ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ディタ・パルロ Dita Parlo

2015-08-11 | 女優


 ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』で捕虜収容所から脱走したギャバンがドイツの片田舎の農家にかくまわれ、幼い娘とさびしく暮らす戦争寡婦と愛し合う。この慎ましい聖女のようなドイツ女を演じたのがディタ・パルロである。
 ギャバンが可愛い娘を見て、片言のドイツ語で「ロッテ・ハット・ブルー・アウゲン」(ロッテは青い目をしている)と言うと、パルロがすかさず「ブラウエ・アウゲン」と訂正するのだが、互いに言葉が通じたのはこの時だけだった。二人は、表情や身振りや行動だけで、互いに意思を通じあい、好きになっていく。クリスマス・イヴの夜が二人が深い仲になる時だった。
 そして、ついに別れの日がやってきた。ギャバンは、それを悟って涙ぐむパウロの後ろに佇み、フランス語で誠意を込め、「きっと戻って来るから」と言ってパルロの肩を抱きかかえるのだった。
 ディタ・パルロという女優は、幸運にも名作『大いなる幻影』に出演したことによって、後世まで決して忘れられない存在になった。
 ほかに彼女が出演した映画で私が見たものはアンドレ・カイヤットの問題作『裁きは終りぬ』であるが、陪審員の一人を追いかけてきた愛人で、絶望して自殺してしまう冴えない役だった。


 
 ディタ・パルロは、1906年9月4日、ドイツのシュッテティンに生まれた。本名グレーテ・ゲルダ・コルンシュタット。ベルリンのラーバン・ボーデ学校でバレーを学んで踊り子となり、さらに映画会社ウーファ社の演劇学校の生徒となった。1928年同社の大プロデューサーであるエリッヒ・ポマーの目にとまり、ヴィルヘルム・ティーレ監督の『伯林の処女』に抜擢される。引き続いて数本の映画に出て、魅力を発揮、たちまちスターの座につく。1930年ハリウッドの招きで渡米、初めはドイツ語版に出ていた。のちにアメリカ映画にも出演したが意外に人気が伸びず、失意のうちにアメリカを去る。折しも故国はナチ政権下にあり、やむなくフランスに居を構え、1939年までフランス映画に出演。第二次大戦下にはフランスの強制収容所に入れられ、ついに祖国の土を踏むことなく、1971年12月12日パリで客死。
 主な出演作:『伯林の処女』『帰郷』『ハンガリア狂想曲』(28)『悲歌』(29)以上ドイツ映画、『キスメット』(米30)『一家の名誉』(米32)、以下フランス映画『霧笛』(33)『アタラント号』(34)『大いなる幻影』(37)『クリストバルの黄金』(40)『裁きは終りぬ』(50)『スペードの女王』(65)

シモーヌ・シモン Simone Simon

2015-08-10 | 女優


 ジャン・ルノワール監督の『獣人』でギャバンと共演。鉄道の駅に勤める助役の若妻がシモーヌ・シモンで、堅物でケチな夫に嫌気がさし、機関士のギャバンの愛人になって夫を殺すように仕向ける小悪魔的な女を演じた。この役はルノワール自身が彼女に最適だと思って決めたのだという。ギャバンとの共演はこの一本だけだが、彼女にはロリータ的な少女の面影があって、汗だくになって働くギャバンが、こういう女に惑わされるのも分かる気がした。
 シモーヌ・シモンがシャム猫のような表情の愛らしさと小柄だが溌剌とした魅力を発散させた映画は、マルク・アレグレ監督の『乙女の湖』(1934年)である。『獣人』に出演する4年前で、この一本で彼女は一躍スター女優になった。『乙女の湖』は最近DVDが発売されたので、早速TSUTAYAで借りて、わくわくしながら見たが、今見てもシモンの魅力は大したものであった。美青年スターのジャン=ピエール・オーモンの恋人で、パックという名の娘がシモーヌ・シモンの役だった。夏の避暑地である美しい湖で二人は出会い、恋に落ちる。若い男と女のひと夏の思い出といった純愛映画なのだが、シモンはメルヘンに登場する妖精のようでもあり、後年フランソワーズ・サガンが小説で描いたような大人になる前の現代的な少女でもあり、不思議な娘を演じていた。



