ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ジャン・ギャバン年譜(3) Biographie de Jean Gabin(3)

2015-07-29 | ジャン・ギャバン年譜
(3)映画デビューからトップスターへ(26歳~34歳)

1931年~1932年
 デビュー作『誰にもチャンスが』(マルク・アレグレ監督)が前年暮れにパリで封切られ、正月にはフランス中で上映される。映画はヒットし、ジャン・ギャバンは華々しく映画界にデビュー。


 『誰にもチャンスが』で元妻のギャビー・バッセと共演

 その後2年間で10本の映画に出演。ほぼ全作品が主役ないし準主役で映画スターへの道を歩み出す。歌と踊りのある娯楽映画のほか、シリアスな文芸映画にも出演。
 31年秋、ベルリンへ行き、『グロリア』のフランス語版に出演。主役はドイツのスター女優ブリギッテ・ヘルムで、ギャバンは脇役だったが、有望な若手俳優として注目される。
 アナトール・リトヴァク監督の『リラの心』(32年3月フランス公開)ではパリの下町の不良青年を演じて高い評価を受け、ギャバンの魅力が発揮される役柄の一つのタイプとなる。

1933年
 4本の映画に出演。ゲオルク・W・パブスト監督の『上から下まで』でサッカー選手の役を演じる。この映画はのちに(1936年5月)日本でも公開。
 秋、パリでヌード・ダンサーのドリアンヌ(本名ジャンヌ・モーシャン)と知り合う。
 11月、父が死去。その3日後にドリアンヌと結婚。内輪だけの結婚式ですます。ジャン29歳、ドリアンヌは4歳上の33歳だった。二人の夫婦生活は7年続くが、ギャバンは幾度となく浮気していた。

1934年
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』で主役のマドレーヌ・ルノーと共演。この映画のロケでカナダへ行く。ギャバンは開拓民で猟師の役。
 『はだかの女王』で黒人混血スターのジョセフィン・ベーカーの恋人役をつとめる。(『はだかの女王』は1935年12月に日本公開され、ジャン・ギャバンの本邦初お目見えとなる。『白き処女地』が日本公開されるのは1936年2月)

1935年
 『地の果てを行く』(デュヴィヴィエ監督)の映画化に自ら関わる(映画化権を買う)。原作者のマッコーランと親交をむすぶ。


 『地の果てを行く』撮影中のスタジオの前で
 (中央にデュヴィヴィエ、右に東和映画社長の川喜田長政)

1936年
 『どん底』でジャン・ルノワール監督の映画に初出演し、名優ルイ・ジューヴェと共演。
 『望郷』(デュヴィヴィエ監督)の相手役ミレーユ・バランと恋仲になる。


 『望郷』日本版ポスター

1937年
 1月、『望郷』がフランスで公開され、大ヒット。ギャバンが扮したギャングのペペ・ル・モコが当たり役となる。
 6月、『大いなる幻影』(ルノワール監督)がパリで封切られ、絶賛される。
 夏、ドイツのウーファ社と契約を結び、ジャン・グレミヨン監督の『愛慾』をベルリンで撮る。相手役はミレーユ・バラン。この映画の後、バランとは別れる。
 若きマルセル・カルネ監督と詩人・脚本家ジャック・プレヴェールに知り合う。『霧の波止場』の製作に自ら関わる。11月、クランク・イン。相手役は当時17歳のミシェール・モルガンで、ギャバンは彼女に心惹かれる。ただし、この頃はまだ恋愛関係に発展せず。


 『霧の波止場』撮影中、休憩時のスナップ
 (左にピエール・ブラッスール、中央にミシェール・モルガン)

1938年
 5月、『霧の波止場』公開され、絶賛をあびる。
 7月、『獣人』(ルノワール監督)で、少年時代からなりたかった鉄道機関士の役を演じる。
夏、ドイツのウーファ社と契約を結び、『珊瑚礁』に出演。地中海でのロケ撮影のあと、ベルリンの撮影所で相手役のミシェール・モルガンと再会。ドイツと英仏との緊張が高まるが、9月末ミュンヘン協定で一時的に緩和。


ジャン・ギャバン年譜(4) Biographie de Jean Gabin(4)

2015-07-28 | ジャン・ギャバン年譜
(4)波瀾万丈の大戦中、戦後の低迷期(35歳~47歳

1939年
 7月、ジャン・グレミヨンの『曳き船』の撮影期間中にミシェール・モルガンと恋愛関係になる。
 9月、フランス、ドイツと開戦。第2次大戦はじまる。ギャバン、応召され入隊。『曳き船』の撮影は中断、ミシェール・モルガンとも離れ離れとなる。

1940年
 5月、除隊し、『曳き船』の撮影を続ける。
 6月、ドイツ軍、フランスへ侵攻。
 6月14日、パリ陥落。ギャバンはパリを逃れ、南フランスへ避難。
 妻ドリアンヌと別れる(離婚成立は2年後)。
 ニースに滞在。
 ミシェール・モルガンが渡米することになり、見送る。これが彼女との別れとなり、ギャバンは失意のうちに暮らす。

1941年
 2月、フランスをあとに、ポルトガルのリスボンから船でアメリカへ渡る。
 しばらくニューヨークに滞在し、ハリウッドへ行く。ダリル・ザナックとフォックス社の映画出演契約を結ぶ。憧れの女優ジンジャー・ロジャースに会う。
 この頃、マレーネ・ディートリッヒと出会い、恋愛関係になる。
 ディートリッヒとハリウッドの家で夫婦同然に暮らす。この家はグレタ・ガルボ所有で、隣りにガルボが住んでいた。渡米中のフランス人の映画関係者などを招いて会食する。


 ディートリッヒと

1942年
 フォックスで『夜霧の港』を撮る。にわか仕込みの英語で台詞をしゃべる。
 渡米中のデュヴィヴィエ監督で『逃亡者』を撮る。

1943年
 自由フランス軍に志願入隊。階級は二等兵曹。
 4月、海軍の護送船で大西洋を渡り、北アフリカ(アルジェ)へ行く。任務は石油タンカーの護送だった。
 途中、ドイツ機に襲撃され、応戦。
 アルジェでは、海軍陸戦隊の教育係を務める。
 アメリカ空軍婦人部隊の一員になってアルジェに立ち寄ったディートリッヒと再会。
 
1944年
 8月20日、連合軍パリ解放。その報をアルジェで知る。
 秋、巡洋艦でフランスへ渡航。ブレスト港に着き、3年半ぶりに母国の土を踏む。
 冬、第二機甲師団に入り、戦車でロレーヌ地方へ向かう。


 戦車隊で活躍した頃

1945年
 2月末、パリに立ち寄り、親戚一族に再会。
 4月、ドイツ軍基地の解放に向かう。戦車に搭乗し、ロワイヤンでの攻防戦に参加。その後、ライン川を渡り、各地で転戦。
 5月8日、休戦協定。
 7月、復員してパリに帰る。
 ディートリッヒとパリで生活を始める。
 マルセル・カルネ監督から『夜の門』への出演を依頼される。相手役にディートリッヒを起用するという条件で引き受けるが、ジャック・プレヴェールの脚本を読んだディートリッヒが出演を辞退。ギャバンも降りる。主役はイヴ・モンタンに代わり、カルネ、プレヴェールとの友情にひびが入る。(『夜の門』の主題歌「枯葉」はのちにモンタンが歌い、大ヒットする)
 ギャバンは、自ら映画化を企画していた『狂恋』の製作に力をそそぐ。ディートリッヒが相手役を引き受ける。

1946年
 12月、『狂恋』(ジョルジュ・ラコンブ監督)が公開され、興行成績は良かったが、凡作で映画評はかんばしからず。ギャバンもディートリッヒも魅力を発揮できずに終わる。
 以後、ギャバン自ら「幕間」と呼ぶ灰色の時代が始まる。
 ハリウッド映画へ出演するため再三アメリカへ帰るディートリッヒとの関係も熱が冷めてゆく。

