「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

南方三十三館の仕置」鹿行の文化財3月号掲載記事の紹介10回目

2021-07-13 18:28:43 | 歴史

「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。

南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)

10.おわりに

 我が家に伝えられてきていた雑煮の具の謎が解け、その謎の部分をもっと知りたいと思っていろいろ調べてきたが、やや大袈裟なことになってしまった。子供の頃から家のご先祖様は武士だったことを聞かされてはいたが、今から四百年も前に、この行方の地でおこった出来事を知って正直驚きであった。雑煮の具など別に気にも留めずにいれば何事もなく過ぎ去っていたと思うのだが、もしかしたら、ご先祖様からの何かのメッセージなのではないかと受け止めることにしたのである。ある程度の史実が(仮説だが)分かった以上は心を込めてご先祖様のご供養をさせて頂くと共に、心静かにご冥福をお祈りさせて頂くことにした。そして、それ以来我が家では普通の雑煮を頂くようにしている。

 私がその謎の部分をもっと知りたいと思ったのには、同じ頃、南原幹雄著の「名将佐竹義宣」を読んだことも絡んでいる。物語の初めのところに、太田城に梅見の宴に招かれた行方・鹿島の館主達が、酒も入ってほろ酔い機嫌で梅林を散策しているうちに、刺客に襲われ、次々に倒されていく凄惨な殺戮の場面が描写されており、それがなぜか妙に心に残っていたのである。そして、仕置があった二月九日は太陰暦ではまさに正月、興味をそそられたのは確かであった。

 さて、最初は調べようにも資料はない。唯一、以前に買い求めてあった島崎盛衰記・行方軍記後世鑑だけだった。とりあえず大本家に行ってみたところ、お爺さんが大事にしていたという島崎盛衰記 (写本)を見せてくれた。文字が草書体なので読みにくいのだが、 両方を見比べながら、なんとか読んでみると、軍記物か講談調の表現になっていて、「巻七島崎城落城」の所で、島崎勢と佐竹の軍勢が大生の原で戦うようになっていたが、少し大袈裟に感じるところもあった。実際には城主は既に命を奪われているので、押し寄せた佐竹勢に対してさほど抵抗することもなく、簡単に開城していることから、島崎盛衰記に書かれているような華々しい戦いなどはなく、おそらくは粛々と城を明け渡し、退いたのではないかと思われる。城主がいない城に楯籠もって、何のために命をかけて戦うのか考えてみたら空しいのではないか。

 いずれにしても、ご先祖様はそのときも島崎城を守っていた。 鹿島・行方の城主を謀殺した佐竹義宣は、すぐさまそれぞれの城館を攻めた。丁度その時のどさくさに巻き込まれ、何らかの形で命を落としたことになるのである。天正十九年頃、佐竹軍は頂点に達しており、鉾田の安房に拠点を構え、少なくとも五百人位の兵が待機していて、そこから行方・鹿島を攻撃している。不利となれば太田から数万の援軍が来る態勢を取っていたと言われる。勿論、鉄砲の数においても鹿島・行方の領主達のそれとは比べものにならなかっ たはずである。

 佐竹義宣は、早くから豊臣政権に取り入り、天下の形勢・世の中の動きを敏感に感じ取って、それを新しい領国経営に生かし、大大名への階段を上り詰めようとしていた。そして、近世大名としての権力確立の為には、国人(領主)の自立性を否定して佐竹氏の直臣として佐竹家中に取り込むことが必要だったのである。

 一方、常陸大掾氏及びその流れをくむ鹿島・行方の名族・旧族領主達は鎌倉以来の名門・門閥意識が強く、それに縛られ、それが逆に邪魔をしていた。時代の大勢を見通す慧眼ももたず、再三の義宣の小田原参陣への誘いにも一切耳を貸さず、頑として断り続けたという。領主達の煮え切らない態度は、義宣にとって以前から最も癪の種だったに違いない。誘いに応じ、参陣したのは島崎安定のみであった。佐竹氏との関係も一般的な主従関係とは異なり、佐竹氏中心の領主連合である「佐竹洞中」への一応の参加といった緩い関係に止まり、佐竹氏と行動を共にするとは限らなかった。新編常陸国誌の中にも「佐竹氏ニ属シ、其驅使ニ従フト雖モ、意ニ之ヲ甘ンゼズ」とあるように、そのようなあやふやな態度が、最終的には各館主父子・兄弟の謀殺という悲劇に繋がっていったものと思われる。

