ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ジャン・ギャバン年譜(1) Biographie de Jean Gabin(1)

2015-08-08 | ジャン・ギャバン年譜
(1)生い立ちから18歳まで

1904年
 5月17日、パリ9区ロシュシュアール通り23番地で生まれる。本名はジャン・アレクシス・ギャバン・モンコルジェ(Jean Alexis Gabin Moncorgé)。
 父フェルディナン・ジョセフ・モンコルジェ(1868~1933)は、パリではギャバン(Gabin)の芸名で知られたボードビリアンだった。母は元歌手エレーヌ、本名(旧姓)マドレーヌ・プティ(1865~1918)。
 ジャンは末っ子で、16歳上の兄フェルディナン=アンリ(愛称ベベ)、14歳上の姉マドレーヌと11歳上の姉レーヌがいた。(長男とジャンの間にはほかに3人の子がいたが、みな子どもの時亡くなっている)


 父ギャバン

 ジャン・ギャバンはパリ生まれであるが、生まれたのは知人の助産婦の家だった。両親の家はセーヌ=エ=オワーズ県(現・ヴァル=ドワーズ県)の小さな村メリエル(Mériel)にあった。
 ジャンは生まれて間もなく両親とともにメリエルの家へ行き、ここで育てられる。母エレーヌにとってジャンは望んで生んだ子ではなく(38歳の時の子)、子育ては長女マドレーヌに任せていた。母は病気がちで神経も弱く、物心つくや腕白ぶりを発揮したジャンを叱ってばかりいた。芸人の父もパリへ働きに出て、家にいる時間が少なく、子どもの頃のジャンは父とはほとんど顔を合わせることもなかった。
 メリエルという村はパリの北約30キロ、オワーズ川とリラダンの森にはさまれた丘陵にあり、石膏の産地だった。パリの北駅から直通の鉄道が通じ、駅もあった。当時の人口は約500人。(現在はパリのベッドタウンで人口数千人、ジャン・ギャバンが育った村として有名になり、ジャン・ギャバン記念館が立っている)
ジャンは、この田舎の自然豊かな村で幼少年期を過ごす。

1909年 
 5歳の時、最愛の姉マドレーヌが結婚。夫はジャン・ポエジーといい、ボクシングのフランス・フェザー級のチャンピオンだった。ジャン(ギャバン)はこの義兄を慕い、少年時代に彼からいろいろなことを教わり、大きな影響を受ける。


 姉マドレーヌとポエジーの結婚式で親戚一同と(前列左端に5歳のジャン)

1910年~
 6歳の時、メリエルの小学校へ入学する。


 メリエルの家の前で両親と

 ジャンは勉強が嫌いで、しばしば学校をさぼっては近くの野や森へ行き、一人で自由気ままに過ごした。親友の父が持っていた農場で、土地を耕したり、馬の世話をすることも好んだ。ジャンの将来の夢は、農場主になるか、鉄道の機関士になることだった。メリエルを通過する蒸気機関車をいつも眺めて、飽きることがなかった。


 9歳の頃

1914年
 ジャンが10歳の時、第一次大戦が始まり、兄ベベも義兄ポエジーも徴兵される。メリエルの村にもフランスの軍隊がやって来て、戦争を身近に感じるようになる。
 義兄ポエジーは戦争で片足を切断し、ボクサーの選手生命を終えたが、その後ボクシングのジムをつくり、トレーナーになった。ジャンは10歳の頃から彼のもとでボクシングを習い、数年間練習を続けた。ジャン・ギャバンの団子鼻はその時パンチを受けた後遺症だという。

1915年~1916年
 1915年12月、両親とパリへ移り住む。モンマルトルにあった叔母ルイーズの家に一時滞在後、モンマルトルのキュスティーヌ街のアパートへ引っ越す。すぐ近くのクリニャンクール街の小学校へ転校。勉強嫌いは変わらず、試験のたびに優等生だった親友の答案をカンニングして、12歳の時どうにか小学校を卒業する。
 しかし、学校を続ける意志はなく、両親とメリエルの実家に帰る。戦争が激しくなり、パリの芸能界での仕事がなくなった父といっしょに鉄道の線路工夫をして働く。

1917年
 13歳になり、兄ベベの斡旋で、兄の勤めるパリの電力会社の用務員となる。メリエルの家から毎朝パリへ通い、無遅刻無欠勤で働く。余暇には、サッカー、自転車、ボクシングを楽しんでいた。

