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【大学 建築:①~⑩】

2008-07-22 14:34:03 | 1 【①~⑩】⇒コピー&ペースト
【大学 建築:①~⑩】 の検索結果 約 353万 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

大学【建築系検索エンジンKenKen!】大学. infokenken!にて大学を検索しました。 85件が登録されています。 建設WALKER - 建築・不動産の転職・求人情報 ... 筑波大学 大学院 構造エネルギー工学専攻:科目一覧 - 機械工学・土木工学・建築学・航空工学・航空宇… ...
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東京工業大学 建築学科・建築学専攻建築学科・建築学専攻は、建築史・都市史を基礎として、建築意匠・建築設計及び都市・ 地域・国土さらには宇宙の諸計画を演習し、それに必要とされる建築構造・建築材料・ 建築環境・建築設備・建築防災の各工学、さらには建築生産・建築管理・建築経営・ ...
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日本大学理工学部 建築学科Move Skip >>. ツソスv. $o www.ar. a . ツソスv. Gƒ nive. “ƒ. Gƒ nive. Department of Architecture. Nihon University College of Science and Technology. @Fƒ nive. Move Skip >>. ソスv. $o www.ar ...
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早稲田大学 理工学術院 創造理工学部 建築学科/ 創造理工学研究科 建築 ...場所:早稲田大学大久保キャンパス 63号館2階01教室 *交通アクセスについて[ リンク ] 対象:学部学生、大学院生、一般(無料/事前申し込みは必要ありません) 問い合わせ先:早稲田大学創造理工学部建築学科高口洋人 03-5286-2494 takaguchi.lab@gmail. ...
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明治大学 理工学部 建築学科公式HP明治大学の建築学科公式サイト。学科の紹介と、学生の優秀設計・優秀論文、卒業後の進路など。
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武蔵工業大学建築学科建築学科教員(本学OB)が2008年建築学会賞作品賞を同時受賞!! ・岩堅一教授が「 武蔵工業大学新建築学科棟♯4」で日本建築 ... 武蔵工業大学 工学部建築学科〒158-8557 東京都世田谷区玉堤1-28-1 武蔵工業大学世田谷キャンパス 4号館(建築学科棟) ...
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Graduate School of Architecture Chiba University / 千葉大学 工学部 ...千葉大学 工学部 建築学科、千葉大学大学院 工学研究科 建築・都市科学専攻 建築学コースの公式サイトです。カリキュラムや教員プロフィール、学科のニュースなどを掲載しています。受験を考えている皆様はぜひ参考にしてみてください。
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関西大学環境都市工学部建築学科このページは、「関西大学環境都市工学部建築学科」の責任で運営されています。 最終更新日:2008/01/28 このページに関するご意見、お問合せもしくはご質問等がございましたら、 このボタンを押してください。
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三重大学工学部建築学科・三重大学大学院工学研究科建築学専攻第26回三重大学工学部建築学科「建築展2008」卒業設計+修士設計展・建築展特別講演会「 大学におけるファシリティマネジメントの意義」の情報を掲載しました。(2008.7.16) ■2008 年度設計製図1優秀作品リストを更新しました(課題2(意匠演習)の ...
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大阪大学建築工学科目のホームページinformation>構築工学科六十周年記念祝賀会のご案内2007/10/11 建築工学部門ブログ( 試験運用)を開始しました。トップページよりリンク。 2007/9/20 教員公募情報を掲載しました。>information>教員公募情報2007/6/22 教員公募情報を掲載しました。 ...
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日本体育大学

2008-07-22 14:04:24 | 5 メールマガジン(大学)
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

日本体育大学

日本体育大学

世田谷キャンパスの校舎
大学設置 1949年
創立 1893年
学校種別 私立
設置者 学校法人日本体育会
本部所在地 東京都世田谷区深沢
キャンパス 東京・世田谷(東京都世田谷区)
横浜・健志台(神奈川県横浜市青葉区)
学部 日本体育大学体育学部
日本体育大学女子短期大学部
ウェブサイト 日本体育大学公式サイト
表・話・編・歴
日本体育大学(にっぽんたいいくだいがく、英称:Nippon Sport Science University)は、東京都世田谷区深沢に本部を置く日本の私立大学である。1949年に設置された。大学の略称は日体大(にったいだい)、日体(にったい)、NSSU。

旧式漢字の「日體大」も使われる。東京都世田谷区深沢と横浜市青葉区にキャンパスを持っている。歴史も古く多くの優秀なスポーツ選手・スポーツ指導者を輩出している名門体育大学。なお、東京・世田谷キャンパスは「体育・スポーツ科学の総合大学」にふさわしい都市型・高度情報型キャンパスに再開発中、2011年に完成予定。

目次 [非表示]
1 概要
2 学科
3 沿革
4 主な出身者及び現役選手
5 エッサッサ
6 関連項目
7 外部リンク



[編集] 概要
1891年(明治24年)体育会を起源とし、1893年(明治26年)日本体育会体操練習所、日本体育会体操学校、日本体育専門学校を経て1949年(昭和24年)大学に移行。

主に保健体育科の教員(養護教員含む)の育成を目的としているためか、出身のプロスポーツ選手は少ないが、日本の中核をなす体育・スポーツ科学の専門大学ということから、その歴史(体育大系スポーツ系で最も古い)の中で、数多くのオリンピック選手メダリスト・世界選手権選手メダリスト、体育教員「スポーツ指導者」「養護教員」(大学院・大学・高等専門学校・高校・中学校・小学校等)が卒業生にいる。

シンボルマークは六つの花弁を持った花桜でデザインされている。 校章は體大の立字ー旧式漢字を使用(体育会系クラブ「学友会」旗に多く使用)する。

今でこそ他の総合大学においても、体育系専門学部がある大学やスポーツ推薦で有力な高校生を獲得する大学が多いが、一昔前は体育系の大学といえば日本体育大学が代名詞で、少年時代に運動神経が良い子は「将来は日体大(「日体」に進学)だね」という会話が頻繁に出たほどであった。

水球部の376連勝「21年間負けなし」は有名で各競技(団体チーム・個人)の目標にもなっている。 他の体育会系クラブも強くインターカレッジ(全日本学生選手権大会)等の大会連勝記録は、

体操競技(器械体操)部 男子6連勝(最多優勝回数29回)女子の12連勝(最多優勝回数38回)アベック優勝21回
レスリング部 男子 東日本インカレ84連勝「14年間負けなし」インカレ(24回)
洋弓部 男子は3連勝(3回)女子は9連勝(20回)アベック優勝3回
バレーボール部 女子13連勝(28回)男子(5回)アベック優勝1回
バスケットボール部 男子4連勝(14回)女子5連勝(20回)アベック優勝6回
バドミントン部 男子4連勝(12回)女子4連勝(19回)アベック優勝5回
サッカー部 女子 5連勝(13回)男子(2回)
ライフセービング部 総合優勝男子6連勝(15回) 女子4連勝(10回)アベック優勝5回
水泳部 総合優勝 女子 5連勝
陸上競技部-全日本大学駅伝3連勝-2回(最多優勝11回)
箱根駅伝の5連勝(総合優勝9回・完全優勝全区間1位5回・往路優勝9回・復路優勝10回準優勝9回)
女子 全日本大学女子駅伝 21回最多出場(2007年度)
フェンシング部 女子のフルーレ4連勝(フルーレ8回-エペ7回-サーブル3回-全種目フルーレ・エペ・サーブル制覇2回含むー全種目制覇は日体大のみ達成)
男子(サーブル1回) アベック優勝1回(1991年種目女子エペ・男子サーブル)
ラグビー部(全国大学ラグビー選手権大会2回・日本ラグビーフットボール選手権大会1回)
硬式野球部(明治神宮野球大会1回・首都大学野球連盟首都リーグ昭和55・56年3連勝平成7・8年3連勝リーグ優勝19回)
軟式野球部 男子5連勝(11回)女子6連勝(10回)
トライアスロン部 男子3連勝(インカレスプリントトライアスロンーチームトライアル)

他にもインカレ連勝記録を持つハンドボール部、ソフトテニス部、ソフトボール部、チアリーダー部(チアリーディング競技ー応援部所属)、トランポリン部、剣道部、空手道部、少林寺拳法部など上げれば切りがないほどある。

しかし、過去常勝日体大(競技種目による)ではあったが、近年母校日体大を卒業後、他大学の指導者(大学教員ー監督・部長など)になりインカレ(団体・個人戦)優勝に導き 日体大を倒すことがしばしば見受けられる。

例-水球部の377連勝を阻止した専修大学の監督、レスリングの山梨学院大学の監督、ラグビーの関東学院大学の監督、箱根駅伝の神奈川大学の監督、「他駅伝関係(監督・部長)東洋大・東農大・専大・城西大・城西国際大学・関東学院大学・帝京大学・麗澤大学・名城大学・日本文理大学等陸上競技部OB多数」、バスケットボールの東海大学の監督、フェンシングの東京農業大学の監督などがいる。   体育会系のサークル同好会活動も盛んでダブルダッチ(縄跳び競技)サークルがニューヨーク世界大会(HOLIDAYCLASSIC大会)でMASTERPIECEチームが世界NO1になり優勝している。他にもセパタクローサークルが強豪で亜細亜大学・慶應義塾大学に勝って優勝している。

文化系に属する研修部は体育系大学唯一の教員採用試験合格を目指す為のクラブで体育授業全般(体操・バレーボール・サッカー・バスケボール・フォークダンス等)の実技練習と研究授業を行っている。

他にも文科系ー総務部(各部総括・日体大スポーツ新聞発行等)・体育指導研究会・体育管理研究会・社会体育研究会・野外教育活動研究会・基礎スキー研究会・トレーナー(アスレチックトレーナー)研究会・キャンプインストラクターアカデミー・海洋潜水研究団・保育研究サークル・吹奏楽部(応援部所属)・写真部・放送部・家政部・英会話(ESS)部ー「モデル・プロダクション」にも参加等体育系大学にしては活発で多数ある。

系列校に日本体育大学女子短期大学部がある。詳細は、同記事を参照。


[編集] 学科
体育学科ー学校体育・スポーツ科学・スポーツマネジメントの3コース
健康学科ー養護コース(養護教諭免許取得可能)・社会福祉コース(社会福祉士受験資格)の2コース
武道学科ー武道教育コース「柔道・剣道・相撲・空手・少林寺拳法・合気道・弓道・なぎなたの8専攻」
      伝統芸能コース「日本舞踊・能・民族舞踊などの1専攻」計9専攻がある

社会体育学科(広く社会体育学全般を学ぶ、レクリエーションスポーツ・マリンスポーツなどの実習がある、コースの設定はなし)
 四学科とも体育教員免許取得可能 武道学科伝統芸能コースなど司書教員免許取得可能


[編集] 沿革
1891年 明治24年「体育会」創設
1892年 明治25年「日本体育会」 改称
1893年 明治26年日本体育会体操練習所ー認可
1899年 国庫補助金(5年間のみ)を受け「準国立」(ステータス)の位置付 女子の入学にも着手。
1900年 日本体育会体操学校と改称
1941年 日本体育専門学校設立
1949年 日本体育大学体育学部体育学科設立
1953年 日本体育大学女子短期大学(短期大学初体育科設置)設立
1962年 健康学科設置
1963年 日本体育大学女子短期大学保育科設立
1965年 武道学科設置
1975年 社会体育学科設置  大学院体育科学研究科(修士)設置(体育大学系初設置)
1991年 創立日本体育大学(日本体育会)100周年式典ー日本武道館にて
1996年 大学英文表記 NIPPON SPORT SCIENCE UNIVERSITY(NSSU)に変更
1998年 大学院体育科学研究科博士課程(前期・後期)課程開設
2006年 日本体育大学女子短期大学部 専攻科保育専攻(一年)開設

[編集] 主な出身者及び現役選手
日本体育大学の人物一覧

[編集] エッサッサ
エッサッサ(えっさっさ)とは、日本体育大学で伝統的に行なわれている応援スタイル及び運動のこと。

大正時代後期に各学校でスポーツ応援が花盛りとなり、東京農大の『大根踊り』などに対抗するスタイルのものを求めて、前身の体操学校で在校生の平井一が考案した。 アメリカのピストン・ロッジ・アームモーション走法を参考に、掛け声を「エッサッサ」と決めたことに始まる。その後、エッサッサは学生寮(学校寮)にて脈々と受け継がれ、進化して現在の形になった。

同大学卒業生が全国の高等学校や中学校にて体育教師となり伝えられ、運動会などで男子のマスゲームの一環として披露されることも多い。参加者が千人以上ともなれば壮観であり、それ以上の大人数となれば地面が揺れるとまで形容される事もある。 普通、上半身裸、裸足でする。


[編集] 関連項目
日体柔整専門学校 浜松日体中学校・高等学校(静岡県内進学校)
日体荏原高等学校 柏日体高等学校 桜華女学院中学校・高等学校 日体幼稚園
日本体育大学女子サッカー部(日本女子サッカーリーグに1999年のみ所属)
日本体育大学硬式野球部 首都大学野球連盟に所属
日本体育大学ラグビー部 関東大学ラグビー対抗戦グループに所属
日本体育大学グリズリー男子バスケットボール部 関東大学バスケットボール連盟に所属
日本体育大学 トライアンファントライオンーアメリカンフットボール部 (旧ゴールデンベアーズ)
  関東学生アメリカンフットボール連盟1959年(昭和34年)加盟2008年一部リーグ所属


