ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ギャバン出演映画リストについて

2015-10-02 | ギャバン出演映画リスト
 このリストを作成するにあたり、以下の著書、インターネットの資料を参照した。
「ジャン・ギャバン」(アンドレ・ブリュヌラン著 清水馨訳 時事通信社) 日本語版巻末のジャン・ギャバン出演映画作品リスト
「シネアルバム62 ジャン・ギャバン 粋でタフなパリ野郎」(責任編集:林冬子 芳賀書店)
「わがジャン・ギャバン」(英知出版)
 インターネット フランス語版ウィキペディア
 インターネット・ムーヴィー・データベース(IMDb)
 インターネット Ciné-Ressources―Fishes Personnalité
 インターネット ユニフランス・フィルムズ(uniFrance films)
 インターネット Movie Walker
 インターネット allcinema(Movie&DVD Database)

 ジャン・ギャバンが出演した映画は、初期の短篇喜劇映画2本を含めないと、全部で95本ある。第二次大戦でギャバンがフランス軍に入隊していた時期で区切ると、戦前が33本、戦後が62本である。ただし、戦前最後の2本はギャバンが米国滞在中に出演したハリウッド製の映画であった。そしてこの2本だけがアメリカ映画で、ほかの93本はすべてフランス映画である。
 この95本の映画のうち、ギャバンの生前、日本で公開された映画は半数に満たない45本である(『ナポレオン』はギャバンの出演シーンがカットされていたので除く)。日本で太平洋戦争前(約5年間)に公開された映画はわずか9本で、ギャバンが映画デビーしてから出演した14本は未公開であった。また、『望郷』以降に作られた戦前作品10本のうち公開されたのは『珊瑚礁』の1本だけで、あとの9本は未公開のままだった。『愛慾』『大いなる幻影』『霧の波止場』『獣人』は戦後(1948年から1950年)公開されている。この4本も含め、また戦中に作られたハリウッド映画2本を加えると、戦後(47年~75年)日本で公開されたギャバンの出演作は36本である。戦後作られた映画62本のうち30本が公開され、半数以上の32本が未公開に終ったわけである。
 ギャバンが亡くなったのは1976年11月15日であるが、日本では未公開だった映画が死後10年後に1本(『サン・フィアクル殺人事件』)、20年後にもう1本(『冬の猿』)追悼上映されている。つまり、日本の映画館のスクリーンで上映された映画は全部で47本ということになる。
 ギャバンの死後、ギャバンの映画は映画館ではほとんど見られなくなった。しかし、テレビで放映されたり(この時私はずいぶんビデオに録画した)、数多くの映画がビデオ化されたので(私はずいぶん買った)、ギャバン・ファンないしはギャバンの出演したフランス映画の愛好者は、自分の家のテレビの画面で彼の映画を鑑賞してきたわけである。そして、近年DVD(フランス版も含め)が一般化し、現在ではインターネットのYou Tube(日本語字幕はない)で日本では未公開だった映画、ソフト化されていない珍しい映画が見られるという時代になった。また、インターネットのおかげで、フランスで作成されたホーム・ページなどもパソコン上で見たり、読んだりすることができるようになった。ただし、フランス版DVDやYou Tubeは、日本語字幕がないので、ある程度フランス語のリスニングができないと鑑賞できず、またインターネットの資料や記事もフランス語が読めなければ参考材料にはならない。私は20代後半から30代半ばくらいまでフランス語を勉強したことがあり、25年ほど怠けていたのだが、最近、フランス映画に接することが増え、フランス語を勉強し直そうと思い始めている。
 この半年間で私はギャバン出演映画を55本見たが、以前見てもう一度見直した映画が24本で、初めて見た映画が31本もあった。同じ映画で2度、3度と見たものも20本以上あるので、100回以上はギャバンの映画を見たことになるだろう。ギャバンの出演していないフランス映画も折に触れて見ているので、かなりフランス映画漬けになっている。あと20本ほど未見の映画を見れば、現在見ることのできるギャバンの出演映画は全部見たことになるので、今後も見続けようと思っている。残念ながら恐らくもう永久に見られない映画が20本ほどあるようだが、これは仕方があるまい。
 
 ギャバンは映画俳優となって本格的に映画デビューする前に、短篇喜劇映画に2本出演している。そのデータを掲げ、ギャバン自身のコメントを引用しておこう。

 
①リレットの遺産 L'héritage de Lilette
 1929年or1930年 黒白 短篇
〔監督〕不明(?ミシェル・デュ・ラック)
〔ギャバンの役〕不明
〔共演〕レイモン・ダンディ(主役)
〔封切〕1930年(?)
〔日本公開〕不明
〔ソフト〕なし
〔注〕別題 Ohé! Les valises(旅行かばん)。ゴーモン社製作の無声映画か?


②調教師を求む On demande un dompteur
 1929年or1930年 黒白 短篇(210メートル)
〔監督〕不明(?ミシェル・デュ・ラック)
〔ギャバンの役〕浮浪者
〔共演〕レイモン・ダンディ(主役)
〔封切〕1930年
〔日本公開〕不明
〔ソフト〕なし
〔注〕別題 Les lions(ライオン)。ゴーモン社のスタジオで無声で撮影され、あとでパラマウント社のスタジオで音入れされたようだ。


――1928年から29年の初めにかけて、ささやかながら映画の仕事を引き受けたことがある。ムーラン・ルージュでの相棒だったダンディとの共演だった。詳しいことは忘れてしまったが、とにかくゴーモンのスタジオへ行き、短編を2本続けて撮った。ダンディと私が、なぜか“例の持ち物”と呼んでいた『リレットの遺産』という作品。それからムーラン・ルージュでやった『もしもし、こちらパリ』というショーの中の寸劇『ライオンと調教師』の、今で言えば映画化だった。ダンディと私の役は浮浪者。『調教師を求む』という貼り紙のある猛獣小屋の前で足を止める。何人かの屈強な男たちがやってきては中に入り、そのたびに猛獣の咆哮が聞こえて、入った男たちが担架に乗せられて出てくる。身長わずか1メートル50。私の肩までしかないダンディが中に入る。すごい叫び声が聞こえてから彼が『ライオンを求む』と書いたプラカードを持って意気揚々と出てくる。と、まあこんなギャグなのだが、結構面白かった。この2本の映画が一般に上映されたかどうかは定かではないし、恐らくもうどこにも存在していないに違いない。(ジャン・ギャバン アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」より清水馨・訳)


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