1918年
 9月、メリエルの家で母が死去。
 一時期父と二人だけで暮らしていたが、急に父がジャンに学業を続けさせようと思い立ち、奨学金を得て、パリのジャンソン=ド=サイイ中高等学校へ入学。寄宿舎へ入れられ、学校嫌いで劣等生のジャンは監獄生活を送っているかのように感じ、鬱屈した日々を過ごす。(11月に第一次大戦が終わる)

1919年
 春、学校から逃亡し、義兄ポエジーと姉マドレーヌ夫婦の家へかくまわれる。父は激怒したが、結局復学することなく、中退。以後、自活して働くことになる。
 ラ・シャペル駅の保線工になり、叔母ルイーズのパリ・モンマルトルの家に下宿して通勤。

1920年~1921年
 メリエルに帰り、ボーモン=シュール=オワーズにある鉄工場の工員となる。
 その後、ドランシーの自動車整備工場で修理工として働く。


 ボクシングの練習中

 芸能界に復帰した父は、かねてから息子を自分と同じ芸人にしたいと望んでいた。時々劇場の楽屋へジャンを連れて行ったが、父と同じような芸人になりたいとはまったく思わず、反発したため、父とは疎遠状態になる。父に愛人ができたことも反発した大きな原因だった。


ジャン・ギャバン年譜(2) Biographie de Jean Gabin(2)

2015-08-03 | ジャン・ギャバン年譜
(2)舞台役者・ボードビリアン時代(18歳~26歳)

1922年
 この年の終わり頃、父と和解。新しい就職口を世話すると言う父にだまされ、フォリー=ベルジェール(Folies-Bergère)の支配人フレジョルに会わされ、役者に採用される。ギャバン曰く、父に「尻を足で蹴とばすようにして」フォリー=ベルジェールの舞台に送り出される。

1923年
 18歳でフォリー=ベルジェールの舞台に初めて立つ。月給600フラン。
 12月、フォリー=ベルジェールのオペレッタ「夜会服の女」が開演。プログラムに初めて「ジャン・ギャバン」の名がのる。バーテンダーの役。


1924年
 新人歌手ギャビー・バッセ(Gaby Basset)と知り合い、相思相愛になる。ジャン19歳、ギャビーは2歳上の21歳だった。パリのモンマルトルの安ホテルで同棲する。
 20歳になり、兵役義務のためフランス海軍陸戦隊に入隊。ブルターニュのロリアン基地へ行く。独身のため外出許可がおりず、鬱屈とした兵役生活を送る。妻帯者が優遇されるのを知り、ギャビーとの結婚を決意。
 
1925年
 この年の初めにギャビー・バッセと結婚。父は喜び、パリ・モンマルトルのビストロで披露宴を開く。結婚したおかげで、パリ市内の海軍省に転属になる。主な任務は省の前に立つ衛兵であった。

1926年
 兵役を終え、パリでギャビーと新婚生活を送る。


 ギャビー・バッセと

 ブッフ・パリジャンで上演中の人気オペレッタ『三人の若い裸婦』で代役を引き受けたが、出演機会はなかった。この出し物には父フェルディナン(ギャバンの芸名で)と妻ギャビーが出演していた。9月、やっと海軍士官の役が回ってきて、父と妻との共演が実現。
 
1927年
 『三人の若い裸婦』の終演後、失業状態が続き、妻ギャビーの歌手としての稼ぎに頼る。二人は貧乏生活を続け、モンマルトル界隈の安ホテルを転々とする。この頃、同じように貧乏な役者たちと親しくなる。そのなかにピエール・ブラッスール、マルセル・ダリオがいた。また小説家のジョセフ・ケッセルもいた。しばらく歌手として各地を回り、生計を立てる。

1928年
 オペレッタのブラジル巡業に妻ギャビーと加わり、リオデジャネイロへ行く。
 帰国後、パリのムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)でオーディションを受ける。ジャンは憧れていたモーリス・シュヴァリエの歌を唄う。それを見た大スターのミスタンゲットMistinguettに気に入られる。
 4月、ムーラン・ルージュのショー『回るパリ』でミスタンゲットと共演。ジャン・ギャバン24歳。ボードビリアンとして活躍の場を与えられ、人気スターへの道を進む第一歩となる。
ミスタンゲットとデュエットで初めてレコードに歌を吹き込む。曲名は「ラ・ジャヴァ・ド・ドゥドゥーヌ」。