 シモーヌ・シモンは、1910年(1911年)4月23日、マルセーユ(またはベテューヌ)に生まれた。マルセーユとマダガスカルで学校教育を受け、30年頃にパリへ出てモード画などを描いていた。31年、『無名の歌手』の端役で映画デビュー。34年マルク・アレグレ監督に抜擢され、『乙女の湖』でヒロインのパックに扮し、一躍脚光を浴びた。この映画の評判で、彼女は、36年ハリウッドに招かれて数本に出演。2年後に帰仏して、ジャン・ルノワール監督の『獣人』でジャン・ギャバンと共演、若い人妻セヴリーヌの演技が話題になった。大戦がはじまって、再び渡米、アメリカ映画で活躍をみせた。解放後フランスに戻り女優を続けるが、戦前の輝きはなかった。53年10月、第1回フランス映画祭に招かれ来日。2005年2月22日パリで死去(94歳)。
主な出演作:『乙女の湖』(34)『黒い瞳』『みどりの園』(35)『四つの恋愛』(36、米)『第七天国』(37、米)『ジョゼット』(38、米)『獣人』(38)『第三の接吻』(39)『キャット・ピープル』(42、米)『誘惑の港』(46、英)『女の獄舎』(49、伊)『輪舞』『処女オリヴィア』(50)『快楽』(51)『三人の泥棒』(54、伊)『二重の運命』(55、西独)『青いドレスの女』(72)

ジャン・ギャバン年譜(1) Biographie de Jean Gabin(1)

2015-08-08 | ジャン・ギャバン年譜
(1)生い立ちから18歳まで

1904年
 5月17日、パリ9区ロシュシュアール通り23番地で生まれる。本名はジャン・アレクシス・ギャバン・モンコルジェ(Jean Alexis Gabin Moncorgé)。
 父フェルディナン・ジョセフ・モンコルジェ(1868~1933)は、パリではギャバン(Gabin)の芸名で知られたボードビリアンだった。母は元歌手エレーヌ、本名(旧姓)マドレーヌ・プティ(1865~1918)。
 ジャンは末っ子で、16歳上の兄フェルディナン=アンリ(愛称ベベ)、14歳上の姉マドレーヌと11歳上の姉レーヌがいた。(長男とジャンの間にはほかに3人の子がいたが、みな子どもの時亡くなっている)


 父ギャバン

 ジャン・ギャバンはパリ生まれであるが、生まれたのは知人の助産婦の家だった。両親の家はセーヌ=エ=オワーズ県(現・ヴァル=ドワーズ県)の小さな村メリエル(Mériel)にあった。
 ジャンは生まれて間もなく両親とともにメリエルの家へ行き、ここで育てられる。母エレーヌにとってジャンは望んで生んだ子ではなく(38歳の時の子)、子育ては長女マドレーヌに任せていた。母は病気がちで神経も弱く、物心つくや腕白ぶりを発揮したジャンを叱ってばかりいた。芸人の父もパリへ働きに出て、家にいる時間が少なく、子どもの頃のジャンは父とはほとんど顔を合わせることもなかった。
 メリエルという村はパリの北約30キロ、オワーズ川とリラダンの森にはさまれた丘陵にあり、石膏の産地だった。パリの北駅から直通の鉄道が通じ、駅もあった。当時の人口は約500人。(現在はパリのベッドタウンで人口数千人、ジャン・ギャバンが育った村として有名になり、ジャン・ギャバン記念館が立っている)
ジャンは、この田舎の自然豊かな村で幼少年期を過ごす。

1909年 
 5歳の時、最愛の姉マドレーヌが結婚。夫はジャン・ポエジーといい、ボクシングのフランス・フェザー級のチャンピオンだった。ジャン(ギャバン)はこの義兄を慕い、少年時代に彼からいろいろなことを教わり、大きな影響を受ける。


 姉マドレーヌとポエジーの結婚式で親戚一同と(前列左端に5歳のジャン)

1910年~
 6歳の時、メリエルの小学校へ入学する。


 メリエルの家の前で両親と

 ジャンは勉強が嫌いで、しばしば学校をさぼっては近くの野や森へ行き、一人で自由気ままに過ごした。親友の父が持っていた農場で、土地を耕したり、馬の世話をすることも好んだ。ジャンの将来の夢は、農場主になるか、鉄道の機関士になることだった。メリエルを通過する蒸気機関車をいつも眺めて、飽きることがなかった。


 9歳の頃

1914年
 ジャンが10歳の時、第一次大戦が始まり、兄ベベも義兄ポエジーも徴兵される。メリエルの村にもフランスの軍隊がやって来て、戦争を身近に感じるようになる。
 義兄ポエジーは戦争で片足を切断し、ボクサーの選手生命を終えたが、その後ボクシングのジムをつくり、トレーナーになった。ジャンは10歳の頃から彼のもとでボクシングを習い、数年間練習を続けた。ジャン・ギャバンの団子鼻はその時パンチを受けた後遺症だという。

1915年~1916年
 1915年12月、両親とパリへ移り住む。モンマルトルにあった叔母ルイーズの家に一時滞在後、モンマルトルのキュスティーヌ街のアパートへ引っ越す。すぐ近くのクリニャンクール街の小学校へ転校。勉強嫌いは変わらず、試験のたびに優等生だった親友の答案をカンニングして、12歳の時どうにか小学校を卒業する。
 しかし、学校を続ける意志はなく、両親とメリエルの実家に帰る。戦争が激しくなり、パリの芸能界での仕事がなくなった父といっしょに鉄道の線路工夫をして働く。