1947年
 ディートリッヒと破局。将軍の令嬢コレット・マルスと交際を始める。
 『面の皮をはげ』(レーモン・ラミ監督)の1本のみに出演。この映画でギャバンはコレットに役を与え、デビューさせる。また、共演した新進女優マルティーヌ・キャロルとの間にも噂が立つ。

1948年
 9月、仏・伊合作映画、ルネ・クレマン監督の『鉄格子の彼方』に出演するため、イタリアへ行く。ジェノヴァでロケ、ローマでセット撮影。(フランス公開は翌年11月)

1949年
 2月、劇作家アンリ・ベルンスタンが書き下ろした『渇き』で主役の一人を演じ、二十年ぶりにパリの舞台(アンバサドゥール座)に出る。相手役はマドレーヌ・ロバンソンで、クロード・ドーファンも共演。この芝居は好評を博し、1年以上に及ぶロングランになる。


 芝居『渇き』で演じたジャン・ガローヌ役

 2月初め、ファッションモデルのドミニク(本名マルセル・クリスチアーヌ・マリー・フルニエで、呼称クリスティアーヌ)と知り合う。
 3月終わり、知り合って2か月後に結婚。ギャバン44歳、ドミニクは13歳下の31歳。ギャバンにとって三度目の結婚。ドミニクも再婚で連れ子(ジャッキーという9歳の男の子)がいた。その後彼女はギャバンとの間に二女一男をもうけ、良妻賢母として家庭を守り続けていく。
 
 マルセル・カルネと和解し、『港のマリー』の製作に力をそそぐ。
 11月、長女フローランス誕生。ギャバン45歳で初めての子を持つ。

1950年
 2月、『港のマリー』公開。映画はヒットするも、港町のプチ・ブルジョワ実業家に扮したギャバンの役は不評。
 この年は仏伊合作映画『天国の門』1本のみに出演。イタリア人監督ルイジ・ザンバの作品でローマにて撮影。

1951年
 マックス・オフュールス監督がモーパッサンの短編を映画化したオムニバス作品『快楽』の第二話「テリエ館」で、マドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリューの二大女優と共演。ルノーとは12年ぶり、戦前からのスター女優ダリューとは初共演だった。ギャバンは田舎の農民に扮し、個性を出す。
 続いて、『ベベ・ドンジュについての真実』(アンリ・ドコワン監督)で再びダニエル・ダリューと共演。中年の夫婦役を演じて、お互い意気投合する。(フランス公開は翌年2月)


ジャン・ギャバン年譜(5) Biographie de Jean Gabin(5)

2015-07-27 | ジャン・ギャバン年譜
(5)再び大スターへ(48歳~59歳)

1952年
 『愛情の瞬間』(ジャン・ドラノア監督)でミシェール・モルガンと夫婦役を演じる。モルガンが主役で、ギャバンは医師の役で準主役。妻のモルガンが青年画家のダニエル・ジェランと不倫するストーリーで、映画の出来ばえは良く、高い評価を受ける。監督のドラノアとも初めて組んだ作品だった。
 7月、ノルマンディーのピショニエールに農場用の土地を買う。以後、ギャバンは農場の整備と運営に打ち込み、牛馬を飼い、周辺に土地を拡げていく。農場主としての労働と生活はギャバンが亡くなるまで続く。
 9月、次女ヴァレリー誕生。

1953年
 出演映画3本。適役に恵まれず。『ラインの処女号』でジル・グランジェ監督と初めて組む。

1954年
 ジャック・ベッケル監督の『現金(げんなま)に手を出すな』に主演。初老のギャングに扮したギャバンの演技が高い評価を受け、作品も傑作となる。


 『現金に手を出すな』で映画初出演のリノ・ヴァンチュラと

 続いて、マルセル・カルネ監督の『われら巴里っ子』に主演。ギャバンはボクシングのトレーナー役で、アルレッティが女房役。
 ギャバンは、この2作によってヴェネチア映画祭で最優秀男優賞を受け、以後、50歳代の大スター俳優として第二の全盛期を迎える。
 11月、フランスへ帰ったジャン・ルノワール監督と旧交を暖め、大作『フレンチ・カンカン』に主演。ギャバン初のカラー映画出演で、パリの興行師でムーラン・ルージュの創設者の役。相手役は売り出し中の女優フランソワーズ・アルヌール。

1955年
 4月、『フレンチ・カンカン』がフランスで公開され、大ヒット。
 ギャバンへの出演依頼が増え、この年、次々に7本に出演。『ナポレオン』『その顔(つら)をかせ』『筋金(やき)を入れろ』『首輪のない犬』『地獄の高速道路(ハイウェイ)』、そして『ヘッドライト』『殺意の瞬間』。
 9月、待望の長男マティアス誕生。

 『ヘッドライト』で新進気鋭の監督アンリ・ヴェルヌイユと初めて組む。共演はフランソワーズ・アルヌール。(『ヘッドライト』は翌年2月にフランス公開。日本では10月に公開され、好評を得る)
 11月、『殺意の瞬間』でデュヴィヴィエ監督と14年ぶりに組む。レストランのシェフ兼経営者の役。相手役はダニエル・ドロルム。(翌年2月に撮影完了、4月にフランス公開)

1956年
 クロード・オータン=ララ監督の『パリ横断』でアナーキストの画家の役を演じる。共演は人気喜劇俳優の二人、ブールヴィルとルイ・ド・フュネス。この映画は、彼らの人気もあって、フランス国内で大ヒットする。(日本では未公開)
 この年は、ほかに『逆上』(ジル・グランジエ監督)とジャン・ポール・シャノワ監督の『罪と罰』『ローラン医師の患者』に出演。

1957年
 『殺人鬼に罠をかけろ』(ジャン・ドラノア監督)でメグレ警視を演じ、当たり役とする。(ギャバンのメグレ警視シリーズはほかに2本撮られる)
 『レ・ミゼラブル』(ジャン=ポール・ル・シャノワ監督)でジャン・ヴァルジャンを演じる。映画は大ヒットする。(ギャバン主演作で戦後の興行成績トップとなる)

1958年
 『可愛い悪魔』(クロード・オータン・ララ監督)で人気爆発中のブリジット・バルドーと共演。ただし、映画は凡作で興行成績も振るわず。ギャバンはこれを最後に女優とのラヴ・シーンを撮らなくなる。
 『大家族』で若手監督ドニス・ド・ラ・パテリエールと組む。

1959年
 出演映画3本。
 『浮浪者アルシメード』(ジル・グランジエ監督)はギャバンの原案を映画化したもので、クレジットタイトルに初めて本名のジャン・モンコルジェを使う。ギャバンは主人公の浮浪者(タイトルのアルシメードはアルキメデスのこと)を意欲満々に演じ、映画も大ヒットとなる。日本では未公開。

1960年~61年
 年間の出演作を2本に絞る。


 家族全員と

1962年
 『冬の猿』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)で若手スターのジャン=ポール・ベルモンドと初共演。ベルモンドとはすぐに意気投合し、共にスポーツを楽しんだりする。しかし映画は、新旧の両雄並び立たずで不本意な出来となり、興行成績は予想を大きく下回る。


 『冬の猿』撮影中 ベルモンド、ヴェルヌイユ(中央)たちと


1963年
 同じくアンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディ』で今度はもう一人の若手スターのアラン・ドロンと初共演。老ギャング役のギャバンが途中からドロンの脇役に回る展開のため、ギャバンはこの作品が気に入らなかったが、世界的にヒットする。フランス本国よりも日本での興行成績が圧倒的に良かった。以後ずっとアラン・ドロンはギャバンを父親のように慕い、ギャバンもドロンを可愛がった。二人の共演作はのちに2本(『シシリアン』『暗黒街の二人』)作られ、ヒットする。