[編集] 外部リンク
日本体育大学
学校法人日本体育会
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E5%AD%A6" より作成
カテゴリ: 神奈川県の大学 | 東京都の大学 | 日本の私立大学

国木田独歩  「号外」 (昭和14)年4月17日第1刷発行  6100字 

2008-07-22 13:51:33 | 17 ◎調べもの文芸文庫
号外
国木田独歩



 ぼろ洋服を着た男爵加藤(かとう)が、今夜もホールに現われている。彼は多少キじるしだとの評がホールの仲間にあるけれども、おそらくホールの御連中にキ的傾向を持っていないかたはあるまいと思われる。かく言う自分もさよう、同類と信じているのである。
 ここに言うホールとは、銀座何丁目の狭い、窮屈な路地にある正宗(まさむね)ホールの事である。
 生一本(きいっぽん)の酒を飲むことの自由自在、孫悟空(そんごくう)が雲に乗り霧を起こすがごとき、通力(つうりき)を持っていたもう「富豪」「成功の人」「カーネーギー」「なんとかフェラー」、「実業雑誌の食(く)い物」の諸君にありてはなんでもないでしょう、が、われわれごときにありては、でない、さようでない。正宗ホールでなければ飲めません。
 感心にうまい酒を飲ませます。混成酒ばかり飲みます、この不愉快な東京にいなければならぬ不幸(ふしあわせ)な運命のおたがいに取りては、ホールほどうれしい所はないのである。
 男爵加藤が、いつもどなる、なんと言うてどなる「モー一本」と言うてどなる。
 彫刻家の中倉の翁が、なんと言うて、その太い指を出す、「一本」
 ことごとく飲み仲間だ。ことごとく結構!
 今夜も「加(か)と男(だん)」がノッソリ御出張になりました。「加と男」とは「加藤男爵」の略称、御出張とは、特に男爵閣下にわれわれ平民ないし、平(ひら)ザムライどもが申し上げ奉る、言葉である。けれどもが、さし向かえば、些(さ)の尊敬をするわけでもない、自他平等、海藻(のり)のつくだ煮の品評に余念もありません。
「戦争(いくさ)がないと生きている張り合いがない、ああツマラない、困った事だ、なんとか戦争(いくさ)を始めるくふうはないものかしら。」
 加藤君が例のごとく始めました。「男(だん)」はこれが近ごろの癖なのである。近ごろとは、ポーツマウスの平和以後の冬の初めのころを指さす。
 中倉先生は大の反対論者で、こういう奇抜な事を言った事がある。
「モシできる事なら、大理石の塊(かたまり)のまん中に、半人半獣の二人がかみ合っているところを彫ってみたい、塊の外面(そと)にそのからみ合った手を現わして。という次第は、彼ら争闘を続けている限りは、その自由をうる時がない、すなわち幽閉である。封じかつ縛せられているのである。人類相争う限り、彼らはまだ、その真の自由を得ていないという意味を示してみたいものである。」
「お示しなさいな。御勝手に」「男(だん)」は冷ややかに答えた事がある。
 そこで「加と男」の癖が今夜も始まったけれど、中倉翁、もはや、しいて相手になりたくもないふうであった。
「大理石の塊(かたまり)で彫ってもらいたいものがある、なんだと思われます、わが党の老美術家」、加藤はまず当たりました。
「大砲だろう」と、中倉先生もなかなかこれで負けないのである。
「大違いです。」
「それならなんだ、わかったわかった」
「なんだ」と今度は「男(だん)」が問うている。
 二人の問答を聞いているのもおもしろいが、見ているのも妙だ、一人は三十前後の痩(や)せがたの、背の高い、きたならしい男、けれどもどこかに野人ならざる風貌(ふうぼう)を備えている、しかしなんという乱暴な衣装(みなり)だろう、古ぼけた洋服、ねずみ色のカラー、くしを入れない乱髪(らんぱつ)! 一人は四十幾歳、てっぺんがはげている。比ぶればいくらか服装(なり)はまさっているが、似たり寄ったり、なぜ二人とも洋服を着ているか、むしろ安物でもよいから小ザッぱりした和服のほうがよさそうに思われるけれども、あいにくと二人とも一度は洋行なるものをして、二人とも横文字が読めて、一方はボルテーヤとか、ルーソーとか、一方はラファエルとかなんとか、もし新聞記者ならマコーレーをお題目としたことのある連中であるから、無理もない。かく申す自分がカーライル! すみのほうににやりにやり笑いながら、グビついているゾラもあり。
 綿貫(わたぬき)博士(はかせ)がそばで皮肉を言わないだけがまだしも、先生がいると問答がことさらにこみ入る。
「わかったとも、大わかりだ、」と楠公(なんこう)の社(やしろ)に建てられて、ポーツマウス一件のために神戸(こうべ)市中をひきずられたという何侯爵(なんのこうしゃく)の銅像を作った名誉の彫刻家が、子供のようにわめいた。
「イヤとてもわかるものか、わたしが言いましょうか、」と加(か)と男(だん)。
「言うてみなさい」と今度はまた彫刻家のほうから聞く。
「僕が言うて見せる」とついに自分が口を入れてお仲間にはいった。
「なんです」男(だん)が意味のない得意の声をいだした。
「戦争(いくさ)の神を彫ってくれろと言うのでしょう」
「大ちがい!」
「すなわち男爵閣下の御肖像を彫ってくれろと言うのでしょう」
「ヒヤヒヤ、それだそれだ、大いに僕の意を得たりだ、中倉さん、全く僕の像を彫ってもらいたいのです、かく申す『加と男』その人の像を。思うにこれは決して困難なる業(ぎょう)でない。このごとくほとんど毎晩お目にかかっているのだから、中倉君の眼底には、歴然と映刻せられておるだろうと思う。」
「そして題して戦争論者とするがよかろう。」と自分が言う。
「敗(ま)け戦(いくさ)の神と言うほうが適当だろう」と中倉先生はまた、自分が言わんと欲して言うあたわざる事を言う。
「題は僕自身がつける、あえて諸君の討論をわずらわさんやだ、僕には僕の題がある。なにしろ御承諾を願いたいものだ。」
「やりましょうとも。王侯貴人の像をイジくるよりか、それはわが党の『加と男』のために、じゃアない、ためにじゃアない、「加と男」をだ、……をだをだ、……。だから承知しましたよ。承知の助(すけ)だ。加と公の半身像なんぞ、目をつぶってもできる。これは面黒(おもくろ)い。ぜひやってみましょう、だが。」先生、この時、チョイと目を転じて、メートルグラスの番人を見た、これはおかわりの合図。
「だが、……コーツト、(老人は老人らしい、接続詞をつかう。)題はなんといたしましょう、男的閣下。題は、題は。」
「だから言うじゃアないか、題はおれが、おれが考えがあるから可(エー)と言うに。」
「エーと仰せられましても、エーでごわせんだ。……めんどうくせえ、モーやめた。やめた、……加と男の肖像をつくること、やめた! ねえ、そうじゃアないか満谷(みつたに)の大将」と中倉先生の気炎少しくあがる。自分が満谷である。
「今晩は」と柄にない声を出して、同じく洋服の先生がはいって来て、も一ツの卓に着いて、われわれに黙礼した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の(三の面の人は概して、飲みそうで飲まない)豪傑兼愛嬌者(あいきょうもの)である。けれども連中、だれも黙礼すら返さない、これが常例である。
「そうですとも、考えがあるなら言ったがいいじゃアないか、加藤さん早く言いたまえ、中倉先生の御意(ぎょい)に逆ろうては万事休すだ。」と満谷なる自分がオダテた。ケシかけた。
「号外という題だ。号外、号外! 号外に限る、僕の生命は号外にある。僕自身が号外である。しかりしこうして僕の生命が号外である。号外が出なくなって、僕死せりだ。僕は、これから何をするんだ。」男の顔には例の惨痛の色が現われた。
 げにしかり、わが加藤男爵は何を今後になすべきや。彼はともかくも、衣食において窮するところなし。彼には男爵中の最も貧しき財産ながらも、なおかつ財はこれあり、狂的男爵の露命をつなぐ上において、なんのコマルところはないのであるが、彼は何事もしていない。
「ロシヤ征伐」において初めて彼は生活の意味を得た。と言わんよりもむしろ、国家の大難に当たりてこれを挙国一致で喜憂する事においてその生活の題目を得た。ポーツマウス以後、それがなくなった。
 かれ男爵、ただ酒を飲み、白眼にして世上を見てばかりいた加藤の御前(ごぜん)は、がっかりしてしまった。世上の人はことごとく、彼ら自身の問題に走り、そがために喜憂すること、戦争以前のそれのごとくに立ち返った。けれども、男(だん)は喜憂目的物を失った。すなわち生活の対手(たいしゅ)、もしくはまと、あるいは生活の扇動者を失った。
 がっかりしたのも無理はない。彼の戦争論者たるも無理はない。
「号外」、なるほど加藤男の彫像に題するには何よりの題目だろう、……男爵は例のごとくそのポケットから幾多の新聞の号外を取り出して、
「号外と僕に題するにおいて何かあらんだ。ねえ、中倉さん、ぜひ、その題で僕を、一ツ作ってもらいたい。……こんなふうに読んでいるところならなおさらにうれしい、」と朗読をはじめる。
 第三報、四月二十八日午後三時五分発、同月同日午後九時二十五分着。敵は靉河(あいか)右岸に沿い九連城以北に工事を継続しつつあり、二十八日も時々砲撃しつつあり、二十六日九里島(きゅうりとう)対岸においてたおれたる敵の馬匹(ばひつ)九十五頭、ほかに生馬六頭を得たり――
「どうです、鴨緑江大捷(おうりょっこうたいしょう)の前触れだ、うれしかったねえ、あの時分は。胸がどきどきしたものだ」と、さらに他の号外に移る。
 ――戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野(すぎの)兵曹長(へいそうちょう)の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨(とうびょう)せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙(せんそう)におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次(ぜんじ)に沈没、海水甲板(かんぱん)に達せるをもって、やむを得ずボートにおり、本船を離れ敵弾の下(もと)を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体(たい)は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり――
「どうです、聞いていますか」と加藤男爵は問えど、いつものことゆえ、聞いている者もあり、相手にせぬ者もある。けれども御当人は例によって夢中である。
「どうです、一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり――なんという悲壮な最後だろう、僕は何度読んでも涙がこぼれる」
 酔(え)いが回って来たのか、それとも感慨に堪えぬのか、目を閉じてうつらうつらとして、体(たい)をゆすぶっている。おそらくこの時が彼の最も楽しい時で、また生きている気持ちのする時であろう。しかし、まもなく目をあけて、
「けれども、だめだ、もうだめだ、もう戦争(いくさ)はやんじゃった、古い号外を読むと、なんだか急に年をとってしまって、生涯(しょうがい)がおしまいになったような気がする、……」
「妙、妙、そこを彫るのだ、そこだ、なるほど号外の題はおもしろい、なるほど加藤君は号外だ、人間の号外だ、号外を読む人間の号外だ」と中倉翁は感心した声を出す。
「そこと言うのは」加藤男が聞く。
「そことは君が号外を前へ置いてひどくがっかりしているところだ」
「それはいけない、そんな気のきかないところは御免をこうむる。――」と彼(か)の暗記しおる公報の一つ、常に朗読というより朗吟する一つを始めた、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天候晴朗なれども波高し――ここを願います、僕はこの号外を読むとたまらなくうれしくなるのだから――ぜひここをやってくださいな。」
 中倉先生微笑を含んでしばし黙っていたが、
「それじゃア、君に限った事はない。だれでも今の公報を読めば愉快だ、それを読んで愉快な気持ちになっておるところなら平凡な事で、別にこの大先生を煩わすに及ぶまいハヽヽヽヽ」
「なぜだ、これはおかしい、なぜです。」と加藤号外君、せきこんで詰問に及んだ。
「号外から縁がなくなって、君ががっかりしておるところが君の君たるところじゃアないか。」
「大いにしかりだ」と自分は賛成する。
「それじゃア諸君は少しもがっかりしないのか」と加藤君大いに不平なり。
「どうだろう? 満谷(みつたに)君、」と中倉先生も少しこの問いには困ったらしい。自分も即答はしかねたが、加藤男爵の事についてかねていくらか考えてみた事のあるので、
「そうですねえ、まるきりがっかりしないでもないだろうと思う、というわけは、戦争(いくさ)最中はお互いにだれでも国家の大事だから、朝夕これを念頭に置いて喜憂したのが、それがおやめになったのだから、気抜けの体(てい)にちょっとだれもなったに相違ない、それをがっかりと言えばがっかりでしょう。」
「そら見たまえ、僕ばかりじゃアない、決してない、だから、喜んでいるところを彫るのが平凡ならばだ、がっかりしているところだって平凡だろう、どうですね、中倉の大先生、」と「加と男」やや得意なり。
「だって君のようなのもない、君は号外が出ないと生きている張り合いがないという次第じゃアないか。」と中倉翁の答えすこぶるよし。
「じゃア僕ががっかりの総代というのか」と加藤男また奇抜なことをいう。
「だから君はわれわれの号外だ。」と中倉翁の言、さらに妙。加藤君この時、椅子(いす)から飛び上がって、
「さすが、中倉大先生様だ、大いによかろう、がっかりしたところ、大いによかろう、ぜひ願います、題して号外、妙、妙、」と大満足なり。
 それから一時間ばかり、さらに談じかつ飲み、中倉翁は一足(ひとあし)お先に、「加と男」閣下はグウグウ卓にもたれて寝てしまったので、自分はホールを出た。
 銀座は銀座に違いないが、なるほどわが「号外」君も無理はない、市街までがっかりしているようにも見える。三十七年から八年の中ごろまでは、通りがかりの赤の他人にさえ言葉をかけてみたいようであったのが、今ではまたもとの赤の他人どうしの往来になってしまった。
 そこで自分は戦争(いくさ)でなく、ほかに何か、戦争(いくさ)の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないものかしらんと考えた。考えながら歩いた。
(完)





