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Google【塾教育研究会(JKK) 創設25周年記念大会】=2010-5-22  

2010-05-22 11:51:26 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】

Google【塾教育研究会(JKK) 創設25周年記念大会】=2010-5-22  

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教育研究会(JKK)創設25周年記念大会のご案内 - waseda717の日記 - 11:37
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【塾教育研究会 中村惇夫】 の検索結果 約 295 件|検索のブログ2009年8月4日 ... 検索の達人 google【調べもの新聞】 - 5 回閲覧 - 6月22日塾教育から教育改革を提言する中村惇夫. 調べもの.COM. 仲野十和田 ナカジュク. 野木史朗. 向学会. 平井雷太. ... 検索の達人・情報の達人・JKK/塾教育研究会・京葉学舎 【皆倉 ...
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塾教育研究会(JKK)創設25周年記念大会のご案内 - waseda717の日記 - 2 回閲覧 - 11:47
2010年4月22日 ... 高大連携情報誌 調べもの新聞. 【ブログ=穴埋め・論述問題】. 2010年4月吉日. 各位. 塾教育研究会(JKK)代表 皆倉 宣之. 事務局:埼玉県川口市末広2-11-11. Tel:048-224-0349. 塾教育研究会(JKK)創設25周年記念大会のご案内 ...
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Google大学図書館情報誌 塾教育研究会 京葉学舎 - waseda717の日記2010年5月11日 ... 高大連携情報誌 調べもの新聞. 【ブログ=穴埋め・論述問題】. 2010年4月吉日. 各位. 塾教育研究会(JKK)代表 皆倉 宣之 ... 日本の「塾教育」を研究対象としているカナダ・ブリティッシュ=コロンビア大学ジュリアン=ディルケス博士が ...
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坂口安吾   ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格

