十二年二月廿一日、衆議院提出)/質問の旨趣其要領を得ず、依て答辯せず。/右及答辯候也。/明治三十三年二月廿一日/内閣總理大臣 侯爵 山縣有朋」(底本より引用。「/」は改行箇所を表すために、引用者が付与。)
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の確認にあたっては、「田中正造全集 第八巻」岩波書店、1977(昭和52)年9月5日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2003年5月13日作成
青空文庫作成ファイル:

:「少年倶楽部」(昭和10)年8月 講談社宮原晃一郎『風変りな決闘』

2008-07-24 14:10:42 | 17 ◎調べもの文芸文庫
風変りな決闘
宮原晃一郎



    はじめて見た機関砲

 今でこそ日本は、最新兵器をもつ世界一流の陸海軍国であるが、明治維新となり、はじめて陸海軍が出来た頃(ころ)は、兵器でも軍隊の組織でもまだ尋常一年生で、すべて西洋諸国に学んでゐた。しかし日本人の優れてゐたことは、その頃でも変りなかつた。
 その頃フランスへ行つて、フランス軍人をあつといはせた「鉄砲上村(かみむら)どん」の痛快な話がある。
「鉄砲上村どん」の本当の名は上村五郎(ごらう)、薩摩藩(さつまはん)の人で、小さい時から射撃の天才であつた。大きくなつて藩の銃隊に入り、幕末に起つた幾度(いくたび)かの戦に従軍して、すばらしい手柄を立て、「鉄砲上村どん」と鉄砲の神様のやうに尊敬されたのだつた。
 やがて明治維新になると、新政府の軍隊の大隊長となつた。大隊長といふから今の少佐格である。そして鉄砲の名人であるところから、明治三年に、射撃術、銃砲製造法研究のため欧洲へ出張を命ぜられた。これは政府で新しく日本陸軍の制度を定めることになり、その下ごしらへをするためであつた。
 上村少佐は、まづフランスへ出かけて行つた、といふのは、その頃日本の陸軍は、フランス式であつたからだ。
 上村少佐がフランスのマルセーユ港へ着いたときには、フランスとプロシヤ(今のドイツ)との間に、まさに戦争が起らうとしてゐた。フランス国民は、プロシヤに対して、盛んに敵愾心(てきがいしん)をもやし、しきりに「ベルリンへ! ベルリンへ!」と叫んでゐるのであつた。プロシヤをやつつけて、首府ベルリンまで陥落させよといふのだ。
 上村少佐はまづ、当時精鋭をもつて聞えたスナイドル銃をこしらへる会社を見た。この会社は今でも世界一流の大兵器製造所である。少佐はその大仕掛で、精巧な兵器がどし/\と出来るのに感心した。そして日本にもこれに劣らぬ製造所をたてなければいけないと思つた。だが、賢い少佐の目には、そこで出来る銃砲にはまだ/\改良を加へなければいけないことを見てとつた。
 そんなこととは知らぬフランス人は大得意で、いろ/\なものを見せて、えらく自慢をするのだつた。
「日本なんか鉄砲があつても、まだ火繩銃(ひなはじう)くらゐのものでせう。早くこんな立派な鉄砲や大砲を使ふやうになさい。使ひ方が分からなけりや、こちらから先生をあげますから。」
 少佐は何をこいつら、失礼なことをいふかと思つたが、静かに日本のことを考へると、またさういはれるのも止(や)むを得ないと悟つた。それほど日本は何事にもまだ幼稚であつたのだ。けれども、少佐自身には深い考へがあつた。
「なあに、長いことぢやない。今にもつと/\すぐれた兵器をこしらへて、アツといはしてやるから。」
 ところが、調子に乗るくせのあるフランス人は、少佐がうはべに感心してゐるのを見ると、ます/\得意になつて、とうとう秘蔵の最新式大砲まで見せたのだ。
「これはミトライユといふ最新式の大砲です。プロシヤの豚なんか、これでめちやくちやにやつつけますよ。」
 ミトライユは今日でいへば機関砲のことで、日清戦争の頃には軍艦に据(す)ゑつけてあつたし、又陸軍でも台湾征伐に使つたものである。直径三十五ミリばかりの大きな筒が五つ並べてあつて、ガラ/\と車を廻(まは)すと、五発づつ一緒に弾がとび出すやうにしかけてあるが、二十五発毎(ごと)、つまり車を五度(たび)まはすたびに弾ごめしなけりやならない厄介なもので、発射の速さからも、そのとゞく距離からいつても、今の機関砲には遠く及ばないけれど、その頃ではすばらしい有力な武器であつた。
 さすがに上村少佐もこれには感心した。が、同時にすぐ気がついた。
「まてよ、敵方プロシヤにはどんな武器があるだらうか。しきりにこちらに向かつて、戦争を吹きかけてゐるやうだから、武器の上にも、何か頼むところがあるにちがひない。これは一つ、戦争が始る前にプロシヤへ行つて、調べてみなけりやならんぞ。或(あるひ)はミトライユにもまさる有力な武器があるかもしれないからな。」
 そこで上村少佐はすぐプロシヤに行つて、その軍隊の小銃や大砲を見たり、又兵器製造所を見せてもらつたりした。
 果して、少佐の考へは当つてゐた。ミトライユのやうな特別なものはなかつた。けれども普通に使つてゐるプロシヤの兵器は、大砲小銃ともに、なか/\すぐれたもので、特に大砲はフランスのものに比べると、砲架がたくみに出来てゐて、照準がたやすくて、上向きにする角度が大きいので、弾が遠くまでとどくのだつた。又小銃もいろ/\の点が改良されて、取扱(とりあつかひ)が便利にできてゐた。
「あゝ、気の毒だが、武器の上からだけ見れば、フランスはとてもプロシヤの敵ぢやない!」
 かう見ぬいた上村少佐は、ナポレオン三世皇帝がプロシヤに対して宣戦した当日、パリーへ帰りついたのだ。