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底本:「号外・少年の悲哀 他六編」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:LUNA CAT
2000年8月21日公開
2004年6月23日修正
青空文庫作成ファイル:

【大学受験 ドラマ:①~⑩】

2008-07-22 13:00:53 | 5 メールマガジン(大学)
【大学受験 ドラマ:①~⑩】 の検索結果 約 386万 件

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大学受験、進研マークの結果が返って来たー&東京タワー...涙誘発 ...2007年7月5日 ... 涙誘発ドラマだ! 東京六大学野球&息子の大学受験への熱き想いを語る“べろちゃん”のブログです。コメント・トラバ・相互リンク大歓迎ですよ! (^.^)/ どうぞ! “親子で東京六大学に入り神宮で校歌を歌う!” (^^♪ 息子の受験は来年2月 ...
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受験ドキュメンタリー 『偏差値70からの大学受験』 - Zopeジャンキー日記このドキュメンタリー『偏差値70からの大学受験』も、ぜひテレビでドラマ化してほしい。 登場するキャラクターの面白さや場面の多さ、また苦しく孤独な戦いへの感情移入のしやすさなど、ドラマの素材としては『もう高校はいらない』よりも面白くなりそうに ...
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【大学 映像:①~⑩】

2008-07-22 12:57:40 | 5 メールマガジン(大学)
【大学 映像:①~⑩】 の検索結果 約 34万6000 件

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立命館大学 映像学部京都から世界へ、新しい映像文化と映像産業の創出をめざします。
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武蔵野美術大学 映像学科武蔵野美術大学造形学部映像学科のメインサイトです。学科の紹介と入試情報などを掲載。
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大学・専門学校紹介東北芸術工科大学 デザイン工学部 メディア・コンテンツデザイン学科 コンテン ツプロデュース学系 映像プランニングコース ..... 立命館大学映像学部. アート、 テクノロジー、そしてビジネスを総合するアプローチで映像分野における「プロデュース」能力 ...
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東京藝術大学|映像研究科東京藝術大学は、総合的な芸術大学の実現に向けて、映像芸術分野及び舞台芸術分野を学内に設置してゆく構想を推進しています。映像芸術と舞台芸術に共通する芸術性の根幹は、「身体を介した物語による表現」であり、タイム・ベースの芸術コンテンツを ...
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早稲田川口芸術学校 - 21世紀の新映像文化としての映画・映像 ...早稲田大学川口芸術学校は映像分野のプロフェッショナル・スクールとして、映像情報科(昼間3年制)では実務に優れた「専門士」を、映像文化学科(昼間4年制)では大学院入学資格を有する「高度専門士」を養成しています。次世代放送とドキュメンタリー制作 ...
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VISUAL MEDIA | 名古屋学芸大学 映像メディア学科2007年5月1日(火) 「映像メディア学科ブログ」をはじめました。今後あたらしい情報はブログをチェックしてください。 ... このサイトは、映像メディア学科が独自に運営しています。受験・入試に関するお問合せは、名古屋学芸大学入試広報室へお尋ね ...
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東京芸術大学 大学院 映像研究科メディア映像専攻 第1期生 修了制作展「OS1」. メディア映像専攻 第1期生による修了制作展「OS1」が新港校舎にて開催されます。 会期: 2008年1月18日(金) - 27(日) 11:00-20:00 ※ 終了しました。ご来場ありがとうございました。 会場: 東京芸術大学 横浜校 ...
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映画制作・映像制作・写真表現の夜間専門学校 早稲田大学空間映像科映画を学ぶ、写真を学ぶ夜間の専門学校。 映像制作・写真表現の早稲田大学芸術学校空間映像 科のサイトです。 社会人・ダブルスクールなど、充実した夜の時間をともに。http://step21.jp/
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多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科www.tamabi.ac.jp/eien/ - 関連ページ

京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科映像卒業生 山口 安紀子. ■My s@mpleS. 映像卒業生 寺田めぐみ. ■Chops 映像芸術コース卒業生. ■tmk-ground. 舞台芸術コース卒業生. ■motor house 55. 映像卒業生 若尾 祐基. 教員関係サイト >>. 林 海象監督作品 ■探偵事務所5 ...
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【大学 児童文学:①~⑩】

2008-07-22 12:54:09 | 14 用語集:②人物以外
【大学 児童文学:①~⑩】 の検索結果 約 87万8000 件

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児童文学の学べる大学 - 教えて!goo児童文学、あるいはファンタジー文学を学べる大学を探しています。いろいろと資料請求をしてみたのですが、実際のところがいまいち分かりません。教養としてではなく、専門的に学べる大学はあるのでしょうか?現役の方、関係者の方がいらっしゃいましたら ...
oshiete1.goo.ne.jp/qa1150446.html - 34k - キャッシュ - 関連ページ

早稲田大学児童文学研究会評論・文芸・絵本などパート別活動紹介と作品、掲示板。
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児童文学 - Wikipedia国内における児童文学の学問的研究は体系的に整備されているとは言い難いが、白百合女子大学・玉川大学・梅花女子大学・東京純心女子大学などは専門の学科・研究科を擁している。 また一般の大学・短大も、何らかの形で児童文学関連の講座を設置している ...
ja.wikipedia.org/wiki/児童文学 - 36k - キャッシュ - 関連ページ

児童文化研究センター白百合女子大学児童文化研究センターの活動は、本学児童文化学科の教員・非常勤講師ならびに本学大学院生・修了生を中心とする研究員によって行われています。 現在は、 児童文学・文化のさまざまな分野における プロジェクトが進行中です。 ...
www.shirayuri.ac.jp/childctr/ - 7k - キャッシュ - 関連ページ

神戸大学児童文学研究会文芸誌『すぎかえる』発行を中心に活動している神戸大学児童文学研究会のウェブサイト.
home.kobe-u.com/doubun/ - 3k - キャッシュ - 関連ページ

児童文学科 | 文化表現学部 | 学部・学科 | 梅花女子大学 / 大学院 ...日本唯一の児童文学科では、児童文学・絵本について、広く深くじっくりと学び、自由に童話や絵本を創り、さらに、その魅力を伝える理論に基づき、読み語りなどの技術を鍛えます。子どもの本に強い、豊かな感性と実力で子どもと心を結ぶことのできる女性の ...
www.baika.ac.jp/gakubu_gakka/bunka_hyogen/gakka/jidou_bungaku.html - 57k - キャッシュ - 関連ページ

梅花女子大学児童文学絵本センター梅花女子大学 児童文学・絵本センター Baika Women's University Juvenile and Picture Book Center ... 児童文学科卒業生の山下三恵さん(ペンネーム:宮下恵茉)が、デビュー作「ジジきみと歩いた」で、第37回児童文芸家協会新人賞を受賞しました。 ...
www.baika.ac.jp/~ehoncenter/index.html - 5k - キャッシュ - 関連ページ
www.baika.ac.jp からの検索結果 »

東京大学児童文学を読む会活動内容、会誌のバックナンバーの紹介、掲示板。
www.sakura.to/juvenile/ - 2k - キャッシュ - 関連ページ

jidobungaku本館では、18ー20世紀初頭に刊行された児童文学のオリジナル版を、13点購入致しました。 .... イギリスの児童文学のなかでも長く愛読されている作品のひとつである。 ジャングルで狼たちと一緒に育ったモーグリ少年の物語は子供たちを夢中にさせてき ...
www.ll.chiba-u.ac.jp/~kikaku/collection/jido/jido.htm - 20k - キャッシュ - 関連ページ

放送作家育成スクール / 心斎橋大学心斎橋大学で、絵本・児童文学を学ぼうとしている皆さんに朗報!! 心斎橋大学で専門的に学べる新コースが誕生します! この分野を学ぼうとしている皆さんは、「成功の秘訣を知りたい」と思っておられることでしょう。 それは、まず書くことです。 ...
www.cbcorp.co.jp/daigaku/picturebook.html - 29k - キャッシュ - 関連ページ



桜蔭中学校・高等学校 昭和40年代までは一般的な中堅私立女子校であったが

2008-07-22 12:43:32 | Weblog
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中学校・高等学校

桜蔭中学校・高等学校(おういんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都文京区本郷にある私立中学校・高等学校。中高一貫制女子校。

桜蔭中学校・高等学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人桜蔭学園
設立年月日 1930年
創立記念日 1930年
共学・別学 男女別学(女子校)
所在地 〒113-0033 東京都文京区本郷1-5-25
電話番号 03-3811-0147
外部リンク 公式サイト
目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 校訓
4 制服
5 年間行事
6 部活動
7 著名な卒業生
7.1 学問
7.2 政治
7.3 行政
7.4 法曹
7.5 経済
7.6 社会
7.7 芸術
7.8 作家
7.9 芸能
7.10 放送
8 関連項目
9 外部リンク



[編集] 概要
東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の同窓会「桜蔭会」により設立された。
大正末期に設立された都内私立女子校の中では比較的新興の学校である。
昭和40年代までは一般的な中堅私立女子校であったが、学習指導に力を入れ始めてから急速に進学実績を伸ばしてきた。
「礼と学び」を建学の精神としており、「礼法室」にてお辞儀の仕方やお茶の出し方など小笠原流礼法を教える授業がある。

[編集] 沿革
1930年3月 - 桜蔭高等女学校を設立。
1931年3月 - 校歌制定。作詞は東京女子高等師範学校長の吉岡郷甫、作曲は東京音楽学校教授の信時潔。
1945年4月 - 空襲により校舎の4分の3を焼失。
1947年3月 - 桜蔭高等女学校専攻科(国語・英語)を設置。
1947年4月 - 学制改革により、桜蔭中学校(450名9学級)を設置。
1948年3月 - 学制改革により、桜蔭高等学校(普通科600名)を設置。
1950年3月 - 桜蔭高等学校専攻科を廃止。
1951年1月 - 学校法人桜蔭学園が設立。
1960年4月 - 桜蔭中学校、生徒定員600名に増員。
1971年4月 - 桜蔭中学校、生徒定員750名に増員。
1974年4月 - 桜蔭高等学校、生徒定員750名に増員。

[編集] 校訓
勤勉 ・温雅 ・聡明であれ。
責任を重んじ、礼儀を厚くし、よき社会人であれ。

[編集] 制服
基本は丸襟の白ブラウスに紺色のジャンパースカート。腰には紺色の腰紐を絞める。
夏は半袖ブラウスに、スカートは素材が薄くなり、色もやや薄くなる。ジャンパースカートのみの着用の際には左胸に校章をつける。
また冬はスカートの上に学校指定のoinという赤い刺繍入りのセーターや、ブレザーを着る。ブレザー着用の場合はブレザーの左胸にあるポケットに校章をつける。
様々な正式な式典の際には正装として校章のついたブレザーの着用と黒長靴下(黒タイツ)をはくことが義務づけられている。

[編集] 年間行事
中1と高1は、夏期休暇中に浅間山荘へ合宿へ行く(中1は2泊3日、高1は3泊4日)。また、中3と高2は、10月にそれぞれ東北(3泊4日)、京都・奈良(4泊5日)へ修学旅行に行く。
文化祭は9月に開催され、今度受験する受験生や卒業生など、毎年多くの人々が訪れる。
体育大会は、5月。クラスごとに青、黄色、白、赤、ピンクの組に分かれて戦う。毎年熱戦が繰り広げられている。

[編集] 部活動
バスケットボール部I・II
バレーボール部I・II
卓球部I・II
ダンス部
水泳部
リズム水泳部
文学部
社会科部
数学部
化学部
物理部
生物部
天文気象部
英会話部
英語劇部
管弦楽部
合唱部
軽音楽部(高校のみ)
美術部
書道部
家庭科部(料理班・手芸班)
花道部
茶道部
点字部
写真部
演劇部
放送部
新聞部
映画同好会

[編集] 著名な卒業生

[編集] 学問
猪口邦子(現衆院議員、男女共同参画担当大臣・上智大学法学部教授・前軍縮会議日本政府代表部特命全権大使)
五島瑳智子(東邦大学名誉教授・東邦大学医療短期大学名誉学長)
佐藤宗子(千葉大学教育学部教授)
田中朱美(東京女子医科大学教授、東京女子医科大学付属東洋医学研究所所長)
都河明子(東京医科歯科大学留学生センター・教養部教授)
野島陽子(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)
渡辺雅子(明治学院大学社会学部教授)

[編集] 政治
水島広子(前衆議院議員・民主党)

