「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎氏滅亡のことども」❝麻生の歴史❞掲載文の紹介 その1

2021-03-17 20:56:35 | 古文書

茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。

島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎

 ■まえがき

「島崎盛衰記」をひもとくに当って、特に其の滅亡にきつわる経緯について、数々の疑問点が浮かび上ってくる。

 郷土史に関係ありし思われる事柄を二三拾ってみると、概ね次のようなことどもである。

 先ずその第一には、主君が討死し、主家が崩壊したにも拘らず、どうして重臣たちが容易に土着できたのか、ということである。このことは又、これに先だって、上小川における義幹公の憤死、それに引き続く嫡嗣徳一丸の奮戦・自害、更に又、城郭周辺に於いて戦われたとする激しい攻防が、果して有ったのかどうか、ということ迄に連ってくる。

 第二には、小貫大蔵という人物の行動である。小貫大蔵なる人物は果して実在していたのか、そして主家を滅亡にまで導く大罪人であつたのか、ということである。

 第三には、所謂「お里殿伝説」である。「お里の方」と呼ばれる義幹公の奥方が、潮来近郷に於いて、悲惨なる最期を遂げられたという、落城哀話の信憑性である。

 そして、その第四には、何時の時代に、何人によって、この壮大な「島崎盛衰記」なる物語が書き綴られたのか、ということである。誠にお恥ずかしいことながら、浅学の身で、この「盛衰記」以外には全く知識がないので、「島崎滅亡の真相は違うのでは・・・」と常々想いつつも、何方か、「真相は斯くである」と教えて頂ければ、之れに勝る幸はなしと日夜考えている次第である。

 ■島崎義幹は水戸で謀殺

 ここに貴重なる一編の記録が残されている。明暦元年(1655)6月、島崎村の土子彦兵衛という人物から、潮来村の関戸利兵衛という人物に宛てられた書簡文である。(潮来町・関戸正敏氏所蔵)

 土子彦兵衛は、著名な島崎家の重臣の一人。土子越前守の嫡男であり、所謂島崎城攻防にも名を連ねている人物である。一方、送られた方の関戸利兵衛は、後に紹介する関戸如水(利左衛門綱正)の岳父であり、双方共に、当時に於ける最も由緒ある、信頼の置ける人々である。

 先ず、その書簡文の一部を紹介する。

『関戸家と島崎家の御由緒一通り尋ね致し、承知し候。前の亡父越前、もの語り共粗々承り覚え申す所も御座候。其の外、古日記等も御座候間、見合せあらまし書き付け御覧に入れ候。関戸玄番丞辰尚、父丹波守と申すは、鹿嶋中居の城主、川口左馬之介殿のお弟由。元来中居も関戸たりといへども、故有りて川口を名乗り候由。(中略)

  島崎左衛門尉と申すは、丈ケ六尺に余り大力量にして、智仁勇を兼ね、好く人を見、好く人を愛すと云へり。然るに、丹波守殿は、なお又、島崎殿に倍々の勇力有りて智深く、器量・骨柄と申し、その比並ぶ方なき猛将也。時節柄、両人心を合せ候はば、壱ケ国、弐ケ国切りしたがへ給ふ事は掌の内たるべしと思慮され、丹波守殿を姉婿として、弁財天台より立兼台まで屋形を建て並べ、上戸、潮来、辻、稲井川迄城下の地として居城を定め給ふ。然るに、玄番殿十五才の時、丹波守殿四十余才にして逝去と云々。 (中略)

  島崎殿は、天正十九年卯(1591)の年中、和睦と称して水戸に召され、三の丸坂口にて、鉄砲数拾挺を以って取りはさまれて打ちころされ、佐竹の為に亡びたり。

 島崎殿斯くの如くに成ら為せられ候間、玄番殿は降参もすべきものと見合せられ候や、其の間三年引き延し、文禄三年午(1594)夏中、これも和睦に事寄せて水戸にまねく。依って、三ノ丸坂口にまで乗り懸け候へば、島崎殿同様の仕懸に見え候や、馬に乗り乍ら、みづから、頸をはねて死に給ふと、云々。(中略)