2008-08-26 22:27:44 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格
坂口安吾



 ヨーロッパとニッポンが初めて接触いたしましたのは、今から四百年ばかり前のことでありますが、その当時に、ニッポンの性格とヨーロッパの性格とが引き起こした摩擦とか、交渉とかいうものを私の見た眼から、皆さんにお話してみたいと思います。
 具合のいいことに、その当時ニッポンへやって来ました、皆さん御存知のいわゆるキリシタン・バテレンという、あれはカトリックのほうの宣教師なのでありますが、神父と申しますような人たちが、それぞれ故国へ手紙をやったり、報告を出したりしていまして、これらが今日残っておりまして、当時の事情を知るために非常に大切、貴重な文献となっております。
 ニッポンにも、この当時の事件とか事情とかを書いたいろいろの手記、記録というものがありますけれども、残念ながらニッポン製の資料というものは役に立たないのであります。殆んど駄目であります。
 それと申しますのが、ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。そういうことが、まことに不得意なのであります。
 でありますから、実例をとって申しますと、織田信長が本能寺で殺されました時のことを、「信長記」という本がありまして、それに書いてあるのを読んでみますと――
「明智光秀の軍隊はやにわに亀岡から下りて参りまして、本能寺を取り囲んで、ドッとばかり勝鬨(かちどき)をあげて、弓、鉄砲を打ちこんだ。本能寺のほうでも眼をさまして、中から豪傑連中が飛び出して、明智勢のなかに斬り込んだ。初めのうちは、明智勢がたじたじとなりましたが、そのうちにそれらの連中が討死しますと、だんだん寄手の勢いが強くなった。織田信長までが寺の廊下へ現われまして、片はだ脱いで槍を持ち出して、近づくやつを突き落した。そのうちに矢が片腕に当りましたので、部屋の中央にもどって来て、火をかけて自殺した」
 ――こんな風に書いてあるのであります。
 ところが、この当時に、この本能寺という寺のあった所から、約一丁ばかり離れた場所に、京都に於けるたった一つのキリシタンの教会があったのでありますが、この教会におりましたヨーロッパ生れの神父たちは、真夜中に戦争らしい物音に眼をさましたのであります。それからまァ、いろいろと避難の用意などをあれこれと致しまして、夜の明けるのを待ちまして、もっともたゞ黙って待っていたのではありません、尽せるだけの手段を尽してあらゆる方面から情報をあつめたのであります。可能な限りの探査を行ったのであります。全然、落ちついていたわけであります。これらの人々によって収集されたニュースは、適当にまとめられまして、直ちにそれぞれの本国に報告されたのであります。
 その報告によりますと、こういうことになるのであります。――
「明智の勢は、本能寺を取り囲んで、それから本能寺のなかに乗り込んで行ったのではなく、本能寺のほうでは謀反などという嫌疑すらも持っておりませんでしたので、誰も手向ってゆく者がない。どこに一人も抵抗する者もなく、どんどんと這入って行って、信長のいるらしい部屋のところまで来てしまった。信長は顔を洗って手拭いで拭いていました時に、そこに、先頭にはいって来た奴が弓を射った。その矢が背中に刺さりましたので、ぐっと振り向くとその矢を抜きとって、薙刀(なぎなた)をとるとしばらくの間戦いました。そうしていると今度は、鉄砲の弾丸が片腕に当りましたので、寝所のなかに這入って切腹した」――という説と、「寝所のあたりに火をつけた」という説と二つあるのでありますが、その直後のことは誰も見ていたわけではありませんから、まるっきり分らないのであります。
 ところが、同じこの事件についての、キリシタン・バテレンの連中の報告というのが、実に精確きわまるものなのであります。その証拠があるのであります。彼等の報告は今日もいろいろな形式で書物になって、私たちの手にはいりますから、それをお読み下さるとお分りになるのでありますが、そういうものと、ニッポン人としては珍らしくリアルな手記を残している一人の人間の書いていることとを比較されますと、私の申すことが御諒解になれると思うのであります。
 ここで私の申します、リアルな記録を残した、例外的な一人のニッポン人というのは、明智方として、本能寺へ寄せた軍勢中の大将の一人で、ホンジョウ・カクエモンという男のことなのであります。彼の覚書によりますというと、信長の死の前後は次のようになっております。これは手記でありますから、この部分もごく簡単であります。――
「本能寺のなかへ乗り込んだ時には、相手のなかで誰も手向って来る者がない。或いは自分を仲間だと思っていたのか、自分が這入っていっても手向いする者がなかったのか。それだからと云って、寝ている者もなかったし、気を配ってみたけれども鼠一匹すらも姿を見せなかった。せめて二、三人でもと思ったが、おどり出して抵抗して来る者もなかった。そもそも抵抗というものを何ひとつ感じることなく、信長の寝所へゆきついたのであった」――
 こんな風なことが誌されております。
 この一例でも分って頂けると思うのでありますが、すこしも他に煩わされることがなく、自分自身の体験そのものを、明確に書き上げた日本人の手記というものは、滅多にないのであります。これなどは実に特別な、特殊の例なのでありまして、殆んど、いや全ての者は、物事の本態を見るということを忘れているのであります。いつでも他人の思惑が考えられていまして、独立の個人の自由な考えとか、観察方法とかは許されていないし、許されなければブチ破ってやろうという人物はいなかったのであります。ニッポン人にとっては、毎時でも、もっと一般的な、嘘があってもかまわぬから一般的でさえあればいいというような調子がお得意なのでありまして、相も変らず、ハッタとにらんだとか、烈火のごとく憤ったとかいう云い方、そういう方式、どうにでもなるというような一般的な観察で片づけてしまおうとする考え方、従ってそのような手記、記録がぞくぞくと現れているのであります。むしろ、そればかりであります。
 このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。
 今日、私たちニッポン人というものが、外国のいろいろな物事の真似をする時には、この意味での外国の性格、そうしてニッポンの性格というものをよく知り、殊に申したいのは、ニッポン人にはこのような性格上の欠点があるということを、よく知っておく必要があるということであります。
 併(しか)し、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、貶(け)なされていたのであります。それはどういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります。抽象的にならざるを得なかったのであります。弱いのであります。
 前にも申しました通りに、ニッポンと西洋とが接触しましたのは四百年ほど前のことでありまして、キリスト紀元の一五四三年、十六世紀、ニッポンで申しますと天文十二年であります。ちょうど、足利末期の戦国時代の始まりかけた時であります。但しこの時は、ヨーロッパ人は初めからニッポン本土へ来ようと思っていたのではありません。シナの船が、暴風に吹き流されて、種子ヶ島へ漂着したのであります。そのシナ船には、ポルトガル人が三人乗っておりました。
 この三人のポルトガル人が鉄砲を持っておりました。この時にニッポンに初めて鉄砲が伝ったのであります。これが例の、われわれが種子ヶ島と云っておる、あれであります。これはまた、ヨーロッパとニッポンが接触いたしました初まりなのであります。
 御存知のマルコポーロでありますが、彼の手記に書いてあるニッポンは、ジパングということでありまして、黄金で出来あがっている国だということになっております。そのように彼は報告しておるのであります。この報告によってニッポンへやって来る人間が、大変に多くなったのであります。そういう志を持つヨーロッパ人が急激に増加したのであります。
 けれども、皆さん御存知のいわゆるキリスト教というものが、このニッポンへ渡来いたしまして、そして、本当の意味でニッポンと外国とが政治的に接触いたしましたのは、それから六年ほど経ちました一五四九年の、七月十五日のことでありますが――これはキリスト教の歴史という点で考えますと非常に大切な日なのであります――、この日に、フランシスコ・ザヴィエルという人物が、ニッポンの土地に初めて到着したのであります。
 さて、この事実についてでありますが、われわれが特に記憶しておかなければならぬことがあるのであります。それは、この時に初めて日本の土をふんだ、このフランシスコ・ザヴィエルという宣教師は、当時、ヨーロッパにおきましても、まれに見る高僧なのでありまして、ジェスイットという宗派は、御存知のとおり今日でも残存致しているのでありますが、この宗派の開祖であるロイラーなる人物の最も親密な協力者であり、また最も信頼された同志であり、自他ともに許した最高の学識を有した高僧であったのであります。とは申しますものの、このジェスイット派と申しますのは、十六世紀の初頭にいたってカトリックが腐敗いたしまして、それに対抗しそれを改革しようとして、例のマルティン・ルーターが新教(プロテスタント)を樹立した、その結果としてカトリックの名声が地に墜ちました時に、こんなことでは不可(いけ)ないというので、真のカトリック精神、根本的なものへ還った意味でのカトリックの精神を実質的に回復させなければならぬというので、イエス・キリストの弟子という標語を押し立てて組織されたところの、非常に強力な同志的な結合をもっている宗教団体でありまして、貧乏、童貞、服従という三つの徳目をモットーといたしまして、人間個人の一切の私利とか私慾とかいうものを捨離して、神に仕えるという宗教であります。この宗派のこのモットーは大変に厳しいのでありまして、戒律というようなものが厳しいものであるなかでも、このジェスイット派は、特に厳格な戒律を守るという誓言によって成立した宗派なのでありました。この宗派が確固としたものとなりましたのは、フランシスコ・ザヴィエルがニッポンに到着しました時の九年前、すなわち一五四〇年に到りまして、初めてのことなのであります。
 もともと宗教と申しますものは、長年月にわたってつづいておりますと、どうしても堕落いたしますものですけれども、その例はまことに多いのでありますが、このように宗派の結成の初期といいますものは、何しろ非常に熱狂的なのでありまして、従ってニッポンへ初めて参りましたフランシスコ・ザヴィエルは前に申したとおりでありますが、その後にいたって続々としてやって来ました神父たちも、いずれもヨーロッパにおきましては、最も高徳な僧侶である、ということを記憶しておかなければなりません。
 これらのことを頭の中へ入れておきますと、ニッポンがその当時に於てヨーロッパの影響をはげしく受けまして、殊に精神的には驚天動地というような感動を受けた面がありましたのも、たゞ今申すとおりに、ヨーロッパでも択(よ)りぬきといった神父たちがそろって、ニッポンへやって来ていたという、特殊な事情があったからなのでありまして、彼の地の宗教事情はともかくとしても、ニッポンにとっては、これは望外の仕合せであったのかも知れないのであります。
 ところで、このフランシスコ・ザヴィエルという人物でありますが、この教父がどうしてニッポンへやって来るようになったかと申しますと、実はザヴィエルはインドで布教するために東洋へやって来ておったのであります。ですが、インドは御承知のとおり熱帯地方でありまして、インドの人間という者は、非常な怠けものでありまして、熱い熱いでどうも仕方がないのですから同情しますが、新しい知識などを求めようという意欲はまず持ってないと云ってよいのであります。もう一つ、インドにはごく古くから伝っている宗教が根強くはびこっていまして、その力はひろいので、新しい宗教を受けつけることを為(し)ないのであります。
 さすがのフランシスコ・ザヴィエルも、この有様で、悲観しておりますと、たまたま一人のニッポン人が彼のところへやって来たのであります。これは弥次郎という人間であります。
 この弥次郎が、どうしてインドへやって来たのかと申しますと、彼は鹿児島の人間であります。或る時、人を殺しまして、役人に追われて、お寺へ逃げこみました。何んとかして助かりたい。ところが、彼はポルトガルの一商人と友だちでありましたので、そのポルトガル商人に頼みこみまして、鹿児島の港へポルトガル船が碇泊しました時に、うまく乗り込み、海外へむかって脱走しようという手はずをととのえたのであります。その商人から紹介状をもらって、港へ出かけたのですが、ポルトガルの船が二艘来ておりました。この二艘の船の船長は、フランシスコ・ザヴィエルを非常に尊敬していたのでありました。
 船長は弥次郎の話を聴きまして、大いに同情を催したのであります。船長は、弥次郎をザヴィエルに紹介してやろうというので、船へ乗せて、マラッカへ連れて参りました。
 弥次郎はザヴィエルに会いまして、その人格に傾倒したのでありますが、ザヴィエルのほうでも、弥次郎を見ましたところが、今まで眼の前に見ていた熱帯の土人には見ることの出来ない知識、記憶力、礼儀正しさ、を認めただけでなく、その上にいつまでも何かを知ろうとする真面目な努力のひらめきがあることが分りましたので、ニッポン人という人間がこのような人種であるのならば、このニッポンこそは、自分の伝道すべき地域であると考えたのでありました。ザヴィエルは、この弥次郎という人間が、実にどうも誠心誠意キリストの教えを守るので、とても吃驚(びっく)りしたのであります。彼は弥次郎を、インドのゴアという所にあるキリスト教の学校へやって勉強をさせたのでありましたが、弥次郎はもともとポルトガル人の友だちを持っていましたし、ゴアへ参りましても、普通のニッポン人にくらべますと驚くべきほど早く、たちまちにしてポルトガル語が上達いたしました。また、キリスト教の趣意を理解することにおきましても、長足の進歩をしたのでありまして、そのゴアの学校でも並ぶ者のないほどの、最高の学者になったのであります。
 こんな具合ですから、ザヴィエルは、弥次郎に対して絶大な信頼をよせていたのでありますが、どうも併しこのことの為に、今日になりましてもニッポンの歴史家たちは――主としてキリスト教の歴史を書いておる歴史家のことを云うのでありますが、そして大体に於てはキリスト教徒のほうが多かったのでありますけれども――ザヴィエルを、この上もなく信頼しておりましたので、ザヴィエルの説をもそのままに呑み込むことが多く、弥次郎の人格をもまた非常に高く買っておるようでありますけれども、われわれ文学にたずさわっております者の眼から見ますと、どうも、そういう風には思えないのであります。
 この弥次郎という青年は、いろいろな点から調べてみましても、どうも、その判(は)っきりした身分とか身許とかが、分らぬのであります。明確なところが少いのであります。ポルトガルの商人と親しい人間であったことは確からしいのでありますけれども、ザヴィエルがニッポンの事情について種々と聴きました時にも、宗教のことなどについては、まるで何も知らなかったのであります。従ってニッポンの仏教についてなども何も知らない、無知そのものでありましたので、ザヴィエルが非常にがっかりしたということが、ザヴィエル自身の書簡のなかに書かれておるのであります。ところで、問題がひとたび貿易に関係して参りますと、この弥次郎が実に正確な知識を持っているのであります。このことから判断してみまして、彼が多分商人の出であったろうということが分るのであります。年は三十五、六歳であったということであります。
 思うにこの人物は、非常に世慣れた遊び人でありまして、いろいろと変った境遇に順応することの出来る処世の術を、かなりよく心得ておったのだろうと思うのであります。ですから、郷に入ったら郷に従えというわけで、ザヴィエルに会いますと、彼はこの教父に順応するために多いに努めたのでしょう。また、彼がザヴィエルに傾倒したというのは、本当のことであろうと思いますが、それは、人を殺すぐらいの人間というものは、非常に人に惚れっぽいのでありまして、その点からしても彼がザヴィエルに参ったろうということは肯けるのであります。弥次郎は、キリスト教の教えのなかで何に一番感動したかと申しますと、それはキリスト受難に対してなのでありまして、思うにこの男は一種のボヘミアン的の性格を持っていたに違いないのであります。このような弥次郎がキリストの受難に心を傾けたということ、その事実だけは、一つの事件として肯けるのでありますが、弥次郎はキリスト教徒になったのではないのであります。
 初めのうち、ザヴィエルがそばにおりました間は、真面目な顔をしておりましたけれども、間もなく彼はグレ出したのであります。後になりますと、例の八幡船(ばはんせん)という、半分は海賊みたいな、半分は貿易をやるような船に乗りこみまして、シナへ這入りこんでいってニンポーという所でシナ人に殺されたという記録が残っております。
 こんな人間でありますだけに、この弥次郎という男は非常に礼儀正しいのです。もともとニッポン人というものは、実際は礼儀正しいところがあるものなのでありますけれども、元来よい人間というものは、むしろ却ってザックバランなものなので、そんなに糞真面目に人と応対などはしないものであります。弥次郎は、おそらくはザヴィエルに対して、何事につけても非常にしかつめらしい態度で応待しておったんだろうと思います。ザヴィエルはそれを大変に信用しまして、おそらくニッポン人というものについての最初の観念におきまして誤っておりましたので、ニッポン人を見る眼に誤解が起ったんだろうと思われる節があります。
 ここにまた面白い事があるのでありますが、私がなぜ弥次郎をそんな人間であるかと申しますかというと、たとえばザヴィエルが――
「ニッポン人は、私が行って布教をしたら、すぐにキリスト教徒になるだろうか?」――という風に弥次郎にたずねましたところが、弥次郎が答えまして――
「いや、ニッポン人というものは非常に理屈っぽい国民で、すぐにはキリスト教徒にはならぬ代りに、道理というものを飲みこめば、改宗します」
 ――という風に答えております。こういうところは、ニッポン人観というものが大いに正確でありまして、仏教の知識が何一つなかったと思われる弥次郎にも似合わない、人間観察の正しさを見せております。
 また、ザヴィエルがポルトガルの船に乗ってニッポンに行こうと申しました時に、弥次郎はそれに答えて、――
「ポルトガルの船乗りというやつは非常に好色で、ニッポンの港へやって来てもとても評判がよくないから、あんな船へ乗っていったら、キリスト教の名声を落します。ですから、シナの船に乗りなさい」
 ――と云って、シナの船に乗せたということであります。こういうことも、ニッポンの歴史家は、弥次郎がこんなことを云ったことは一種の伝説だろうと軽く片づけていますけれども、私はそこに弥次郎の本音があるのだろうと思います。弥次郎は、非常に遊び人的な風格を持った人間でありますから、そういう船乗の生活というものがニッポン人に反撥されるということは、非常によく、実感をもって、知っておったのだと思われるのであります。
 この弥次郎に伴われまして、フランシスコ・ザヴィエルはニッポンに参ったのでありますが、ニッポン人は大歓迎をいたしたのでありまして、初めのうちは押すな押すなの繁昌というわけであります。何しろ七人ほど黒ん坊を一緒に連れて参りましたので、その黒ん坊を大変珍らしがってニッポン人が押しかけました。
 サツマの殿様の島津さんに謁見いたしまして、布教の許可を受けることができました。この時にザヴィエルが、鹿児島のフクソウ寺のニンジという高僧と友だちになりました。このフクソウ寺というのは、鹿児島の島津家の菩提寺だそうで、当時百人ほどの禅僧がおったと申しますから、非常に大きなお寺、サツマで最大のお寺であり、そこのニンジという禅僧は、サツマきっての傑僧であったのだと思います。


