11月26日は平山橋を渡って愛川町の田代まで歩いたので、29日は田代運動公園に車をを止めて田代から甲州道を歩いてみました。
右端に舟繋場の石碑があります。昔はここに中津川が流れていて、舟を繋いで出水に備えたというようなことが書いてあります。
田代の交差点から県道54号線を50mほど西に向かったところを入っていきます。
関場坂の標柱がありますが、高いところにあり、横に何が彫られているのかわかりません。
関場坂から600mほど進んだところの馬渡方面からの道と合流するところで、甲州道の道標があります。すぐ横の案内には以下のように書かれています。
「この道は、かつて甲州みちであった。厚木市上荻野の打越から、当町の海底を経て、中津川をわたり、関場坂からここに至りそれから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる、小田原から甲州への通路であった。道標には、『甲州道中』『右よしのねんさか道』とあり、江戸中期ころの建立とされてる。また近世には、領主の使臣が村むらを巡視する道すじであったことから『巡見道』とも呼ばれ、ほかに、『津久井道』『志田道』の名もあった。
道標が指し示す通り、右に進んでいきます。このあたりは歩道がなく歩きにくいです。
このあたりは、武田信玄と北条氏照・氏邦が戦った三増峠の戦いがあったところで、その時の首級を除いた遺体がここに埋葬してあるそうです。
せっかくなので甲州道を少し外れて、合戦場の記念碑のところまで行ってみました。
三増峠の戦いは、あまり知られていないように思えるが、両軍合わせて3000人ほどの死者が出たということなので、三方ヶ原の戦いよりもずっと大規模な戦ということになります。
この戦で武田の武将、山県昌景が志田峠を越えて北条側の背後を突いたことで、武田を勝利に導いたそうです。
その山県昌景が越えてきた志田峠に向かうため、甲州道に戻ります。
志田峠への道の入口のところに首級が葬られている首塚があります。
地元の方でしょうか、花が手向けられてあります。
路面状態がかなり悪いところもあったので、乗用車で入っていくのはそれなりの覚悟が必要です。
20年くらい前に、大きな四駆で志田峠を越えようとして、結構大変だったことがあります。
今は歩いていますが、20年前も今日も、人ひとり、車の一台も途中で出会いません。
20年前の記憶では、峠にベンチとテーブルがありました。今日はそのあたりで昼食にするつもりでいます。
志田峠にでました。確かに昼食にするのに良さそうなテーブルがありますが・・
昔は山の中の峠だったはずが、ダンプカーの出入り口の正面になっていて、次々とダンプカーが出たり入ったりしています。
12時に田代を歩き始めて1時間30分ほどになりますが、こんなところで昼食をとるのはあきらめて、ダンプカーの横を歩いて下ります。
朝から曇りでしたが、このあたりから晴れてきました。
ダンプカーを避けながらですが、紅葉が美しいポイントもありました。
峠を越えてから30分ほどで国道412号線に突き当ります。
もう2度とここには来ないと思います。
疲れているので国道を半原に向かって歩きます。
やがて半原日向の交差点に出ました。
20年以上前のことですが、私は写真に写っている右折レーンで車を止めて、青信号になるのを待っていました。夕方であたりは薄暗く、車も人影もありません。今でこそコンビニなどがありますが、当時は何もなく、またどうした訳かその日は、田代への分岐からここまでほとんど車とすれ違いませんでした。
すると後ろから1台の車が近づいてきて、隣の直進レーンに静かに止まりました。中から30歳位のかなりきれいな女性が降りてきて、私の車の助手席の窓ガラスを『コツコツ』と叩きます。
そんなに小心者でないつもりですが、その時点で私はかなり驚いていました。
なぜなら当時の私の車は、運転席や助手席の窓ガラスまで真っ黒なスモークを張っていて、外からは中が全く見えない状態でした。
人気もなく薄暗い状況で、そんな私の車をノックする女性の神経が信じられませんでした。
あわてて助手席の窓を開けると、「相模湖インターに行くには真っ直ぐでいいのでしょうか?」と聞いてくるので、相模湖インターまでの道を簡単に伝えて、女性が車に乗り込むのを見届けて、半原日向の交差点を右折しました。
ただこれだけの出来事ですが、その日はなんとなく重たい空気感が車の中に漂っていました。
カーステレオの音量を上げて半原の街を抜けていきました・・
日向橋です。向こう側に紅葉を始めた山が迫っています。
半原の神社の前です。
半原はかつては撚糸業が盛んで、太平洋戦争後の昭和24年には全国の絹縫糸の生産量の80%を占めるほどだったそうです。
半原神社前の和菓子屋さんの看板には糸最中とあります。
当時の繁栄の面影も今は失われています。
半原神社のトウカエデの樹です。半原の街の繁栄を見届けてきたからでしょうか、それほどの巨木ではありませんが、ご神木といった趣があります。
半原神社を過ぎてしばらく進むと民家がなくなり、道は中津川のすぐ横に近づいていきます。
20数年前のあの日、重たい空気感を打ち消すように、やや車のスピードを上げてこのあたりを走っていました。
すると、『コツコツ・・』確かにそう聞こえました。スピードを上げて走っている私の車の窓ガラスを叩く音が聞こえたのです!
『コツコツ・・』事件のあたりから10分ほど歩くと愛川橋が見えてきます。
この橋は町名が橋の名につけられており、造りも立派ですが、この先は行き止まりという不可解な橋です。
初めて今日はこの橋を渡ってみました。
橋の向こう側は隠川という地名がつけられています。
なんでも三増峠の戦いの折、北条方の武将、内藤秀行らが、運よくこの地に逃げ隠れたので隠家と呼ばれていたことが由来になっているという説があるそうです。
愛川橋から7~8分ほど歩いたところに田代方面に続くトンネル(愛川トンネル)があります。トンネルを迂回して桟敷戸集落の中を歩きました。
トンネルがあるので、おそらく地元の方以外の車が通ることもないでしょう。静かでなんとも言えない雰囲気のある集落です。
愛川トンネルから200mほど進むと馬渡橋があります。
歴史を感じる橋ですが、もう3時を過ぎています。ここまで全く休まずに歩いてきて疲れたので、急いで橋を渡って田代運動公園の駐車場に戻りました。
さて『コツコツ』という音ですが、後日、花火大会の会場の近くを車で通ったところ、花火が打ち上げられる音が、車の中で『コツコツ』と聞こえることがわかりました。
きっとあの時も近くで花火が打ち上げられたに違いない・・と思うことにしました。