[編集] 行政
宗像直子(ジョージ・ワシントン大学シグールアジア研客員教授・経済産業省大臣官房参事官 / 84年入省・ファッションウィーク立案)

[編集] 法曹
土井香苗(弁護士)

[編集] 経済
経沢香保子(トレンダーズ代表取締役)

[編集] 社会
北原怜子(アリの街のマリア)
村井靖子(駿東学園)

[編集] 芸術
室田尚子(音楽評論家)

[編集] 作家
浅野素女(フランス在住ジャーナリスト)
乙骨淑子(児童文学作家)
篠原一(在学中に文學界新人賞を最年少で受賞)

[編集] 芸能
菊川怜(女優、タレント)
東郷晴子(女優)
水森亜土(ジャズシンガー)
長島伸子(ソプラノ歌手)
楠城華子(旧名六條華)(タレント)
白石みゆき(AV女優)
響奈美(AV女優)
折戸智美(レースクイーン)
八田亜矢子(タレント / 中学まで)

[編集] 放送
黒崎めぐみ(NHKアナウンサー)
藤村由紀子(NHKキャスター)
繁田美貴(テレビ東京アナウンサー)

[編集] 関連項目
学校記事一覧
東京都高等学校一覧
東京都中学校一覧
女子御三家

[編集] 外部リンク
桜蔭学園



この「桜蔭中学校・高等学校」は、学校に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育/PJ学校)

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カテゴリ: 学校記事 | 学校に関するスタブ | 東京都の私立高等学校 | 東京都の私立中学校 | 私立中高一貫校 | 女子校 | 文京区表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション
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最終更新 2008年4月29日 (火) 14:04。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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逗子開成中学校・高等学校 理事長兼校長となった徳間の下で、中等部再設置を軸に種々の改革  

2008-07-22 12:42:40 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
逗子開成中学校・高等学校

逗子開成中学校・高等学校 過去の名称 第二開成中学校
逗子開成中学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人逗子開成学園
設立年月日 1903年(明治36年)
創立者 田邊新之助
共学・別学 男子校
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 単位制
設置学科 普通科
所在地 〒249-8510
神奈川県逗子市新宿2丁目5番1号
北緯35度17分38.3秒東経139度34分22秒
電話番号 046-871-2062
外部リンク 公式サイト

■テンプレート/■ノート逗子開成中学校・高等学校(ずしかいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は神奈川県逗子市にある私立学校。神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校である。学校法人逗子開成学園によって運営され、2006年現在、理事長は小泉一郎(2005年12月就任)、校長は横山春夫(2004年4月就任)。

目次 [非表示]
1 歴史
1.1 創設
1.1.1 ボート遭難事故
1.2 戦前・戦中期
1.3 戦後
1.3.1 八方尾根遭難事故
1.4 近年
1.5 年表
2 特徴
3 出身者
4 関連項目
4.1 かつての姉妹校
5 脚注
6 外部リンク



[編集] 歴史

[編集] 創設
1903年、東京・西日暮里にある開成中学校の分校第二開成中学校として設立された。大日本帝国海軍による横須賀海軍鎮守府の軍人の子弟教育の要請を受けてのことであった。本校の学生のうち、学業についていけない学生や、体が弱く大自然のなかでの療養が必要だとされた学生は、第二開成中学校に一時的に転校させられたケース[1]も多かった。1909年、独立組織となり逗子開成中学校に改名する。


[編集] ボート遭難事故
改名翌年の1910年1月23日、休日に無断で学校所有のボート[2]を海に出した生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した。[3]この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった鎌倉女学院が所有地を売却するなどした。遭難地点に近い稲村ヶ崎には、現在慰霊碑がたてられている。


[編集] 戦前・戦中期
太平洋戦争前は退役した帝国海軍将官が校長を歴任したため、学年を「中隊」・学級を「小隊」と改称したり、「振武隊」と称する楽隊(現在の吹奏楽部)を作って軍艦行進曲を演奏させるなど、校風はきわめて軍隊調となっていった。これらの海軍寄りの校風から卒業後の進路として海軍兵学校を志す者も多く、敗戦を迎えるまでの逗子開成は、半ば海軍兵学校の予備校的存在となっていた。


[編集] 戦後
戦後は帝国海軍の消滅に伴ってエリート養成校としての地位を失う。組合員の不当解雇を巡って訴訟に発展するなど経営側と教職員組合との間で労働争議が頻発、これに嫌気がさした生徒会が同盟休校を宣言するなど、校内の風紀は次第に荒廃してゆく。1973年には志願者減少により中等部の募集が停止された。


[編集] 八方尾根遭難事故
1980年の12月、冬休みを利用して顧問教師の引率のもと長野県の八方尾根に登山に向かった山岳部の生徒5名が消息を絶つ事故が発生。雪が解けた翌年の5月に、生徒と引率の教師の6名全員が遺体で発見された。この登山はメンバーこそ学校の山岳部員と顧問教師であったが、顧問教師が学校側に部活動として登山旅行する事を届け出ていなかったため、学校側は管理責任を否定し遺族からの賠償要求を拒絶した。この学校側の対応に憤慨した遺族は学校を相手取って民事訴訟を起こし、泥沼の法廷闘争に発展した。

八方尾根裁判を巡って、経営陣や教職員も含め校内の意見は二分し、1980年代初頭には学校運営が大きく傾きかけた。しかし、卒業生でもある徳間書店社長・徳間康快が、事態収拾と母校再建のため経営に参入。徳間書店の財力を背景に理事会での主導権を握った徳間は、八方尾根問題の早期解決を主張した。これにより理事会は裁判所の和解勧告受け入れを決定し、学校側の管理責任を認め遺族と和解した。


[編集] 近年
その後、旧経営陣を一掃し自ら理事長兼校長となった徳間の下で、中等部再設置を軸に種々の改革が行われた。1985年の募集再開から、徐々に6ヵ年コース生徒の割合を増やして中高一貫教育によるエリート化が図られ、ついに2003年からは3ヵ年コースの募集が廃止された。これにより、横浜南部から湘南・三浦半島にかけた地区でも有数の大学進学校へ成長を遂げた。徳間はこの他にも、後述のような立地を活かした「海洋教育」や、名作映画による情操育成を目的とする「映像教育」[4]などを推進し、2000年に没するまで理事長職に留まり母校の再興に尽力した。

2003年に創立百周年を迎えるのに際して、1990年代末から大規模な校内の改装工事が行われ、校舎改造・新プール建設・全館冷暖房設置・敷地周囲の塀撤去など、施設の充実が図られた。


[編集] 年表
1903年(明治36) - 私立東京開成中学校の分校として、第二開成学校を開校(4月)。現在地に移転(9月)。 
1904年(明治37) - 中学校として正式認可を受ける(5月) 
1907年(明示40) - 東京開成中学校から独立、私立逗子開成中学校と改称(7月) 
1910年(明治43) 
1月 七里ヶ浜沖でボート遭難事故  
2月 追悼法会で鎌倉女学校生徒により「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」が歌われる
1916年(大正5)
10月 校歌制定 (作詞:井上司朗 作曲:弘田龍太郎)
1928年(昭和3) - 校章のペン・剣の交叉の上の「二」を「桜花」にを改める(4月)
1931年(昭和6) - 学校を財団法人化(12月)
1932年(昭和7) - 創立30周年記念式典(5月)
1947年(昭和22) - 財団法人逗子開成学園と改称し、新制逗子開成中学校設置(4月)
1948年(昭和23) - 新制逗子開成高等学校設置(4月)
1951年(昭和26) - 3月 財団法人から学校法人へと改組
1953年(昭和28) - 定時制高等学校を新設(1967年廃止)(2月)。創立50周年記念式典(10月)
1963年(昭和38) - 創立60周年記念式典(11月)
1973年(昭和48) - 中学校生徒の募集中止決定(1月)。創立70周年記念式典(11月)
1980年(昭和55) - 山岳部部員5名と顧問教諭1名、北アルプス八方尾根で遭難(12月)
1984年(昭和59) - 八方尾根遭難者の合同慰霊祭(4月)
1986年(昭和61) - 中学校再開 中学・高校の校章を「ペンと剣と桜花」に統一(4月)
1989年(平成元) - 三学期制を二学期制に変更(4月)
1993年(平成5) - 創立90周年記念式典(4月)
1998年(平成10) - 週5日制実施(4月)
2003年(平成15) - 高等学校入学者募集停止(3月)。創立100周年記念式(4月)。第1回アメリカ合衆国長期留学開始(8月)
2006年(平成18) - 古くなった校舎3棟(理科棟・芸術棟・K++棟)を改修。旧理科棟がメディア棟に、旧芸術棟が理科棟に、旧K++棟が芸術棟にそれぞれ用途変更された。

[編集] 特徴
中等部再開から1990年代半ばくらいまでは、卒業後に専門学校や短期大学へ進む者、進学せず就職する者なども見られた。しかし、大学進学を第一目標に掲げる学校運営を推進し続け、入学生の学力レベルが公立高校の滑り止め程度であった高校3ヵ年コースを縮小・廃止したことにより、現在では生徒のほぼ全員が4年制大学への進学を志望し、早慶上智などの難関私大や国公立大学の合格率も年々増え続けている[5]。

正規授業の枠内では海に近接した立地を生かしておよそ1.5km の遠泳[6]やヨット実習(中学校のみ)などを行う「海洋教育」、校内に設けられた本格的な映写施設(徳間記念ホール)を用いて世界の映画を年数回鑑賞する「映像教育」などの特徴的な教育活動を行っている。

また、中学3年次にニュージーランド、高校2年次にはアジア各国(生徒が選択する)への研修旅行が実施される(いずれもホームステイ形式)。国際交流が主な目的となっているが、現地観光も行なうなど修学旅行としての側面もある。さらに、希望者は夏休みを利用した海外研修や1年間のアメリカ合衆国長期留学が可能である。


[編集] 出身者
川地民夫(俳優)
三宅弘城(俳優)
小杉十郎太(声優)
徳間康快(徳間書店 創業者・元社長、本校元理事長)
谷啓(コメディアン・俳優)
上杉昇(元WANDS・al.ni.coボーカル)
hide(松本秀人)(X JAPANのギタリスト)
堀内賢雄(声優)
吉村明宏(タレント)
橋本龍伍(厚生大臣・大蔵省官僚・総理大臣 橋本龍太郎の父親)
平野威馬雄(詩人、仏文学者)中退

[編集] 関連項目
神奈川県高等学校一覧
真白き富士の嶺

[編集] かつての姉妹校
開成中学校・高等学校
鎌倉女学院中学校・高等学校[7]

[編集] 脚注
^ 橋本龍太郎の父・橋本龍伍なども小児麻痺で病弱だったため、本校に通いながら、体の調子が悪くなると分校に通うという生活を続けていた。
^ このボートは帝国海軍の松島 (巡洋艦)の払い下げ品であった(無償)。
^ 定員オーバーが事故の原因だったといわれている。
^ 徳間自身がスタジオジブリ作品などの映画制作に関与していたことが要因である。
^ 2006年3月現在 東京大学合計6名(現役3、既卒3)、東京工業大8名(現役6、既卒2)等。逗子開成HPより
^ 中学3年次に原則全員参加の大会が催される。
^ 現在では資本や組織が完全に異なるため、学校レベルでの公式交流は全くなくなっているが、100周年式典の際には姉妹校として鎌倉女学院と合同合唱などを行った。

[編集] 外部リンク
逗子開成中学校・高等学校

カテゴリ: 神奈川県の私立高等学校 | 神奈川県の私立中学校 | 私立中高一貫校 | 逗子市

最終更新 2008年4月18日 (金) 10:17。 Wikipedia®

鎌倉女学院中学校・高等学校   大佛次郎 - 鎌倉女学院教師をしていた

2008-07-22 12:42:15 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
鎌倉女学院中学校・高等学校

鎌倉女学院中学校・高等学校(かまくらじょがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県鎌倉市由比ヶ浜にある私立の完全中高一貫校。生徒数は一学年につき160人前後。略称「鎌女(かまじょ)」。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 創立
1.2 交通・通学事情
2 教育
3 所在地
4 理事長・校長
5 校訓
6 制服
7 施設
8 部活動
9 主な出身者
9.1 関係者
10 姉妹校・周辺校
11 作品
12 外部リンク



[編集] 概要

[編集] 創立
1904年、田邊新之助により鎌倉女学校として創立。鎌倉高等女学校を経て、戦後の学制改革に伴い現校名になる。現在は中学・高校とも鶴岡八幡宮一の鳥居横にある校舎を使用しているが、以前は若宮大路をさらに南に進んだ所(現在の鎌倉簡易裁判所付近)に中学校専用の校舎があった。しかし、姉妹校である逗子開成が起こしたボート遭難事故(詳細は「真白き富士の嶺」を参照)の賠償金を支払うために、その土地を手放さなくてはならなくなり、現校舎のみになった。


[編集] 交通・通学事情
JR横須賀線鎌倉駅から徒歩7分。創立後しばらくは、鎌倉唯一の女学校として、地元の文学界・政財界の家の息女が多く在籍していた。しかしJR根岸線の洋光台~大船間が開通するなど、鎌倉から横浜市中心部へのアクセスが容易になると近隣の学校との競争を余儀なくされる。その結果、人気が低迷した時期もあるが、英語教育に力を入れるなどの改革が功を奏し、現在は東大合格者も出る進学校として再び人気を集めている(4年制大学への進学率は90%をやや下回る程度)。