 

――歴史に関する或る講演・終――





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底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「歴史小説 創刊号、第一巻第二号」
   1948(昭和23)年10月1日、11月1日発行
初出:「歴史小説 創刊号、第一巻第二号」
   1948(昭和23)年10月1日、11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:

石原莞爾 最終戦争論・戦争史大観 15万字 抜粋

2008-08-07 07:12:04 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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最終戦争論・戦争史大観
石原莞爾



   最終戦争論



 第一部 最終戦争論


昭和十五年五月二十九日京都義方会に於ける講演速記で同年八月若干追補した。


   第一章 戦争史の大観

     第一節 決戦戦争と持久戦争
 戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。
 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる――比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。
 戦争本来の真面目(しんめんぼく)は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。
 戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います(六四頁の付表第一参照)。

     第二節 古代および中世
 古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘(せいちゅう)を受けないで決戦戦争が行なわれました。
 ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵(ようへい)になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。
 前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。

     第三節 文芸復興
 それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍(さむらい)の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。
 当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから三百人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。
 その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右(かしらみぎ)」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。
 金で備われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。
 横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何十個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣(はんさ)なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。
 そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。
 三十年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。
 フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。
 フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、一七八九年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。
 即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている一七八九年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。

     第四節 フランス革命
 フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍――実質はそれだけなかったと言われておりますが――を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。
 

二葉亭四迷 エスペラントの話  ②■■は■■の母ですね

2008-08-07 07:06:02 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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エスペラントの話
二葉亭四迷



 ①■■■■■■の話を聴きたい、よろしい、やりませう。しかし先月の事だ、彩雲閣から世界語といふ謂はゞ①■■■■■■の手ほどきのやうなものを出した、あの本の例言に一通り書いて置いたが、読んで下すつたか。え、まだ読まない、困つたねえ、ぢや仕方がない、少し重複になるが、由来からお話しませう。と云つて何も六(むづ)かしい由来がある訳ではないが、詰(つま)り②■■は■■の母ですね、①■■■■■■の発明されたのも畢竟(ひつきやう)必要に促されたに外ならんので、昔から世界通用語の必要は世界の人が皆感じてゐた、で、或は電信の符号のやうなものを作つて、○と見たら英人はサンと思へ、独逸人はゾンネと思へさ、ね、日本人なら太陽と読めと云つたやうな説もあつたが、そんな無理な事は到底行はれん。そこで、現在の各国に国語中一番弘く行はれてゐる英語とか仏語とかを採つて国際語にしたらといふ説も出たが、これも弊が多くて困る、成程(なるほど)英語が国際語になつたら英人には都合が好からうが夫(それ)では他の国民が迷惑する。仏語でも独逸語でも其通り、夫に各国人皆それ/″\に自尊心といふものが有るから、余所(よそ)の国の言葉が国際語になつては承知せん、何でも自分の国の言葉を採用しろと主張する、到底(とて)も相談の纏(まと)まる見込はない、そこで是はどうでも何か新しい言語(ことば)を作つて、それを一般に行ふより外手段はないとなつて諸国の学者は此方面でいろ/\工夫してゐる中に、千八百八十二年といへば明治十二(ママ)年に当りますかね、其年にウォラビュックといふ新発明の国際語が出来た、かの符号などから視れば余程気が利(き)いてゐるけれど、惜しい事には余り人為的で、細工に過ぎてゐて之を人情風俗の違ふ各国人の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了(しま)ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも③■売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国(どこ)でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八(ママ)年になりますかな、其年の末に初めて所謂(いはゆる)①■■■■■■が世に公(おほやけ)にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰(つま)り波蘭人(ポーランドじん)だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽(たちまち)の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳(ウラジオストック)でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此(こゝ)に無しといふ有様で、好加減(いゝかげん)に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日巴里(パリ)から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又墨西哥(メキシコ)の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語(スペインご)にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂(い)つてよろしい。安孫子(あびこ)君の報道でみると、倫敦(ロンドン)の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ思ひ合せればエスペラントは或一部の人の想像するやうなユートピヤではない、既に世界の人から国際語として存在の価値あることを認められて現に応用されつゝあるものだ。
 発明後僅(わづ)か二十年経(た)つか経たぬ中に此通り弘まつたのは、一方から言へば人間の交通が益々頻繁になつて世界通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、一方に於てはエスペラントなるものが此需要を満足する恰好(かつかう)の言語であることを証拠立てるとまあいふべきでせう。まあ試みにやつて御覧、それは造作もないものだ。文法は僅か十六則で、語根が一千語内外、それはあの「世界語」の終に載せた字書に残らず収まつてゐるから、あの字書さへあれば、十六則の文法を便りにして、一寸本も読めれば、会話も出来、手紙もかける、格別研究する必要もない位のものだ。論より証拠、かういふ私は浦潮でポストニコフといふ人から習つたと云つても唯アルファベットの読み方を教へて貰つたゞけの事で其外何も習つたのでない、而(しか)もアルファベットも習ひ放しで、いろ/\忙がしかつたものだから、教科書は鞄の中へ放り込んだ儘(まゝ)ツイ窺(のぞ)いてみた事もなかつたが、北京で仏人の手紙が届いた時、字引を引き/\読んでみると造作もなく分つた、分る事は分つたが返事が書けるかしらと、何しても此時初めてエスペラント語で書いたものを読んで見たのだから、内々危ぶみつゝ文法を読み読み、字引を繰(く)り/\やつてみると、手紙も亦(また)造作もなく書けた、尤(もつと)も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。これは私ばかりではない誰でも然(さ)うなので、現に此間も去る友人から「世界語」を一部送つて呉(くれ)ろと言つて来たから送つてやると、直ぐエスペラントで小版三頁程の手紙を寄越(よこ)した、尤も此友人は倫敦に永く居た人で英文に堪能である所為(せゐ)もあらうが、中々巧く書いてある、而(そ)してその言草が好いぢやないか、エスペラントの容易(やさ)しいのには驚いたトかうだ。が、実際その通りで驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目を透(とほ)しさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。さう容易しくては複雑な思想は言顕(いひあら)はせまいと思ふ人もあらうが、ところが然(さ)うでない。かの「世界語」の終りに載せた世界語既刊書目を見ても分るが、既に④■■■■■■■のハムレットもエスペラントの飜訳になつてゐる、⑤■■■■■■のクリスマス、キャロルも飜訳になつてゐる、⑥ハ■ネ、⑦■ーテの詩も飜訳されてある、⑧■■ロンも、⑨プー■■■も、⑩■■■トイもシンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377-上-13]チも飜訳されてある、私が曾て苅心(かるしん)と署名して四日間といふガルシンのスケッチを反訳して新小説に出したことがあるが、あんなものまで最(も)う反訳されてある。是は皆美文だが、哲学書にしてもライプニッツのモナドロギイが反訳になつてゐる位だから、凡(およ)そ今の人間の言語で言顕はす事は、どんな事でもエスペラントで言はれぬといふことはない、それでゐて殆(ほとん)ど研究といふ程の研究をせんでも分るのだから、それから推(お)しても①■■■■■■の将来は実に多望だ。十年二十年と経つたら、今より数十倍応用の範囲が弘まり、五十年も経つたら、各国の小学校の必須科目になるかも知れん、現に既に必須科目にしてゐる地方もある位だから、そりや然ういふことになるかも知れん、私はエスペラントの将来に就いては大のオプチミストだ。
 まだ/\エスペラントに就いては大分言ひたい事がある、英語は今では日本にも大分弘まつてゐるやうではあるが、しかしまだ/\知らない人も多いだらうからさういふ謂はゞ外国語を習ひ後れた人には、是非エスペラントを勧めたい、それから英語なり独逸語なり、現在の外国語になると、何程手に入つたといつても、書いたものを直ぐ出版するといふことの出来る人は少からう、多くは是非一度英人なり独逸人なりに筆を入れて貰はなければ、安心して出版は出来まい、ところがエスペラントは何国(どこ)の言葉といふのでないから、同じ文法に依つて、同じ言葉を使ひながら、各国皆其スタイルが違ふやうだ、例(たと)へば英人は英語を、独逸人は独逸語を、仏人は仏語をそれ/″\エスペラントに引直して用ゐるから、英人のエスペラントには英語の臭味(くさみ)があり、仏人は仏語、独逸人は独逸語の臭味がある。だから日本のエスペラントは日本語の臭味があつたとて一向差支(さしつかへ)ないと思ふ。これは非常に都合の好い話だから、願はくば多数の力でエスペラントの日本式スタイルを作つて、日本語の精神でエスペラントを使つて世界の人を相手にドシドシ著作の出来るやうにしたい。此外まだ言ひたい事は沢山あるけれど、まあ、此位で止めて置かう。