 『地下室のメロディ』 ドロンと


ジャン・ギャバン年譜(6) Biographie de Jean Gabin(6)

2015-07-27 | ジャン・ギャバン年譜
(6)主演する老優、晩年(59歳~72歳)

1964年
 旧友の人気喜劇俳優フェルナンデルと二人で映画製作会社「ギャフェール」(ギャバンのギャとフェルナンデルのフェルを合わせて命名)を設立する。
 その第1作『思春期』(ジル・グランジエ監督)をフェルナンデルとの共演で作る。しかし、興行成績は予想を大きく下回り、新会社は困難な船出となる。(『思春期』は日本未公開)


 フェルナンデルと

1965年
 ドニス・ド・ラ・パトリエール監督の『神の雷鳴』に主演。この年の出演作はこの1本のみだったが、ヒットする(日本未公開)。

1966年
 『皆殺しのバラード』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で老ギャングを演じる。

1967年
 『太陽のならず者』(ジャン・ドラノア監督)の1作のみ。

1968年
 『パリ大捜査網』で新進気鋭のジョルジュ・ロートネル監督と組む。主役のギャバンは辣腕のパリ警察本部長。映画は大ヒット。

1969年
 アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演した『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)が世界的に大ヒットする。

1970年
 『わが領土』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、大地主の役を演じる(日本未公開)。

1971年
 2月、親友のフェルナンデルが死去し、ショックを受ける。
 『猫』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、長年共演を望んでいたシモーヌ・シニュレと初共演。映画の出来は良かったが、予想に反して、ヒットせず。ギャバンは観衆の望む映画が分からなくり、失望する。(『猫』は日本未公開)

1972年
 『殺し屋』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で警部役(日本未公開)。

1973年
『ドミニシ事件』(クロード・ベルナール=オベール監督)に主演。実在の老農夫ドミニシを演じる(日本未公開)。
 ジョゼ・ジョヴァンニ原作・監督の『暗黒街のふたり』でアラン・ドロンと共演。老保護司に扮し、好演。この作品は、翌年4月に日本でも公開され、ヒットする。

1974年
 CBSで約40年ぶりにレコーディングしたシャンソン〝Maintenant, je sais"(ぼくの知ってること)が大ヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=OEkJ45ZXK-o

 出演映画は9月にフランスで公開された『愛の終わりに』(アンドレ・カイヤット監督)の1本のみ。主役はソフィア・ローレンで、ギャバンは彼女を裁く判事の役。この映画は翌年9月に日本公開され、生前のギャバンを日本で見る最後の映画になった。


 ドミニク夫人と

1975年
 映画出演なし。この年の末にようやく映画『聖年』の企画が持ち込まれ、出演依頼を受ける。

1976年
 この年の初めに『聖年』(ジャン・ジロー監督)の撮影開始。ギャバンは、神父に変装した老ギャングの役で、共演のダニエル・ダリュー、ジャン=クロード・ブリアリと久しぶりに映画の仕事を楽しむ。
 4月3日、フランスで創設されたセザール賞の第1回授賞式で開会の辞を述べ、出席者の喝采を浴びる。
 4月23日、『聖年』がフランスで封切られる。(この映画はギャバンの死後もずっと日本未公開で、後年、『脱獄の報酬』のタイトルでテレビ放映された)
 この夏、例年にない猛暑となる。ノルマンディーのピショ二エールにある自己所有の農場で作物と家畜の世話をして働く。
 10月、ドーヴィルで数日間休暇を過ごす。


 ドーヴィルの浜辺で

 11月、ピショニエールの農場で過ごす。
 11月9日、パリのレイモン=ポワンカレ街の自宅へ帰る。身体の変調をきたす。
 11月13日、夕方、救急車でヌイイ=シュール=セーヌにあるアメリカン・ホスピタルへ送られ、入院。
 11月15日、未明(午前6時)に心臓発作を起こし、病室にて永眠。享年72歳。
 11月17日、火葬。
 11月19日、遺骨は、「海に葬ってほしい」という本人の遺言によって、フランス海軍の船デトロワイヤ号でブレスト港の沖合に運ばれ、フランスの北の海に投じられた。


はだかの女王 Zouzou

2015-07-26 | 1930年代の映画


 1934年 黒白(スタンダード)85分
〔監督〕マルク・アレグレ
〔撮影〕ミシェル・ケルベル〔美術〕ラザール・メールソン
〔音楽〕ヴァンサン・スコット、ジョルジュ・ヴァン・パリス、アラン・ロマン
〔封切〕1934年12月(フランス)、1935年12月(日本)

 こういう他愛のないミュージカル映画を見るのもいいものだ。今はインターネットの時代で、フランスのテレビで放映したこういう古い映画を、奇特な人が録画してYou Tubeにアップしてくれるので、日本にいてもパソコンで見ることができる。もちろん、日本語の字幕スーパーはないが、少しフランス語が分かれば、単純なストリーなので理解できるし、十分楽しめる。『はたかの女王』は、私が昔からずっと見たかった映画で、ようやく念願が叶ったのだ。この映画、実に楽しく、見どころ満載の面白い映画だった。アメリカのミュージカルとはひと味もふた味も違う、いかにもフランスのパリの雰囲気が溢れているミュージカルであった。いや、ミュージカルというより、オペレッタ映画と言ったほうが良いかもしれない。(*You Tubeで、Zouzouを検索するとこの映画が見られる)

 『はだかの女王』は、昭和10年12月に日本で公開され、評判になった映画である。この邦題は、「裸の王様」にあやかったようなタイトルだが、なんと刺激的なことか!(戦後再公開されたときは『琥珀の舞姫』に改題されたそうだ)
 主演は、かのジョセフィン・ベーカー(フランス語ではジェセフィーヌ・バーケル)。アメリカからフランスへ渡り、当時ヨーロッパ中で爆発的な人気を呼んだ混血歌手である。西洋好きな日本人はみな、「黒いビーナス」の異名をとるこの話題の歌手が初めてスクリーンに登場するというので、映画館へ見に行ったそうだ。なにしろ、ヌード・ダンサーまがいに、黒人の血が半分混じった琥珀色の素晴らしい肢体を見せながらミュージック・ホールの舞台で歌い踊るという話だったので、興味津々、ストリップ小屋でも覗くような好奇心にそそられたのだろう。
 そして、みんなこの映画を見てびっくり仰天したらしく、ジョセフィン・ベーカーのファンが日本でも急増したという。
 映画評論家の双葉十三郎氏もその一人であった。興奮さめやらないといった感じで、映画評にこう書いている。

――ただひとこと「われジョセフィンを見たゾ!」と云うより仕方がない。その歌の素晴らしさはもとより、その動き、その演技、すべて事々に「百聞は一見に如かず」という言葉を思わずにはいられないものに満ち溢れている。どうも呼び込みの口上みたいになってしまうけれど、何はともあれ話の種、是非一度は御覧あれ、と云いたい。
 
 ところで、この映画には、このあとすぐに大スターになるジャン・ギャバンが相手役で出演している。当時日本では、まだジャン・ギャバンの出演作は一本も紹介されておらず、これがギャバンの本邦初お目見えの映画だった。ギャバンの主演作が4本続いて日本公開されるのは翌昭和11年で、『白き処女地』『上から下まで』『地の果てを行く』『ゴルゴタの丘』の順である。なかでもデュヴィヴィエの傑作『地の果てを行く』が日本におけるギャバン人気を決定的にした代表作であった。
 それはともかく、実を言うと私がずっと『はだかの女王』を見たかったのは、若き日のジャン・ギャバンがどういう役をやったのかを確かめたかったのだ。といっても、ギャバンは1904年生まれだから、この映画に出たときはちょうど30歳で、フランスでは映画デビュー4年後、すでに十数本の映画に出演していた。