 ミスタンゲットと
https://www.youtube.com/watch?v=tTXAi3Z0u2c

 12月、『回るパリ』終演。ミスタンゲットはカジノ・ド・パリへ移るが、ギャバンはそのままムーラン・ルージュに残る。

1929年
 1月、ムラーン・ルージュのショー『もしもし、こちらパリ』に出演。幕間の寸劇『調教師』(別名『ライオン』)で道化役者ダンディと共演、大好評を博す。この寸劇は短編喜劇映画となり、ダンディとジャン・ギャバンが出演したという(ジャン・ギャバン本人の話)。
 3月、ブッフ・パリジャンBouffes-Parisiens(以下略してブッフ)の支配人アルベール・ウィルメッツと会い、月額3,000フランで出演契約を結ぶ。
 5月、ブッフで『フロッシー』開演。牧師の甥ウィリアムというコミカルな役を演じ、好評を博す。『フロッシー』はロングランとなり、翌1930年春まで続く。
 11月、ウィルメッツはギャバンの将来性を買って3年契約を結ぶ。出演料が月額5,000フラン(1年目)になる。
 妻ギャビー・バッセも売れっ子歌手になり、舞台女優としても成功をおさめる。すれ違い生活が始まり、ギャバンが『フロッシー』の共演女優ジャクリーヌ・フランセルと浮気をして、5年に及ぶギャビーとの関係が破局をむかえる。

1930年
 ギャビー・バッセと離婚。
 5月、ブッフでのオペレッタ『銀行家アルセーヌ・ルパン』に出演。
 秋、映画会社パテ=ナタン社に呼ばれてキャメラ・テストを受けたのち、破格の条件を提示され出演契約を結ぶ。撮影日の日給が500フラン(20日で10,000フラン)だった。
 11月、ミュージカル映画『誰にもチャンス』Chacun sa chance の撮影が始まる。ジャン・ギャバンが主役で、恋人役は元妻のギャビーだった。


ジャン・ギャバン年譜(3) Biographie de Jean Gabin(3)

2015-07-29 | ジャン・ギャバン年譜
(3)映画デビューからトップスターへ(26歳~34歳)

1931年~1932年
 デビュー作『誰にもチャンスが』(マルク・アレグレ監督)が前年暮れにパリで封切られ、正月にはフランス中で上映される。映画はヒットし、ジャン・ギャバンは華々しく映画界にデビュー。


 『誰にもチャンスが』で元妻のギャビー・バッセと共演

 その後2年間で10本の映画に出演。ほぼ全作品が主役ないし準主役で映画スターへの道を歩み出す。歌と踊りのある娯楽映画のほか、シリアスな文芸映画にも出演。
 31年秋、ベルリンへ行き、『グロリア』のフランス語版に出演。主役はドイツのスター女優ブリギッテ・ヘルムで、ギャバンは脇役だったが、有望な若手俳優として注目される。
 アナトール・リトヴァク監督の『リラの心』(32年3月フランス公開)ではパリの下町の不良青年を演じて高い評価を受け、ギャバンの魅力が発揮される役柄の一つのタイプとなる。

1933年
 4本の映画に出演。ゲオルク・W・パブスト監督の『上から下まで』でサッカー選手の役を演じる。この映画はのちに(1936年5月)日本でも公開。
 秋、パリでヌード・ダンサーのドリアンヌ(本名ジャンヌ・モーシャン)と知り合う。
 11月、父が死去。その3日後にドリアンヌと結婚。内輪だけの結婚式ですます。ジャン29歳、ドリアンヌは4歳上の33歳だった。二人の夫婦生活は7年続くが、ギャバンは幾度となく浮気していた。

1934年
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』で主役のマドレーヌ・ルノーと共演。この映画のロケでカナダへ行く。ギャバンは開拓民で猟師の役。
 『はだかの女王』で黒人混血スターのジョセフィン・ベーカーの恋人役をつとめる。(『はだかの女王』は1935年12月に日本公開され、ジャン・ギャバンの本邦初お目見えとなる。『白き処女地』が日本公開されるのは1936年2月)

1935年
 『地の果てを行く』(デュヴィヴィエ監督)の映画化に自ら関わる(映画化権を買う)。原作者のマッコーランと親交をむすぶ。


 『地の果てを行く』撮影中のスタジオの前で
 (中央にデュヴィヴィエ、右に東和映画社長の川喜田長政)