(⑪■■三十九年十月)





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底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・⑫■■■四迷集」⑬■■書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:土屋隆
校正:Juki
2007年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:






























エスペラントの話
二葉亭四迷



 エスペラントの話を聴きたい、よろしい、やりませう。しかし先月の事だ、彩雲閣から世界語といふ謂はゞエスペラントの手ほどきのやうなものを出した、あの本の例言に一通り書いて置いたが、読んで下すつたか。え、まだ読まない、困つたねえ、ぢや仕方がない、少し重複になるが、由来からお話しませう。と云つて何も六(むづ)かしい由来がある訳ではないが、詰(つま)り必要は発明の母ですね、エスペラントの発明されたのも畢竟(ひつきやう)必要に促されたに外ならんので、昔から世界通用語の必要は世界の人が皆感じてゐた、で、或は電信の符号のやうなものを作つて、○と見たら英人はサンと思へ、独逸人はゾンネと思へさ、ね、日本人なら太陽と読めと云つたやうな説もあつたが、そんな無理な事は到底行はれん。そこで、現在の各国に国語中一番弘く行はれてゐる英語とか仏語とかを採つて国際語にしたらといふ説も出たが、これも弊が多くて困る、成程(なるほど)英語が国際語になつたら英人には都合が好からうが夫(それ)では他の国民が迷惑する。仏語でも独逸語でも其通り、夫に各国人皆それ/″\に自尊心といふものが有るから、余所(よそ)の国の言葉が国際語になつては承知せん、何でも自分の国の言葉を採用しろと主張する、到底(とて)も相談の纏(まと)まる見込はない、そこで是はどうでも何か新しい言語(ことば)を作つて、それを一般に行ふより外手段はないとなつて諸国の学者は此方面でいろ/\工夫してゐる中に、千八百八十二年といへば明治十二(ママ)年に当りますかね、其年にウォラビュックといふ新発明の国際語が出来た、かの符号などから視れば余程気が利(き)いてゐるけれど、惜しい事には余り人為的で、細工に過ぎてゐて之を人情風俗の違ふ各国人の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了(しま)ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも読売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国(どこ)でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八(ママ)年になりますかな、其年の末に初めて所謂(いはゆる)エスペラントが世に公(おほやけ)にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰(つま)り波蘭人(ポーランドじん)だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽(たちまち)の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳(ウラジオストック)でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此(こゝ)に無しといふ有様で、好加減(いゝかげん)に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日巴里(パリ)から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又墨西哥(メキシコ)の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語(スペインご)にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂(い)つてよろしい。安孫子(あびこ)君の報道でみると、倫敦(ロンドン)の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ思ひ合せればエスペラントは或一部の人の想像するやうなユートピヤではない、既に世界の人から国際語として存在の価値あることを認められて現に応用されつゝあるものだ。
 発明後僅(わづ)か二十年経(た)つか経たぬ中に此通り弘まつたのは、一方から言へば人間の交通が益々頻繁になつて世界通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、一方に於てはエスペラントなるものが此需要を満足する恰好(かつかう)の言語であることを証拠立てるとまあいふべきでせう。まあ試みにやつて御覧、それは造作もないものだ。文法は僅か十六則で、語根が一千語内外、それはあの「世界語」の終に載せた字書に残らず収まつてゐるから、あの字書さへあれば、十六則の文法を便りにして、一寸本も読めれば、会話も出来、手紙もかける、格別研究する必要もない位のものだ。論より証拠、かういふ私は浦潮でポストニコフといふ人から習つたと云つても唯アルファベットの読み方を教へて貰つたゞけの事で其外何も習つたのでない、而(しか)もアルファベットも習ひ放しで、いろ/\忙がしかつたものだから、教科書は鞄の中へ放り込んだ儘(まゝ)ツイ窺(のぞ)いてみた事もなかつたが、北京で仏人の手紙が届いた時、字引を引き/\読んでみると造作もなく分つた、分る事は分つたが返事が書けるかしらと、何しても此時初めてエスペラント語で書いたものを読んで見たのだから、内々危ぶみつゝ文法を読み読み、字引を繰(く)り/\やつてみると、手紙も亦(また)造作もなく書けた、尤(もつと)も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。これは私ばかりではない誰でも然(さ)うなので、現に此間も去る友人から「世界語」を一部送つて呉(くれ)ろと言つて来たから送つてやると、直ぐエスペラントで小版三頁程の手紙を寄越(よこ)した、尤も此友人は倫敦に永く居た人で英文に堪能である所為(せゐ)もあらうが、中々巧く書いてある、而(そ)してその言草が好いぢやないか、エスペラントの容易(やさ)しいのには驚いたトかうだ。が、実際その通りで驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目を透(とほ)しさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。さう容易しくては複雑な思想は言顕(いひあら)はせまいと思ふ人もあらうが、ところが然(さ)うでない。かの「世界語」の終りに載せた世界語既刊書目を見ても分るが、既にシェークスピヤのハムレットもエスペラントの飜訳になつてゐる、ヂッケンスのクリスマス、キャロルも飜訳になつてゐる、ハイネ、ゲーテの詩も飜訳されてある、バイロンも、プーシキンも、トルストイもシンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377-上-13]チも飜訳されてある、私が曾て苅心(かるしん)と署名して四日間といふガルシンのスケッチを反訳して新小説に出したことがあるが、あんなものまで最(も)う反訳されてある。是は皆美文だが、哲学書にしてもライプニッツのモナドロギイが反訳になつてゐる位だから、凡(およ)そ今の人間の言語で言顕はす事は、どんな事でもエスペラントで言はれぬといふことはない、それでゐて殆(ほとん)ど研究といふ程の研究をせんでも分るのだから、それから推(お)してもエスペラントの将来は実に多望だ。十年二十年と経つたら、今より数十倍応用の範囲が弘まり、五十年も経つたら、各国の小学校の必須科目になるかも知れん、現に既に必須科目にしてゐる地方もある位だから、そりや然ういふことになるかも知れん、私はエスペラントの将来に就いては大のオプチミストだ。
 まだ/\エスペラントに就いては大分言ひたい事がある、英語は今では日本にも大分弘まつてゐるやうではあるが、しかしまだ/\知らない人も多いだらうからさういふ謂はゞ外国語を習ひ後れた人には、是非エスペラントを勧めたい、それから英語なり独逸語なり、現在の外国語になると、何程手に入つたといつても、書いたものを直ぐ出版するといふことの出来る人は少からう、多くは是非一度英人なり独逸人なりに筆を入れて貰はなければ、安心して出版は出来まい、ところがエスペラントは何国(どこ)の言葉といふのでないから、同じ文法に依つて、同じ言葉を使ひながら、各国皆其スタイルが違ふやうだ、例(たと)へば英人は英語を、独逸人は独逸語を、仏人は仏語をそれ/″\エスペラントに引直して用ゐるから、英人のエスペラントには英語の臭味(くさみ)があり、仏人は仏語、独逸人は独逸語の臭味がある。だから日本のエスペラントは日本語の臭味があつたとて一向差支(さしつかへ)ないと思ふ。これは非常に都合の好い話だから、願はくば多数の力でエスペラントの日本式スタイルを作つて、日本語の精神でエスペラントを使つて世界の人を相手にドシドシ著作の出来るやうにしたい。此外まだ言ひたい事は沢山あるけれど、まあ、此位で止めて置かう。