明暦元年未(1655)六月 土子彦兵衛・信房 花押 関戸利兵衛殿』

この辺の事情を、関戸如水(註Ⅰ)は、後年(宝永五年・・・1608年)、その著書の中で、次のように述べている。(別紙2)

『(前略) 養父重友殿(註2)は、玄番没落より五十八年目に此の家を継ぎ、古き人の物語りにて早々相聞き候へども、島崎殿、玄番殿間の事、たしかなる人の物語り聞かまほしく思い候処に、或時嶋崎村へ用事有りて行き候時、嶋崎殿一の臣下に、土子越前と云う人の嫡男、土子彦兵衛と云う人と出会い候処、幸い昔語りいろいろ之有り候間、嶋崎殿と関戸玄番の由緒のわけ尋ね候へば、我等若年の比、亡父越前物語り、あらまし覚え候。其の外日記等も之有り候間、見合せ、書き付け進ずべき由、約束致し候。其の後、相認め送られ候間、則ち一巻の巻物と成して指し置き候由。貞享年中(1684~87)、綱正(如水)に譲られ候処、虫ばみ候間、宝永の初(1704)の比、綱正表具を直し、即ち本家へ伝へ置くもの也。(後略)』 (「関戸本源記」 本永五年 関戸如水)

(註Ⅰ)関戸如水(1661~1743)

 麻生藩士 岡山半右衛門の三男、幼名六内、長じて綱正を名乗る。初め麻生藩江戸詰めとして勤務、後に故有って潮来村関戸家の養子となり、関戸利左衛門を名乗る。関戸家中興の士とされる一方、潮来村庄屋、年寄として地方の行政面でも多大な足跡を残す。又、優れた著述家としても実績を有し、「長勝寺物語」等、多数の著書を有す。

 

(註2)関戸重友(1628~1708年)

関戸如水の養父。麻生藩作事奉行 岡山孫左衛門安綱の三男 故有って関戸家を継ぎ利兵衛を名乗る。後に端沢と号し、長勝寺の再建、修復に力を尽す。

関戸如水は、島崎氏謀殺について、前記土子書簡の通り記述した後、玄番之丞自害、爾後の一族の動静について、次のようにのべている。

『(前略)嶋崎殿、斯くの如くならせ候間、玄番殿は降参にても、文禄三年午(1594)の夏中、是も和睦に事よせ、水戸にまねかれ、依って、三の丸坂口迄乗りかけ、件のしかけ見え候や、馬に乗りながら自ら頸をはねて死し給ふと云々。法名関宗道朝居士と号す。其の子国松、岩松とて、七十五才の男子弐人、母にははくおくれ孤児となる。土子、矢幡を始め、山本、桜井、須田今蔵、竹蔵などと云う者上下男女十三人、下総へ退き、廿余年を経て当地帰参して、兄弟両家を取立て候と云々。(中略)』(関戸本源記)

