「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎氏滅亡の残影と南方三十三館の終焉」鹿行の文化財より

2021-02-14 18:39:41 | 歴史

「島崎氏滅亡の残影と南方三十三館の終焉」鹿行の文化財より

◆はじめに

 鹿行の地域は、大部分が洪積台地で北浦と霞ヶ浦から延び出る、無数のヤツ(浸食谷)によって、複雑に刻みこまれて舌状台地を造り出している。そのような地形を舞台に、十世紀中葉平将門に象徴するように、早くから武士団が形成され、その中でも桓武平氏系統の大掾氏はその代表であった。高望王直系の維幹から始まり、常陸国の次官名の大掾を(親王領のため長官は佐)名字として名乗っていた。これにより大掾氏、在庁官人でもあり荘官でもあったので、在地の支配者として、地位と財力をほしいままに君臨し得た。

 常陸国南部のこの地は、俗に南方三十三館と呼ばれる大掾氏一族が簇生し蟠居していた。これを梅原猛流に表現すると「神の流竄と表わすこともできる。子から孫へと細胞分裂を繰り返し、版図を拡大したのである。ところが鎌倉時代の初期から数えて四百年、戦乱興亡の戦国の世ともなると、血族間同士が相争いなかでも島崎氏は他氏を圧倒し、国人領主に成長したものである。

 ところが、天正十九年二月大掾氏一族は、敢え無くも佐竹義宣により一挙に誅殺されてしまう悲劇となった。嶋崎氏の外に玉造・相賀・小高・手賀・武田の六氏。鹿島・中居・烟田の鹿島郡の旧族も一族もろとろ、葬りされてしまうことになった。

◆佐竹氏をめぐる当時の状況

天正14年(1586)春、佐竹氏の当主は義重から義宣に代わった。義重は引退には早い37才、義宣は若冠17才の時である。しかも、佐竹氏をめぐる情勢は容易ならざるも折も折のことで、奥羽の伊達政宗、相模の北条氏直という強豪を腹背に受けて抗争中のことである。

また、中央の権力者の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残る関東・東北のみとなった。小田原に拠る北条氏政や氏直、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光がいた。

 秀吉は、天正15年「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名間の争いを私的なものとし、武力紛争の停止と平和的解決を関白政権にゆだねることを命じていた。ところが北条氏だけは、上洛し臣徒を求めても氏政の弟氏規を、家康の勧めでやっと上洛させた。そんな中に沼田領問題が起こった。ここは信州上田城を本拠とする真田氏の所領だったが、北条氏の侵攻で争いの場となった。結局、秀吉が沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領とする採決をし決着した。にもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政が家臣が奪取してしまった。ここは真田氏にとっての墳墓の地、家康に訴え出た。

 これで秀吉には、小田原征伐の絶好の口実を与えることとなった。先述の惣無字事令違反として、天正18年(1590)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かった。ここに至って、佐竹義宣も姻戚の宇都宮国綱から急迫した情勢を伝えられ、小田原参陣へと態度を決めた。奥州白河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、矛を収め運命に係る決断をした。五月二十五日石田三成らに迎えられ、二十七日秀吉に謁し危機一髪の難を逃れた。この佐竹軍の中に、嶋崎氏も参加し太刀一振り馬一頭を献上した。そして宣義は武蔵国の鉢形城・忍城を収めたりと転戦した。小田原参陣の佐竹氏麾下の常陸諸将の中には、佐竹一族の東・北・南と宍戸・真壁・烟田らの将が名を連ね、秀吉方に太刀・馬・金などを献している。ところが小田原氏治、大掾清幹、江戸重通等らの有力な豪族は、動員令に姿をみせなかった。小田原包囲に先立ち、北条氏が手を打って動誘したとか、家中統一が甲論乙駁で乱れ、小田原参陣ができなかったという説もある。

◆ふりかかる軍役賦課とその代償

 北条氏を滅ぼしてすぐ、秀吉は奥羽の大名領地を確定すべく会津に軍を進めた。義宣に対しては、兵糧米等の調達がきた。時恰も端境期とあって現物納には苦労した。そればかりか、妻子と父義重まで上洛を命じられるのである。しかし、秀吉は同時に義宣に対しつぎのような朱印状を与えた。これは義宣に対してその地位に確実な保証を与える、重要な文書である。

常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、相添目録別紙令扶助之訖、然上者、義宣任覚悟、全可令領知者也。

天正十八年庚寅八月朔日 

(朱印)(秀吉)  佐竹常陸助殿 (注※参照)

 この朱印状により、義宣が現実に支配している土地は、秀吉に公認されることになった。とは言うものの、この中には、まだ服従していない江戸氏や大掾氏行方・鹿島の諸濠の支配地が含まれていた。そして、この年の冬、義宣はその地位を保証されたことへのお礼として上洛した。そして秀吉の推挙で従四位下・侍従の位官を授けられ更に羽柴の姓まで与えられ、あくる年にこのことを謝するため黄金三十枚を献じた。