(明治三十九年十月)





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底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」筑摩書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:土屋隆
校正:Juki
2007年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:


田中正造 直訴状※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された

2008-08-07 07:02:54 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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直訴状
田中正造



     謹奏

田中正造 ※[#○付き「印」、5-4]
草莽ノ微臣田中正造[#「田中正造」は小字]誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。伏テ惟ルニ臣[#「臣」は小字]田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ

鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ
陛下深仁深慈臣[#「臣」は小字]ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[+近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[久シク→之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。[而シテ鉱業ノ益々発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク加フルニ→加フルニ]比年山林ヲ濫伐シ[+煙毒]水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身[+激]変シテ洪水[頻ニ臻リ→又水量ノ高マルコト数尺]毒流四方ニ氾濫シ毒[屑→渣]ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及[+其下流ノ]地数万町歩ニ[及ビ→達シ]魚族[絶滅→斃死]シ田園荒廃シ数十万ノ人民[+ノ中チ]産ヲ失ヒ[+ルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ]業ニ離レ飢テ[泣キ寒ニ叫ビ→食ナク病テ薬ナキアリ。]老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レ[リ→ルアリ]。
臣[#「臣」は小字]夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後[-毎期]議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施ス[+コト]ナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ[+シテ]群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ[+又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ]人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク[破壊→頽廃]セラレ[飢餓→貧苦疾病]及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
伏テ惟ミルニ

陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ
陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ奉リ下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サヾルニ[因→在]ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦
陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦
陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ
陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣[#「臣」は小字]ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。
 伏シテ惟ルニ政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ以テ
陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ恩ニ光被セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ[破壊→頽廃]セルモノヲ恢復スル其五ナリ。[+加毒ノ鉱業ヲ止メ]毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊[ヲ塗炭ニ→ノ死命ヲ]救ヒ[+居住相続ノ基ヘヲ回復シ]其人口ノ減耗ヲ防遏シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家[-富強]ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ[予防→断絶]スルヲ得ベケンナリ。若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣[#「臣」は小字]ハ恐ル其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。
 臣[#「臣」は小字]年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣[#「臣」は小字]痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
明治三十四年十二月

草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首 ※[#○付き「印」、7-16]





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底本:「田中正造全集 第三巻」岩波書店
   1979(昭和54)年1月19日発行
※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された。ファイル中では、田中によって手直しされた箇所を、「[]」におさめて示した。「→」の元が幸徳案、先が田中による変更。「+」は田中による加筆、「-」は削除箇所である。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2003年5月13日作成
青空文庫作成ファイル:

夏目漱石  約半分 現代日本の開化――明治四十四年八月和歌山において述――

2008-07-23 08:34:59 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
現代日本の開化
――明治四十四年八月和歌山において述――

