茨城県神栖市在住の森田衛氏より、平将門の研究論文を投稿頂きました。
今回、13回シリーズの第5節を掲載致します。
第5節: 仕掛けられた合戦
新皇将門 ⑤
(常世の国の夢を追い求め、純粋に突き進んだ男の生涯)
仕掛けられた合戦 (野爪(野本)の合戦)
野爪(野本)という場所は、旧、真壁郡明野町周辺と思われ今の筑西市赤浜辺りとする説が有力視されている。承平5年(935年)2月、将門は郎党百騎ほど引き連れて豊田の館を立った。開墾に着手した広大な土地の一つが下野国へまたがるので下野の庁へ赴いて了解を求めるためであった。
下野街道を野毛川(鬼怒川)に沿って行くと、やがて草地が細長く続き左右が雑木林になっている所に差し掛かった時、前方中程左右の林の中に、二、三百騎くらいの兵が潜んでいることに気づいた。すぐさま援軍を頼むために二騎を豊田に走らせた。
そして本隊は全速力で道を引き返すが、進むにつれて前からも敵の姿が現われた。挟み撃ちになったのであった。こうなると敵陣を強行突破するより方法はなかった。
将門の一団は、敵の攻撃で次第にぽろぽろと欠けて小さくなり馬も人も半数ほどに減ってしまったが将門は無傷であった。この時点では、今回の襲撃の相手が誰なのか将門には分からなかった。
これまでに将門は戦争を仕掛けた覚えもなく、ただ、がむしゃらに未開の耕作地の整備をして馬鹿みたいに働く日々を送っていたのだから恨まれる覚えも無かった。
だが後に分かるのだが、これは源氏の襲撃であった。
源護(みなもとのまもる)は、三人の息子たち、托、隆、繁に出撃を命じたのであった。三人の息子たちも将門に対しては日頃から恨みを持っていた。桔梗の一件(恋仇)が有ったからである。この襲撃は実は裏では伯父の平国香も加担していたのであった。
将門の館では急報に接すると平真樹の兵と併せて二百騎に武装させ弟の将頼と真樹が救援に駆けつけた。やがて追撃してきた敵が岸に固まり陣を立てた。
その時すでに将門軍は取り囲まれており、進む事も退く事も出来ない状況下になっていた。将門は異常なほどの興奮状態になり敵本陣に切り込む事を決断をした。
将門軍は一人一人が死を知らない死神のように敵に向かって行った。この時、既に源氏軍とは戦意が違っていた。やがて、源氏軍の中から三騎、五騎と逃走する者が出はじめ、それがやがて二十騎、三十騎と増幅していき途端に源氏軍の全軍が逃走する始末になり、劣勢と知った源氏、三兄弟は近くの東石田の館に急使を出し平国香に応援を求めるが国香は兵を出したものの国香自身は出陣しなかった。
しかし、次々と兵が東石田の館に逃げ込んで来るので国香も出陣せざるを得なくなった。国香の出陣を知ると将門は「しまった。」とつぶやく。国香伯父にはこの戦いには加わって欲しくなかったのだった。だが、もう遅かった。敵からの襲撃を受け野獣化した将門軍の兵士を抑えることは出来ない状況に事態は進展していた。
逃げ去る敵を見ながら真樹が将門に馬を寄せてきた。「これからどうする。」将門は答えた。敵将と郎党(上級の家人)の家を全て焼き払う。
当時、勝者の兵は敗者(加担した全て)の居住宅を襲い高価な物品を盗み、武器や兵糧を獲たりし、一族はすべて切り殺され最後に家を焼き払うというものだった。当時は、このような残忍な行動が当然のように行われ、将門だけが今回特別な悪行行為を行った訳ではなかったが、それはひどいものであった。
野獣化した兵士はとどまるところを知らない。当然であろう切るか切られるか、生きるか死ぬかの生き地獄の戦闘の後だから冷静な判断など誰一人出来るはずが無い。
ついに翌日も翌々日も、敵地を荒らし続け火の手は野爪一帯だけでなく、筑波、真壁、新治の三郡に渡った。日吉神社を焼き、承和寺も焼き払い源護の大串の館を焼き払い、平国香の石田の営所も焼き払った。この戦いで源護の三人の息子は討ち死にした。国香も負傷し戦場から一時は館に戻ったが将門に火を付けられて苦しみに耐えかねて自決したという。 (承平5年(935年)2月。国香64歳。)
この戦いで民家、貯蔵庫など五百戸以上が焼け、人畜の死骸もおびただしいものであった。幸いなことに、今回は叔父の良兼と良正がこの戦いに参戦しなかった。
これ以降、豊田の館は家人郎党で溢れかえっていた。彼らは将門の家人であるかのように振る舞い自分の古巣には戻らなかった。戦場から凱旋するときに、敵地の馬を何百頭も曳いてきたし、その馬の背には、財物、食糧など積めるだけ積んできた。郎党が何人増えようが将門の館では困る問題ではなかった。彼らに言わせれば、多年に渡り、先代良将(良持)の荘園田領を横取りした物だ、これくらいは年貢としても取り上げてやるのが当たり前だと言うのであった。
戦乱の結果、広い土壌や農兵の移動になって現われ、板東の荘園の大半が国香や源護の支配を離れて将門の下に帰属してきたのであった。
この一件により、住民の尊敬も将門の一身に集まり、今や良将の在りし頃の豊田館に巡り還って来るかに見えた。ところが、源氏や筑波の平良正、良兼叔父などから見れば事態はとても座視できないものであった。
この事件は「都」に居る国香の息子・貞盛の耳にも入った。貞盛の驚きは言うまでも無い。貞盛は心の中でつぶやいた。「将門の馬鹿め」なぜ、源の三兄弟を倒し、大串の館(源氏の本拠地)を焼きつくした時点で戦いを止めなかったのか。仕掛けられた戦いだけを終わらせれば良い事であろう。
父の東石田の館や判類の家・筑波山麓の民家まで焼く必要は無かったのに、なぜ、ここまでの暴行の限りを尽くしたのだ。
こんな事をしてしまっては、ただの暴徒に過ぎないではないか・・・・。と貞盛はつぶやいた。それに、このまま争いを続ければ坂東の平氏一門は内輪の争いで滅亡することになると貞盛は思った。
この一件で貞盛は板東の地に一時帰郷をせざるを得なくなるのでした・・・・・・。
次回の第6節へ続く。-
2025年(令和7年) 5月5日
森 田 衛 (神栖市)
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