[編集] 教育
完全週休二日制で学期は2期制。授業は、中学・高校ともに、4年制大学受験を目標として基礎学力のアップを図って編成されている(高2から文系と理系の2コースに分かれる)。昔から国語教育が盛んである。また、近年は英語教育にも多くの時間を割き、高校卒業時までに英検2級取得、TOEFL-LIP受験を目標としている。また、希望者には短期留学や海外研修も実施している。一方で、中学3年の後期から高校の学習内容を勉強しはじめるも理系科目には弱く、理系の大学進学者は毎年の卒業生の4分の1強ほどにとどまっている(2006年度卒業生で、東京理科大の合格者は8人)。

また、「特修科」(週1回、選択)と呼ばれる放課後の特別授業もあり、茶道(裏千家)・華道(草月流)・書道・バイオリン・フルートを習うことができる。音楽や美術も盛んで、音大・美大への進学希望者向けの授業もある。

教育面における他の横浜の女子校との大きな違いは、それらのほとんどが開港期に宣教師によって創立されたミッションスクールであるのに対し、同校は特定の宗教に基づく教育を行わない点である。


[編集] 所在地
神奈川県鎌倉市由比ガ浜2丁目10番4号
 北緯35度18分50秒東経139度33分0.5秒

電話 ‐ 0467-25-2100
最寄り駅 ‐ 横須賀線鎌倉駅、江ノ電和田塚駅

[編集] 理事長・校長
理事長 ‐ 宇野喜三郎(前校長)
校長 ‐ 齋藤俊英

[編集] 校訓
真摯沈着

[編集] 制服
冬服 ‐ 紺地のセーラー服。襟と袖口に三本の白線がある。
夏服(長袖) ‐ 白を基調としたセーラー服。紺地の襟と袖に三本の白線がある。
夏服(半袖) ‐ 白を基調としたセーラー服。紺地の襟と袖のうち、襟のみに三本の白線がある。
リボン ‐ 冬服・夏服を問わず、高校生は黒、中学生は紺のリボン(絹製)を結ぶ。
校章 ‐ 白菊を象った銀製の校章を胸に付ける。
1935年に制定して以来、一度もデザインを変更することなく、古典的でシンプルなセーラー服である(それまでは和服の制服であった)。
1990年代初頭までは、ベレー帽と指定カバンの設定もあった。

[編集] 施設
現校舎は2004年の創立100年を機に全校舎を新築し、2005年に落成
校舎の他、静岡県に天城山荘を所有

[編集] 部活動
文化系
アニメまんが部
マンドリン・ギター部
映画研究部
演劇部
合唱部
管楽部
弦楽部
(管楽部と弦楽部は、文化祭や定期演奏会など、「鎌女オーケストラ」として活動することが多い。しかし、正式な合併はしていない。)

写真部
パソコン部
美術部
理科部
料理部
歴史研究部
ESS ‐ English Speaking Society:英会話クラブ
文芸部
体育系
バトン部
剣道部
体操部 ‐ 実態は新体操部
卓球部
ダンス部
テニス部
バスケットボール部
バドミントン部
バレーボール部

[編集] 主な出身者
山田南平 - 漫画家。『紅茶王子』などの著作が図書室に揃っている。
岸田劉生の娘・麗子 - 重要文化財である絵画「麗子微笑」(別名「麗子像」)のモデルとなった女性(転校したため卒業生ではない)。
大原さやか - 声優。
星野立子 - 俳人。

[編集] 関係者
大佛次郎 - 鎌倉女学院教師をしていた。

[編集] 姉妹校・周辺校
逗子開成中学校・高等学校 ‐ 創立者が同じ。両校の100周年式典を契機に交流を再開。1910年のボート遭難事故の際には、賠償金を両学校で負担し、鎌倉女学校の生徒が鎮魂歌『真白き富士の嶺』を歌った。
鎌倉学園中学校・高等学校 ‐ 最も近い私立校の一つ。
※1989年(平成元年)に鎌倉市岩瀬の京浜女子大学が鎌倉女子大学に名称変更(同時に初中高等部も)したが、鎌倉女学院とは特別な関係は無い。


[編集] 作品
2004年放送のUHFアニメ『うた∽かた』で、主人公らの通う学校(鎌倉女子学園)のモデルの一つとなった。

[編集] 外部リンク
鎌倉女学院 (公式サイト)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%A5%B3%E5%AD%A6%E9%99%A2%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1" より作成
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開成中学校・高等学校   1974年には高校募集枠が100名に拡大  筑波大附高とのボートレース

2008-07-22 12:41:48 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

開成中学校・高等学校

開成中学校・高等学校
過去の名称 共立学校
尋常中学共立学校
東京府開成尋常中学校
東京府開成中学校
私立東京開成中学校
東京開成中学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人開成学園
設立年月日 1871年(明治4年)
創立者 佐野鼎
共学・別学 男子校
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 単位制
設置学科 普通科
所在地 〒116-0013
東京都荒川区西日暮里4-2-4
電話番号 03-3822-0741
外部リンク 公式サイト

■テンプレート/■ノート開成中学校・高等学校(かいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう 英語名:Kaisei Junior & Senior High School)は、東京都荒川区西日暮里にある私立中学校・高等学校である。中高一貫制男子校。

目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 アクセス
4 年間行事
4.1 ボートレース
4.2 運動会
4.2.1 競技
4.3 臨海学校
4.4 文化祭
4.5 マラソン大会
5 高校関係者一覧
6 開成から分離独立した学校
7 開成の関係者が設立した学校
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク



概要
1871年に共立学校として開校。中学受験では麻布、武蔵と共に男子御三家として一部で認識されている。校名の『開成』とは、東大の前身であった開成学校からとったもの。そのため、「開成」を冠する学校は他にも多数存在する。

中高一貫教育が主流という事情もあり、校内では「中学1年」(中1)・「高校3年」(高3)などとともに「1年」「6年」などの用語も使用されている(本稿では「中1」「高3」を使用)。


沿革
1871年、佐野鼎らによって神田相生橋(現 神田淡路町)に共立学校(きょうりゅう がっこう)として創立された。鼎の急逝後には廃校同様となったが、1878年に大学予備門教授の傍ら高橋是清が校長、鈴木智雄らが講師に就任した。共立学校を大学予備門への進学者のための受験予備校として改革し、是清が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達した。その後も1890年代初期まで70人台、40人台、50人台と推移した[1]。

1891年、尋常中学校令により、尋常中学共立学校と改称。さらに、1886年及び1891年の中学校令公布により、1府県1中学と定められたことにより東京に受験生が集まらなくなった私立各校とも軒並み経営が傾き、当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する徴兵猶予や校地に対する免税などの特権を得る便法としての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、共立中学(都立戸山高)と共立学校(開成)が東京府の管轄下に入り、1895年にはそれぞれ東京府城北尋常中学校、東京府開成尋常中学校と改称した。このとき、校名が「共立学校」から「開成」となったのは、東京府当局が「共立」と「府立」は相容れないとして難色を示したためだとされている。さらに中学校令改正により1899年に東京府開成中学校と改称。

まもなく各種特権が私学にも与えられるようになったため、1901年に府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となり、1919年に東京開成中学校と改称。1945年には戦局悪化のため、無試験入学となる。翌1946年には入学試験が再開されるが、筆記試験が復活するのは1953年のことであった。戦後、学制改革により、1947年に新制中学校(開成中学校)が発足し、1948年には新制高等学校(開成高等学校)が併設され、旧制5年制中学から新制6年制中高一貫の開成中学校・高等学校へ移行し現在に至る。

また、現在の道灌山の校地に移転したのは、関東大震災により淡路町校舎が消失した1924年のこと。1920年に初めて行われた東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中・高)とのボートレースは現在も行われている。

1960年に高校募集(定員50名)を開始し、次いで東大合格者数首位の座を掴むため、1974年には高校募集枠が100名に拡大され、現在の中学定員1学年300名、高校定員1学年400名体制となった。1977年には東大合格者数で初めて首位の座に立ち、1982年から現在に至るまでトップの座にある。


アクセス
JR山手線・地下鉄千代田線西日暮里駅より徒歩1分

年間行事
4月 - ボートレース
5月 - 運動会
8月 - 臨海学校
9月 - 文化祭(開成祭)
10月 - マラソン大会
2月 - 中学・高校入試

ボートレース
1920年以来、毎年4月にボート部の部員により戸田漕艇場にて開成と筑波大学附属高等学校のボートレースが行われている。現在の種目は舵手付きクォドルプル(両手漕ぎ四人乗り)である。通算成績は開成の39勝40敗であるが、現在6連敗中である(2007年現在)。毎年新入生(中1及び編入の高1)の全員と高2・高3の有志で組織される応援団が応援に行くこととなっている。


運動会
例年5月の第2日曜日に行われる、開成最大のイベント。高3が中心となって例年丸一年をかけて創り上げられる。紫、白、青、緑、橙、黄、赤、黒の組に分かれて行われる。中高合同で行われ、高校はクラスごと、中学は各クラス5~6人ずつ8つの色に分ける(中学は7クラスのため)。この色が各組のアイデンティティとして代々引き継がれ、卒業後も同窓会の会合などでは「1組」「2組」とともに「紫組」「白組」などの呼称が使われる事が多い。また、審判や運営担当の「運動会準備委員会」なども独自の色の鉢巻きやたすきなどを着用する。


競技
団体競技(基本的に全員参加)
馬上鉢巻取り(中1)
綱取り(中2)
俵取り(中3)
騎馬戦(高1)
棒倒し(高2・高3)
個人競技
学年別リレー(中学各学年)
スウェーデンリレー(高校各学年)
全学年リレー
要領次第(中学)

臨海学校
毎年7月、水泳部の合宿と合同で行われ、千葉県館山市の施設に中1が全員参加する。同水泳部は日本泳法の水府流太田派を継承し、参加者全員が白の六尺褌を着用する[1]。


文化祭
毎年9月の第4土曜日と第4日曜日に開催され、「開成祭」とも呼ばれる。生徒運営による「文化祭準備委員会」の下、文化系の各部や同好会・サークルなどが参加し、日頃の研究成果の発表やパフォーマンスなどが行われる。また、運営本部による古本市も開催され、教職員などが本を寄付する。


マラソン大会
荒川河川敷を利用して行われる。1903年に始まり、初めは中山道を経由して巣鴨~大宮間で行われていた。その後、江戸川河川敷など何回かのコース変更を経て、現行のコースとなった。距離は中1が5km、中2・3が6km、高校生は8kmである。


高校関係者一覧
開成中学校・高等学校人物一覧を参照。

開成から分離独立した学校
逗子開成中学校・高等学校
1903年に第二開成中学校として創立。
1909年に逗子開成中学校として分離独立。
昌平中学校・昌平高等学校
1903年に神田淡路町の東京開成中学校内に開成夜学校として創立。
1923年の関東大震災での校舎焼失を機に、1926年に神田駿河台に分離。
1936年に昌平中学となる。
1948年に昌平高等学校となる。
1966年に募集停止し1979年に廃止。
2000年に福島県いわき市にて東日本国際大学附属昌平中学・高等学校として再興。

開成の関係者が設立した学校
鎌倉女学院中学校・高等学校
1904年に鎌倉女学校として創立。
1948年に鎌倉女学院となる。

関連文献
『東京開成中学校校史資料』(東京開成中学校、1936年)
『開成学園九十年史』(開成学園、1961年) - 開成学園九十年史編纂委員会編集
『開成110』(開成学園、1981年) - 開成学園校史委員会編集
『子供たちの復讐 / 上:開成高校生殺人事件 下:祖母殺し高校生殺人事件』(朝日新聞社、1979年) - 本多勝一編

脚注
^ 参照 『明治前期中学校形成史 府県別編I』 神辺靖光 梓出版社

関連項目
中学校
高等学校
東日本国際大学附属昌平中学・高等学校
鎌倉女学院
高校以下の学校記事一覧

外部リンク
開成学園公式ウェブサイト
開成会公式ウェブサイト



"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%88%90%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1" より作成
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筑波大学附属駒場中学校・高等学校 囲碁、クイズなどではしばしば全国制覇 通称は「筑駒」(つくこま)。

2008-07-22 12:40:52 | 14 用語集:②人物以外
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〈「筑駒」・ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉


筑波大学附属駒場中学校・高等学校


筑波大学附属駒場中学校・高等学校
筑波大学附属駒場中学校・高等学校正門
国公私立の別 国立学校
設置者 国立大学法人筑波大学
校訓 「自由・闊達の校風のもと
挑戦し、創造し、貢献する
生き方をめざす」
設立年月日 中学1947年
高校1950年
開校記念日 5月1日
共学・別学 男子校
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
高校コード 13005
所在地 〒154-0001
東京都世田谷区池尻4-7-1
北緯35度39分18秒東経139度40分50秒
電話番号 03-3411-8521
FAX番号 03-3411-8977
外部リンク 公式サイト

■テンプレート/■ノート第18回(1998年)
高校生クイズ優勝筑波大学附属駒場中学校・高等学校(つくばだいがくふぞくこまばちゅうがっこう・こうとうがっこう)は東京都世田谷区池尻にある国立中学校・高等学校である。中高一貫制男子校。通称は「筑駒」(つくこま)。