    仏独武器くらべ

 いよ/\戦争が始つた。
「ベルリンへ! ベルリンへ!」といふ叫(さけび)はます/\盛んになつて、パリーの町々はわきかへる騒(さわぎ)であつた。仏軍はぞく/\国境さして出発する。ナポレオン三世は自らセダンに赴いて、軍を指揮した。
 或日(あるひ)のこと、上村少佐は射撃場へ行つて、小銃射撃を見てゐると、ふと後(うしろ)から少佐の肩をたゝく者があつた。ふりかへつて見ると、それは以前、少佐にミトライユを得意さうにみせたエミル・ダンリ中尉といふ若い士官であつた。
「少佐上村(マジユール・カミミユラ)! しばらくでしたね!」
 中尉は青年らしい元気のいゝ顔に笑を浮かべてゐた。
「おゝ、ダンリ中尉か。久しぶりだね。私はしばらくプロシヤへ行つてゐたのでね。」
「プロシヤへ?」
 中尉は青い目を丸くして、肩をすぼめ、両手をパツと開いた。これはフランス人が軽蔑(けいべつ)の意味をあらはすときにいつもする身振である。
「ほう! 豚どもの仲間へ入つて行かれたのですか。豚小屋は臭くて仕方がありますまい。なあに、おつつけ我々があんな不潔な獣をやつつけて、きれいに掃除しますから、もう一度行かれるときには、もう臭くはありませんよ!」
 といつて、「ベルリンへ! ベルリンへ!」と、歌の文句のやうにつけ足した。
 上村少佐はこの青年将校の盛な意気には感心したが、あまりに敵を知らなさすぎるのに、あはれみの微笑がひとりでに浮かんでくるのだつた。
「ほう、えらい勢ひぢやな。そして君は戦争には行かないのか。」
「勿論(もちろん)、行きます。今、新編制の機関砲隊(ミトライユール)を訓練してゐるところで、もうぢき出かけます。あゝ愉快々々! 我々はまるで大鎌で野の草を苅(か)るやうに、プロシヤの豚どもを打殺してやれるわけだ!」
 上村少佐はこの言葉を聞くと、あまりにも口から出まかせに、少し腹が立つて来た。
「なるほどミトライユは有力な武器にはちがひない。けれどもプロシヤの武器もなか/\精鋭だから、油断はならないよ。」
 ダンリ中尉は又もや肩をすぼめた。
「豚どもの大砲や小銃がなんになるものですか。奴等(やつら)と一緒に地獄へでもうせろだ!」
「いや、さう一がいにはいへないぞ。わしはよく調べて来たのだからね。敵を知り己を知ることは戦ひに勝つ秘訣(ひけつ)である――と東洋の兵法は教へてゐる。大ナポレオンの後をつぐ君等の名誉の勝利を維持して行くには、よく敵を知らなければいけない。」
「なに大丈夫だ! 我々にスナイドル銃がある。ナポレオン砲がある。おまけに精妙きはまりなきミトライユがある。」
「いや、プロシヤのモーゼル銃はスナイドル以上かも知れんぞ。もしそれクルツプ砲となると、その発射の速さといひ、弾のとゞく遠さといひ、又命中の正確さといひ、ナポレオン砲以上だ。ミトライユは結構だが、もつと照準をやさしくして、遠くまでとゞくやうにしなければ、完全とはいへない。」
「なに!」と、ダンリ中尉はたちまち眉をつり上げた。「君は仏軍を侮辱するか。」
「いや、わしは仏軍を常勝軍たらしめようと思ふからいふのだ。」
「仏軍は今度もきつと勝つにきまつてゐる!」
「いや、他(ほか)の点はどうかしらんが、大切な武器の方から見ては、それは覚束(おぼつか)ないぞ。」
「いつたな、黄猿(きざる)! おれはフランス大陸軍の名誉にかけて、貴様をゆるさんぞ。さあ、この作法が分かるか?」
 ダンリ中尉は火のやうに怒つて手袋を地面にたゝきつけた。これは西洋では、決闘を挑(いど)むしるしである。


    待つて下さい、諸君!

