ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ジャン・ギャバン年譜(6) Biographie de Jean Gabin(6)

2015-07-27 | ジャン・ギャバン年譜
(6)主演する老優、晩年(59歳~72歳)

1964年
 旧友の人気喜劇俳優フェルナンデルと二人で映画製作会社「ギャフェール」(ギャバンのギャとフェルナンデルのフェルを合わせて命名)を設立する。
 その第1作『思春期』(ジル・グランジエ監督)をフェルナンデルとの共演で作る。しかし、興行成績は予想を大きく下回り、新会社は困難な船出となる。(『思春期』は日本未公開)


 フェルナンデルと

1965年
 ドニス・ド・ラ・パトリエール監督の『神の雷鳴』に主演。この年の出演作はこの1本のみだったが、ヒットする(日本未公開)。

1966年
 『皆殺しのバラード』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で老ギャングを演じる。

1967年
 『太陽のならず者』(ジャン・ドラノア監督)の1作のみ。

1968年
 『パリ大捜査網』で新進気鋭のジョルジュ・ロートネル監督と組む。主役のギャバンは辣腕のパリ警察本部長。映画は大ヒット。

1969年
 アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラと共演した『シシリアン』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)が世界的に大ヒットする。

1970年
 『わが領土』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、大地主の役を演じる(日本未公開)。

1971年
 2月、親友のフェルナンデルが死去し、ショックを受ける。
 『猫』(ピエール・グラニエ=ドフェール監督)で、長年共演を望んでいたシモーヌ・シニュレと初共演。映画の出来は良かったが、予想に反して、ヒットせず。ギャバンは観衆の望む映画が分からなくり、失望する。(『猫』は日本未公開)

1972年
 『殺し屋』(ドニス・ド・ラ・パトリエール監督)で警部役(日本未公開)。

1973年
『ドミニシ事件』(クロード・ベルナール=オベール監督)に主演。実在の老農夫ドミニシを演じる(日本未公開)。
 ジョゼ・ジョヴァンニ原作・監督の『暗黒街のふたり』でアラン・ドロンと共演。老保護司に扮し、好演。この作品は、翌年4月に日本でも公開され、ヒットする。

1974年
 CBSで約40年ぶりにレコーディングしたシャンソン〝Maintenant, je sais"(ぼくの知ってること)が大ヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=OEkJ45ZXK-o

 出演映画は9月にフランスで公開された『愛の終わりに』(アンドレ・カイヤット監督)の1本のみ。主役はソフィア・ローレンで、ギャバンは彼女を裁く判事の役。この映画は翌年9月に日本公開され、生前のギャバンを日本で見る最後の映画になった。


 ドミニク夫人と

1975年
 映画出演なし。この年の末にようやく映画『聖年』の企画が持ち込まれ、出演依頼を受ける。

1976年
 この年の初めに『聖年』(ジャン・ジロー監督)の撮影開始。ギャバンは、神父に変装した老ギャングの役で、共演のダニエル・ダリュー、ジャン=クロード・ブリアリと久しぶりに映画の仕事を楽しむ。
 4月3日、フランスで創設されたセザール賞の第1回授賞式で開会の辞を述べ、出席者の喝采を浴びる。
 4月23日、『聖年』がフランスで封切られる。(この映画はギャバンの死後もずっと日本未公開で、後年、『脱獄の報酬』のタイトルでテレビ放映された)
 この夏、例年にない猛暑となる。ノルマンディーのピショ二エールにある自己所有の農場で作物と家畜の世話をして働く。
 10月、ドーヴィルで数日間休暇を過ごす。


 ドーヴィルの浜辺で

 11月、ピショニエールの農場で過ごす。
 11月9日、パリのレイモン=ポワンカレ街の自宅へ帰る。身体の変調をきたす。
 11月13日、夕方、救急車でヌイイ=シュール=セーヌにあるアメリカン・ホスピタルへ送られ、入院。
 11月15日、未明(午前6時)に心臓発作を起こし、病室にて永眠。享年72歳。
 11月17日、火葬。
 11月19日、遺骨は、「海に葬ってほしい」という本人の遺言によって、フランス海軍の船デトロワイヤ号でブレスト港の沖合に運ばれ、フランスの北の海に投じられた。



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