「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡発掘調査報告書」島崎城の構造―坊主屋敷・越前曲輪・外曲輪・根小屋

2021-07-19 15:40:02 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。

  1. 島崎城の構造

     

    坊主屋敷・越前曲輪

     Ⅲ曲輪南側中腹の標高16.5m前後に,杉林となっている坊主屋敷と呼ばれる平場がある。空堀〈5〉は、この曲輪の東側を掘り進んで(ちょうど今の道路敷),堀<7>と接続していた。

     坊主屋敷は、この失われた堀を物見台と共に左右から監視する機能がめぐ,地名の表門から越前曲輪を経て,Ⅲ曲輪へ経由する中継平場であった。

     坊主屋敷と地名の表門の中間,谷間麓の段上に土子越前屋敷と伝える土子邸がある。この土子邸は前面が堀<7>,西側にも濠がめぐり,独立状の曲輪である。表門に接することからも、大手口を押えるための重臣屋敷地であったことが想定できる。

     広さ50m×35mほどの屋敷地で、 西北に濠を隔てて「隼人屋敷」と呼ぶ麓微高テラスがつづく。なお,西側の濠は,昭和30年代まで,古屋曲輪の西に達していた。

    外曲輪・大構

     Ⅲ曲輪外周の空堀〈6〉の北側が,外曲輪にあたる。標高29~30mの平坦地で,古宿の台地部である。この外曲輪には,現状で確認される堀は、三条で、西側峰つづきに掘切が残る。

     図3の空堀<8>は,南側に土塁をともない。空堀〈9〉は,現在堀底が道路で,やはり土塁が,高さ2mほどで,南側および東側にめぐる。空堀〈10〉は,堀底が道路で,土塁は認められない。おそらくは空堀〈10〉が古宿集落の境目であったとみられ、その北側の堀切 <11> が,大構えとしての北限であったとみられる。空堀〈8〉は,耕作地化により,南側半分が消滅しているが、空堀〈6〉と,西側斜面でかって合わさっていたという話を古宿の古老から聞けた。古宿公民館の前を通って,空堀〈6〉と並行する道路が空堀〈8〉の穿たれていた跡にあたる。

     空堀〈9〉と土塁は湾曲しカギ形となり,空堀〈8〉に合わさり,100m×80mの方形の曲輪を形づくる。古宿で,中心的な施設がこの方形曲輪内に存在したとみられる。 古宿台地の西側は権現作と呼ばれる大きな谷が入りこみ、その先(西)が御山台と呼ばれ, 寺院がかって存在した跡で,かなり削平地が残る。この御山台の西側は、上幅15m現状で深さ 1.5~2mを測る堀切 <12> がある。この堀切 <12> が古宿台地の区切りとなり,御山台から 東側は、土塁状の障壁が形成される。

    なお,御山台は出城的な役割が強かったとみられ,その先端(西へ400m)に島崎城西出城が、半分カットされた情況で残る。

    根小屋・古宿・宿・芝宿

     前途したが城をめぐって残る地名,城内・古屋・根古屋・古宿・宿・芝宿の存在は,歴史地理の分野のみならず,城郭史・都市史・戦国史そして地域史研究上,極めて貴重な存在である。

     城内と呼ばれる地域は,ほぼ内城であるⅠ曲輪・Ⅱ曲輪にあたり,古屋の地名は越前曲輪・古屋曲輪・Ⅲ曲輪にあたり,ほぼ中城域を示す。そして,表門という辺りから金井柵と呼ばれる空堀<5>の東側出口までの山麓をぐるり囲む微高地(標高9~10m)のテラス状の段上を根古屋と呼ぶ。

     根古屋は本来「根小屋」と記し、東日本に多く分布する城郭にともなう集落もしくは屋敷地跡の地名である。寝小屋・根古谷とも書き,本来山の麓の根に形成された集落または屋敷地といわれた。ところが関東平野部では,根小屋は平野部低地の館にも多くみられ,「寝る小屋」すなわち多くの軍忠状・着到状に「宿直警固屋」とみえる陣小屋・警固屋が寝小屋の発生の一因とみられる。兵農未分離の戦国期において,戦国大名や国人領主らは寄親として,被官契約を結んだ寄子である家臣に対し、軍役を果し,一定期間の在城警固役(廂番に似た役)を定めた。彼ら家臣は,寄親の居城に出向き,その期間を「寝小屋」で過した訳である。また,家子・郎従はもとより一族の居住地も城の周囲に必要な訳で、彼らが宿とする寝小屋も当然に並んだ。戦国期の城郭立地が,ほとんど山城・丘城であるため、根小屋と一般に記されるようになった。

     島崎城の場合,根小屋と呼ばれる帯曲輪状テラスは,西南斜面下で幅20m平均、東側では幅20~35mを測り、麓のぐるり全長500mに家臣団屋敷地跡がみられ,テラス上に立地する久保谷家の42m×20m(250坪)が,大きな一区画で,平均で150坪前後の区画痕跡が認められる。

     根小屋地区には外周の濠がめぐっていた。この濠は,今日を城の麓をめぐる道路と根古屋テラス段の中間に幅10m平均で残る。表門と呼ばれる所に池状の濠が一部あるが,これは西側の隼人屋敷につづく根小屋の周濠の一部にあたる。

     外曲輪の台地上および南側麓を古宿という。古宿は嶋崎氏時代の自然発生的な古い集落を示しているとみえる。台地上においては家臣の屋敷地,麓の古宿は嶋崎氏の勢力拡大につれ、集落が形成され、やがて,台地の縁にそって集落が発達し、字・宿が形成された。戦国期に及んでは、市場の存在が指摘される芝宿の形成がみられ,長国寺が芝宿に成立した。宿から長国寺にかけての町並みは整然とし,防禦上の配慮から道路は湾曲する。家の区画は短冊状に、平均200坪で形成されている。城下集落から初期城下町への発展過程を物語る地区として貴重である。

     ⇒次回は調査報告書の島崎城の構成の「小括」を予定。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