「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

10月4日(月)・5日(火)「見学会」説明資料

2021-09-26 08:33:21 | 発掘調査

10月4日(月)5日(火)9時~15時

 島崎氏歴代供養塔発掘現場見学会開催されます。

当日の見学会の説明資料を掲載します。

◆⦅島崎城Ⅰ⦆島崎城発掘調査報告書(発行・牛堀町教育委5員会)

第1次・第2次発掘調査報告より古石塔群発掘の経緯

【調査日誌】 昭和61年(1985年)

12月 7日(日)  遺構測量、伐採作業を継続。土塁セクション区で土塁基盤層を検出中に数個の石列を発見する。

12月 8日(月)  遺構測量。伐採作業を継続。土塁セクション区では、昨日発見した石列が二段に積まれていることを確認する。

12月 9日(火) 遺構測量。伐採作業を継続。土塁セクション区では、石敷遺構の延長をすべて検出し、その精査および清掃を行った。その結果、石敷遺構の検出部分がさらに、土塁遺構の下位にまでおよんでいることを確認した。

12月10日(水) 遺構測量。伐採作業を継続。石敷遺構の写真撮影を行い、終了後、土塁セクション面の測量に取り掛かる。

12月11日(木) 遺構測量。伐採作業を継続。石敷遺構の平面図。側面図作製のため水糸を方眼に組んで方眼測量を実施する。

12月12日(金) 現状遺構確認測量もⅠ曲輪より北方向にある空堀まで完了し、今年度の遺構確認調査を終了する。

土塁セクション区では石敷遺構実測の終了後、転石1個と南側隅に置かれていた板碑石1個とを取り上げ(現、教育委員会で保管)セクション区の埋めもどしに取りかかり完了する。

古石塔集積 石敷状遺構】

 この石敷状の遺構は、土塁の基盤層でもある青灰色粘土層を10~15cm掘り下げた部分を地盤とし、二段に積んでいるとみられる。3.47mの長さに亘り石列があり、土塁セクション面とほぼ並行する。奥行については不明であるが同様の石積が、検出石敷の奥にも存在していることが隙間から確認できた。しかし、その全体的な規模については不明である。

 今回検出した、石敷状遺構の石材は、すべて石塔の部分石である。出土石列中には五輪塔の地輪部・火輪部・水輪部、および板碑として利用されていた筑波石系とみられる石塔(下総型)、宝筐印塔の基礎部石なども含まれている。古石塔以外の集石石材はない。この石塔敷のすべてが土塁盛土に覆われている状況からみて、石敷状遺構の性格づけは今回できなかった。また、敷石状遺構と土塁構築遺構との相互関係を明らかにするためには、さらに慎重な調査が必要である。

 そこで第二次の調査は本来の目的であったセクション調査のみにとどめて、検出された古石群の遺構はそのまま埋め戻した。

 小括として、第2次調査の4号トレンチについては、土塁敷より重層の石塔敷遺構が検出される。土塁は版築状に積まれていた。石塔敷遺構は土塁内に延び、調査を継続することになると土塁を破壊することとなり、今後の調査手法を関係機関と協議し、進行することとした。

 総括として、土塁は版築状土塁で層序ごとに突き固めた崩れにくい工法で成立している。土塁敷下からは多量の古石塔群が重層で石敷状に出土した。これら石塔群の集積する性格および石塔の年記銘等の解明は、昭和62年(1987)度以降の調査にゆだねたい。

 

◆⦅島崎城Ⅱ⦆島崎城発掘調査慨報(発行・牛堀町教育委員会)

第3次・第4次発掘調査報告より古石塔群発掘の経緯

【調査日誌】 昭和63年(1987年)

11月11日(水) 御札神社地鎮祭のち調査団結団式。第一次調査区から北側トレンチへ拡張、土塁セクション(第二次調査)と石塔群を再検出。

11月12日(木)土塁敷石群調査のため調査穴土留めの鉄柱補強を行う。

11月14日(土)土塁敷石群南側へ拡張。

11月16日(月)石塔群実測に着手。

11月26日(木)石塔群の方眼測量、潮来高校、牛堀中学、麻生高校の生徒 15名作業に参加。

12月16日(水)石塔群測量終了。

12月23日(水)土塁セクション実測。石塔群埋め戻し。

【石塔群集積敷遺構】

 一の曲輪北側に通称「御鐘(おかね)台(だい)」と呼ばれる櫓台もしくは大規模土塁がある。

 御札神社社殿・本殿を昭和55年(1980)に改修した折、中央部を資材運搬のため、ブルドーザーにて拡幅し、崩した土砂を北側の堀切りに埋め立て、現状のようになっている。第2次調査の折、この拡幅道左右の東側を削りセクション面の測量にあたることとした。思いがけず、セクション面検出のため基底部を掘り下げたところ、石塔が並べられている遺構が発見された。その出土状況は、「島崎城Ⅰ」で述べた通りである。今次調査では、この石塔群の埋没状況と遺構性格を解明するため、御鐘台の現状遺構を保存するため、敷部のみ、現状に掘り貫くこととして作業にあたった。

 発掘調査は、鉄パイプと道板で落盤を防ぐため補強しながら埋没石塔群の全容を検出した。出土状況は写真並びに図5に示した通りで、予想外に奥深くなく凡そ1mで全容が現れた。出土した石塔は、板碑2点、五輪石塔材40点であった。遺構としては、石塔を二列に並べ、中央に25cmの空間を設け、この25cmの空間天部を板碑と五輪笠石・基礎石で蓋状にかぶせる暗渠状の構築物である。確かに石塔集積は左右と天部からなる中央部が空間となる暗渠状であるが、石積左右には、溝としての穴状遺構は検出されず、水が流れた痕跡は見出せ得なかった。

 以上の結果から、調査団では、石塔群集積敷の構築遺構は、暗渠状遺構であるが、排水機能は不明(すなわち未完成か、あまり使用しなかった)であるという結論に達した。

 なお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査のなお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。

 島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査の石塔遺構と同じ転用方法である。このことからも島崎城一の曲輪を中心とした最終使用期は慶長元年(1596)もしくは文禄三年と認められる。

皆様の見学会の参加をお待ちしております!!。



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