1936年
 『どん底』でジャン・ルノワール監督の映画に初出演し、名優ルイ・ジューヴェと共演。
 『望郷』(デュヴィヴィエ監督)の相手役ミレーユ・バランと恋仲になる。


 『望郷』日本版ポスター

1937年
 1月、『望郷』がフランスで公開され、大ヒット。ギャバンが扮したギャングのペペ・ル・モコが当たり役となる。
 6月、『大いなる幻影』(ルノワール監督)がパリで封切られ、絶賛される。
 夏、ドイツのウーファ社と契約を結び、ジャン・グレミヨン監督の『愛慾』をベルリンで撮る。相手役はミレーユ・バラン。この映画の後、バランとは別れる。
 若きマルセル・カルネ監督と詩人・脚本家ジャック・プレヴェールに知り合う。『霧の波止場』の製作に自ら関わる。11月、クランク・イン。相手役は当時17歳のミシェール・モルガンで、ギャバンは彼女に心惹かれる。ただし、この頃はまだ恋愛関係に発展せず。


 『霧の波止場』撮影中、休憩時のスナップ
 (左にピエール・ブラッスール、中央にミシェール・モルガン)

1938年
 5月、『霧の波止場』公開され、絶賛をあびる。
 7月、『獣人』(ルノワール監督)で、少年時代からなりたかった鉄道機関士の役を演じる。
夏、ドイツのウーファ社と契約を結び、『珊瑚礁』に出演。地中海でのロケ撮影のあと、ベルリンの撮影所で相手役のミシェール・モルガンと再会。ドイツと英仏との緊張が高まるが、9月末ミュンヘン協定で一時的に緩和。


ジャン・ギャバン年譜(4) Biographie de Jean Gabin(4)

2015-07-28 | ジャン・ギャバン年譜
(4)波瀾万丈の大戦中、戦後の低迷期(35歳~47歳

1939年
 7月、ジャン・グレミヨンの『曳き船』の撮影期間中にミシェール・モルガンと恋愛関係になる。
 9月、フランス、ドイツと開戦。第2次大戦はじまる。ギャバン、応召され入隊。『曳き船』の撮影は中断、ミシェール・モルガンとも離れ離れとなる。

1940年
 5月、除隊し、『曳き船』の撮影を続ける。
 6月、ドイツ軍、フランスへ侵攻。
 6月14日、パリ陥落。ギャバンはパリを逃れ、南フランスへ避難。
 妻ドリアンヌと別れる(離婚成立は2年後)。
 ニースに滞在。
 ミシェール・モルガンが渡米することになり、見送る。これが彼女との別れとなり、ギャバンは失意のうちに暮らす。

1941年
 2月、フランスをあとに、ポルトガルのリスボンから船でアメリカへ渡る。
 しばらくニューヨークに滞在し、ハリウッドへ行く。ダリル・ザナックとフォックス社の映画出演契約を結ぶ。憧れの女優ジンジャー・ロジャースに会う。
 この頃、マレーネ・ディートリッヒと出会い、恋愛関係になる。
 ディートリッヒとハリウッドの家で夫婦同然に暮らす。この家はグレタ・ガルボ所有で、隣りにガルボが住んでいた。渡米中のフランス人の映画関係者などを招いて会食する。


 ディートリッヒと

1942年
 フォックスで『夜霧の港』を撮る。にわか仕込みの英語で台詞をしゃべる。
 渡米中のデュヴィヴィエ監督で『逃亡者』を撮る。

1943年
 自由フランス軍に志願入隊。階級は二等兵曹。
 4月、海軍の護送船で大西洋を渡り、北アフリカ(アルジェ)へ行く。任務は石油タンカーの護送だった。
 途中、ドイツ機に襲撃され、応戦。
 アルジェでは、海軍陸戦隊の教育係を務める。
 アメリカ空軍婦人部隊の一員になってアルジェに立ち寄ったディートリッヒと再会。
 
1944年
 8月20日、連合軍パリ解放。その報をアルジェで知る。
 秋、巡洋艦でフランスへ渡航。ブレスト港に着き、3年半ぶりに母国の土を踏む。
 冬、第二機甲師団に入り、戦車でロレーヌ地方へ向かう。