 『はだかの女王』で、ギャバンはジャンといい、ジョセフィン・ベーカーのズズ(映画の原題になっている)に愛される男の役である。ジャンとズズは二人とも孤児で、養父の旅芸人に兄妹のように育てられたのだが、成人してパリに住むようになってから、ズズはジャンを恋人のように慕っているのに対し、ジャンはズズを妹扱いしている。しばらく水兵をしていたジャンが帰ってきて(最初ギャバンはセーラー服で登場)、ミュージック・ホールの照明係になる。ズズは洗濯屋で働いている。ズズは歌の上手な明るい娘で、ミュージック・ホールに洗濯した衣装を届けに行くのも毎日の仕事の一つである。ある日、ズズは、洗濯屋の娘で自分の親友でもある純情可憐なクレールをジャンに紹介する。二人はダンスをしながら(この時ギャバンが「おいで、フィフィーヌ」というシャンソンを歌う)、相思相愛になってしまう。その後、いろいろな出来事があって、ズズは、主役の女性が抜けた代役としてミュージック・ホールに出演し、大評判になり、スターの道を歩んでいくのだが、最愛のジャンには自分の恋心を打ち明けず、親友のクレールにジャンを委ねる、という物語である。
 ラストにジョセフィン・ベーカーが舞台で大きな鳥かごの中に入って、大ヒット曲「ハイチ」を唄うところは、切なく感動的であった。

 ジャン・ギャバンは、1922年、18歳の頃からミュージック・ホール「フォリー=ベルジェール」でボードビリアンをやっていて、その後大御所のシャンソン歌手ミスタンゲットに見出され、出世し、「ムーラン・ルージュ」や「レ・ブッフ」に出演していたが、映画界に入ったのは26歳の時である。ボードビリアン時代は、モーリス・シュヴァリエに憧れ、その真似が上手だったという。
 ジョセフィン・ベーカーは、1906年セントルイス生まれ。ギャバンより2歳年下で、1925年、フランスへ渡って「黒いレヴュー」で注目され、その後フォリー=ベルジェールの大スターになった。その頃ギャバンの出演する劇場は違っていて、ベーカーとギャバンは舞台で共演したことはなかったようだが、互いに顔見知りだったのであろう。



 『はだかの女王』を見ると、二人はいかにも仲が良さそうなのだ。ただし、調べてみると、ベーカーはこの頃、この映画の原作・脚本者のペピート・G・アバチーノ(元は舞台の裏方でベーカーと結婚し、マネージャーになった)の奥さんだったし、ギャバンの方は、初婚の相手ギャビー・バッセと別れてしばらく独身だったが、1933年この映画製作中は、二番目の妻になるヌード・ダンサーのドリアヌと深い仲になっていた。
 この辺のところは、どうでもいいのだが、この映画を見るとギャバンのモテモテ振りがよく分かるような気がするのだ。
 クレール役のイヴェット・ルボンという女優のことはよく知らないが、かなり可愛い娘である。彼女もギャバンに本当にうっとりしているような感じを受ける。
 また、初めの方にまだ人気女優になる前のヴィヴィアンヌ・ロマンスが出ていた。水兵のギャバンとテーブルで話をするだけの役だった。ヴィヴィアンヌ・ロマンスは、デュヴィヴィエの『地の果てを行く』『我等の仲間』でもギャバンと共演した女優で、後年『地下室のメロディー』でギャバンの妻の役もやっている女優である。
 言い忘れたが、『はだかの女王』の監督はマルク・アレグレで、作家のアンドレ・ジイドの甥で、マルクの弟のイヴ・アレグレも映画監督であった。マルク・アレグレという監督は、この『はだかの女王』の翌年に作った『乙女の湖』で脚光を浴びた監督で、その後多くの娯楽映画を作っているが、ギャバンの映画を監督したのはこれ1本である。彼は、新人俳優(主に女優)を売り出すのに長けた監督で、シモーヌ・シモン、ミシェール・モルガン、戦後はジェラール・フィリップ、ブリジット・バルドーも彼の映画から羽ばたいていったという。

 『はだかの女王』のジャン・ギャバンは、その後のジャン・ギャバンとまったく変わらず、例によって話し方も演技も自然体だった。もうこの頃には映画俳優として手馴れたもので、スターの輝きも感じられる。
 最後に前に引用した双葉十三郎氏がこの映画で見たギャバンの第一印象を付け加えておきたい。

――『上から下まで』や『白き処女地』が封切られないのでまだわが国では未知数ではあるが、あちらでは今や人気の頂点にあり、ぼくとしてもまたその良さに折紙をつけてもよい。ジャンが現れる幾つかの場面の如き、街を歩く水夫としての彼が描き出す風景にしろ、下町の哥兄(あにい)としての彼が洗濯娘イヴェット・ルボンと醸し出す恋の下町風な情緒にしろ、まことに快く印象に残される。踊場の場面が惚れ惚れする程よい。ここで彼は「フィフィーヌ」を唄うのである。この場面を見たら誰もが早速この歌を口ずさみたくなるに違いない。

 と褒め上げている。さすがに双葉先生はけい眼の評論家であった。

霧の波止場(1) Le Quai des brumes

2015-07-26 | 1930年代の映画


 1938年 黒白(スタンダード)91分
〔監督〕マルセル・カルネ
〔原作〕ピエール・マッコーラン〔脚本・台詞〕ジャック・プレヴェール
〔撮影〕オイゲン・シュフタン〔撮影技師〕ルイ・パージュ
〔美術〕アレクサンドル・トローネル〔音楽〕モーリス・ジョベール
〔封切〕1938年5月(フランス)、日本公開は戦後の1949年

 1937年、ジャン・ギャバンは、ジュリアン・デュヴィヴィエの『望郷』、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の2作品によって、フランスだけでなくすでにヨーロッパで人気実力ともナンバーワンの男優になっていた。そのギャバンがベルリンでジャン・グレミヨン監督作品『愛慾』の撮影を終えてパリへ帰り、たまたま暇つぶしにシャンゼリゼの映画館で見た映画が、若き映画監督マルセル・カルネの第2作『おかしなドラマ』であった。カルネの監督デヴュー作『ジェニーの家』は好評で興行成績も良かったが、この第2作は不評で客入りも悪かった。にもかかわらず、ギャバンは『おかしなドラマ』を面白いと感じ、カルネの映画作りの手腕に感心し、ぜひ彼の映画に出てみたいと思ったのだ。ギャバンは早速、カルネに自分の主演作の監督を依頼し、企画の段階から自らも関わって、この映画の製作に力を注いだという。
 