目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 アクセス
4 学校行事
5 部活動・同好会
6 出身者
7 関連学校
8 関連項目
9 外部リンク



[編集] 概要
1947年に東京農業教育専門学校の附属中学校として設立された国立進学校。筑波大学の附属校であるが、筑波大学への特別な内部進学枠は有していない。東京大学への高い合格率と共に、私服校で「駒場の自由」という言葉で語られる自由な校風で知られる。現在は、文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けている。


[編集] 沿革
1947年 東京農業教育専門学校附属中学校として開校。
1950年 附属高等学校設置。
1952年 東京教育大学附属駒場中学校・高等学校と改称。
1956年 同年中学入学者から中高一貫教育となる。
1962年 中学校2学級、高等学校普通科4学級体制へ移行。
1970年 中学校3学級体制へ移行。
1978年 筑波大学附属駒場中学校・高等学校と改称。
2004年 国立大学法人筑波大学に移管。

[編集] アクセス
京王井の頭線駒場東大前駅より徒歩6分
東急田園都市線池尻大橋駅より徒歩15分

[編集] 学校行事

稲作の実習を行うケルネル田圃学校行事が盛んであり、年間を通じてさまざまな行事が催される(4月から日付順)。

稲作
中1、高1のみ。1878年の駒場農学校開校以来、130年の歴史を有する日本農学発祥記念の地「ケルネル田んぼ」において毎年6月に田植え、10月に稲刈りをする。収穫した米は入学式と卒業式の折に赤飯にして、新入生および卒業生に供される。稲作の様子を幼稚園児などが見学する事もある。
校外学習
5月中旬に2~5日間、中1~高2が学年ごとに別の場所へ行き、観光や地域研究、学年内での交流などを主な目的とする。
現在の行き先は中1が妙高高原、中2が東京(宿泊はしない)、中3が東北地方(岩手県・青森県など)、高1が菅平高原、高2が関西地方(吉野・奈良・京都)である。中2・中3・高2は総合学習の一環として事前に数人の班でテーマを決めておき旅行中は各班で関連したところを訪問し、後日レポート提出が求められ発表会を行う。これを地域研究という。また、この期間中は高3は特別考査や音楽祭練習、文化祭準備などを行う。そのため、高2の旅行は修学旅行でもある。
音楽祭
例年6月中旬に主に昭和女子大学の昭和女子大学人見記念講堂を貸し切って開催される合唱コンクール。中学生は課題曲と自由曲の2曲、高校生は自由曲を2曲演奏する。外部から招かれた審査員及び音楽科教諭の決める賞と一般生徒の投票によって決定される大衆賞の両方がある。
体育祭
9月末に2日間かけて校内にて開催される。通常の学校と違い、オリンピック方式(複数の競技を同時に行う)という独特の方法が取られている。中学・高校それぞれクラス毎に分かれて得点を競う。
姉妹校である筑波大学附属中学校・高等学校の運動会で行われた騎馬戦にて下半身不随となる大怪我を負った生徒が発生したので、2005年度からは騎馬戦は中止となった。
芸術鑑賞会
文化祭
11月初旬に3日間かけて校内にて開催される、筑駒最大の行事。外部者も参加できる。中2以上は演劇を行う団体が非常に多い。大学受験を控えた高3が中心となって活動する。
ロードレース
弁論大会(中学のみ)
2月の中旬の土曜日に校内7号館3階(オープンスペース)で行われる。各クラス、及び特別参加団体と称した団体がテーマを設定して自由に論じ、他クラスの生徒がそれらを聞いて質疑応答を繰り返す。各クラス2名、計18人の審査員によって選ばれる賞と生徒全員の投票によって決定される大衆賞の両方がある。

[編集] 部活動・同好会
各種の活動も盛んで囲碁、クイズなどではしばしば全国制覇を果たしている。駒場棋院(囲碁部)は2003~5年に全国大会3連覇を果たしている。数学オリンピックの日本代表として活躍する在校生も多く、2005年度には日本代表6人中5人を在校生が占めた。日本が初参加となった2005年生物学オリンピック北京大会も代表2人のうち1人が在校生で銅メダルを獲得。全国化学コンクールでも多数の入賞者を出し、2005年はスーパーコンピュータのプログラミングを競うスパコンで優勝、3位入賞を果たすなど、各方面の大会で成果を挙げている。


[編集] 出身者
筑波大学附属駒場中学校・高等学校人物一覧を参照


[編集] 関連学校
筑波大学
筑波大学附属小学校
筑波大学附属中学校・高等学校
筑波大学附属坂戸高等学校
筑波大学附属視覚特別支援学校
筑波大学附属聴覚特別支援学校
筑波大学附属桐が丘特別支援学校(肢体不自由)
筑波大学附属大塚特別支援学校(知的障害)
筑波大学附属久里浜特別支援学校(自閉症)

[編集] 関連項目
学校記事一覧
東京都高等学校一覧
私服校の一覧
スーパーサイエンスハイスクール

[編集] 外部リンク
筑波大学附属駒場中学校・高等学校公式サイト

カテゴリ: 学校記事 | 公立中高一貫校 | 東京都の高等学校 | 日本の国立高等学校 | 東京都の中学校
最終更新 2008年4月25日 (金) 02:01。Wikipedia®

灘中学校・高等学校 遠藤周作 楠本憲吉 高橋源一郎  石川公一 - 元オウム真理教幹部

2008-07-22 12:39:33 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈灘・ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉


灘中学校・高等学校

灘中学校・高等学校(なだちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市東灘区にある私立の中高一貫制男子校である。

「灘」の字体の中央は、JIS漢字では簡略化されて「難」の偏と同じになっているが、「儺」の中央と同じように書くのが正しい。

目次 [非表示]
1 概要
2 所在地
3 沿革
3.1 歴代校長
4 校風
4.1 部活動
4.2 入学試験
4.3 大学進学
5 出身者
5.1 政治
5.2 官界
5.3 実業
5.4 学者
5.5 法曹
5.6 文学
5.7 マスコミ・評論
5.8 スポーツ・文化・芸能
5.9 その他
6 提携校
7 関連項目
8 外部リンク



概要
1928年開校。設置者は学校法人灘育英会。校舎のうち、事務棟として現在も使用中の本館は国の登録有形文化財に登録されている。


所在地
兵庫県神戸市東灘区魚崎北町8丁目5番1号
北緯34度43分9.1秒東経135度16分6.3秒
JR住吉駅下車、東へ徒歩約10分
阪神魚崎駅下車、北へ徒歩約10分
阪急岡本駅下車、南西へ徒歩約20分

沿革
灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。同様に酒造業者が設立した学校として甲陽学院がある。設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、東京高等師範学校(東京高師)校長を務め講道館柔道の創始者でもある嘉納治五郎が顧問として参画し、嘉納治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。初代校長は、東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が嘉納治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年10月24日に設置認可を受け、この日を創立記念日とする。その翌年に開校。

当時は一中や三中に入学できなかった者が入学してきたが当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。更に戦後、公立高校の学区制度が行われていた為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に東京大学への進学校として台頭してきた。1968年度東大入試においてそれまでトップの座に君臨してきた東京の日比谷高校を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。


歴代校長
初代 眞田範衞 - 京都府立亀岡高等女学校校長から招聘
2代 清水実
3代 梶和三郎 - 兵庫県立星陵高等学校校長から招聘
4代 勝山正躬 - 教頭から昇格、退任後は名誉校長
5代 長谷川敏 - 旧制灘中学校卒業生
6代 吉田泰三 - 旧制灘中学校卒業生
7代 河合善造 - 新制灘高等学校卒業生
8代 和田孫博 - 新制灘高等学校卒業生

校風
制服の着用義務がないほか、明文化された校則を有せず、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風を特徴とする。遠足など、校外行事においては、現地集合、現地解散が慣習となっており、この事からも校風の自由さを見いだせる。また、設立の経緯から、現在でも中学校及び高校一年次では柔道が全員必修になっている。毎年6月に甲南中学校・高等学校と灘・甲南定期親善試合を催している。また、生徒をできるだけ紳士として扱おうとしており、サンダル、半ズボン、ランニングシャツなどによる登校は禁止されている。


部活動
部活動も盛んで、特に運動部の中では硬式テニス部、文化部の中では囲碁部、将棋部、数学研究部が優秀な成績を修めている。


入学試験
昭和40年代以降、入学難易度は非常に高い。中学校・高等学校としての難易度(受験予備校等の発表する偏差値に拠る)は、それぞれ最上位に位置する。 特に算数・数学の難易度は極めて高く、論理性・正確さ・スピード・ひらめきなど、全ての能力において最高レベルが求められる。 国語においては語彙力、表現力を非常に重視した問題構成になっており、難易度もなかなか高度である。


大学進学
現在、日本国内トップクラスの進学校であり、毎年東京大学のみならず京都大学に多数の合格者を出し、私立大学では慶應義塾大学医学部の合格者が多い。この学校の特徴として、京阪神地区の医師の子弟が多いこともあり、東京大学理科III類のみならず国立大学上位校の医学部への進学実績が非常に高い。また、現役生はほとんど私立大学を受験せず、国立大学志向が強い。


出身者

政治
飯泉嘉門 - 徳島県知事
平林鴻三 - 元衆議院議員、元郵政大臣、元鳥取県知事
豊田潤多郎 - 元衆議院議員
鈴木寛 - 参議院議員
辻泰弘 - 参議院議員
西田猛 - 元衆議院議員
西村康稔 - 衆議院議員
福井照 - 衆議院議員
盛山正仁 - 衆議院議員
原亮介 - 兵庫県議会議員、自民党県議団幹事長

官界
浅野賢澄 - フジテレビジョン社長、同会長 / 元郵政事務次官
石田直裕 - 地域活性化センター理事長 / 元総務省行政管理局長
石丸雍二 - 国民金融公庫理事、富士重工業常務執行役員、同常勤監査役 / 元通商産業省通商政策局国際経済部長
井土武久 - 大阪中小企業投資育成社長、同会長 / 元特許庁長官
今村努 - 海洋研究開発機構理事 / 元文部科学省研究開発局長
上田善久 - 米州開発銀行理事、独立行政法人国際協力機構理事 / 元大蔵省大臣官房審議官
内田富夫 - 日韓文化交流基金理事長 / 元シリア・スウェーデン駐大使
遠藤正介 - 元日本電信電話公社理事 / 遠藤周作の実兄
大川美雄 - 元外務省国際連合局長、元フィリピン・カナダ駐大使
大森政輔 - 元内閣法制局長官
奥村裕一 - 日本貿易振興機構理事 / 元経済産業省貿易経済協力局長
小田部陽一 - 外務省経済局長
梶村皓二 - 工業技術院長、機械振興協会副会長
国塚武平 - 水資源開発公団理事 / 元国土庁大都市圏整備局長
久保卓也 - 元防衛事務次官
合田宏四郎(中退) - 日本ガス機器検査協会理事長 / 元通商産業省関東通商産業局長
肥塚隆 - 宮内庁式部副長 / 元トロント駐総領事、ホンジュラス駐大使
小手川大助 - 国際通貨基金理事 / 元大蔵省大臣官房審議官
薦田隆成 - 労働政策研究・研修機構労働政策研究所副所長、連合総研副理事長・所長 / 元国土交通省国土計画局長
佐々木英治 - 日本郵政公社理事・専務執行役員、日本郵政専務執行役(日本郵政スタッフ社長兼務) / 元郵政省北陸郵政局長
下荒地修二 - バンクーバー駐在総領事、元パナマ・ベネズエラ駐大使
杉山蕃 - 航空自衛隊統合幕僚会議議長
鷲見良彦 - 世界銀行アジア太平洋地域エネルギー局長、情報処理推進機構理事、コスタリカ駐大使
竹内透 - だいこう証券ビジネス(旧・大阪証券代行)社長、同会長 / 元北海道開発事務次官
野津研二 - 元防衛庁管理局長
野村一成 - 外務省欧亜局長、東宮大夫
林幹雄 - 沖縄振興開発金融公庫理事 / 元総務省政策統括官
林良造 - 東京大学公共政策大学院教授 / 元経済産業省経済産業政策局長
広田博士 - 石油天然ガス・金属鉱物資源機構理事 / 元経済産業省大臣官房技術総括審議官
福下雄二 - 内閣府賞勲局長
藤井威 - 地域振興整備公団総裁 / 元大蔵省理財局長、スウェーデン駐大使
藤岡文七 - 内閣府政策統括官
別所浩郎 - 内閣総理大臣秘書官、外務省国際協力局長
三井康有 - 防衛庁官房長、内閣官房内閣安全保障室長
宮本信生 - キューバ・チェコ駐大使
村田文男 - 北海道電力副社長、大阪商品取引所理事長 / 元資源エネルギー庁石炭部長
森清圀生 - 日本銀行政策委員会委員、日商岩井専務取締役、ライフ社長 / 元通商産業省通商政策局次長
吉高廣邦 - サテライトジャパン副社長、電気通信普及財団理事長 / 元郵政省大臣官房経理部長
米田壯 - 元警察庁刑事局長