 戦車隊で活躍した頃

1945年
 2月末、パリに立ち寄り、親戚一族に再会。
 4月、ドイツ軍基地の解放に向かう。戦車に搭乗し、ロワイヤンでの攻防戦に参加。その後、ライン川を渡り、各地で転戦。
 5月8日、休戦協定。
 7月、復員してパリに帰る。
 ディートリッヒとパリで生活を始める。
 マルセル・カルネ監督から『夜の門』への出演を依頼される。相手役にディートリッヒを起用するという条件で引き受けるが、ジャック・プレヴェールの脚本を読んだディートリッヒが出演を辞退。ギャバンも降りる。主役はイヴ・モンタンに代わり、カルネ、プレヴェールとの友情にひびが入る。(『夜の門』の主題歌「枯葉」はのちにモンタンが歌い、大ヒットする)
 ギャバンは、自ら映画化を企画していた『狂恋』の製作に力をそそぐ。ディートリッヒが相手役を引き受ける。

1946年
 12月、『狂恋』(ジョルジュ・ラコンブ監督)が公開され、興行成績は良かったが、凡作で映画評はかんばしからず。ギャバンもディートリッヒも魅力を発揮できずに終わる。
 以後、ギャバン自ら「幕間」と呼ぶ灰色の時代が始まる。
 ハリウッド映画へ出演するため再三アメリカへ帰るディートリッヒとの関係も熱が冷めてゆく。

1947年
 ディートリッヒと破局。将軍の令嬢コレット・マルスと交際を始める。
 『面の皮をはげ』(レーモン・ラミ監督)の1本のみに出演。この映画でギャバンはコレットに役を与え、デビューさせる。また、共演した新進女優マルティーヌ・キャロルとの間にも噂が立つ。

1948年
 9月、仏・伊合作映画、ルネ・クレマン監督の『鉄格子の彼方』に出演するため、イタリアへ行く。ジェノヴァでロケ、ローマでセット撮影。(フランス公開は翌年11月)

1949年
 2月、劇作家アンリ・ベルンスタンが書き下ろした『渇き』で主役の一人を演じ、二十年ぶりにパリの舞台(アンバサドゥール座)に出る。相手役はマドレーヌ・ロバンソンで、クロード・ドーファンも共演。この芝居は好評を博し、1年以上に及ぶロングランになる。


 芝居『渇き』で演じたジャン・ガローヌ役

 2月初め、ファッションモデルのドミニク(本名マルセル・クリスチアーヌ・マリー・フルニエで、呼称クリスティアーヌ)と知り合う。
 3月終わり、知り合って2か月後に結婚。ギャバン44歳、ドミニクは13歳下の31歳。ギャバンにとって三度目の結婚。ドミニクも再婚で連れ子(ジャッキーという9歳の男の子)がいた。その後彼女はギャバンとの間に二女一男をもうけ、良妻賢母として家庭を守り続けていく。
 
 マルセル・カルネと和解し、『港のマリー』の製作に力をそそぐ。
 11月、長女フローランス誕生。ギャバン45歳で初めての子を持つ。

1950年
 2月、『港のマリー』公開。映画はヒットするも、港町のプチ・ブルジョワ実業家に扮したギャバンの役は不評。
 この年は仏伊合作映画『天国の門』1本のみに出演。イタリア人監督ルイジ・ザンバの作品でローマにて撮影。

1951年
 マックス・オフュールス監督がモーパッサンの短編を映画化したオムニバス作品『快楽』の第二話「テリエ館」で、マドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリューの二大女優と共演。ルノーとは12年ぶり、戦前からのスター女優ダリューとは初共演だった。ギャバンは田舎の農民に扮し、個性を出す。
 続いて、『ベベ・ドンジュについての真実』(アンリ・ドコワン監督)で再びダニエル・ダリューと共演。中年の夫婦役を演じて、お互い意気投合する。(フランス公開は翌年2月)


ジャン・ギャバン年譜(5) Biographie de Jean Gabin(5)

2015-07-27 | ジャン・ギャバン年譜
(5)再び大スターへ(48歳~59歳)

1952年
 『愛情の瞬間』(ジャン・ドラノア監督)でミシェール・モルガンと夫婦役を演じる。モルガンが主役で、ギャバンは医師の役で準主役。妻のモルガンが青年画家のダニエル・ジェランと不倫するストーリーで、映画の出来ばえは良く、高い評価を受ける。監督のドラノアとも初めて組んだ作品だった。
 7月、ノルマンディーのピショニエールに農場用の土地を買う。以後、ギャバンは農場の整備と運営に打ち込み、牛馬を飼い、周辺に土地を拡げていく。農場主としての労働と生活はギャバンが亡くなるまで続く。
 9月、次女ヴァレリー誕生。