 『霧の波止場』の原作は、当時フランスの人気作家ピエール・マッコーランの同名小説で、マッコーランは『地の果てを行く』の原作者でもあった。『地の果てを行く』(1935年)は、デュヴィヴィエが監督し、ギャバン主演で映画化され、ギャバンをスターダムにのし上げる作品となったが、そのときギャバンはマッコーランと親交を結んでいた。そこで、『霧の波止場』を映画化する際には、ギャバンが直接マッコーランに会って、承諾を得た。
 脚本を書いたジャック・プレヴェールは、原作を映画向きに大幅に変更した。原作は1910年頃のパリのモンマルトルが舞台になっていたが、それを現代(1930年代半ば)の港町(最終的にはル・アーブル)に移した。ギャバンが演じる主役のジャンは、原作の二人の登場人物を一人の人物にまとめて作り上げた。また、ヒロイン役のネリーは、原作ではパリのやくざの情婦だったが、純真で愛に飢えた薄幸の娘に変えた。プレヴェールは、1ヶ月ほどで脚本の第1稿を書き上げたという。
 監督マルセル・カルネ、脚本ジャック・プレヴェールという名コンビによる第3作『霧の波止場』は、製作会社の変更で一時期頓挫しかかったが、1938年1月に撮影が始まり、春に完成した。それはカルネの執念とスタッフの団結力の賜物であったが、ギャバンの積極的な後押しも大きかった。
 『霧の波止場』は、公開されるやフランスで大ヒットした。一般の観客だけでなく、ほとんどの批評家から絶賛されたが、この映画の完成度はそれだけ並外れて高いものだった。
 詩人プレヴェールの優れた脚本と含蓄のある台詞、カルネの計算された緻密な演出、オイゲン・シュフタンとルイ・パージュの陰影に富んだ撮影、アレクサンドル・トローネルの凝ったセットと野外ロケの絶妙な組み合わせ、モーリス・ジョベールの素晴らしい音楽、そして、ジャン・ギャバン、ミシェール・モルガンほか出演者たちの熱演。白い小犬のいじらしい姿も忘れがたい。

 『霧の波止場』は、1930年代フランス映画黄金期の名作中の名作となった。カルネ監督作品の現代劇の中では、戦後の『嘆きのテレーズ』と一、ニを争う傑作であり、ギャバン主演の恋愛映画ではおそらく最高の作品であろう。これまでギャバンは、相手役に恵まれているとは言えなかった。『どん底』の相手役ジュニー・アストールは素人同然で魅力に欠け、『望郷』の相手役ミレーユ・バランは、妖婦タイプであり、モデル上がりで演技力がなかった。『大いなる幻影』の相手役ディタ・パルロは、ドイツ人女優で子持ちの戦争未亡人役であった。
 『霧の波止場』でギャバンの相手役ネリーを務めミシェール・モルガンは、15歳で映画デヴューし、17歳のとき、マルク・アレグレ監督の『グリブイユ』(1937年)で名優レミュの相手役に抜擢され、脚光を浴びた。カルネはこの映画を見て、モルガンに注目し、『霧の波止場』のヒロインに選んだという。これが端役を含め彼女の9本目の映画出演であった。撮影開始時点では17歳、撮影中に18歳の誕生日を迎えたが、妖精のように美しく、演技も素晴らしかった。波止場の突端にあるパナマというバラック建ての食堂で、初めて登場したときのミシェール・モルガンは、目を疑うほど美しかった。レインコートを着てベレー帽をかぶり、窓の外をじっと眺めている姿が印象深い。そして、ギャバンと演じたラブ・シーンは真に迫り、出色の出来栄えであった。



 遊園地のデートのシーンで、ギャバンがモルガンを見つめて、「美しい目をしているね、君は」(T'as d'beaux yeux, tu sais!)と言う。モルガンの顔がクロース・アップで画面いっぱいに写る。そのあとモルガンが「口づけして」(Embrassez-moi.)と言い、ギャバンがキスすると、モルガンが「もう一度して」(Embrasse-moi encore.)と促して、また二人が熱いキスを交わす。この場面がセンセーションを巻き起こした。ギャバンの台詞は当時フランスで流行語となり、ギャバンとミシェール・モルガンは、「フランス映画最高のカップル」と呼ばれた。
 ミシェール・モルガンの回想記(「君のその瞳で」1977年刊)によると、二人は互いにこの映画で惹かれ合ったが、実際に愛し合うのは2年後、『曳き船』で三度目の共演をした時だった。しかし、大戦が始まって離れ離れになり、二人の熱愛関係はほんのわずかな期間で終わったという。(つづく)


霧の波止場(2) Le Quai des brumes

2015-07-26 | 1930年代の映画


 『霧の波止場』は、孤独に生きる人間のさびしさを、滲みるほど感じさせる悲しい映画である。

 クレジット・タイトルのあと、「ル・アーブル20キロ」の道路標識が出る。雨に濡れた夜の道路を大型トラックが走っている。中年の運転手(マルセル・ペレ)がハンドルを握っている。ヘッドライトが、軍服の男の後ろ姿を照らし出す。道路をとぼとぼ歩いていた男は振り向いて手を上げ、トラックを止める。ジャン・ギャバンである。運転手はギャバンをトラックに乗せてやる。
 トラックの中での二人の会話。
「疲れたか?」
「ああ」
「休暇中か?」
「……」
 ギャバンはむっつりとして何も答えない。
「無口だな」
「まあな」
 ギャバンは脱走兵らしい。
 野良犬が道路を横切り、助手席のギャバンがハンドルを切って、トラックを急停車させる。轢きかかった野良犬を助けてやったのだ。運転手が怒り出す。二人はトラックを降りて、殴り合いの喧嘩になりそうになる。が、ギャバンがタバコをもらって冷静になり、喧嘩はおさまる。
「撃たれるかと思ったよ」と運転手が言ったのに対し、ギャバンはトンキン(北ベトナム)で射殺した人間の様子を思い出しながら語る。
 植民地軍にいたギャバンが兵隊に嫌気がさして脱走してきたことが分かる。
 別れ際、運転手はこの脱走兵に同情して、タバコを箱ごと渡す。ギャバンは、運転手の好意を一度は断る。
「もう一箱、持ってるから」
「じゃあ、もらっていくよ。メルスィ」
 最後に運転手が言う。
「幸運を祈ってるよBonne chance!」
 単刀直入式の見事なファースト・シーンである。脱走兵のギャバンの心理と人間性を実に簡潔に描き出している。映画を見始めた人は、もうここで、ギャバンに惹きつけられ、期待感を抱く。
 
 深夜、港町ル・アーブルの街路をギャバンが歩いている。と、さっき助けてやった野良犬が後ろから付いてくる。白と黒のぶちの可愛い小犬で、ギャバンが何度追い払っても追いかけてくる。そのうち、ギャバンは「おれに似て、頑固だな」と言って、仕方なくこの野良犬を自分の道連れにする。腹を空かせてさまよっている犬が自分の分身のように思えたからなのだろう。
 実は、この小犬が最後まで影法師のようにギャバンに付き従い、この映画で重要な役を務めるのだが、行きずりに出会った野良犬にこれほど愛情を注ぎ、象徴的な意味を込めて描いた映画はほかに見当たらないかもしれない。この犬は、恋のキュービットでもあり、人間の観察者でもあり、作者の目でもあり、またこの暗くて悲しい映画に慰みと微笑みと明るさをもたらす役割も果たしていた。

 港町ル・アーブルはフランス北部にあり、その波止場からは遠い外国へ向かう船が出ている。フランスを捨て、新天地を求めて外国へ渡る人たちもここから船に乗る。デュヴィヴィエが映画化した名作『商船テナシチー』(1934年)の舞台になった港町でもある。この町には、もはやフランスには自分の居場所がないボヘミアンたちも集まっている。ギャバンが演じる脱走兵は、外国へ逃げようとしてこの港町へやって来たのだ。
 
