ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

もう一度見たいジャン・ギャバンの映画

2024-10-29 | 雑記
久しくギャバンの映画を見ていない。
『ヘッドライト』はこの間、DVDを購入したが、まだ見ていない。近いうちにライブハウスのスクリーンで見ようと思う。
戦前の作品では『望郷』『どん底』『我等の仲間』『大いなる幻影』『霧の波止場』、戦後の作品では『ヘッドライト』の他に『現金に手を出すな』『殺意の瞬間』をまた見たい。








ジャン・ドラノアのギャバン評

2015-10-03 | ギャバンへのオマージュ


 ジャン・ドラノア監督は、戦後ギャバンの主演映画を6本撮っている。『愛情の瞬間』『首輪のない犬』『殺人鬼に罠をかけろ』『サン・フィアクル殺人事件』『ギャンブルの王様』『太陽のならず者』である。もし、戦後だけに限ってギャバン映画のベストテンを選ぶとするならば、私は、このうち2本か3本は入れたいと思っている。『殺人鬼に罠をかけろ』『ギャンブルの王様』、それにあと1本は『首輪のない犬』であろうか。ギャバンの役柄は、警部、貴族紳士、判事と違っているが、それぞれの役柄をギャバンは見事に演じ分け、ドラノア監督もギャバンの多面的な魅力を十二分に引き出していた。彼はギャバンという俳優をよく知っていたにちがいない。
 そんなドラノア監督が、ギャバンについて率直に語ったコメントがあるので、紹介しておきたい。

――私は少年時代の純粋さをどこかに保っている人が好きだ。ギャバンはまさにその一人だ。この名優の目の中には昔のういういしさが残っている。そういう感覚を持ち続けている俳優しか表現できない率直さが魅力なのだ。
 ギャバンについてはいろいろなことが言われているが、その多くは誤りだ。彼が演技をする時、ほんのちょっとしたことでも、例えばわずかな雑音でも若駒のように鋭く反応してしまう。人々はそれを過剰と感じ、人気俳優のわがままと思い込む。しかし、それは感受性の鋭い彼にとって精神の集中がいかに重要かということを知らぬ者の判断である。俳優は演じる人物になりきらねばならない。そうした努力の中で俳優本人は極度に敏感になり、傷つきやすくなってゆくのだ。この物静かな男は常に不安なのである。彼の見事な演技は苦痛に満ちた心の動揺そのものなのだ。それこそが偉大な才能の源泉といえるだろう。
 台詞にしても演技にしても演出を超えた過度な表現を彼ほど正確に指摘する俳優はいない。彼がある台詞に疑問を持った時は必ずその台詞が間違っている時である。なぜなら彼は、みだりに演出を乱したりはしないからだ。言われるように庶民出身ながら決して下品ではない。そして一見、無愛想で時には粗野にすら見える外見の下には常に羞恥の心情が満ちているのだ。
(ジャン・ドラノア)

*このドラノアのコメントは、アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」(清水馨訳)からの引用だが、もともと「トリビュヌ・ド・ジュネーヴ」紙でのインタビューにドラノアが答えたものである。

リーヌ・ノロ Line Noro

2015-10-02 | 女優


 『望郷』でペペ・ル・モコ(ギャバン)の情婦イネスを演じた演技派女優である。ミレーユ・バランが扮したギャビーが美しく着飾った高級娼婦まがいのパリジェンヌだったのに対し、彼女は野卑で情熱的なカスバの女であり、汚れ役だった。ギャビーの引き立て役でもあった。イネスは、ギャビーに一目惚れしたペペ・ル・モコに愛想をつかされ、嫉妬に燃えて最後は彼を引きとめようと警察に彼の居所を教えてしまう。
 実はギャバンとミレーユ・バランの場面よりギャバンとリーヌ・ノロの場面の方が多く、監督デュヴィヴィエは男に捨てられかかった女の情欲と嫉妬をリアルに描き、リーヌ・ノロは演技力で監督の期待に見事に応えている。『望郷』という映画を傑作にした大きな要因はカスバの情婦に成りきった彼女の迫真の演技にあったと言ってもよい。
 