ここで、如水は、数多くの生き証人を登場させて、関戸玄番之丞の出陣の模様などを、更に詳細に次のように述べている。

『(中略)玄番殿水戸出立の刻、土子、矢幡、其の他の者共を召し寄せ、申され候は、「我此度、佐竹の為に滅ぶ。兼ねて覚悟の事なれば、少しも動ずることにあらず。我出馬致さば即ち屋形を仕廻い、目に立つ物をば心静かに取り仕廻い、日暮れに油断なく両人のせがれ並びに足よわ共を召しつれて、先ず矢幡は、津宮窪木水主方へ引き取るべし。土子は、残る者共に申し付け、夜中材物諸道具を引き取るべし。無益の諸道具をば家の中に積み、四方より火をかけ焼き捨つべし。見ぐるしき物少しも残し置くべからず。たれだればかり引きとり、残る物共には、それぞれに心付けをして、皆暇をとらすべし。返すがへすうろたゆることあるべからず。」と申し渡され候へば、土子、矢幡も是非御共の覚悟と見え候へば、又、玄番殿申され候は、「されば、今度一戦にもおよぶべき物なれば、両人左右にしたがへ、最期の一軍、目をおどろかし、名を後世に残し度きものなれども、此期に至り無益の事也。其程の事は、其方見とどくるにおよばぬ事也。此上は、両人のせがれ共の行末を見届け候処、千万の忠義也。今度は、山本三右衛門、須田今蔵、下部の吉平、権八、上下五人、すぐやかた出立、先の首尾次第、彼等四人は押つけ返すべし。」暇乞いの盃とて、大土器を取上げ、たふたふと引請け、土子、矢幡より順々に盃事之有り、黒き馬のふとりたくましきに、ふくりんの鞍をおかせ吉平、権八玄関までひき向い候へば、ゆらりと打乗りいざぎよく出立ち給ふ。其時の装束、上に黒羅紗の陣羽織、丸の内に、ききょうの大紋白くありありとぬい、すそに、山道にあられを紅白を以って縫いたるを召され、五尺余りの大刀を十文字に横たへ、丈ケは六尺に余り、色白く、年はいまだ三十余才、其の器量、骨柄、馬上すがた今見奉る様に覚え候と、見たる人、聞きたる人々、養父端沢、貞林、年さかりの此の物語り、其外、あわれなる物語り、今筆にも及びがたき事どもなり。いろいろたしかなる物語り也。其他召使いの物共とりどり話し、端沢重友は玄番没落より五十八年目、慶安四年卯(1651)の春、廿余才にして此家を継ぐ。此時、竹蔵七十六才、老女七十才。竹蔵は、木工殿の家に附いて行き八十六才にて死す。

(中略)但し、冬と云う老女は、利左衛門綱正が家に侍り、四ヶ年の老を養い、貞享四年卯(1687)四月十二日、行年百六十才にておわる。法名安宝比丘尼、即ち長勝寺関戸の墓所の片原に小石を立て置く也。(中略)』(関戸本源記)また、冬女について、如水は、別項に於いて、次のよう書いている。

『(中略)この冬と申す姿は、綱正此家に来て後にも、綱正が台所の方わらに伏所をかまい、尼に成りて四ヶ年の春秋を送りて、貞享四年卯の四月十二日に、行年百六才にして正念にりんじゅうをとげたり。其比の様体七八十才のたしかなる人の様体にて、少しも老衰の体もなく、五十七日絶食して水ばかり好みておわる。法名安宝禅尼、則ち長勝寺、関戸家の墓所の片原に小石を立て指し置く也。(中略)』(関戸本源記)

 このように、関戸如水は、多くの確かなる生証人達が直接、間接に見聞きした情報を基にして、丹念に此書を綴っている。

 前の土子書簡と併せ見る限りに於いては、島崎義幹(基)公の討死は、水戸三ノ丸坂口である。このことは、前年の天正十八年(1590)、佐竹氏が水戸に移城した歴史とも符節する。

 歴史が示す佐竹氏の戦略は、何れも各個撃破を原則として遂行されたもののようであり、ここでも結集した敵方の統合戦力発揮ができぬように施策したに相違ない。敵の友好陣営のみでなく、政・戦略面に於いて、君臣を分ち、公民を離す挙に出たことは容易に伺い知れる。

 義幹公の討死も、引き続き行われた徳一丸殿の奮戦・自害、将又、重臣達の対応等、島崎落城の歴史も、以上を前提として考察すれば、違った形で我々の心に蘇ってくる。

 主君が、卑劣極まる謀殺に逢っているにも拘らず、重臣以下が、落城の直後から、少なくとも平穏に生計を維持し続けていたと云う背後には、島崎氏が、佐竹氏に対して、ただ単に力が及ばなかったから、とは思われない。それ以外に、ある何事かが陰に存在していたのではないか、と愚考する。

 更に又、島崎家に小貫大蔵なる人物がいて、多年に亘り、彼の策略が多数を制して成功して行く道程には矢張り相互の軍事的関係のみではなく、何物かが係わっていた?と妄想している次第である。その2につづく

 

引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会



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