 『霧の波止場』の登場人物の男たちは、誰もが孤独に生きている。彼らには家族も妻も恋人も親友もいない。
 ジャンが街で出会ったホームレスの酔っ払い(エモス)は、ベッドで真っ白なシーツに包まれて寝ることだけを夢見る男で、ジャンを海辺にあるパナマ亭という避難所へ連れて行く。パナマ亭の主人(デルモン)も変わった男で、1906年にパナマへ行った思い出だけを大切にして、このバラック小屋でギターを弾いている。常連客のミシェル・クラウスという画家(ル・ヴィガン)はニヒリストで半ば狂人のようである。彼は人生に絶望し、自殺を考えている。彼の独白がなかなか意味深である。「ぼくは何を描いてもその裏側にある罪悪を描いてしまう」「人は激情に駆られて罪を犯し、時には自殺をし、時には他人を殺す」
 ボヘミアンたちの吹きだまりであるパナマ亭でのシーンは、実に印象深い。登場する三人の人物はみな人生の漂流民である。
 この三人を当時のフランス映画界の名優が演じている。エモス、デルモン、ル・ヴィガンである。ギャバンがエモス、ル・ヴィガンの二人と共演した映画では、『地の果てを行く』が第一に挙げられるが、ギャバンはエモスとは『我等の仲間』で、ル・ヴィガン(キリスト役)とは『ゴルゴダの丘』でも共演している。
 剽軽な喜劇役者レイモン・エモス(1889~1944)は、戦時中パリ解放のバリケードで惨死し、二枚目の個性派俳優ロベール・ル・ヴィガン(1900~1972)は、大戦でナチに協力したという嫌疑で戦後フランスを追放され、スペインからアルゼンチンに渡り、俳優業を続けたが、現地で不遇のうちに客死している。
 エドゥアール・デルモン(1883~1955)はマルセーユ出身で、劇作家で映画監督のマルセル・パニョールが好んで使った役者だが、ギャバンとの共演はこれ一本のようだ。デルモンは戦後、デュヴィヴィエの『ドン・カミロ頑張る』(1953年)でフェルナンデルと共演し、当たりをとった後、間もなく亡くなっている。

 このパナマ亭の小さな食堂で、脱走兵のギャバンは美しい娘に出会う。ミシェール・モルガンである。彼女の登場の仕方が鮮やかだ。ギャバンと同じく、後ろ姿から登場する。パナマ亭の主人が腹ペコのギャバンと野良犬を台所へ案内すると、窓辺に女が佇んで外を眺めている。ビニール製の透明なレインコートを着て、黒いベレー帽を斜めにかぶり、ネッカチーフを首に巻いている。振り返った彼女が若くてあまりにも美しいので、ギャバンは唖然とする。ギャバンだけでない。映画を見ている観客も唖然としたにちがいない。
 テーブルについてパンを食べ始めたギャバンが声を掛ける。
「黙ってないで、召し上がれとか何とか言ったらどうなんだ」
 モルガンはギャバンのそばにいる犬を見て、
「あなたの犬?」
「ああ」
「可愛い顔ね」
「あんたもな」
 今まで無口で、人に「おれにかまわないでくれ」とか「うんざりだ」とか言っていたギャバンが急に饒舌になるのだが、ここからの二人の会話が面白い。恋愛なんか絵空事だと思っているギャバンと、恋愛に憧れているモルガンの噛み合わない会話である。
 ギャバンの言葉はあけすけで、モルガンを娼婦か何かと勘違いしたのか、初めから馴れ馴れしく、親称2人称の「チュtu」(あんた、おまえ)を使って話す。一方、モルガンは、丁寧な言葉遣いで、ギャバンに対して敬称2人称の「vous」(あなた)で話す。(モルガンがギャバンに対し親しくtuで話し始めるのは、ホテルで一夜を共にしてからである。フランスの恋愛映画では男と女のこの2人称の使い分けが重要なポイントなのだが、日本語の訳ではその違いが表せない。)

「おれのタイプっていうか、一目惚れしちゃうな。映画みたいなラブロマンスさ。天使が弓を引いて始まる恋だよ。木にあいあい傘を彫って、最後は涙を流すんだ。恋とか愛とか言ったって、あれは映画の中だけの出来事だよ。男と女なんて絶対分かり合えない。言葉だって違うしな」
「分かり合えなくても、愛し合えると思うわ」
 銃声がして、パナマ亭に街の与太者がやって来る。主人がピストルを取り出し、威嚇射撃をする。食堂の明かりを消した暗がりで、ギャバンはモルガンに名前を尋ね、初めて自分の名前を言う。モルガンはネリー、ギャバンはその名と同じジャンである。

 パナマ亭でジャンとネリーの二つの孤独な魂が触れ合い、その後二人は熱烈に愛し始めるのだが、二人が並んで窓から海を眺めながら交わす言葉も印象的だ。
ジャン「さっきの話だけど、本気でそう思っているのか?」
ネリー「何?」
ジャン「愛のことだよ」
ネリー「ええ」
ジャン「客相手のでたらめかと思ったよ」
 ギャバンはパリの男っぽい下町言葉を話すのだが、フランス語を教科書で学んだだけの日本人には大変分かりにくい。フランス人でも、パリジャンでないと、そのニュアンスは理解しがたいのかもしれない。ギャバンが娼婦と間違えていたことなど分からないモルガンは怪訝な顔をして聞き返す。
ネリー「客って?」
   
 これはあとで分かることだが、ネリーは孤児で、土産物屋を営む独身の中年男ザベル(ミシェル・シモン)に養われている。ザベルは少女から美しい娘に育ったネリーを偏執的に愛していて、ネリーは嫉妬深い保護者のザベルを嫌い、家出を願望している。ネリーはモーリスという男(映画では名前だけで人物は登場しない)に誘われ、家出を実行しようとするが、ザベルはそれを知り、密かにモーリスを殺していた。
 ネリーはパナマ亭でモーリスを待っていたのだ。
 話は前後するが、与太者が退散し、パナマ亭の主人がドアを開けると、入口の陰にザベルが隠れている。手に血が付いているが、それはモーリスを殺した血だった。
 このザベルという嫌な役を演じたミシェル・シモン(1895~1975)は、フランス映画では主演級の男優で、ここで紹介するまでもないが、愚鈍なお人好し役を得意にしていた。デュヴィヴィエの『旅路の果て』(1939年)がシモンの代表作である。
 また、リュシアンという与太者のボス(と言っても手下は二人だけだが)を演じたピエール・ブラッスール(1905~1972)は、この映画で一躍有名になったそうだが、それはこの映画の中でギャバンに強烈なビンタを三度も食らったからだという。アクの強い個性派俳優だが、ブラッスールの代表作は何といっても同じマルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』であろう。ルネ・クレールの戦後の名作『リラの門』のブラッスールも忘れがたい。

 『霧の波止場』は、恋愛映画の名作である。霧深い港町でジャンとネリーの愛が燃え上がるのも、ほんの束の間の出来事にすぎず、二人には永遠の別離という宿命が待っている。ありふれた悲劇的なメロドラマに思われるかもしれないが、凡百の恋愛映画では得られない感動をこの映画は与えてくれる。
 ラスト・シーンで、銃で撃たれたジャンがネリーに「口づけしてくれEmbrasse-moi! 早くVite!」と言う。ネリーがキスをしてやり、ジャンは息を引き取る。ネリーが泣きながら大声で叫ぶ。
「ジャーン!」
 そのとき、船の汽笛が鳴る。波止場から南米行きの船は出航し、汽笛の音と白煙が二人の見果てぬ夢をかき消す。船で待っていた野良犬が飼い主を求め、船から降り、町へ向かって駆け出していく……。(了)

ダニエル・ドロルム Danièle Delorme

2015-07-26 | 女優


 『殺意の瞬間』でギャバンの相手役を演じた女優のダニエル・ドロルムは、自著「明日、すべてが始まる」Demain, tout commence(2008年)で、こんなこと書いている。(フランス語版ウィキペディアより拙訳)