秀吉により公認されたとはいえ、領内統一に先行しての領土安堵であって、まだ家臣として服属しない勢力がある。そこで義宣は、それら諸将の潰滅に動くのは当然の帰結であった。東義久を鹿島郡に当らせ、重臣和田昭為らに江戸・行方の仕置を命じたのである。この十二月に江戸・大掾両氏を滅ぼし翌年二月行方・鹿島両郡の諸勢力をすべて一掃し、領国統一は完了した。豊臣政権を後ろ楯に、佐竹氏は北関東隋一の勢力にのし上がったのである。

◆嶋崎氏らの滅亡の跡

佐竹氏の南部討伐についての史料に「和光院過去帳」がある。それによると「天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生首の衆、鹿島殿父子カミ・嶋崎殿父子・玉造殿父子・中居殿・烟田殿兄弟・オウカ殿・小高殿・手賀殿兄弟・武田殿己上十六人」諸氏が書留められている。(玉造町史)また、六地蔵過去帳には、嶋崎氏のみだが、「桂林呆白禅定門天正十九年辛卯卒於上ノ小河横死、春光禅定門号一徳丸於上ノ小川生害」と記されている。「南方三十三館由来書」や「諸士系図書」の所伝では、義宣はこれら諸氏を会盟にことよせて太田城下に誘殺し、従わない者には軍をさしむけ、一朝にして攻略し去ったとある。

 大掾諸氏を滅ぼした手段については、いくつもの伝承があり謎を秘めている。瀬谷義彦氏は「茨城の史話」の中で、次のように述べている。「嶋崎氏をはじめ、太田に誘って殺したと「新編常陸国史」にあるが、いったい何の目的で多くの城主が招かれたのか。前述した会盟にことよせて云々・・・」の件りで、江原史昭編「鹿島・行方三十三館の仕置」をとり、大掾・江戸氏らの壊滅後南部の諸氏らが不安となり、佐竹氏を盟主と仰ぐ雰囲気を作り出し、改めて自分らの支配地の配分を、佐竹氏に承認してもらうための会盟に誘われたとする解する見方もあるが、茶の湯に誘われたとする説もあり江原説が当を得たものだ」そして、太田城中で一緒に殺されたものでなく、それぞれの縁故に預けられて処分されたのが真相である。

 ◆落城後の余烙

 島﨑城主義幹と長男徳一丸は、上小川の城主小川大和守の家臣清水信濃に遁させたれたしたものも、大和守は鉄砲で義幹を撃ち、徳一丸も生害させたれた。次男吉晴は生き残り、島﨑の血は繋がれ、多賀郡油縄子村に土着した。落城から百十六年を経た宝永四年(1707)島崎氏の氏寺長国寺に供養碑を建てた。また、昭和四十年九月には「島﨑義幹父子三百八十年祭」を、非業の死をとげた大子町頃藤で行い地元の有志も参加した。

このことの外に新事実が近年出てきた。島崎氏の子孫が東京の町田小山に居て、島﨑姓を名乗る家が八十七世帯もあるという。その中には島崎旦良(1766~1818)という絵師がおり、表絵師十二家の筆頭駿河台狩野派に属して、活躍していることが分かった。作品は仏画が多く、市の文化財に指定されているが、中でも注目すべきは「島崎村絵図」で、常陽島崎村絵図と題している。絵図には付箋が貼ってあり御札神社、長国寺、二本松寺、牛堀権現山等々具体的に庄屋宅の門まで精細に、平和でのどかな様子を感じさせ、ほのぼのとした筆致で描いてある。

町田には、現在島崎氏や地域について調べたり、史料交換したり研究団体もあって、何度も故地とする本市に訪れている。とにかく、これ程までの執着、郷愁を持っていることは驚くばかりである。序に言えば、幕末剣豪近藤周助は、町田氏小山町島崎氏の出身で近藤家に入り、四代目天然理心流試衛館の近藤勇も元は島崎氏で、二代続いて島崎家からの養子であった。

◆おわりに

 近世の前夜大掾氏一族は、突如として泡の如く消えた。しかし、家臣たちは近郷近在に散在した。古い秩序が音を立てて崩れ、次の近世の幕が開く。しかし四百年有余前に滅亡した島崎氏について地元では余情がくすぶり、茶飲み話に出てくる。これは島崎氏への「鎮魂」となっている。

※注記

①貫高制から石高制になる。

 佐竹氏の領国を、天正十九年八月一日、二十一万余の貫文を安堵したという朱印状を秀吉から与えられたと述べたが、これは銭高の単位で、届け出た指出帳により所領を申告したもので、文禄三年には太閤検地により、五十四万五千八百石の領地を支配する大名となり、この数字から軍役も普請も(伏見城)割当てられた。つまり、この検地から永楽銭などの貨幣に変わって、土地の生産高を石高により表示した。

②国人領主

 在地領主の呼称のことである。幕府の力が弱くなると地方の地頭荘官らは自立するようになる。彼らは荘園制を利用して小規模なりに領主となる。勢力拡大のためには守護大名の被官となり、あるいは守護大名を排斥をしたりして、有力なのは戦国大名になる者もあった。(潮来市・今泉元成)

引用 鹿行の文化財第37号  

鹿行地方文化研究会・鹿行文化財保護連絡協議会 発行

 



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