夏目漱石



 はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承(うけたまわ)れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過(はやりすぎ)の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。ことにただいま牧君の紹介で漱石君の演説は迂余曲折(うよきょくせつ)の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞をちょうだいした後に出て同君の吹聴通(ふいちょうどお)りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもその妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにくい羽目に陥(おちい)ってしまう訳であります。実はここへ出て参る前ちょっと先番の牧君に相談をかけた事があるのです。これは内々ですが思い切って打明けて御話ししてしまいます。と云うほどの秘密でもありませんが、全くのところ今日の講演は長時間諸君に対して御話をする材料が不足のような気がしてならなかったから、牧さんにあなたの方は少しは伸ばせますかと聞いたのです。すると牧君は自分の方は伸ばせば幾らでも伸びると気丈夫(きじょうぶ)な返事をしてくれたので、たちまち親船(おやぶね)に乗ったような心持になって、それじゃア少し伸ばしていただきたいと頼んでおきました。その結果として冒頭だか序論だかに私の演説の短評を試みられたのはもともと私の注文から出た事ではなはだありがたいには違ないけれども、その代り厭(いや)にやり悪(にく)くなってしまった事もまた争われない事実です。元来がそう云う情ない依頼をあえてするくらいですから曲折どころではない、真直(まっすぐ)に行き当ってピタリと終(しま)いになるべき演説であります。なかなかもって抑揚頓挫(よくようとんざ)波瀾曲折(はらんきょくせつ)の妙を極めるだけの材料などは薬にしたくも持合せておりません。とそう言ったところで何もただボンヤリ演壇に登った訳でもないので、ここへ出て来るだけの用意は多少準備して参ったには違ないのです。もっとも私がこの和歌山へ参るようになったのは当初からの計画ではなかったのですが、私の方では近畿地方を所望したので社の方では和歌山をその中(うち)へ割り振ってくれたのです。御蔭(おかげ)で私もまだ見ない土地や名所などを捜る便宜を得ましたのは好都合です。そのついでに演説をする――のではない演説のついでに玉津島だの紀三井寺などを見た訳でありますからこれらの故跡や名勝に対しても空手(からて)では参れません。御話をする題目はちゃんと東京表(とうきょうおもて)できめて参りました。
 その題目は「現代日本の開化」と云うので、現代と云う字は下へ持って来ても上へ持って来ても同じ事で、「現代日本の開化」でも「日本現代の開化」でも大して私の方では構いません。「現代」と云う字があって「日本」と云う字があって「開化」と云う字があって、その間へ「の」の字が入っていると思えばそれだけの話です。何の雑作(ぞうさ)もなくただ現今の日本の開化と云う、こういう簡単なものです。その開化をどうするのだと聞かれれば、実は私の手際(てぎわ)ではどうもしようがないので、私はただ開化の説明をして後はあなた方の御高見に御任せするつもりであります。では開化を説明して何になる? とこう御聞きになるかも知れないが、私は現代の日本の開化という事が諸君によく御分りになっているまいと思う。御分りになっていなかろうと思うと云うと失礼ですけれども、どうもこれが一般の日本人によく呑(の)み込めていないように思う。私だってそれほど分ってもいないのです。けれどもまず諸君よりもそんな方面に余計頭を使う余裕のある境遇におりますから、こういう機会を利用して自分の思ったところだけをあなた方に聞いていただこうというのが主眼なのです。どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未来の人間でも何でもない上に現に開化の影響を受けているのだから、現代と日本と開化と云う三つの言葉は、どうしても諸君と私とに切っても切れない離すべからざる密接な関係があるのは分り切った事ですが、それにもかかわらず、御互に現代の日本の開化について無頓着(むとんじゃく)であったり、または余りハッキリした理会(りかい)をもっていなかったならば、万事に勝手が悪い訳だから、まあ互に研究もし、また分るだけは分らせておく方が都合が好かろうと思うのであります。それについては少し学究めきますが、日本とか現代とかいう特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立してその性質を調べる必要があると考えます。御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返(くりかえ)しているけれども、はたして開化とはどんなものだと煎(せん)じつめて聞き糺(ただ)されて見ると、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたりあるいはもってのほかに漠然(ばくぜん)と曖昧(あいまい)であったりするのはよく有る事だから私はまず開化の定義からきめてかかりたいのです。
 もっとも定義を下すについてはよほど気をつけないととんでもない事になる。これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工(のりざいく)のように硬張(こわば)ってしまう。複雑な特性を簡単に纏(まと)める学者の手際(てぎわ)と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂濶(うかつ)を惜まなければならないような事が彼らの下した定義を見るとよくあります。その弊所をごく分りやすく一口に御話すれば生きたものを故(わざ)と四角四面の棺(かん)の中へ入れてことさらに融通が利(き)かないようにするからである。もっとも幾何学などで中心から円周に到(いた)る距離がことごとく等しいものを円と云うというような定義はあれで差支(さしつかえ)ない、定義の便宜があって弊害のない結構なものですが、これは実世間に存在する円(まる)いものを説明すると云わんよりむしろ理想的に頭の中にある円というものをかく約束上とりきめたまでであるから古往今来変りっこないのでどこまでもこの定義一点張りで押して行かれるのです。その他四角だろうが三角だろうが幾何的に存在している限りはそれぞれの定義でいったん纏(まと)めたらけっして動かす必要もないかも知れないが、不幸にして現実世の中にある円とか四角とか三角とかいうもので過去現在未来を通じて動かないものははなはだ少ない。ことにそれ自身に活動力を具(そな)えて生存するものには変化消長がどこまでもつけ纏(まと)っている。今日の四角は明日の三角にならないとも限らないし、明日の三角がまたいつ円く崩(くず)れ出さないとも云えない。要するに幾何学のように定義があってその定義から物を拵(こしら)え出したのでなくって、物があってその物を説明するために定義を作るとなると勢いその物の変化を見越してその意味を含ましたものでなければいわゆる杓子定規(しゃくしじょうぎ)とかでいっこう気の利(き)かない定義になってしまいます。ちょうど汽車がゴーッと馳(か)けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪(にく)い刹那(せつな)の光景を写真にとって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏(うち)に写し得たごとく吹聴(ふいちょう)すると一般である。なるほどどこから見ても汽車に違ありますまい。けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶していると云わなければなりますまい。御存じの琥珀(こはく)と云うものがありましょう。琥珀の中に時々蠅(はえ)が入ったのがある。透(す)かして見ると蠅に違ありませんが、要するに動きのとれない蠅であります。蠅でないとは言えぬでしょうが活きた蠅とは云えますまい。学者の下す定義にはこの写真の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮(あざや)かに見えるが死んでいると評しなければならないものがある。それで注意を要するというのであります。つまり変化をするものを捉(とら)えて変化を許さぬかのごとくピタリと定義を下す。巡査と云うものは白い服を着てサーベルを下げているものだなどとてんからきめられた日には巡査もやりきれないでしょう。家(うち)へ帰って浴衣(ゆかた)も着換える訳に行かなくなる。この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可哀想だ。騎兵とは馬に乗るものである。これも御尤(ごもっとも)には違ないが、いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗っている訳にも行かないじゃありませんか。少しは下りたいでさア。こう例を挙(あ)げれば際限がないから好加減(いいかげん)に切り上げます。実は開化の定義を下す御約束をしてしゃべっていたところがいつの間(ま)にか開化はそっち退(の)けになってむずかしい定義論に迷い込んではなはだ恐縮です。がこのくらい注意をした上でさて開化とは何者だと纏(まと)めてみたら幾分か学者の陥りやすい弊害を避け得られるしまたその便宜をも受ける事ができるだろうと思うのです。
 でいよいよ開化に出戻りを致しますが、開化と云うものも、汽車とか蠅とか巡査とか騎兵とか云うようなもののごとくに動いている。それで開化の一瞬間をとってカメラにピタリと入れて、そうしてこれが開化だと提(さ)げて歩く訳には行きません。私は昨日和歌の浦を見物しましたが、あすこを見た人のうちで和歌の浦は大変浪(なみ)の荒い所だと云う人がある。かと思うと非常に静かな所だと云う人もある。どっちがよいのか分らない。だんだん聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い時に行き、一方は非常に静かな時に行った違から話がこう表裏して来たのである。固(もと)より見た通なんだから両方とも嘘(うそ)ではない。がまた両方とも本当でもない。これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。が、役に立つと同時に害をなす事も明かなんだから、開化の定義と云うものも、なるべくはそう云う不都合を含んでいないように致したいのが私の希望であります。が、そうするとボンヤリして来る。恨(うら)むらくはボンヤリして来る。けれどもボンヤリしてもほかのものと区別ができればそれでよいでしょう。さっき牧君の紹介があったように夏目君の講演はその文章のごとく時とすると門口から玄関へ行くまでにうんざりする事があるそうで誠に御気の毒の話だが、なるほどやってみるとその通り、これでようやく玄関まで着きましたから思いきって本当の定義に移りましょう。
 開化は人間活力の発現の経路である。と私はこう云いたい。私ばかりじゃない、あなた方だってそういうでしょう。もっともそう云ったところで別に書物に書いてある訳でも何でもない、私がそう言いたいまでの事であるがその代り珍らしくも何ともない。がこれすこぶる漠然(ばくぜん)としている。前口上を長々述べ立てた後でこのくらいの定義を御吹聴(ごふいちょう)に及んだだけではあまり人を馬鹿にしているようですが、まあそこから定めてかからないと曖昧(あいまい)になるから、実はやむをえないのです。それで人間の活力と云うものが今申す通り時の流を沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異った二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。
 その二通りのうち一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。何か月並のような講釈をしてすみませんが、人間活力の発現上積極的と云う言葉を用いますと、勢力の消耗を意味する事になる。またもう一つの方はこれとは反対に勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫(くふう)なりだから前のに対して消極的と申したのであります。この二つの互いに喰違って反(そり)の合わないような活動が入り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。これでもまだ抽象的でよくお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の意味は自(おのずか)ら明暸(めいりょう)になるだろうと信じます。元来人間の命とか生(せい)とか称するものは解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前(ぜん)申したごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者である以上、この活力が外界の刺戟(しげき)に対してどう反応するかという点を細かに観察すればそれで吾人人類の生活状態もほぼ了解ができるような訳で、その生活状態の多人数の集合して過去から今日に及んだものがいわゆる開化にほかならないのは今さら申上げるまでもありますまい。さて吾々(われわれ)の活力が外界の刺戟(しげき)に反応する方法は刺戟の複雑である以上固(もと)より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能(あと)うだけの活力を這裏(しゃり)に消耗して快を取る手段との二つに帰着してしまうよう私は考えているのであります。で前のを便宜(べんぎ)のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきましょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟(しげき)に対して起るのであります。従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往(かんいまいおう)の気象(きしょう)を奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしかする方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯一つを司(つかさ)どる大事実から云えばどうしても今私が申し上げたように解釈するよりほか仕方がないのであります。吾々もお互に義務は尽さなければならんものと始終思い、また義務を尽した後は大変心持が好いのであるが、深くその裏面に立ち入って内省して見ると、願(ねがわ)くはこの義務の束縛を免(まぬ)かれて早く自由になりたい、人から強(し)いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾(あっさく)して手軽に済ましたいという根性が常に胸の中(うち)につけまとっている。その根性が取(とり)も直(なお)さず活力節約の工夫(くふう)となって開化なるものの一大原動力を構成するのであります。
 かく消極的に活力を節約しようとする奮闘に対して一方ではまた積極的に活力を任意随所に消耗しようという精神がまた開化の一半を組み立てている。その発現の方法もまた世が進めば進むほど複雑になるのは当然であるが、これをごく約(つづ)めてどんな方面に現われるかと説明すればまず普通の言葉で道楽という名のつく刺戟(しげき)に対し起るものだとしてしまえば一番早分りであります。道楽と云えば誰も知っている。釣魚(つり)をするとか玉を突くとか、碁(ご)を打つとか、または鉄砲を担(かつ)いで猟に行くとか、いろいろのものがありましょう。これらは説明するがものはないことごとく自から進んで強(し)いられざるに自分の活力を消耗して嬉(うれ)しがる方であります。なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるので、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであります。
 この二様の精神すなわち義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約とまた道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消耗とが互に並び進んで、コンガラカッて変化して行って、この複雑極(きわま)りなき開化と云うものができるのだと私は考えています。その結果は現に吾々が生息している社会の実況を目撃すればすぐ分ります。活力節約の方から云えばできるだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようしようと工夫する。その工夫が積(つも)り積って汽車汽船はもちろん電信電話自動車大変なものになりますが、元を糺(ただ)せば面倒を避けたい横着心の発達した便法に過ぎないでしょう。この和歌山市から和歌の浦までちょっと使いに行って来いと言われた時に、出来得るなら誰しも御免蒙(ごめんこうむ)りたい。がどうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。できるだけ身体(からだ)は使いたくない。そこで人力車もできなければならない訳になります。その上に贅沢(ぜいたく)を云えば自転車にするでしょう。なおわがままを云い募(つの)ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。好んで身体を使って疲労を求める。吾々が毎日やる散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が下ればちょうど好いが、まあたいていはそう旨(うま)くは行かない。云いつかった時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫(くふう)をしなければならない。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟(りくつ)です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡(りょうけん)、と申しましょうかまたはそうそう身を粉(こ)にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談(じょうだん)じゃねえという発憤の結果が怪物のように辣腕(らつわん)な器械力と豹変(ひょうへん)したのだと見れば差支(さしつかえ)ないでしょう。
 