――『殺意の瞬間』は、私たちの青春を不朽にした映画の一つになっています。ジュリアン・デュヴィヴィエは、私とは世代が違いますが、この監督と彼の作品に対して、私は憧憬の念を抱いていました。それで、まさかデュヴィヴィエが私に声を掛けてくれるとは思ってもいませんでした。彼が私に会いたいと言ったとき、気詰まりな感じさえ持ちました。初めて彼と会ったときのことは、今でも目の前に浮かぶように憶えています。デュヴィヴィエは、非常に印象的で、愛想が悪く、几帳面でした。彼は私に自分の映画の概要を話し、シナリオを読んだらすぐに返事がほしいと言いました。採用するかどうかは別として、すでに他の女優の何人かがこの役を志願しているようでした。
 デュヴィヴィエがプレッシャーをかけるので私は唖然としましたが、ちょうど路上に駐車してあった私の車の中で台本を全部読みました。彼の説明からは前進しましたが、でもなぜ彼が私を思い浮かべたのかがますます分からなくなりました。天使の顔をしたこの悪魔的な若い娘は、嘘つきで腹黒く、殺人さえ犯せる娘で、私がこの役を演じることができるのだろうかと思ったのです。ギャバンを操って、自分の鼻先に連れてきておもちゃのように弄ぶことなどできるのだろうか。そんなこと信じられません。無謀な挑戦だと思いました。でも私はすぐに承諾しました。この役が自分をまったく別の方向へ投げ込むと感じたからです。それに、ギャバンとの共演、どうして逃げ出すことができるでしょうか。
 撮影は10週間にわたりました。ビランクール撮影所にパリの古いレ・アールが再現されました。当時の状態とまったく同じセットでした。そして、数メートル四方に小さな寝室が作られ、中にレ・アールのレストランの主人ジャンと若妻の私の婚礼用ベッドが置かれました。
 デュヴィヴィエは椅子に座り、獲物を狙う鳥のように私たちの方をじっと見ていました。
 レストランの主人を惑わし、人殺しをする女が犠牲者の犬にずたずたに引き裂かれるというこの陰惨な物語が私にとって真の贈り物になりました。個人的にも素晴らしい思い出になりました。
 この映画はいわゆるクラシックの一つになり、観客は頻繁にこの映画を見たがっています。でもそれは、ギャバンの映画の一本、デュヴィヴィエの映画の一本をまた見たいと望んでのことです。一年前にも野外スクリーンにこの映画が映写されました。そして観客はこのたそがれの世界に感銘を受け(アルマン・ティエールのモノクロの素晴らしい撮影です)、1950年代の映画に込められた嘲笑と悪意に心を揺り動かされたようでした。




 ダニエル・ドロルムは、1926年10月9日、セーヌ県ルヴァロワ=ペレに生まれた。コンセルヴァトワールのピアノ科に学び、39年2等賞で卒業ののち舞台演劇を志しシュザンヌ・デプレのオーディションに出向いたり、ジャン・ウォールの講座に通うなどしていた。42年、16歳のときマルク・アレグレ監督の『呪われた抱擁』の端役で映画デビュー。戦時中はレジスタンス運動に参加し、解放後ルネ・シモン、タニア・バランショヴァの指導を得た後、舞台、映画に復帰した。舞台では『にんじん』『人形の家』の主役を演じている。映画では、55年ジャン・ギャバンと共演した『殺意の瞬間』での強烈な演技で注目された。俳優ダニエル・ジェランと結婚、二人で巡業公演もしたが別れ、イヴ・ロベール監督と再婚した。49年ヴィクトワール女優賞、翌50年フランス最優秀女優演技賞に輝く。63年『わんぱく戦争』を製作。2008年、自伝「明日、すべてが始まる」を出版しフランスで話題となる。88歳で今も健在。
 主な出演作は、上記のほかに、『賭はなされた』(47)『レ・ミゼラブル』(57)『5時から7時までのクレオ』(61)『流れ者』(70)


殺意の瞬間 Voici le temps des assassins

2015-07-25 | 1950年代の映画


 1955年製作 黒白 113分
〔監督〕ジュリアン・デュヴィヴィエ
〔撮影〕アルマン・ティラール〔美術〕ロベール・ギス〔音楽〕ジャン・ヴィーネル
〔封切〕1956年4月(フランス)、同年8月(日本)

 1934年から1936年に、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ギャバンの出演映画を立て続けに5本撮った。最初の2本、『白き処女地』と『ゴルゴダの丘』ではギャバンは準主役ないし脇役だったが、続く『地の果てを行く』『我等の仲間』『望郷』では完全にギャバンが主役で、この3本はまさに30歳を過ぎたギャバンの代表作となった。ギャバンの演じた主人公は、男らしくエネルギッシュで行動的だが、心の中に何か鬱屈したものを持っていて、孤独な影を感じさせるような人物であった。
 第二次大戦中にデュヴィヴィエもギャバンも米国に渡り、ハリウッドで二人は再会し、『逃亡者』"The Impostor"(1943年製作)という映画を撮っている。
大戦後、二人ともフランスへ帰ったが、デュヴィヴィエは自分の監督する映画にずっとギャバンを使わなかった。そして、大戦後10年経ってようやく、再びギャバンと組んで、映画を作ることになった。ちなみにデュヴィヴィエは戦後24本の作品を監督しているが、ギャバンの出演作はこの1本だけである。
 まず、デュヴィヴィエとギャバンの間で、映画の話が持ち上がったようだが、50歳になったギャバンを主役にして実際どんな映画を作るかに関してはなかなか決まらず、難航したという。
 この映画の脚本家の一人モーリス・ベシーはこう語っている(フランス語版ウィキペディアからの孫引きだが、日本語に訳しておく)。

――映画の主題を見つけるのが大変だった。最初のシナリオはお流れになった。ギャバンはカジノの強盗の話はどうかと言った。デュヴィヴィエと私は自動車修理工の話を考えたが、ギャバンがそれを拒んだ。前に自動車修理工はやったことがあったので、違う役をやりたいと言うのだ。ギャバンという俳優は容易ではなく、あれもダメ、これもダメだと言うので困った。デュヴィヴィエと私は、仕事で滞在していたサントロペからの帰り道、ソリューの大きなレストランに立ち寄った。そのとき、急にアイデアが浮かび、物語が出来上がったのだ。デュヴィヴィエが私にこう言った。「ギャバンは美食家だから、レストランの主人をやらせたらオーケーするさ」



 『殺意の瞬間』は、陰惨で恐ろしい映画である。スリラーでもホラーでもなく、あえて言えば犯罪ドラマだが、中年男をだます若い娘の魔性を余すところなく描き出している。女という生き物はなんと恐ろしいものか、とつくづく感じさせる。と同時に、男というのはなんと若くて美しい女に甘く、愚かなのだろう、と身につまされる映画でもある。
 ジャン・ギャバンの役は、パリの中央市場レ・アールにある有名なレストランのオーナー兼シェフである。アンドレ・シャトランといい、店名もシャトラン。初老にさしかかった五十男で、料理の腕は一流、客の接待もソツがなく、レストランは大いに繁盛している。コック、女給など従業員も多い。客には各界の名士もいる。シャトランは新聞で大きく紹介され、また近々フランス政府から勲章をもらうことになっている。しかし、ギャバン扮するこの男、寂しいかな、長い間ずっと独り者なのだ。彼には以前ガブリエルという名の妻がいたが、だらしのない女で、姑にも嫌われ、20年前に離婚していた。
 シャトランは医者の卵である苦学生ジェラール(ジェラール・ブラン)を息子のように可愛がって世話しているが、彼の将来だけが楽しみである。
 ある寒い冬の日、このレストランに二十歳そこそこの若い娘が訪ねて来た。貧しい身なりで化粧もしていないが、素顔が可愛らしく不思議な魅力を持っている。気立ても良さそうで、清純な娘に見える。カトリーヌ(ダニエル・ドロルム)という名で、マルセーユからパリへ来たのだった。
 ドラマはこの娘の来意を告げる話から始まる。
「私はあなたが昔別れた妻の一人娘です。実は先だって母が死んで、身寄りがなくなってしまいました。あなたのことは母から聞いていたので、死んだことを知らせにパリまでやって来ました」
 若くて可愛い女がそんな告白をするのだから、中年男はたまらない。年齢から考えてわが子ではないことは解ったものの、自分を頼って訪ね来た娘を追い返すことなど出来るはずがない。ギャバンはカトリーヌに店の料理を食べさせ、自分の家に住まわせてやる。そして、あろうことか三十も年齢の離れたこの若い娘に惹きつけられ、愛し始めていく……。