 郷土北浦三十三号へ投稿させて頂いた「南方三十三館の仕置」をまとめるにあたっては、県立図書館に行って文献を調べてみたが、中世の鹿島・行方の歴史に関する本は少ない。佐竹氏関係が圧倒的に多かった。しかし、仕置に関する内容は見当たらない。かろうじて戦国時代の常陸・北総の豪族の実態に関する本が見つかり、関連する部分を引用させていただいた。また、仕置の実際については、たった一冊だけ「常陸太田市余録」に詳しくでていたので利用させて頂いた。しかし、仕置の実際は何とか分かったのだが、鹿島・行方の館主父子・兄弟がなぜ「謀殺」されるに至ったのかは分からなかった。その遠因らしきものに少しでも近づくことができたらという思いだけが益々募っていったのである。

 そうした時に出合った「新編常陸国誌」の中の文「門閥ヲ以テ誇張シ」と「各自立ノ志ヲ抱ケリ」が気になり、いろいろ調べた結果、佐竹氏が常陸太田を中心にしてその地盤を固めようとしていた時から遡ること約二百年前から平氏 (大掾氏)は繁栄を続けてきていた こと。一方、当初は武力的、政治的にも弱小だった源氏(佐竹氏)は、平氏の援助を必要とし、婚姻を通して積極的に平氏に接近していたこと等が分かった。これらのことから考えても確かに常陸大掾氏は名門であり、その流れをくむ行方・鹿島の氏族達が門閥・家柄に殊更拘るのも頷けるのである。

 次に、「各自立ノ志ヲ抱ケリ」であるが、行方・鹿島の各館主達にとって、領主としての権威・権力を象徴するものが必要であった。それが、常陸大掾氏族だけが独占してきた鹿島神宮祭礼の大使役だったのである。そして、当番にあたると、それにかかる莫大な費用を同族が協力して拠出し合い、勤めを果たしていたというのである。その費用こそが水運による現金収入だった。但し、どのような組織で運営されていたのかとか、どの程度の収益があったのか等のそれを証明するような、昔の具体的な史料等は一切ない。周辺の町史や関係図書を参考にしながら、私なりに導き出した仮説でしかないのである。

 行方郡の各館主達は皆、常陸大掾として先祖代々受け継がれてきた誇り、門閥、名門、家柄の良さといったものに殊更に拘っていた。佐竹氏のことも途中から力を付けてきたかも知れないが、成り上がり者位いの認識しか持っていなかったのではないか。そうした名門としての権威・権力を更に強固にしたものが、鹿島神宮祭礼の大使役だったと思われる。佐竹氏の実力を冷静な目で見ることができなかったのではないか。鎌倉時代から同族間の争いはあったにしても、外部からの侵略に晒されるような経験は無かった。力関係も 拮抗しており、同族間で協力し合い何とか領国の経営がなされていた。各領主達は水運からもたらされる莫大な収入があり、互いに争う理由も無かった。独立心の旺盛な、所謂中世の地方豪族の姿そのままだったのである。戦国時代の中頃までは何とか凌げたが、終盤になって時代は大きく変わり、その転換期が急速にこの鹿島・行方地域にも押し寄せてきていたのだった。

 一方佐竹義宣は、豊臣政権の指導宜しく、秀吉の天下統一に倣って常陸国の制覇を狙っていた。近世大名として統一を図る為には、国人(領主)達の自主性は全否定しなければならない。早くから鹿島・行方の国人達を、何とか穏便に佐竹の家臣に取り入れるべく交渉をしてきたが、どの館主も表面だけは当たり障りなく愛想は良いのだが、いざ本題に入るとのらりくらりとはぐらかし、何を考えているのか一筋縄ではいかなかった。義宣は彼らを評して「倭人」と言ったのである。何と言われようが、何と思われようが、何よりも門閥意識の強い彼らにとって、佐竹の家来になって風下に立つような事は考えられなかった。しかし、時の流れはそのような生ぬるい状態を許しておくほど甘くはなかったのである。