1953年
 出演映画3本。適役に恵まれず。『ラインの処女号』でジル・グランジェ監督と初めて組む。

1954年
 ジャック・ベッケル監督の『現金(げんなま)に手を出すな』に主演。初老のギャングに扮したギャバンの演技が高い評価を受け、作品も傑作となる。


 『現金に手を出すな』で映画初出演のリノ・ヴァンチュラと

 続いて、マルセル・カルネ監督の『われら巴里っ子』に主演。ギャバンはボクシングのトレーナー役で、アルレッティが女房役。
 ギャバンは、この2作によってヴェネチア映画祭で最優秀男優賞を受け、以後、50歳代の大スター俳優として第二の全盛期を迎える。
 11月、フランスへ帰ったジャン・ルノワール監督と旧交を暖め、大作『フレンチ・カンカン』に主演。ギャバン初のカラー映画出演で、パリの興行師でムーラン・ルージュの創設者の役。相手役は売り出し中の女優フランソワーズ・アルヌール。

1955年
 4月、『フレンチ・カンカン』がフランスで公開され、大ヒット。
 ギャバンへの出演依頼が増え、この年、次々に7本に出演。『ナポレオン』『その顔(つら)をかせ』『筋金(やき)を入れろ』『首輪のない犬』『地獄の高速道路(ハイウェイ)』、そして『ヘッドライト』『殺意の瞬間』。
 9月、待望の長男マティアス誕生。

 『ヘッドライト』で新進気鋭の監督アンリ・ヴェルヌイユと初めて組む。共演はフランソワーズ・アルヌール。(『ヘッドライト』は翌年2月にフランス公開。日本では10月に公開され、好評を得る)
 11月、『殺意の瞬間』でデュヴィヴィエ監督と14年ぶりに組む。レストランのシェフ兼経営者の役。相手役はダニエル・ドロルム。(翌年2月に撮影完了、4月にフランス公開)

1956年
 クロード・オータン=ララ監督の『パリ横断』でアナーキストの画家の役を演じる。共演は人気喜劇俳優の二人、ブールヴィルとルイ・ド・フュネス。この映画は、彼らの人気もあって、フランス国内で大ヒットする。(日本では未公開)
 この年は、ほかに『逆上』(ジル・グランジエ監督)とジャン・ポール・シャノワ監督の『罪と罰』『ローラン医師の患者』に出演。

1957年
 『殺人鬼に罠をかけろ』(ジャン・ドラノア監督)でメグレ警視を演じ、当たり役とする。(ギャバンのメグレ警視シリーズはほかに2本撮られる)
 『レ・ミゼラブル』(ジャン=ポール・ル・シャノワ監督)でジャン・ヴァルジャンを演じる。映画は大ヒットする。(ギャバン主演作で戦後の興行成績トップとなる)

1958年
 『可愛い悪魔』(クロード・オータン・ララ監督)で人気爆発中のブリジット・バルドーと共演。ただし、映画は凡作で興行成績も振るわず。ギャバンはこれを最後に女優とのラヴ・シーンを撮らなくなる。
 『大家族』で若手監督ドニス・ド・ラ・パテリエールと組む。

1959年
 出演映画3本。
 『浮浪者アルシメード』(ジル・グランジエ監督)はギャバンの原案を映画化したもので、クレジットタイトルに初めて本名のジャン・モンコルジェを使う。ギャバンは主人公の浮浪者(タイトルのアルシメードはアルキメデスのこと)を意欲満々に演じ、映画も大ヒットとなる。日本では未公開。

1960年~61年
 年間の出演作を2本に絞る。


 家族全員と

1962年
 『冬の猿』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)で若手スターのジャン=ポール・ベルモンドと初共演。ベルモンドとはすぐに意気投合し、共にスポーツを楽しんだりする。しかし映画は、新旧の両雄並び立たずで不本意な出来となり、興行成績は予想を大きく下回る。


 『冬の猿』撮影中 ベルモンド、ヴェルヌイユ(中央)たちと


1963年
 同じくアンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディ』で今度はもう一人の若手スターのアラン・ドロンと初共演。老ギャング役のギャバンが途中からドロンの脇役に回る展開のため、ギャバンはこの作品が気に入らなかったが、世界的にヒットする。フランス本国よりも日本での興行成績が圧倒的に良かった。以後ずっとアラン・ドロンはギャバンを父親のように慕い、ギャバンもドロンを可愛がった。二人の共演作はのちに2本(『シシリアン』『暗黒街の二人』)作られ、ヒットする。