 しかし、この娘の言ったことはみんな嘘だった。
 死んだはずの母ガブリエル(リュシエンヌ・ボゲエル)は生きていて、カトリーヌを追ってパリへ来て、近くの安ホテルに宿泊し、カトリーヌと連絡を取り合っていたのだ。実は、娘を元の夫シャトランのもとへ送り込んだのも彼女の策謀で、陰で糸を引いていたのだ。このガブリエルという女は麻薬中毒で、見るも無残な姿で登場するのだが、醜悪で強烈な印象を与える。
 デュヴィヴィエは時々こういう悲惨な中年女や老女を映画の中に登場させ、その役を演技力のあるベテラン女優に本気でやらせるので、見ている方は慄然として、そのイメージが悪夢のように頭から離れなくなる。ガブリエル(命名もぴったりだ)という女もその一人である。この女はマルセーユで売春宿の女将をやっていたという設定なのだが、メイクも髪型も衣装もリアルで、デュヴィヴィエの演出も露悪趣味が過ぎるのではないかと思えるほどである。娘からもらった金をストッキングの腿のあたりに隠したり、ホテルの部屋で缶詰を開けて鍋で煮ていたり、麻薬が切れたときの錯乱ぶりもすごいが、そのあとの虚脱状態もリアルなのだ。
 実は娘のカトリーヌは売れっ子娼婦だったことが分かるのだが、ガブリエルはなんと娘をシャトランと結婚させ、財産を乗っ取ろうとたくらんでいた。カトリーヌも男をだますことなど何とも思わない女で、泥沼のような生活から脱出するために、どんな悪いことでもする覚悟だった。
 カトリーヌは、まんまとシャトランをたぶらかし、結婚にこきつける。が、養子同然のジェラールに疑われると、シャトランとジェラールの仲を引き裂き、さらに若いジェラールを利用して、シャトランを殺そうとさえするのだ。



 経験を積んだ女の直感というのだろうか。シャトラン家の老家政婦(ガブリエル・フォンタン)や郊外に住んでいるシャトランの母親(ジェルメーヌ・ケルジャン)は、カトリーヌという娘が悪い女だということを見抜いていた。この二人の老女優の演技も見どころである。シャトランの母親が息子から頼まれ、彼女が経営している郊外のレストラン兼ホテルの一室にカトリーヌを監禁するところからドラマは急展開を見せるが、嘲笑うカトリーヌをこの姑が長い革のムチで打ち付ける場面はすさまじい。嫁と姑の修羅場である。この郊外のレストランの女給の役で、ギャバンの最初の妻ギャビー・バッセが出ていることも付け加えておきたい。
 また、ジェラールの愛犬(大きなテリア種でセザールという名)が重要な役をやっている。
 シャトランのレストランの客にいろいろな人が出てくるが、その人間模様も見ていて面白い。ギャバンが彼らに応対するときの態度、話しぶりも見どころである。ギャバンがシェフをやりながら、チョイ役ながら客演した俳優たちとの芝居を楽しんでいる様子がうかがわれる。
 それと、レストランで注文される料理の名前も十数種あり、そのメニューをチェックするのもこの映画を見る楽しみになるだろう。

<トリヴィア>*ウィキペディア(フランス語版)より
○ファースト・シーンはパリの中央市場レ・アールの実写。また、パリのリオン駅の実写もある。郊外のロケ地はラグニ=シュール=マルン(セーヌ=エ=マルン)。室内撮影はブローニュ・ビランクールのスタジオ、オー・ドゥ・セーヌのスタジオ。野外のオープン・セットも使われている。
○原題Voici le temps des assassins(今や人殺しのとき)は、アルチュール・ランボーの詩集「イリュミナシオン」(1874年)に収められた詩「酩酊の朝」の最後の言葉から借りたものである。
○クレジットタイトルに流れる主題歌のシャンソンは、「殺人の哀歌」La Complainte des assassinsといい、ジェルメーヌ・モンテロが歌っている。作詞デュヴィヴィエ、作曲ジャン・ヴィーネルである。


殺人鬼に罠をかけろ Maigret tend un piège

2015-07-25 | 1950年代の映画


 1957年製作 黒白 119分
〔監督〕ジャン・ドラノワ
〔撮影〕ルイ・パージュ〔美術〕ルネ・ルヌー〔音楽〕ポール・ミスラキ
〔封切〕1958年1月(フランス)、同年7月(日本)

 ジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズの一篇を映画化したもので、ジャン・ギャバンが初めてメグレ警視を演じた映画である。
 監督のジャン・ドラノワは、第二次大戦中から大戦後にかけて文学性の濃い映画を作ってきた監督で、ギャバンの出演作はすでに『愛情の瞬間』(1952年)と『首輪のない犬』(1955年)を撮っていた。
 ギャバンは第5代目のメグレとのことだ。ピエール・ルノワール、アリ・ボール、チャールズ・ロートン、アルベール・プレジャンがすでにメグレ役をやっていたそうだが、私はアリー・ボールのだけしか見たことがない。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『モンパルナスの夜』(原題「男の首」1933年)である。ボールのメグレ警視はビア樽のような体型で鈍重だが粘り強く、寡黙で目つきが鋭かった。アリ・ボールはデュヴィヴィエが好んで使った男優の一人で、ほかに『にんじん』でルピック氏、『資本家ゴルダー』でゴルダー氏、『舞踏会の手帖』で司祭を演じている。『モンパルナスの夜』では犯人役の男優インキジノフが気持ち悪く、強烈な印象だった。
 ギャバンのメグレは押し出しの強さがあり、年季の入った風格と初老のくたびれた感じも出ていて、なかなか堂に入ったものである。フェルト帽子、トレンチコート、背広にサスペンダー式のズボンと、服装も似合っていた。ギャバンは実際にヘビースモーカーでいつも紙巻きタバコをすっていたのだが、メグレに扮した時はパイプで、これも様になっていた。



 この一作でギャバンのメグレが当たり役となり、その後同シリーズが二本作られる。この第1作の原作および原題は「メグレ罠を張る」Maigret tend un piège(1955年 早川書房刊)である。パリで女性連続殺人事件が起こり、難航中の捜査を打開するため、メグレがいくつかの罠をかけて犯人をおびき出すというストーリー。護身術を備えた十数人の婦人警官を街へ放って犯人に襲わせたり、別件で逮捕した男を容疑者に仕立てて新聞に発表させ、犯人の虚栄心をあおったりする。しかし、犯人が意外に早く割れてしまうので、プロットの面白さはあまり生かされていなかった。
 メグレの部下の間抜けな刑事が演技的にもう一歩で、面白みに欠けていたが、メグレの妻ルイーズ役の女優(ジャンヌ・ボワテル)がなかなかいい味を出していた。
 後半は、犯人の女性殺害の動機をフロイド的に分析解明しようとしているが、これは監督のドラノワの好みによって脚色したものなのだろう。犯人の妻や母親との関係が浮き彫りにされ、心理描写が多くなって、欲張りすぎの感がなきにしもあらず。



 しかし、犯人のジャン・ドサイ、妻のアニー・ジラルド、母親のリュシエンヌ・ボガエル、この演技派俳優三人とギャバンが渡り合う場面は見応え十分である。ギャバンとアニー・ジラルドの共演は、『赤い灯をつけるな』に続いて二度目であるが、ジラルドの知的で深みのある演技が際立っていた。
 リノ・ヴァンチュラも刑事役で出演していたが、端役に近かった。