 天正十八年八月一日付けで、義宣は既に鹿島・行方を含めた領地を秀吉から安堵されてしまっていたので、時間的な余裕はなかった。やや焦りもあったのではないか。秀吉の「関東奥両国惣無事令」に違反しないように事を進めるためには、領主達を一個所に集めて一気に始末する以外にないのではないかと秘かに心に決めていた。それには秀吉の許可が要る。義宣が上落の際、文書に書いていた「供之儀雖詫言候」の詫言は秀吉に対する煩わしさもあると思うが、寧ろ行方・鹿島氏族を属臣と偽って「謀殺」の許可を取らねばならないことを心苦しい、辛いと思っているという気持ちも含まれていたのではないのだろうか。そして京都では何事も総てが上手くいき、確信を持って帰城し、少しも迷うことなく南方三十三館主父子・兄弟の謀殺を実行したのであった。

 しかし、なぜ「謀殺」だったのかが納得いかず、まだすっきりしないのである。義宣が上洛に際して真崎兵庫助に江戸氏の仕置を指図しているが、実際には中四日しかあいていないので、府中大掾氏の仕置もセットになっていたと思われる。別々の城を攻めるのだから、兵力を集中させて攻撃できたはずである。
しかもこの時、島崎安定は佐竹氏による馬場城(水戸城)攻めに参加、城の北成沢に陣を布いて戦っている。また、先の小田原城攻囲戦には、島崎安定と共に烟田通幹も参陣しており、彼は石田三成の指揮の下、ドラマ「のぼうの城」のモデルにもなった武州「忍城」水攻めに参加しているのである。二人の行動から考えてもこの時、佐竹氏と島崎氏・烟田氏の関係がどのようになっていたかは分からないが、あるいは単独で佐竹氏の傘下に入っていたのではないかとも受け取れるのである。しかし、二月九日の仕置では島崎父子・烟田兄弟とも命を奪われている。

 常識的に考えて、一人や二人佐竹氏の家臣になったとしても、いざと言う事態になってしまった時には、敵味方に分かれて味方同士で戦う羽目になってしまう。それだけは何としても避けなければならない。そのために残された道はただ一つ、鹿島・行方氏族が総て佐竹氏の傘下に入ることである。もしかしたら、安定と通幹は鹿島郡・行方郡でお互いに連絡を取り合い、将来の事を考えて一族の者達への説得を続けていたかもしれないのである。名門、門閥に凝り固まり、考え方を変えるどころか、殊更重い腰を上げようともしない同族の者に代わって世の中の動き、権力者の何たるかを自分の目でしっかり確かめ、同族に語り聞かせていたのではないのだろうか。突出した二人の行動からは当時としては最先端の進取的な考え方を垣間見る事ができるのである。しかし、時既に遅く、氏族全体の考えを一つにまとめ上げるまでには至らなかったのではないか。

 昔から北条氏を頼ってきていた、江戸氏や府中の大掾宗家も小田原参陣には参加していないにも拘わらず、直接秀吉の命令で滅ぼされたわけではないので、鹿島・行方氏族も同様に小田原不参陣が原因とはいえないようである。その代わり、秀吉の権威・権力を最大限に利用して、自分の意に随わない地方の豪族を暗黙裡に滅ぼしてしまおうとする佐竹義宣の陰謀がみえてくるのである。

 因みに、戦国時代、一度の合戦に動員できる人数は、一万石につき250人から300人程度だったといわれる。佐竹氏が最終的に手に入れた常陸国全体の石高は、五十四万五千八百石である。そこから割り出すと、動員兵力は一万三千人から一万六千人となる。南方三十三館の仕置によって佐竹氏が手に入れた石高は、行方郡が二万六千三百七十一石、鹿島郡が二万五千九百九石であった。一万石あたり約300人から350人と見積もると動員兵力は行方郡全体では800人から950人となる。鹿島郡も同等といえる。両郡合わせても佐竹氏の八分の一にしかならない。