実業
井上登 - NTTドコモ九州社長
植村武雄 - 小泉製麻社長、神戸経済同友会代表幹事
江崎勝久 - 江崎グリコ社長(創業者江崎利一の孫)
江崎正道 - 江崎グリコ栄養食品社長(江崎勝久の弟)
長部文治郎 - 大関酒造社長、同会長
明松亮一 - 神戸電鉄社長、同会長
柏木斉 - リクルート社長
駒村秀雄 - RFラジオ日本社長、同会長
高畑宗一 - 帝人社長、
武田崇元 - 八幡書店創業者・社長
中川哲 - 日本移動通信社長
野村明雄 - 大阪ガス社長、同会長、大阪商工会議所会頭
八馬望 - 多聞酒造社長、同会長
藤井清孝 - ルイ・ヴィトン・ジャパン・カンパニープレジデント&CEO
松下正幸 - 松下電器産業副会長(創業者松下幸之助の孫)
松田清宏 - JR四国社長
松田基 - 両備バス社長、同会長、岡山電気軌道社長
丸木強 - M&Aコンサルティング社長
水田廣行 - 近畿大阪銀行社長、りそなホールディングス社長、りそな銀行社長
宮本雅史 - スクウェア創業者
村上世彰 - M&Aコンサルティング前代表取締役
三好孝彦 - 日本製紙グループ本社社長、同会長
山田邦雄 - ロート製薬社長

学者
石川顕一 - 東京大学助教授
一本松幹雄 - 若狭湾エネルギー研究センター主席客員研究員
江頭憲治郎 - 東京大学教授、早稲田大学教授
大島利雄 - 東京大学教授
奥田央 - 東京大学教授
金井壽宏 - 神戸大学教授
楠岡成雄 - 東京大学教授
小林俊行 - 京都大学数理解析研究所教授
坂本多加雄 - 元学習院大学教授
島並良 - 神戸大学助教授
志甫淳 - 東京大学助教授
橘木俊詔 - 京都大学教授
谷康平 - 社会医学者
谷岡一郎 - 大阪商業大学教授、学長
豊田長康 - 三重大学教授、学長
西本征央 - 慶應義塾大学教授
西本将樹 - 数学者
野依良治 - 化学者、ノーベル化学賞、文化勲章、理化学研究所理事長
畑瑞穂 - 神戸大学教授
藤田隆夫 - 東京工業大学教授
福田歓一 - 明治学院大学学長、東京大学名誉教授
藤島実 - 東京大学助教授
松原隆一郎 - 東京大学教授
満渕俊樹 - 大阪大学教授
森口親司 - 帝塚山大学教授、大阪大学・京都大学名誉教授
山岸常人 - 京都大学助教授
横山明彦 - 東京大学教授
米村明芳 - 駿台予備学校数学科講師
大江和彦 - 東京大学教授
山本尚 - シカゴ大学教授、元名古屋大学教授
島田俊夫 - 名古屋大学教授
藤田岳彦 - 一橋大学教授
関一彦 - 名古屋大学副研究科長
林行雄 - 大阪大学助教授
伊佐正 - 自然科学研究機構教授
森島績 - 京都大学名誉教授
中田考 - イスラーム学者、同志社大学教授
熊谷貞俊 - 大阪大学教授

法曹
<在野法曹>
石本茂彦 - 弁護士
伊藤芳朗 - 弁護士
武井一浩 - 弁護士、西村ときわ法律事務所パートナー
藤原精吾 - 弁護士、日本弁護士連合会副会長、同人権擁護委員長
横山経通 - 弁護士
<裁判・検察>
梶木壽 - 大分地方検察庁検事正、法務省矯正局長
勝丸充啓 - 法務省大臣官房審議官、福井地方検察庁検事正、水戸地方検察庁検事正
山崎敏充 - 判事、最高裁判所事務総局事務次長

文学
遠藤周作 - 作家、芥川賞、文化勲章
楠本憲吉 - 俳人
高橋源一郎 - 作家
中島らも - 作家、ロックミュージシャン
渡邉一考 - 幻想文学研究家、装丁家、南柯書局主人

マスコミ・評論
大田良平 - 読売テレビアナウンサー
勝谷誠彦 - コラムニスト、写真家
日下公人 - 経済評論家、東京財団会長、多摩大学名誉教授
黒岩祐治 - フジテレビキャスター
新保信長 - フリーライター・エディター
竹信悦夫 - 元朝日新聞記者
船橋洋一 - ジャーナリスト、朝日新聞主筆(上席役員待遇)
松本和也 - NHKアナウンサー
野村明大 - 読売テレビアナウンサー
山口雅俊 - テレビプロデューサー
吉田たかよし - 評論家、執筆家、医師、元NHKアナウンサー
好村三郎 - ジャーナリスト、高校野球指導者、元東海大学体育学部教授、
和田秀樹 - 受験研究家、精神科医
佐渡島庸平 - 講談社の週刊モーニング 『ドラゴン桜』編集者

スポーツ・文化・芸能
大久保怜 - 司会者
後藤富美雄 - ピアニスト、聖徳大学教授
坂井秀至 - 囲碁棋士、医師
桐本和夫 - 囲碁棋士
程一彦 - 料理研究家
野村陽児 - 宝塚歌劇団指揮者
東公平(中退) - 将棋観戦記者、チェスプレーヤー
光永淳造 - 囲碁棋士
山田淳 - 登山家、世界7大陸最高峰登頂世界最年少記録保持
山田剛史 - ピアニスト

その他
石川公一 - 元オウム真理教幹部
富永昌宏 - 元オウム真理教幹部
青野滋 - 麻雀プロ

提携校
麻布中学校・高等学校

関連項目
中学校
高等学校
学校記事一覧
兵庫県高等学校一覧
旧制中学校
私服校の一覧
灘 (小惑星)
住吉村

外部リンク
灘中学校・高等学校公式ウェブサイト

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最終更新 2008年4月24日 (木) 07:10。 Wikimedia

山口県立山口高等学校 河上肇 種田山頭火 重松清 国木田独歩安倍晋太郎

2008-07-22 12:38:41 | 10 人名事典 【大学・学部】の人物一覧
山口県立山口高等学校


山口県立山口高等学校
過去の名称 (旧制)山口中学校
山口東高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 山口県
併合学校 山口県立山口第二高等学校
校訓 至誠剛健
設立年月日 1870年
創立者 上田鳳陽
共学・別学 男女共学
課程 全日制・定時制・通信制
設置学科 (全日制)普通科・理数科
(定時制)普通科
(通信制)普通科・衛生看護科
学期 2学期制
所在地 〒753-8508
山口県山口市糸米1-9-1
北緯34度10分34.3秒東経131度27分56.2秒
電話番号 083-922-8511
FAX番号 083-922-0503
外部リンク 公式サイト

■テンプレート/■ノート山口県立山口高等学校(やまぐちけんりつやまぐちこうとうがっこう)は、山口県山口市にある県立の男女共学の高等学校。通称は「山高(やまこう)」。2006年度末までスーパーサイエンスハイスクールの指定校であった。

紡木たくの漫画「瞬きもせず」のモデルとなったことでも知られる。

萩高校と並ぶ県下最古の高等学校の一つ(私塾・藩校時代までさかのぼると1718年創建の萩明倫館に由来する萩高校の方が古い)であり、数多くの政治家を輩出した伝統校である。

2000年度より従来の3学期制に代わって前期(4 - 9月)と後期(10 - 3月)の2学期制を導入した。また授業時間を従来の1時間当たり50分から65分に拡大した。

目次 [非表示]
1 学科
2 沿革
2.1 旧制山口中学まで
2.2 山口第二高等学校
2.3 山口東高等学校
2.4 山口西高等学校
2.5 山口高等学校
3 出身者
4 主な学校行事
5 関連項目
6 外部リンク



[編集] 学科
全日制
普通科
理数科
定時制
普通科
通信制
普通科
衛生看護科

[編集] 沿革

[編集] 旧制山口中学まで
1816年(文化12年) 上田鳳陽が山口講堂を創立。
1845年(弘化2年) 山口講堂を山口講習堂と改称。
1863年(文久3年) 山口講習堂を山口明倫館と改称。
1870年(明治3年) 山口明倫館を山口中学校と改称(県立、高等・尋常の両中等科あり)。この年を学校の創立年としている。
1886年(明治19年) 官立へ移管、山口高等中学校と改称。
1894年(明治27年) 山口高等中学校を山口高等学校と改称。
1901年(明治34年) 私立防長教育会山口中学校を山口県立山口中学校と改称(県立移管)、 官立山口高等学校予科生徒(尋常の中等科)を編入。
1905年(明治38年) 官立山口高等学校、山口高等商業学校に転換。
1919年(大正8年) 官立山口高等学校再設置
1948年(昭和23年) 学制改革により山口県立山口高等学校となる。

[編集] 山口第二高等学校
1936年(昭和11年) 財団法人山口商業学校設立
1944年(昭和19年) 山口県立山口商業学校と改称(県立移管)、山口県立山口工業学校開設(航空科・建築科・土木科)。
1946年(昭和21年) 山口県立山口第二中学校開設。
1948年(昭和23年) 山口県立山口第二高等学校と改称
(普通科・機械科・建築科・土木科)。


[編集] 山口東高等学校
1949年(昭和24年) 山口県立山口高等学校及び山口県立山口第二高等学校を総合して山口県立山口東高等学校と改称(普通科・商業科・工業科・通信教育部)。定時制夜間(商業科・普通科)設置。

[編集] 山口西高等学校
1900年(明治33年) 私立毛利高等女学校を県立山口高等女学校と改称。
1948年(昭和23年) 学制改革により山口県立山口女子高等学校と改称。
1949年(昭和24年) 山口県立山口西高等学校と改称。

[編集] 山口高等学校
1950年(昭和25年) 山口東高等学校と山口西高等学校を統合し、山口県立山口高等学校となる(普通科・商業科・工業科・定時制・通信教育部)。
1951年(昭和26年)3月31日 昼間定時制並びに工業科廃止。
1954年(昭和29年)山口大学文理学部(再設置される官立山口高等学校)と敷地交換し、旧官立山口高校跡へ移転
1955年(昭和30年)4月 山口高等学校(旧山口東高等学校)・山口中央高等学校(旧山口西高等学校)の2校に分離。
1962年(昭和37年) 通信教育部を通信制課程と改称。
1969年(昭和44年)4月 全日制理数科設置。
1970年(昭和45年)4月 通信制に衛生看護科を設置。
1973年(昭和49年)3月 定時制商業科廃止。
1988年(昭和63年)3月 全日制商業科廃止(新設の西京高等学校に商業科を開設)。
2004年(平成16年)4月 文部科学省からスーパーサイエンスハイスクールに指定(2007年3月まで)
なお、2008年4月に徳佐高等学校の敷地内に山口高等学校徳佐分校を設置、同年入学生から編入、徳佐高等学校は新規生徒募集を停止し、在校生の卒業をもって廃校(2010年3月)予定。


[編集] 出身者
河上肇(中1期) - 経済学者
鮎川義介(中3期) - 日産コンツェルン創始者
種田山頭火 (中7期)- 俳人
岸信介 (中20期)- 第56・57代内閣総理大臣
中安閑一(中20期)- 元宇部興産社長、会長
細迫兼光(中21期)- 衆議院議員、小野田市長
佐藤栄作(中24期)- 第61・62・63代内閣総理大臣、ノーベル平和賞
佐々木英治(中39期)- 元宇部興産副社長。元テレビ山口社長
安倍晋太郎 (中48期)- 外務大臣
田中頼三(中 期) - 元海軍中将
小沢克介(普68期)- 衆議院議員、弁護士、社会党副書記長
重松清 (普87期)- 作家
国木田独歩 - 作家
中原中也(中退) - 詩人
中村良夫 - ホンダF1初代監督、本田技研工業常務取締役
平田英治 - 元プロサッカー選手、現徳島ヴォルティストップチームコーチ
桑野聖 - ヴァイオリン奏者 (東京藝術大学卒業)
後藤純一 - 経済学者(神戸大学経済経営研究所教授)

[編集] 主な学校行事
前期
入学式
身体測定、スポーツテスト
山高総体 - 山高で最も大きな行事。通常、維新百年記念公園を貸しきって行われる。
合唱大会 - 7月に行われるクラス対抗の合唱大会。まず予選が行われ、上位クラスと熱球賞クラスが決勝で歌を披露。
銀鐘祭 - 他校でいうところの文化祭である。1998年のサビエル記念聖堂再建にあやかり同年より「文化祭」から名称を変更した。
後期
マラソン大会 - 維新百年記念公園のジョギングコースを使用し行われる。女子4km、男子6km。
クラスマッチ - 年の瀬に行われるスポーツイベント。2年生までが参加。
卒業式
萩往還 - 萩高校との共同で行われるスポーツイベント。

[編集] 関連項目
学校記事一覧
山口県高等学校一覧
日本の看護高等学校一覧
旧制中学校
高等女学校
実業学校

[編集] 外部リンク
山口県立山口高等学校
この「山口県立山口高等学校」は、学校に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育/PJ学校)


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最終更新 2008年4月26日 (土) 04:48。 Wikipedia®

藩校の養老館では四書五経を復読→東大医学部 卒。

2008-07-22 12:38:19 | 4 教育ニュース {新聞・雑誌・テレビ}
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/