『望郷』でギャバンと 

 リーヌ・ノロは、本名をアリーヌ・シモンヌ・ノロといい、1900年2月22日、ロレーヌ地方モーズ県ウドランクールで生まれた。少女の頃から女優に憧れ、パリに出てコンセルヴァトワールで学んだ。22歳のとき二等賞の成績で同校を卒業。1920年代は舞台女優としてパリのあちこちの劇場に出演。そのときデュヴィヴィエに見出され、1928年、無声映画『神聖なる巡航』に出たのが映画デビュー。この時すでに28歳であった。
 トーキー時代になり、レイモン・ベルナール監督の『モンマルトルの街』(31)、アベル・ガンス監督の『ドロロサ母さん』(31)などに出演したのち、1933年、再びデュヴィヴィエ監督に起用され、アリー・ボールのメグレ警視が活躍する『モンパルナスの夜』で街娼役を演じた。ロシア出身の異才俳優インキジノフ扮する殺人犯に誘われ、安ホテルの一室で春を売る場面に出演しただけであったが、その演技が注目された。以後映画出演が増え、1936年、アンドレ・ベルトミュー監督の『炎』に出演し、撮影終了後ベルトミュー監督と結婚した。
 そして、リーヌ・ノロという女優をフランスだけでなく世界的に有名にした映画が、1937年の『望郷』であった。デュヴィヴィエ監督作品に三度目に出演して、最も重要な役をもらったのである。
 以後、リーヌ・ノロはコンスタントに映画出演を続けるが、主演女優を引き立てる二番手の脇役が彼女の持ち役となった。ジャック・ベッケル監督の『赤い手のグッピー』(43)、ジャン・ドラノア監督の『しのび泣き』(45)と『田園交響楽』(46)はいずれも名作であるが、リーヌ・ノロの地味だが情感のにじみ出るような演技がいぶし銀のように光っていた。とくに『田園交響楽』の牧師の妻の役は素晴らしかった。
 1950年代はコメディー・フランセーズの舞台に出て活躍し、映画ではアンドレ・カイヤット監督の『われらはみな暗殺者』(52)『洪水の前』(54)に出演し、50歳代半ばで第一線から退いた。1985年11月4日パリにて死去(85歳)。

マドレーヌ・ルノー Madeleine Renaud

2015-10-02 | 女優


 戦前にギャバンはマドレーヌ・ルノーと4度共演している。相手役として最も回数が多く、ギャバン自身、個人的に共演を好んだ女優の一人であった。初共演は1932年の『ラ・ベル・マリニエール号』で、ルノーは船長ギャバンの若妻役、続いて33年の『トンネル』でもトンネル建設技師ギャバンの若妻役、そして34年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』ではカナダのフランス人移民の美しい娘をルノーが主役で演じ、猟師のギャバンが恋人役を務めた。実はルノーはギャバンより4歳年上だった。しかし彼女は1930年代には実年齢よりずっと若く見えた。『白き処女地』でルノーは34歳だったのに20歳そこそこの乙女の役を演じたのである。
 その後ギャバンが大スターとなって4年ほど二人の共演はなかったが、第二次大戦の直前から戦中にかけて製作されたジャン・グレミヨン監督の『曳き船』(41年)でルノーはギャバンを愛する心優しき病身の妻を演じた(ギャバンの愛人役はミシェール・モルガン)。
 戦後は、ルノーが夫のジャン=ルイ・バローとルノー=バロー劇団を結成し演劇活動に専念したため、ほとんど映画に出演しなかった。が、それでもマックス・オフュルス監督の『快楽』(1952年)で12年ぶりにギャバンと共演した。『快楽』はモーパッサンの短編小説を映画化したオムニバス映画で、オフュルス監督作品では『輪舞』と並ぶ秀作であった。とくに第二話「テリエ館」は、モーパッサンの初期の名作だが、映画も素晴らしく、出演者はマドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリュー、ピエール・ブラッスール、ジャン・ギャバンといった面々。地方都市の売春サロンの女将がルノー、ギャバンはノルマンディーの田舎の村に住む建具職人で、ルノーの弟の役だった。ルノー扮する女将が二日ほど店を休み、娼婦たち五人を連れて、社員旅行がてら、弟夫婦の家を訪ねて一泊し、翌朝教会で弟の娘の聖体拝受の式に出席するという話である。この映画に出演した頃、ルノーは52歳で、ずいぶん老けてしまったように見えたが、なかなかしっかりした女将ぶりで、女学校のベテラン教師のようであった。
 若い頃のマドレーヌ・ルノーは、夢見る文学少女といった雰囲気を持ち、清純で繊細なタイプの女優であった。小柄で160センチに満たない背丈であろう。
 私がリアルタイムで知っているマドレーヌ・ルノーは、70年代後半に夫のジャン=ルイ・バローとルノー・バロー劇団を率いて来日した時の彼女である。テレビでインタヴューを見た記憶があるが、品の良いおばあちゃんであった。