  但し、この人数はあくまでも米の石高によるものなので、その他の収益は入っていない。ところが鹿島・行方氏族には津の経営からもたらされる莫大な現金収入があった。経済力を背景に軍 備を整えるとなると、少なくともおよそ二・五~三倍位の動員は楽に可能だったのではないかと考えられる。すると2400人~2850人となる。それから推測して行方郡では玉造・手賀・ 小高・島崎の各城に平均約600人~800人位が守っていたとすると、攻める側としては台地なので大軍勢を動かすには不利。一斉に力攻めするには、軍勢を分けなければならないのでその分手薄になる。地形が入り組んでいて複雑、おまけに土地不案内では攻め難い。ゲリラ戦法でも取られたら、味方の犠牲が多くなる。周辺には行方氏族関係の支城が散らばっているので結束して抵抗されたら不利になる。行方郡だけでもこれだけの用心が必要なのに、更に鹿島郡がある。倍の労力を必要とするのだから、力攻めは得策ではない。どうするか、合戦での攻めの常套手段、敵の大将を真っ先に仕留めると、それ以外に無い。どうやって仕留めるか? 一カ所に集めて一気に手を下す以外にない。

  天正十九年一月末日頃、各館主に義宣から書状が届く。伝承によれば、「和議親睦と知行配分」の案内だったという。和議親睦は分かるとしても、正式に佐竹氏の家臣になったわけでもないのに知行配分はおかしいのではないか。更に城主父子、兄弟同伴の条件付き が益々不可解なのである。疑念を抱き、実際太田行きを躊躇した者もいたし、反対する家臣も多かったといわれる。

 しかし、その時点で既に各館主達の間にはかなりの動揺が広がっていた。前年、秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡。十二月に水戸城が陥落して江戸氏が滅亡。同じく府中城が落城して大掾総本家が滅亡。更に行方・鹿島の支城が総て落とされている。外堀を埋 められ丸裸同然になった城主と家臣達にとって、動揺と不安はそれこそ極限状態に達していたと思われる。それに加えて、秀吉への不服従(島崎安定、烟田通幹だけは小田原城攻囲戦に参陣しているが、鹿島・行方氏族が全て参加しているわけではない)。義宣からの度々の誘い(鹿島・行方の両氏族が総て佐竹氏の家臣にならなければ意味がない)を一切はねつけてきた引け目があった。今度逆らったらどうするか。半分諦め、覚悟して赴いたのでないだろうか。佐竹氏の野望と大掾氏の理想とは永遠に折り合うことはなかったのである。鹿島・行方氏族のように中世の豪族は、それ程の荒波を被ることなく、自分の領内だけで平和な暮らしを維持できていたが、時代の大きな波は、容赦なく打ち寄せ、各館主の抵抗も空しく総てを飲み込んでしまったのである。時代の転換期に当たるこの年、このような例は全国各地で見られたのではないのだろうか。

天正十九年(1591)、各館主を謀殺し、城館を落として一気に膨大な領地を手中に収めた義宣は、その後、豊臣権力を背景にして常陸一国の平定に成功し、文禄三年(1594)、下野・常陸両国で五十四万五千石余を領した。しかし、関ヶ原の戦で豊臣方(西軍)に味方したため、徳川家康の怒りに触れ、慶長七年(1602)、 常陸国を没収されて出羽国秋田 (二十万五千石余に減封)に移封されるまでの十一年間、譜代の家臣を配置して、鹿島・行方地域を治めさせたのであるが、新たな支配者に対して、領民は全く心を開くどころか敵懷心を和らげることさえなかったといわれている。

 佐竹氏にとって行方・鹿島を力攻めするのは簡単ではなかった筈である。行方郡には玉造城、手賀城、小高城、島崎城、と四つの城が存在し、しかも小高城を除いては霞が浦と低湿地が天然の要害となる場所に位置し、鹿島郡も、鹿島城、中居城、札城、烟田城といった城館が、北浦に面した高台に位置していて、湖と湿地が要害になっているのである。領主達が、平和な繁栄とその基盤を守るため死に物狂いで立ち向かったとしたら、佐竹軍といえどもかなりの脅威になったに違いない。義宣は別の戦術を用いた。