森鴎外


森鴎外、1911年
生誕: 1862年2月17日
石見国津和野
現・島根県津和野町
死去: 1922年7月9日

職業: 小説家、評論家、翻訳家
医学者、軍医、官僚
ジャンル: 小説、翻訳、史伝
影響を
与えたもの: 多くの日本の作家
文学



森 鷗外(もりおうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)-大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部 [1]卒。

大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任している。


[編集] 生涯

[編集] 生い立ち
1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[2]、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになる。

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。東京では、官立医学校への入学に備えてドイツ語を習得するため、私塾の進文学社に入っており、その際に通学の便から、親族の西周(にし・あまね)邸に寄食している。このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。


[編集] ドイツ留学と初期の文筆活動
1874年(明治7年)、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に実年齢より2歳多く偽り入学し、1881年(明治14年)に19歳8か月で卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。その後、陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務。1884年(明治17年)、ドイツ留学を命じられ、10月にベルリン入り。留学中は、ペッテンコーフェル等に就いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマンを批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。なお帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在一月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の一つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる[3]。

1889年(明治22年)、新声社訳として『於母影』を発表し、弟の三木竹二などと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊した。海外文学の翻訳も多く始め(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)[4]、以後、熱心に啓蒙的文筆活動をすることになる。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人それも白人とが恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草子』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げている。1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。帰国後、『しがらみ草子』の後を受けて幸田露伴、斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評『三人冗語』を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。


[編集] 小倉「左遷」から歴史小説へ
1899年(明治32年)、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)に「左遷」[5](このとき『小倉日記』が書かれる)され、1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第二軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。自然主義の発展や夏目漱石の影響もあり、反自然主義文学の立場で作品を書いている。

1911年(明治44年)に『雁』と『灰燼』の2長編を同時連載。1912年(大正元年)9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』を書き終えた[6]。これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実する。1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視されることになる随筆『空車』(むなぐるま)を著した[7]。

任官時の年齢が低いこともあって軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編集に着手した。しかし病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が元号案「昭和」を提出することになる[8]。なお、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価しており、晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうなど新しい女たちの純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝等とも広く交際した[9]。

1922年(大正11年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓 」とのみ刻されている。向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。


[編集] 人物評

[編集] 作家評
鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。しかし鴎外が寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、臨床医学の実質からは乖離したものと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされていなかったとも言われる。

また、鴎外の言いがかりとも思える論争癖を発端として論争が起きた事もある。坪内逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草子』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。

教師でもあった漱石のように弟子を取ったり[10]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で観潮楼歌会を開いたりして色々な人々と交際した。そうした生活を送り[11]、日清・日露戦争に出征しながら、文学以外も含めて膨大な著作を残している。

なお、近年の鴎外評のキーワードとしては、「女性論」(金子幸代)、「近代日本観」(池辺健次)、「文化の翻訳」(長島要一)などが挙げられる。


[編集] 軍医として
森 鴎外
1862年2月17日-1922年7月9日


所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1891 -
最終階級 陸軍軍医総監
除隊後 小説家
上記のとおり、鴎外は陸軍軍医であり、かつエリートとして昇進を続け軍医総監(軍医中将に相当)にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時陸軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。

鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気の歴史)を考慮すべきとの意見もある[12]。

麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。鴎外にとって高木の説を後追いで認めることは屈辱であったろう。

加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。

『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。


[編集] 年譜
年齢は数え年

1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。
史跡・森鴎外生家1867年(慶応3年・6歳) - 11月、村田久兵衛から論語を学ぶ。
1868年(慶応4年・7歳) - 3月、米原綱善から孟子を学ぶ。
1869年(明治2年・8歳) - 藩校である養老館で、四書を一から読み直す。
1870年(明治3年・9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。
1871年(明治4年・10歳) - 藩医である室良悦から、本格的にオランダ語を学ぶ。
1872年(明治5年・11歳) - 6月、父とともに向島小梅村へ上京。その後、向島曳舟通りに移る。ドイツ語習得のため、本郷の進文学社に入る。
1873年(明治6年・12歳) - 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。
1874年(明治7年・13歳) - 1月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)へ入学。後に東京医学校へ名称が変更される。
1877年(明治10年・16歳) - 東京医学校は東京開成学校と合併し、東京大学医学部へ。そして、鴎外は本科生に。
1880年(明治13年・19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」へ移る。翌年3月、下宿先で火災に遭う。
1881年(明治14年・20歳) - 春、肋膜炎にかかる。7月、東京大学医学部を卒業。文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。その後、明治政府に仕える。9月、「読売新聞」に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務に就く。
1882年(明治15年・21歳) - 2月、第一軍管区徴兵副医官になり、従七位の勲等を授かる。5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。
1884年(明治17年・23歳) - 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。8月、横浜を出航。10月、ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などから学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
1885年(明治18年・24歳) - 1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を書く。5月、陸軍一等軍医へ昇進。10月、ドレスデンへ移り、軍医監ロートに就く。
1886年(明治19年・25歳) - 3月、ミュンヘンに移る。大学衛生部へ入学し、ペッテンコーフェルから衛生学を学ぶ。
1887年(明治20年・26歳) - 4月、ベルリンへ移る。5月、北里柴三郎とともに、コッホを訪ね、衛生試験所へ入る。
1888年(明治21年・27歳) - 3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務に就く。9月、日本へ帰国。10月、陸軍大学校教官へ就任。12月、『非日本食論将失其根拠』を自費で出版。
1889年(明治22年・28歳) - 1月、『東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞で『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。5月、東京美術学校専修科美術解剖学講師に就任。8月、訳詩編『於母影』を「国民之友」に発表。10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。
1890年(明治23年・29歳) - 1月、『医事新論』を創刊。「舞姫」を「国民之友」に発表。8月、「うたかたの記」を「しからみ草紙」に発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。9月、長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚。10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。そこを、鴎外は「千朶山房」と呼ぶ。
1891年(明治24年・30歳) - 1月、『文づかひ』を刊行。8月、医学博士の学位を授与。9月、「山房論文」を「しからみ草紙」に発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす。
1892年(明治25年・31歳) - 7月、小説翻訳集『美奈和集』を春陽堂から刊行。8月、医学、文学の論争からしばし離れて、休息を取るために「観潮楼」を建設。11月、アンデルセンの「即興詩人」を「しがらみ草紙」に連載。
1893年(明治26年・32歳) - 11月、陸軍一等軍医正(大佐相当官)になり、軍医学校長に。
1894年(明治27年・33歳) - 8月、日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)へ上陸。10月、広島に執務後、11月大連へ上陸。
1895年(明治28年・34歳) - 5月、日清講和条約成立に伴い、日本(宇品)に帰国後、台湾へ赴任。8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になる。9月、日本に帰国。
1896年(明治29年・35歳) - 1月、「めさまし草」を創刊。3月、幸田露伴、斎藤緑雨らとともに「三人冗語」を「めさまし草」に連載。4月、父静男死去。
1897年(明治30年・36歳) - 1月、中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに「公衆医事会」を設立、「公衆医事」を創刊。
1898年(明治31年・37歳) - 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。
森鴎外旧居、小倉北区1899年(明治32年・38歳) - 6月、第十二師団軍医部長になり、九州・小倉に赴任。
1902年(明治35年・41歳) - 1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。3月、東京に転勤。
1903年(明治36年・42歳) - 1月、長女茉莉誕生。
1904年(明治37年・43歳) - 2月、日露戦争開戦。4月、第2軍軍医部長として、宇品から、中国へ渡る。『うた日記』を書く。
1905年(明治38年・44歳) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。翌年、1月帰国。
1906年(明治39年・45歳) - 6月、山県有朋らとともに歌会「常磐会」を設立。賀古鶴所らとともに幹部に。
1907年(明治40年・46歳) - 3月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと「観潮楼歌会」を開く。6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。8月、次男不律誕生。10月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。
1908年(明治41年・47歳) - 1月、弟篤次死去。2月、次男不律死去。5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。
1909年(明治42年・48歳) - 3月、「スバル」に、口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。5月、次女杏奴誕生。7月、文学博士の学位を得る。『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。
1910年(毎時43年・49歳) - 2月、慶應義塾大学の文学科顧問となる。
1911年(明治44年・50歳) - 2月、三男類誕生。5月、文芸委員会委員になる。9月、「雁」を「スバル」に連載。
1912年(明治45年・51歳) - 1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。10月、鴎外にとって、初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を「中央公論」に発表。
1913年(大正2年・52歳) - 1月、「阿部一族」を「中央公論」に発表。
1914年(大正3年・53歳) - 1月、「大塩平八郎」を「中央公論」に発表。2月、「堺事件」を「新小説」に発表。

永明寺の墓1915年(大正4年・54歳) - 1月、「山椒大夫」を「中央公論」に、「歴史其儘と歴史離れ」を「心の花」に発表。11月、大嶋次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の研究を始める。
1916年(大正5年・55歳) - 1月、「高瀬舟」を「中央公論」に、「寒山拾得」を「新小説」に発表。「渋江抽斎」を「日日新聞」に連載。3月、母峰子死去。
1917年(大正6年・56歳) - 12月、帝室博物館総長に就任。高等官一等に叙せられる。
1918年(大正7年・57歳) - 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。
1919年(大正8年・58歳) - 9月、帝国美術院の初代院長に就任。
1920年(大正9年・59歳) - 1月、腎臓を病む。
1921年(大正10年・60歳) - 6月、臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。
1922年(大正11年・61歳) - 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。6月29日、萎縮腎と診断される。また、肺結核の兆候も見られた。7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月9日、午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される。
1927年(昭和2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。

[編集] 主な作品

[編集] 小説

舞姫(1890年1月、「国民之友」)
うたかたの記(1890年8月、「国民之友」)




1892年に東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。



リンク
ウィキソースに森鴎外の原文があります。ウィキクォートに森鴎外に関する引用句集があります。ウィキメディア・コモンズには、森鴎外 に関連するマルチメディアがあります。森 鴎外:作家別作品リスト(青空文庫)
作品リスト (近代デジタルライブラリー。往時の印刷状態のまま読める)
文京区立本郷図書館鴎外記念室(文京区)
鴎外文庫書入本画像データベース(東京大学総合図書館。鴎外の自筆草稿や書入本を見ることができる)
森 鴎外
森鴎外経歴
森鴎外遺言
森鴎外 名所
近代文学研究会:『舞姫』論、鴎外の医学方面での活動
島根ゆかりの文学者 森 鴎外
森鴎外のお墓
森鷗外記念館 ベルリン
カテゴリ: 日本の小説家 | 日本の文芸評論家 | 日本の医学者 | 日本の陸軍軍人 | 明治時代の人物 | 島根県出身の人物 | 1862年生 | 1922年没 | 森鴎外

最終更新 2008年4月26日 (土) 11:05。Wikipedia®

梶井基次郎  旧制北野中学校→ 三高→東京帝国大学文学部

2008-07-22 12:36:55 | 13 用語集:①人物一覧   
梶井基次郎

文学

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梶井 基次郎(かじい もとじろう、男性、1901年2月17日 - 1932年3月24日)は、近代日本文学の小説家。志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。文壇に認められてまもなく肺患で没した。死後評価は時とともに高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。

目次 [非表示]
1 作品
2 略歴
3 作品リスト
4 文学碑
5 外部リンク



[編集] 作品
作品は心境小説に近い私小説的なものが多く、自らの病気を題材にしている事も多い。また、当時の文学青年の例に漏れず志賀直哉の影響を強く受けていると見られる。


[編集] 略歴
1901年(明治34) 2月17日大阪市西区土佐堀通5丁目(現西区土佐堀3丁目)に生まれる。
1913年(大正2年)三重県立第四中学校(現三重県立宇治山田高等学校)入学。
1914年(大正3年)旧制北野中学校(現大阪府立北野高等学校)転入。
1919年(大正8年)旧制北野中学校卒業、第三高等学校理科甲類入学。
1920年(大正9年)肺結核にかかる。この頃から荒廃した生活を送り、5年がかりで高校を卒業する。
1924年(大正13年)東京帝国大学文学部英文科に進学。
1925年(大正14年)同人誌『青空』を創刊し、「檸檬」を発表。
1932年(昭和7年) 3月24日肺結核のため死去。享年31。
命日の3月24日は、代表作である「檸檬」から、「檸檬忌」(れもんき)と呼ばれる。大阪市中央区中寺2丁目の常国寺に墓がある。

三重県松阪市 松阪城址の文学碑(2005年9月撮影)
[編集] 作品リスト
檸檬
城のある町にて
泥濘
路上
過古
雪後
ある心の風景
Kの昇天
冬の日
櫻の樹の下には
器樂的幻覺
蒼穹
筧の話
冬の蠅
ある崖上の感情
愛撫
闇の繪巻
交尾
のんきな患者

[編集] 文学碑
三重県松阪市の松阪城址に『城のある町にて』の文学碑が建てられている。

[編集] 外部リンク
新潮社 - 梶井基次郎短編集
梶井 基次郎:作家別作品リスト(青空文庫)
梶井基次郎のお墓
ウィキクォートに梶井基次郎に関する引用句集があります。"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E4%BA%95%E5%9F%BA%E6%AC%A1%E9%83%8E" より作成
カテゴリ: 日本の小説家 | 1901年生 | 1932年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション
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最終更新 2008年3月5日 (水) 02:36。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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