 『曳き船』でギャバンと

 マドレーヌ・ルノーは、1900年2月21日、パリで生まれた。10代の頃から小説や戯曲を執筆していたが、中等教育を終えてコンセルヴァトワールに入学するとラファエル・デュフロの生徒となり、同期のシャルル・ボワイエ、マリー・ベルらと共に学んだ。20年の進級公演『女の学校』のアニェス役で2等賞をとる優秀な成績で、翌年卒業時にはマリー・ベルと並んで1等賞となり、揃ってコメディー・フランセーズに入団。同時期22年の『逆風』で初めて映画出演した。彼女が数多くの映画に出演したのは1930年代で、ギャバンとの共演作画3本あることはすでに述べたが、ジャン=ルイ・バローと共演するのは1936年の『美しき青春』で、二人は40年頃結婚する。ジャン=ルイ・バローは10歳年下だった。
 マドレーヌ・ルノーは、舞台では古典劇の模範的女優といわれたが、新しい演劇を求めて1946年にコメディー・フランセーズを夫とともに退団。ルノー=バロー劇団を結成して『ハムレット』を旗上げ公演した。59年9月、夫とともにテアトル・ド・フランスの座長となり、以来オデオン座を主な活動の場として演劇全般の向上に力を注いだ。
 1968年、五月革命の学生たちに劇場の占拠を許したことで、オデオン座を追われ、エリゼ・モンマルトル劇場、オルセー駅構内の仮小屋など転々としたのち、1981年、ロン・ポワン劇場に落着いた。
 ルノー=バロー劇団は1960年、1977年、1979年の3度、来日公演をしている。
 1994年、夫ジャン=ルイ・バローを亡くした8ヶ月後の9月23日に、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで死去。享年94歳。

 上記以外の主な出演映画:『母の手』(33)、『不思議なヴィクトル氏』(38)『高原の情熱』(42)『この空は君のもの』(44)(以上3作はジャン・グレミヨン監督作品)、『史上最大の作戦』(米 62)。

ブリギッテ・ヘルム Brigitte Helm

2015-10-02 | 女優


 ジャン・ギャバンが映画で初めて共演した大スター女優はドイツ人のブリギッテ・ヘルムであった。フランス語読みはブリジット・エルム。『グロリア』(1930)のフランス語版(主役のブリギッテ・ヘルムは代役を使わずに出演)で初共演し、『ヴァレンシアの星』『さらば美しき日々』(1933)でも共演している。ギャバンと3度も共演したほどであるから、二人は恋愛関係にあったのではないかと思われるが、確証はない。「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランも彼女との間に「恋愛感情の交流がなかったはずはない」と書いている。
 ブリギッテ・ヘルムは、1906年3月17日、ベルリンで生まれた。本名ブリギッテ・エーファ・ギゼラ・シッテンヘルム。中学卒業後、学生劇に参加している時、フリッツ・ラング監督の目にとまり、27年サイレント映画の大作『メトロポリス』のマリア役(アンドロイドとの二役)で鮮烈に映画デビュー。石膏像のような端正な美貌と妖艶な肢体が注目され、21歳の若さでたちまちドイツのナンバーワン女優になった。トーキーになっても活躍を続け、デビュー後8年間で約30本の映画に出演。35年実業家フーゴ・タンハイムとの再婚を機に引退。以後スイスに住み、映画界からの誘いや取材を一切拒み続けた。1996年6月11日、スイスで死去(90歳)。
 主な出演作:『世界の果て』『ジャーネ・ネイの愛』(27)『邪道』『バーデン・バーデンのスキャンダル』(28)『悪魔の寵児』(29)『南の哀愁』『グロリア』(30)『愛国者』(31) 『アトランティッド』(32)『マラソンの走者』『アランフェスの美しき日々』(33)『ゴールド』『島』『コスモポリス』(34)『理想の良人』(35)