ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

マドレーヌ・ルノー Madeleine Renaud

2015-10-02 | 女優


 戦前にギャバンはマドレーヌ・ルノーと4度共演している。相手役として最も回数が多く、ギャバン自身、個人的に共演を好んだ女優の一人であった。初共演は1932年の『ラ・ベル・マリニエール号』で、ルノーは船長ギャバンの若妻役、続いて33年の『トンネル』でもトンネル建設技師ギャバンの若妻役、そして34年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』ではカナダのフランス人移民の美しい娘をルノーが主役で演じ、猟師のギャバンが恋人役を務めた。実はルノーはギャバンより4歳年上だった。しかし彼女は1930年代には実年齢よりずっと若く見えた。『白き処女地』でルノーは34歳だったのに20歳そこそこの乙女の役を演じたのである。
 その後ギャバンが大スターとなって4年ほど二人の共演はなかったが、第二次大戦の直前から戦中にかけて製作されたジャン・グレミヨン監督の『曳き船』(41年)でルノーはギャバンを愛する心優しき病身の妻を演じた(ギャバンの愛人役はミシェール・モルガン)。
 戦後は、ルノーが夫のジャン=ルイ・バローとルノー=バロー劇団を結成し演劇活動に専念したため、ほとんど映画に出演しなかった。が、それでもマックス・オフュルス監督の『快楽』(1952年)で12年ぶりにギャバンと共演した。『快楽』はモーパッサンの短編小説を映画化したオムニバス映画で、オフュルス監督作品では『輪舞』と並ぶ秀作であった。とくに第二話「テリエ館」は、モーパッサンの初期の名作だが、映画も素晴らしく、出演者はマドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリュー、ピエール・ブラッスール、ジャン・ギャバンといった面々。地方都市の売春サロンの女将がルノー、ギャバンはノルマンディーの田舎の村に住む建具職人で、ルノーの弟の役だった。ルノー扮する女将が二日ほど店を休み、娼婦たち五人を連れて、社員旅行がてら、弟夫婦の家を訪ねて一泊し、翌朝教会で弟の娘の聖体拝受の式に出席するという話である。この映画に出演した頃、ルノーは52歳で、ずいぶん老けてしまったように見えたが、なかなかしっかりした女将ぶりで、女学校のベテラン教師のようであった。
 若い頃のマドレーヌ・ルノーは、夢見る文学少女といった雰囲気を持ち、清純で繊細なタイプの女優であった。小柄で160センチに満たない背丈であろう。
 私がリアルタイムで知っているマドレーヌ・ルノーは、70年代後半に夫のジャン=ルイ・バローとルノー・バロー劇団を率いて来日した時の彼女である。テレビでインタヴューを見た記憶があるが、品の良いおばあちゃんであった。


 『曳き船』でギャバンと

 マドレーヌ・ルノーは、1900年2月21日、パリで生まれた。10代の頃から小説や戯曲を執筆していたが、中等教育を終えてコンセルヴァトワールに入学するとラファエル・デュフロの生徒となり、同期のシャルル・ボワイエ、マリー・ベルらと共に学んだ。20年の進級公演『女の学校』のアニェス役で2等賞をとる優秀な成績で、翌年卒業時にはマリー・ベルと並んで1等賞となり、揃ってコメディー・フランセーズに入団。同時期22年の『逆風』で初めて映画出演した。彼女が数多くの映画に出演したのは1930年代で、ギャバンとの共演作画3本あることはすでに述べたが、ジャン=ルイ・バローと共演するのは1936年の『美しき青春』で、二人は40年頃結婚する。ジャン=ルイ・バローは10歳年下だった。
 マドレーヌ・ルノーは、舞台では古典劇の模範的女優といわれたが、新しい演劇を求めて1946年にコメディー・フランセーズを夫とともに退団。ルノー=バロー劇団を結成して『ハムレット』を旗上げ公演した。59年9月、夫とともにテアトル・ド・フランスの座長となり、以来オデオン座を主な活動の場として演劇全般の向上に力を注いだ。
 1968年、五月革命の学生たちに劇場の占拠を許したことで、オデオン座を追われ、エリゼ・モンマルトル劇場、オルセー駅構内の仮小屋など転々としたのち、1981年、ロン・ポワン劇場に落着いた。
 ルノー=バロー劇団は1960年、1977年、1979年の3度、来日公演をしている。
 1994年、夫ジャン=ルイ・バローを亡くした8ヶ月後の9月23日に、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで死去。享年94歳。

 上記以外の主な出演映画:『母の手』(33)、『不思議なヴィクトル氏』(38)『高原の情熱』(42)『この空は君のもの』(44)(以上3作はジャン・グレミヨン監督作品)、『史上最大の作戦』(米 62)。


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