 『地下室のメロディ』 ドロンと


ジャン・ギャバン年譜(6) Biographie de Jean Gabin(6)

2015-07-27 | ジャン・ギャバン年譜
(6)主演する老優、晩年(59歳~72歳)

1964年
 旧友の人気喜劇俳優フェルナンデルと二人で映画製作会社「ギャフェール」(ギャバンのギャとフェルナンデルのフェルを合わせて命名)を設立する。
 その第1作『思春期』(ジル・グランジエ監督)をフェルナンデルとの共演で作る。しかし、興行成績は予想を大きく下回り、新会社は困難な船出となる。(『思春期』は日本未公開)


 フェルナンデルと

1965年
 ドニス・ド・ラ・パトリエール監督の『神の雷鳴』に主演。この年の出演作はこの1本のみだったが、ヒットする(日本未公開)。

1966年
 『皆殺しのバラード』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で老ギャングを演じる。

1967年
 『太陽のならず者』(ジャン・ドラノア監督)の1作のみ。

1968年
 『パリ大捜査網』で新進気鋭のジョルジュ・ロートネル監督と組む。主役のギャバンは辣腕のパリ警察本部長。映画は大ヒット。

1969年
 アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演した『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)が世界的に大ヒットする。

1970年
 『わが領土』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、大地主の役を演じる(日本未公開)。

1971年
 2月、親友のフェルナンデルが死去し、ショックを受ける。
 『猫』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、長年共演を望んでいたシモーヌ・シニュレと初共演。映画の出来は良かったが、予想に反して、ヒットせず。ギャバンは観衆の望む映画が分からなくり、失望する。(『猫』は日本未公開)

1972年
 『殺し屋』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で警部役(日本未公開)。

1973年
『ドミニシ事件』(クロード・ベルナール=オベール監督)に主演。実在の老農夫ドミニシを演じる(日本未公開)。
 ジョゼ・ジョヴァンニ原作・監督の『暗黒街のふたり』でアラン・ドロンと共演。老保護司に扮し、好演。この作品は、翌年4月に日本でも公開され、ヒットする。

1974年
 CBSで約40年ぶりにレコーディングしたシャンソン〝Maintenant, je sais"(ぼくの知ってること)が大ヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=OEkJ45ZXK-o

 出演映画は9月にフランスで公開された『愛の終わりに』(アンドレ・カイヤット監督)の1本のみ。主役はソフィア・ローレンで、ギャバンは彼女を裁く判事の役。この映画は翌年9月に日本公開され、生前のギャバンを日本で見る最後の映画になった。


 ドミニク夫人と

1975年
 映画出演なし。この年の末にようやく映画『聖年』の企画が持ち込まれ、出演依頼を受ける。

1976年
 この年の初めに『聖年』(ジャン・ジロー監督)の撮影開始。ギャバンは、神父に変装した老ギャングの役で、共演のダニエル・ダリュー、ジャン=クロード・ブリアリと久しぶりに映画の仕事を楽しむ。
 4月3日、フランスで創設されたセザール賞の第1回授賞式で開会の辞を述べ、出席者の喝采を浴びる。
 4月23日、『聖年』がフランスで封切られる。(この映画はギャバンの死後もずっと日本未公開で、後年、『脱獄の報酬』のタイトルでテレビ放映された)
 この夏、例年にない猛暑となる。ノルマンディーのピショ二エールにある自己所有の農場で作物と家畜の世話をして働く。
 10月、ドーヴィルで数日間休暇を過ごす。


 ドーヴィルの浜辺で

 11月、ピショニエールの農場で過ごす。
 11月9日、パリのレイモン=ポワンカレ街の自宅へ帰る。身体の変調をきたす。
 11月13日、夕方、救急車でヌイイ=シュール=セーヌにあるアメリカン・ホスピタルへ送られ、入院。
 11月15日、未明(午前6時)に心臓発作を起こし、病室にて永眠。享年72歳。
 11月17日、火葬。
 11月19日、遺骨は、「海に葬ってほしい」という本人の遺言によって、フランス海軍の船デトロワイヤ号でブレスト港の沖合に運ばれ、フランスの北の海に投じられた。