 それから三日後である。上村(かみむら)少佐とダンリ中尉とは、約束の決闘場たる練兵場へ現れた。双方型どほり二人づつの介添人(かいぞへにん)がついてゐる。武器はピストルで、互に百歩はなれて介添人が上げてゐる手を下すのを合図に、双方一度に発射するのだ。発射が早いと卑怯(ひけふ)といはれるし、遅いと、敵の弾にやられてしまふ危険がある。なか/\むづかしいものだ。
 やがて少佐も中尉も定(さだめ)の位置について、中尉方の一人の介添人が、今日の決闘の趣旨を宣言しようとしたとき、どうしたことか、上村少佐は突然右の手を高く上げて叫んだ。
「待つて下さい、諸君!」
 相手の中尉は元より、双方の介添人たちも少佐の言葉にすつかり呆(あき)れてしまつた。が、少佐はそんなことには一切おかまひなく言葉をつゞけた。
「私(わたし)はこの決闘の仕方を、もつと安全なものにかへたいと思ふのです。」
 ます/\意外だ。みんなの驚きは一方ならぬものがあつた。
「つまり双方とも死にもせず、怪我もしないで、しかも名誉を十分に保つことの出来る方法にかへたいのです。」
 誰(だれ)も口をきかなかつた。けれども、みんな、少佐は決闘が恐(こは)くなつたので、今更こんなことをいひ出したものと思ひ、卑怯な人間だと内心軽蔑(けいべつ)してゐるのを、顔の色にあり/\とあらはしてゐた。それももつともである。だが、少佐は少しもひるまない。平気で言葉をつゞけた。
「私(わたし)はこれまで幾十度となく銃砲弾の中をくゞつて来たから、ちつぽけなピストルの弾など少しも恐れるものではない。しかし、今、私の一身は、天皇陛下と、日本のために捧(ささ)げたもので、これから生ひ立つて行く日本の新陸軍のために、非常に重大な任務を帯びてゐるものであるから、つまらぬ名誉心のために、勝手にそれを殺したり、傷つけたりすることはできないのだ。」
 少佐の言葉は次第に熱と威厳とを増して来たので、今まで軽蔑してゐた人々も、思はず襟(えり)を正しうして、耳を傾けた。
「またダンリ中尉もフランス軍にとつては、新式砲ミトライユの指揮者として、この場合、なくてならぬ人である。その重要な人が決闘で傷つき、倒れ、肝腎(かんじん)の戦場に出て、働かれぬやうなことがあつては、甚(はなは)だ遺憾である。熱烈な愛国者であるダンリ中尉の弾は、私に対してよりも、真のフランスの敵に向けらるべきものである。」
 すぢの通つた、正しい少佐の言葉を聞く人達は、まつたくそのとほりにちがひないと、うなづくのであつた。
 少佐はやはり厳然としてつゞけた。
「それだから、私(わたし)はまことに安全で、しかも我々両人にとつて最もふさはしい決闘法を提議する。それは、中尉は射撃の名手であり、私も又その方にかけては相当の自信をもつてゐる。それで二人して射撃の術くらべをしようといふのである。」
「うん、それは面白いな! 賛成だ!」と、ダンリ中尉はもうすつかり打ちとけて叫んだ。「だが、勝負はどうしてつけるのか。」
「何でも君がうつ的を、私(わたし)もうつことにする。もし私がうてなかつたなら、私が負だ。又もし君の的を私が残らずうつて、君が新たにうつべき的を見つけられない場合には、今度は私が的をえらぶから、それを君がうてばよい。それを君がうつたら、私が降参しようし、うてなかつたら、私の勝だ。」