 すでに開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜(たまもの)として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定(かんじょう)に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前(ぜん)御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因(よ)って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏張(ふんば)るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐(あわ)れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょう。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が時々あります。モーパサンの小説に、或男が内縁の妻に厭気(いやき)がさしたところから、置手紙か何かして、妻を置き去りにしたまま友人の家へ行って隠れていたという話があります。すると女の方では大変怒ってとうとう男の所在(ありか)を捜し当てて怒鳴(どな)り込(こ)みましたので男は手切金を出して手を切る談判を始めると、女はその金を床(ゆか)の上に叩(たた)きつけて、こんなものが欲しいので来たのではない、もし本当にあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしまう、そこにある(三階か四階の)窓から飛下りて死んでしまうと言った。男は平気な顔を装ってどうぞと云わぬばかりに女を窓の方へ誘う所作(しょさ)をした。すると女はいきなり馳(か)けて行って窓から飛下りた。死にはしなかったが生れもつかぬ不具になってしまいました。男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したものと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委(ゆだ)ねたというのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減な程度で留めておけばこれほどの大事には至らなかったかも知れないが、そうすれば彼の懐疑は一生徹底的に解ける日は来なかったでしょう。またここまで押してみれば女の真心(まごころ)が明かになるにはなるが、取返しのつかない残酷な結果に陥った後から回顧して見れば、やはり真実懸価(かけね)のない実相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずにおきたかったでありましょう。日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前
ぜん)申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。苦(にが)い真実を臆面(おくめん)なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の念を与えたのは重々御詫(おわび)を申し上げますが、また私の述べ来(きた)ったところもまた相当の論拠と応分の思索の結果から出た生真面目(きまじめ)の意見であるという点にも御同情になって悪いところは大目に見ていただきたいのであります。


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底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月に刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
ファイル作成:野口英司
2000年2月1日公開
2000年12月16日修正
青空文庫作成ファイル:

高村光雲 6000字 『幕末維新懐古談 上野戦争当時のことなど』

2008-06-26 06:12:38 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
幕末維新懐古談
上野戦争当時のことなど
高村光雲



 慶応四年辰年(たつどし)の五月十五日――私の十七の時、上野の戦争がありました。
 今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧(わ)いて来る。先ほど話した通り、四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、四月頃もまるで梅雨(つゆ)の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸の市中は到(いた)る処、溝渠(どぶ)が開き、特に、下谷(したや)からかけ、根岸(ねぎし)、上野界隈(かいわい)の低地は水が附いて脛(すね)を没し、往来も容易でないという有様であったが、その五月十五日もやっぱりびしょびしょやっている。たまに霽(は)れたかと思えば曇(くも)り、むらにぱらぱらと降って来ては暗くなり、陰鬱(いんうつ)なことであった。

 当時、師匠東雲の家は駒形町にありまして、私は相更(あいかわ)らず修業中……その十五日の前の晩(十四日の夜中)に森下にいる下職(したじょく)の塗師屋(ぬしや)が戸を叩(たた)いてやって来ました。私が起きて、潜(くぐ)りを開(あ)けると、下職の男は這入(はい)って来て、師匠と話をしている。
「師匠、どうも、飛んでもない世の中になって来ましたぜ。明日(あす)上野に戦争があるそうですよ。いくさが始まるんだそうで」
「何んだって、いくさが始まる。何処でね」
「上野ですよ。上野へ彰義隊が立て籠(こも)っていましょう。それが官軍と手合わせを始めるんだそうで。どうも、そうと聞いては安閑とはしていられないんで、夜夜中(よるよなか)だが、こちらへも知らせて上げようと思って、やって来たんです。どうも大変なことになったもんだが、一体、どうすれば好いのか、まあ、そのつもりで皆(みんな)で注意するだけは注意しなくちゃなりませんね」
など、いかにも不安そうに話している。
 やがて、下職は帰ったが、さて警戒のしようもない。夜が明けたら、また何んとかなろうなぞ師匠は私たちにも話しておられたが、ふと、上野で戦争ということで気が附いて困ったことは、ちょうど、そのいくさのあるという上野の山下(やました)の雁鍋(がんなべ)の真後ろの処(今の上野町)に裏屋住まいをしている師匠の知人のことに思い当ったのであります。
 その人は師匠の弟弟子(でし)で杉山半次郎(すぎやまはんじろう)という人、鳳雲(ほううん)の家にて定規通り勤め上げはしたけれども、業(わざ)がいささか鈍いため、一戸を構える所まで行かず、兄弟子東雲の手伝いとなって仕事をさせてもらっていたのでありました。師匠は、この半次郎のことを心配しだしたのであった。
「幸吉、半さんが山下にいるんだが、困るなあ」
「そうですねえ。半さんは、いくさの始まるってことを知ってるでしょうか」
「さればさ。あの人のことだから、どうか分らないよ。こっちが先に聞いた上は、一つ、こりゃ半さんに報告(しら)せて上げなくちゃなるまい。夜が明けたら、幸吉、お前は松を伴(つ)れて行って知らしてやってくれ、ついでに夜具蒲団(ふとん)のようなものでも持って来てやってくれ」
 こんな話でその夜は寝(しん)に就(つ)きましたが、戦争と聞いては何んとなく気味悪く、また威勢の好(よ)いことのようにも思われて心は躍(おど)る。

 夜は明け、弟弟子の松どんを伴れ、大きな風呂敷を背負い、私は師匠にいわれた通り、半次郎さんの宅へ行くべく家を出ました。
 道は駒形町より森下へ出て、今の楽山堂(らくさんどう)病院の所から下谷(したや)御徒町(おかちまち)にきれ、雁鍋の背後へ出ようというのですから、七軒町(しちけんちょう)の酒井大学(さかいだいがく)様の前を通り西町の立花(たちばな)様の屋敷――片側は旗本と御家人(ごけにん)の屋敷が並んでいる。堀を前にした立花の屋敷の所へ差し掛かると、この辺一帯は溝渠(どぶ)が開いて水が深く、私と松どんとは、じゃぶじゃぶと川の中でも歩くように、探り足をしては進んで行くと、何んだか、頭の頂天の方で、シュッシュッという音がする。まるで頭の側(わき)を何かが掠(かす)って行くような音である。何んだろうと、私は松と話しながら、練塀(ねりべい)へ突き当って、上野町の方へ曲がって行こうとすると、其所(そこ)に異様な風体(ふうてい)をした武士の一団を見たのであった。
 その武士たちは袴(はかま)の股立(ももだ)ちを高く取り、抜き身の槍を立て、畳をガンギに食い違えに積み、往来を厳重に警衛しているのである。
 私は風呂敷を背負って、気味が悪いが他の人も行くから其所へ進むと、
「小僧、何処(どこ)へ行くんだ」
と問いますので、師匠の用向きにてこれこれと答えますと、早く通れ、という。それから二、三ヶ所も、同じような警護(かため)の関を通り抜けて行く間に、早(はや)戦争は始まってるという話、今、道でシュッシュッと異様な音の耳を掠めたのは、鉄砲丸(だま)の飛び行く音であったことに心附き、驚きながら半さんの家へ駆け込みました。

