写カットライフ

写真を通して人生を楽しみたい。
道具に凝るのもよし、撮影技術を磨くもよし、写真をテーマに楽しみ方を綴ったブログです。

母を亡くすということ

2015年12月24日 22時36分02秒 | 思ったこと

先月末、母が逝った。今週末の日曜で四七日を迎える。やせて体力のなかった母は病院という環境ではひとたまりもなかったかもしれない。

実家の敷地内の改装の出来上がりを見に自宅に帰り、そこで転んで足を骨折した。軽いヒビであったが筋肉の衰えを防ぐため、リハビリを兼ねる病院に入院した。来春に自分たちがUターンするので介護施設から自宅へ戻り一緒に暮らすことを楽しみにしていてくれた。そのために、介護施設では数歩でも自力で歩こうと歩行訓練をやっていた。
しかし、病院への入院は環境があまりにも違いすぎたのだろうか。食べるものも口に合わずみるみる衰弱し点滴となってしまった。
前回のブログで紹介した大山の写真は入院直後の頃撮影したものだ。それから2週間で危篤となった。急遽帰省し病状を聞くと心不全の兆候が激しいという。確かに呼吸が苦しそうであった。11月という月は父の亡くなった月でもある。早く父のところに行きたいなどとも言い出した。
口からは何も食べたり飲んだりできなくなっていった。喉の渇きはしきりに訴えるので口に水を含ませることを何度も繰り返した。 
一旦、心不全は持ち直し、個室から大部屋に戻った。意識はしっかりしていたので、食べることができるようになれば元に戻るのではないかと淡い期待を抱いたのも確かである。そして、12月には帰省の予定を立てていたので一旦東京に戻った。 

11月30日。午後の2時過ぎ、携帯のバイブが鳴った。病院の名前が表示されている。覚悟を決めていたが不吉な知らせだと感じた。すると、深刻な危篤の知らせであった。今回は意識が薄いという。一両日は持つとは思うがなるべく早く来てくれという。仕事を整理して帰りのチケットの手配をネットでやろうとしていると再び携帯が振動した。病院からだ。先ほど息を引き取られてという知らせであった。最初の電話から30分も経っていなかった。・・・。言葉はなかった。逝くときはこんなにも早いのか。・・・。

この大山の写真は5年前父が入院をしている時、最後に見せたいと思い撮ったものだ。母も同じくこの季節に逝った。今頃はあの世で再会を喜んでいるのだろうか。残されたものはせめてそう願いたい。

母と最後の会話は「すべてお前に任せるけん、みんなお前に任せるけん」であった。
父の亡きあと、東京に暮らしてはいたが、実家を相続し自分がすべてやっているとその時は思ったがそうではなかった。自宅からの出棺の時、見送ってくれている近所の方達の数の多さにびっくりした。その時にはっきりと理解できた。父が逝ったあと。一人で守っていたものが理解できた。家、一族、祖先から受け継がれてきた全てを痩せて小さな体の母は背負って、そして壊れないように守っていたのだ。

母とはどうあがいても超えることはできない存在だ。昨日から実家に戻り、来春からの準備を少しづつ行っている。任せられた責務をうまくこなしていけるかどうかわからないが、ここで暮らすために必要なことは前向きにこなしていきたいと考える。

しかし、寂しいことだ・・・・・
 

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