    弾で書く文字

 話はきまつた。みんなはすぐつれ立つて射撃場へ行つた。そこには丁度フランス兵の一隊も射撃演習に来てゐたので、この珍しい決闘射撃のことを知ると、みんな見物することになつた。
 最初は普通の標的の点取射撃で、どちらも名人のことだから、無造作に満点で、勝負なしに終つた。
 次にダンリ中尉は速射をした。扱ひにくいその頃(ころ)の小銃で、一分間七発もうつて、それがいづれも黒点をうちぬくのだから、神技ともいふべき素晴しい腕前であつた。しかし、上村少佐はそれに輪をかけた速さで、一分間十発もうつて、やつぱり黒点のまん中をうちぬいて、フランスの軍人たちをあつといはせた。
 ダンリ中尉もいさゝか驚いたやうだが、今度は他(ほか)の人に銅貨を空にほふり上げさせて、それが地面に落ちきらないうちに、ポン/\打つのだつた。百発百中で、見てゐる多くの仏人たちはその見事さに手を拍つて悦んだ。けれども上村少佐にだつてそんなことはお茶の子さい/\だつた。
 ダンリ中尉は少しあせつて来た。「この爺(ぢぢい)め、なか/\の奴(やつ)だ。しかし今度は真似(まね)ができまい。」
 そこで中尉はいよ/\取つておきの手を出した。
「では、向かふに白紙を張つた衝立(ついたて)をおいて、僕(ぼく)がそれに一つ文字を射ぬいて現すから、あなたもそれをやつてごらんなさい。出来たら、僕が負けたことにしよう。僕はフランスの敵たるプロシヤの頭を打ちぬくといふ意味で、その頭字(かしらじ)P(ペー)を射ぬいてみせよう!」
 中尉はさういつて、用意された白紙張(はくしばり)の衝立に向かひ、ポン/\と、一発又一発、丹念にうつて行くと、やがてその弾痕は点々とつらなつて、大きなPの字をゑがき出した。なか/\あざやかな手際であつた。見てゐる仏軍の将士は今度こそと一斉に手をたゝいて悦んだ。
 上村少佐もニコ/\して手をうつた。そしてつか/\とダンリ中尉に近寄つて、手をさしのべた。
「立派だ! もう私(わたし)が試みる必要はない。君は今見事に敵の頭を打ちぬいて、大勝利を得た、私は心からお悦(よろこ)びを申し上げる!」
 ダンリ中尉は勝つたと思つて、やつぱりニコ/\しながらその手を握りしめると、又あたりから盛んに拍手が起つた。
 が、しかし、この拍手が一しきりやむと、上村少佐は再び銃を取上げ、容(かたち)をあらためて、一同に向かつていつた。
「諸君、私(わたし)は今、ダンリ中尉の妙技に絶大の敬意を表し、又フランスを祝賀するために、改めてダンリ中尉の真似をさせて頂きます。しかし、いさゝかちがつた風に、即(すなは)ち一字だけではなく、二三の言葉を射ぬくことにいたしませう。」
 少佐は銃を肩に当てるが早いか、まづポンと一つ、無造作に打(ぶ)つ放し、それからこめては打ち、こめては打ちして釣瓶打(つるべうち)だ。その速いこと! だが、白紙の衝立に残つた弾の痕(あと)は唯(ただ)、めちやくちやに点がちらばつてゐるだけで、字なんか一つもかけてゐなかつた。見てゐる人々は唯(ただ)驚き呆(あき)れてゐる。けれども少佐は一向平気だ。そしてすました顔でいつた。
「これが私(わたし)の心をこめたフランスへお祝ひの言葉です!」
 ダンリ中尉は例の肩をすぼめる身振をしていつた。
「ですが、少佐、あれは一体何と読むのですか。少くともフランス語ではありませんね。多分、日本語なんでせう。」
「いや、フランス語をかいたのです。」と、いひながら、上村少佐は衝立に近寄り、ポケツトから鉛筆を取出して、一番左端の上の弾痕(だんこん)から、その下の、六十糎(センチ)ほどへだてて、少し右へ寄つた弾痕へ、斜にスツと一本の線をひき、更に今度はその点から、逆に上の方へ、最初の弾痕の右の方に三十糎ほどはなれて、同じ高さにならんでゐる第三の弾痕へ、スウツと一線をひいたのでV(ヴエ)の字が出来た。かうして散らばつた弾痕を次から次へと鉛筆でつないで行くと、

VIVE(ヴイヴ) LA(ラ) FRANCE(フランス)!  (フランス万歳!)
といふ言葉になつた。
 忽(たちま)ち、見事(ブラヴオ)! 見事(ブラヴオ)! といふ声が湧き起つて、上村少佐は仏軍将士のために胴上されて、しばらくは足が地につかなかつた。
 少佐は改めてプロシヤ軍の兵器について仏軍当局に注意したが、そのときにはもう遅かつた。仏軍の大敗は勿論(もちろん)士気、編制にもよるが、少佐が見破つた兵器の劣等であつたことも大なる原因であつた。
 上村少佐は帰朝後、これからその腕をふるはうとしたとき急病にかゝつて亡くなつたので、その立派な知識も、すぐれた考案も、実際の役に立てることができないでしまつたのは甚だ残念である。





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底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「少年倶楽部」講談社
   1935(昭和10)年8月
初出:「少年倶楽部」講談社
   1935(昭和10)年8月
入力:tatsuki
校正:鈴木厚司
2006年3月21日作成
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