 半さんは長屋の中でも一番奥の方へ住んでいる。至って暢気(のんき)な人で、夫婦にて、今、朝飯を食べている所であった。
 ところが、驚いたことには、この騒ぎを、半さん夫婦は全く知らずにこうして平気な顔で朝飯をやってるということが分った時には、さすがに私も開(あ)いた口が塞(ふさ)がりませんでした。半さんは、私から、師匠の報告これこれということを聞き、また途中の様子を聞き、
「ハハア、そうかね。そいつは驚いた。ちっともそんなことは知らなかった。じゃあこうしちゃあいられないな」
と、急に大騒ぎをやり出しました。後で聞くと、半さんの妻君が少しお転婆(てんば)で、長屋中の憎まれ者になっていたため、当日の騒ぎのあることを知らせずに、近所の人たちは各自に立ち退(の)いたのだそうですが、世にも暢気な人があればあるものです。
 私と松どんとは、半さんの家(うち)の寝道具を背負い、もう一度出直して来ることをいい置き、元の道を通り抜けて、一旦、師匠の家に帰り、様子を話し、再び取って返して来ましたが、その時は以前よりも武士(さむらい)の数もさらに増し、シュッシュッという音も激しくなり、抜き身の槍の穂先がどんよりした大空に凄(すご)く光り、状態甚だ険悪であるから、とても近寄れそうにもありません。ソレ弾丸(だま)でも食って怪我(けが)をしては大変と松とも話し、一緒に家へ帰って、師匠に市中の光景などを手真似(てまね)で話をしておりますと、ドドーン/\/\という恐ろしい音響(おと)が上野の方で鳴り出しました。それは大砲の音である。すると、また、パチパチ、パチパチとまるで仲店で弾(はじ)け豆が走っているような音がする。ドドン、ドドン、パチパチパチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。何んともいえない変な心持であります。私たちは二階へ上がって上野の方を見ている。音響は引っ切りなしに続いて四隣(あたり)を震動させている。其所にも此所にも家根(やね)や火の見へ上がって上野の山の方を見て何かいっている。すると間もなく、十時頃とも思う時分、上野の山の中から真黒な焔(ほのお)が巻き上がって雨気を含んだ風と一緒に渦巻いている中、それが割れると火が見えて来ました。後で、知ったことですが、これは中堂へ火が掛かったのであって、ちょうどその時戦争の酣(たけなわ)な時であったのであります。
 そして、小銃は雁鍋の二階から、大砲は松坂屋から打ち込んだが、別して湯島切通(ゆしまきりどお)し、榊原(さかきばら)の下屋敷、今の岩崎の別荘の高台から、上野の山の横ッ腹へ、中堂を目標に打ち込んだ大砲が彰義隊の致命傷となったのだといいます。彰義隊は苦戦奮闘したけれども、とうとう勝てず、散々(ちりぢり)に落ちて行き、昼過ぎには戦(いくさ)が歇(や)みました。

 すると、その戦後の状態がまた大変で、三枚橋の辺(あたり)から黒門(くろもん)あたりに死屍(しし)が累々としている。私も戦争がやんだというので早速出掛けて行きましたが、二つ三つ無惨な死骸(しがい)を見ると、もう嫌(いや)な気がして引っ返しました。広小路一帯は今日とは大分(だいぶ)違い、袴腰(はかまごし)がもっと三枚橋の方へ延び、黒門と袴腰の所が広々としていた。山下の方には、大きな店で雁鍋がある。この屋根の箱棟(はこむね)には雁が五羽漆喰(しっくい)細工で塗り上げてあり、立派なものでした(雁鍋の先代は上総(かずさ)の牛久(うしく)から出て池(いけ)の端(はた)で紫蘇飯(しそめし)をはじめて仕上げたもの)。隣りに天野という大きな水茶屋(みずぢゃや)がある。甘泉堂(かんせんどう)(菓子屋)、五条の天神、今の達磨(だるま)は元岡村(料理店)それから山下は、今の上野停車場と、その隣りの山ノ手線停留場と、その脇の坂本へ行く道が、元は、下寺(したでら)の通用門で、その脇が一帯に大掃溜(おおはきだめ)であった。その側(そば)は折れ曲がって左右とも床見世(とこみせ)で、講釈場、芝居小屋などあった。この小屋に粂八(くめはち)なぞが出たものです。娘義太夫、おでんや、稲荷(いなり)ずし、吹矢(ふきや)、小見世物(こみせもの)が今の忠魂碑の建っている辺まで続いておりました。この辺をすべて山王下といったものです。
 停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺(けいうんじ)がある。この寺は市川小団次(いちかわこだんじ)の寺で法華宗(ほっけしゅう)です。山の上では今常磐(ときわ)花壇のある所は日吉(ひえ)山王の社で総彫り物総金の立派なお宮が建っていました。その前の崖(がけ)の上が清水堂(きよみずどう)、左に鐘楼堂。法華堂、常行堂(じょうぎょうどう)が左右にあって中央は通路を跨(また)いで橋が掛かり、これを潜(くぐ)って中堂がありました。此所(ここ)が山中景色第一の所でした。
 この辺一帯をかけて、その戦後の惨景は目も当てられず、戦い歇(や)んで昼過ぎ、騒ぎは一段落附いたようなものの、それからまた一騒ぎ起ったというのは、跡見物(あとけんぶつ)に出掛けた市民で、各自(てんで)に刺子袢纏(さしこばんてん)など着込んで押して行き、非常な雑踏。するとたちまち人心は恐ろしいもので慾張り出したのであります。それは官軍が彰義隊から分捕(ぶんど)った糧米を、その見物の連中に分配しますと、我も我もと押し迫り、そのゴタゴタ中に一俵二俵と担(かつ)いで行く……大勢のことで、誰がどうしたのか、五十俵百俵はたちまち消えてなくなる。群集の者は、もう半分分捕りでもする気になり、勝手に振る舞い、果ては上野の山の中へ押し込んで行き、もう取るものがないと見ると、お寺の中へ籠(こ)み入って、寺中の坊さんたちの袈裟衣(けさごろも)や、本堂の仏像、舎利塔などを担ぎ出して、我がちに得物とする。たちまち境内のお寺は残らず空(から)ッぽとなり、金属(かねけ)のものは勾欄(こうらん)の金具や、擬宝珠(ぎぼうし)の頭などを奪って行くという騒ぎで、実に散々な体(てい)たらく……暫くこの騒ぎのまま、日は暮れ、夜に入り、市民は等しく不安な思いで警戒したことであった。

 さて、我々の方面はどうかというと、浅草の大通り一帯も、なかなか安閑とはしていられない。吾妻橋は一つの関門で、本所(ほんじょ)一円の旗本御家人が彰義隊に加勢をする恐れがあるので、此所(ここ)へ官軍の一隊が固めていたのと、彰義隊の一部が落ちて来たためちょっと小ぜり合いがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七、八人榧寺(かやでら)に陣取っている。異様の風体をしたものが右往左往しているという有様でした。新徴組は市中取り締りとはいうものの官軍だか、賊軍だか分らず、武士の食い詰めものの集団で、余り評判はよくないということであった。
 ですから、何事も無政府状態で、市民一般財産生命の危険夥(おびただ)しく、師匠の家の近辺なども、官軍であるか、彰義隊か分りませんが、所々火を放って行きなどしたもので、しかし雨天続きのため物にならず、燃え上がったのは人々見附け次第消しましたが、不用心極(きわ)まることでした。師匠の家なども我々は畳を上げ、道具を方附け、いざといえば何処(どこ)かへ立ち退(の)く算段……天候は悪く、びしょびしょ雨で、春というのに寒さは酷(きび)しい。師匠の家では、万一を気遣い、日本橋小舟町(こふなちょう)の金屋善蔵(かなやぜんぞう)というのへ、妻君と子供だけは預けようということになり、私が妻君の伴(とも)をして立ち退きましたが、浅草見附へ行くと、番兵がいて門は閉(し)まって通ることが出来ない。一々、人調べをしてから、犬潜(いぬくぐ)りから通しているので、私たちも改められて潜り抜けたが、何んだか陰気な不気味なことでありました。
 とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時御成街道(おなりかいどう)を真正面から官兵を指揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道(さいごうつぐみち)さんであったといいます。これは私が先年大西郷の銅像を製作した際、松方侯(まつかたこう)の晩餐(ばんさん)に招かれて行きましたが、その席に大山(おおやま)、樺山(かばやま)、西郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のことを語られているのを聞いていると、お国訛(なま)りのこととて、能(よ)くは聞き取れませんが、おいどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。
 先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、いろいろなものがはき出され、往来へ金襴(きんらん)の袈裟、種々の仏具などが棄(す)ててあったのを見ました。





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底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:


●表記について

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