 そして、最終的には城主の命を奪ってまでも己の野望を実現としようとする者と、その権力に逆らって自分達の理想を守ろうとする、領主達の思いとのどうにもならない矛盾に突き当たってしまうのである。犠牲になった城主父子・兄弟の遺徳や家臣であった先祖の栄光の証を子孫達は「南方三十三館」と名付けて後世に語り伝えようとした。但し、佐竹氏の報復を恐れ、文字で書き表すことは憚られた。そこで、自分達の悔しさ、無念の思いを何としても子孫に伝える為、日常の「仕来り」として残した。四百年の時空を越えて、 ご先祖様の思いは確かに届いたのである。

 仕置事件は実に忌まわしい出来事ではあったが、正直なところ私の判断では何とも言いようがないのである。江戸重通は水戸城陥落の後妻の実家である結城に逃れ、その地で四十三歳で亡くなり、府中城落城の際、若干十九歳だった大掾清幹は自刃している。義宣が 若さにものを言わせて力攻めをしていたとしたなら、三十三館主も清幹と同じ運命を辿っていたかもしれない。しかし実際にはそうはならなかった。鹿島・行方のこの豊かな土地が戦場になり、大軍勢によって踏みにじられることはなかった。そこに生活していた領民 達にとっては、有り難いことであったに違いない。その変わり、各館主父子・兄弟が犠牲になった。戦国時代の世の習いとはいいながら、実に痛ましく、哀しい出来事であった。

 激動の時代を精一杯生きたご先祖様方に対して初め抱いていた 「哀れ」といった感情はなくなり、何故か今は寧ろ「誇らしい」気持になっていることは確かである。しかし、私がいくら想像したことを書いたとしても、歴史の真実は遙かに遠い闇の彼方なのです。

 今は唯、犠牲になられた各館主父子・兄弟の方々、並びに関係ご先祖様方々のご冥福を心からお祈りしたいと思う。

【参考文献】

・「南方三十三館の仕置」「続南方三十三館の仕置」(その一・二)

・茨城県史料 中世編Ⅳ 茨城県史編纂委員会監修

・北浦町史」

・麻生町史

・潮来町史

・玉造町史

・茨城町史

・鉾田町史研究「七瀬」10号江戸氏と鹿行領主 柴田友秋著

・中世常総名家譜 石川豊著

・新編問答式佐竹蔬本高橋 茂著

・鹿島神宮 堀田富夫著 ふるさと文庫

・戦国織豊期の権力と社会 本多隆成著

・佐竹氏の歴史 野澤 汎著

・鹿島行方三十三館の仕置 常陸太田市余録第5号 江原忠昭著

・豪族時代の常総 新井庸夫遺稿

・歴史手帖第10巻3号特集 常陸地方の戦国史 中村安孝著

・茨城の歴史県南鹿行編 茨城地方史研究会編

・国替佐竹義宣一代見川瞬水著

・佐竹氏水戸城攻略の跡を行く 古市 巧著

・新編常陸国誌 中山信名修 栗田寛補

・鉾田町史通史編(上)

・図説鹿行の歴史 郷土出版社

・朝日百科日本の歴史4 中世Ⅰ.5中世Ⅱ

・名将 佐竹義宣 南原幹雄著 ·

・島崎盛衰記行方軍記後世鑑 箕輪德二郎著

・佐竹氏水戸城攻略の跡を行く 古市 巧著    ⇒了

 

 



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2 コメント

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Unknown (kandakko)
2023-10-10 23:14:08
島崎と申します。
素晴らしい研究論文、拝読させて頂きました。
私は生まれも育ちも東京でご先祖様については父から聞く前に他界されてしまい自分で調べていくうちにこの南方三十三館の仕置に辿り着きました。 島崎城跡にも何度か訪ね、偶然出会えた保存会の方々からもお話を聞かせていただきました。二本松寺の賽銭箱にうちと同じ丸に揚羽蝶の家紋を見つけた際は鳥肌が立ちました。また近いうちに訪れたいと思います。
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お世話になりました (下総山城之神)
2024-01-14 14:19:51
先日1月8日に島崎城跡におじゃまさせて頂きました
以前に一度おじゃました事はあるのですが、
全く見違えるように整備され大変見やすくなっており駐車場も整備されお手洗いもあり
会の皆さんのご苦労と同時に愛情を感じました 
南方三十三館の謀殺の件はなかなか資料・本も少なく調べるのが難しいのですが大変参考になるブログです
今後ともよろしくお願いします
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