1917年
 13歳になり、兄ベベの斡旋で、兄の勤めるパリの電力会社の用務員となる。メリエルの家から毎朝パリへ通い、無遅刻無欠勤で働く。余暇には、サッカー、自転車、ボクシングを楽しんでいた。

1918年
 9月、メリエルの家で母が死去。
 一時期父と二人だけで暮らしていたが、急に父がジャンに学業を続けさせようと思い立ち、奨学金を得て、パリのジャンソン=ド=サイイ中高等学校へ入学。寄宿舎へ入れられ、学校嫌いで劣等生のジャンは監獄生活を送っているかのように感じ、鬱屈した日々を過ごす。(11月に第一次大戦が終わる)

1919年
 春、学校から逃亡し、義兄ポエジーと姉マドレーヌ夫婦の家へかくまわれる。父は激怒したが、結局復学することなく、中退。以後、自活して働くことになる。
 ラ・シャペル駅の保線工になり、叔母ルイーズのパリ・モンマルトルの家に下宿して通勤。

1920年~1921年
 メリエルに帰り、ボーモン=シュール=オワーズにある鉄工場の工員となる。
 その後、ドランシーの自動車整備工場で修理工として働く。


 ボクシングの練習中

 芸能界に復帰した父は、かねてから息子を自分と同じ芸人にしたいと望んでいた。時々劇場の楽屋へジャンを連れて行ったが、父と同じような芸人になりたいとはまったく思わず、反発したため、父とは疎遠状態になる。父に愛人ができたことも反発した大きな原因だった。


ジャン・ギャバン年譜(2) Biographie de Jean Gabin(2)

2015-08-03 | ジャン・ギャバン年譜
(2)舞台役者・ボードビリアン時代(18歳~26歳)

1922年
 この年の終わり頃、父と和解。新しい就職口を世話すると言う父にだまされ、フォリー=ベルジェール(Folies-Bergère)の支配人フレジョルに会わされ、役者に採用される。ギャバン曰く、父に「尻を足で蹴とばすようにして」フォリー=ベルジェールの舞台に送り出される。

1923年
 18歳でフォリー=ベルジェールの舞台に初めて立つ。月給600フラン。
 12月、フォリー=ベルジェールのオペレッタ「夜会服の女」が開演。プログラムに初めて「ジャン・ギャバン」の名がのる。バーテンダーの役。


1924年
 新人歌手ギャビー・バッセ(Gaby Basset)と知り合い、相思相愛になる。ジャン19歳、ギャビーは2歳上の21歳だった。パリのモンマルトルの安ホテルで同棲する。
 20歳になり、兵役義務のためフランス海軍陸戦隊に入隊。ブルターニュのロリアン基地へ行く。独身のため外出許可がおりず、鬱屈とした兵役生活を送る。妻帯者が優遇されるのを知り、ギャビーとの結婚を決意。
 
1925年
 この年の初めにギャビー・バッセと結婚。父は喜び、パリ・モンマルトルのビストロで披露宴を開く。結婚したおかげで、パリ市内の海軍省に転属になる。主な任務は省の前に立つ衛兵であった。

1926年
 兵役を終え、パリでギャビーと新婚生活を送る。


 ギャビー・バッセと

 ブッフ・パリジャンで上演中の人気オペレッタ『三人の若い裸婦』で代役を引き受けたが、出演機会はなかった。この出し物には父フェルディナン(ギャバンの芸名で)と妻ギャビーが出演していた。9月、やっと海軍士官の役が回ってきて、父と妻との共演が実現。
 
1927年
 『三人の若い裸婦』の終演後、失業状態が続き、妻ギャビーの歌手としての稼ぎに頼る。二人は貧乏生活を続け、モンマルトル界隈の安ホテルを転々とする。この頃、同じように貧乏な役者たちと親しくなる。そのなかにピエール・ブラッスール、マルセル・ダリオがいた。また小説家のジョセフ・ケッセルもいた。しばらく歌手として各地を回り、生計を立てる。

1928年
 オペレッタのブラジル巡業に妻ギャビーと加わり、リオデジャネイロへ行く。
 帰国後、パリのムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)でオーディションを受ける。ジャンは憧れていたモーリス・シュヴァリエの歌を唄う。それを見た大スターのミスタンゲットMistinguettに気に入られる。
 4月、ムーラン・ルージュのショー『回るパリ』でミスタンゲットと共演。ジャン・ギャバン24歳。ボードビリアンとして活躍の場を与えられ、人気スターへの道を進む第一歩となる。
ミスタンゲットとデュエットで初めてレコードに歌を吹き込む。曲名は「ラ・ジャヴァ・ド・ドゥドゥーヌ」。


 ミスタンゲットと
https://www.youtube.com/watch?v=tTXAi3Z0u2c

 12月、『回るパリ』終演。ミスタンゲットはカジノ・ド・パリへ移るが、ギャバンはそのままムーラン・ルージュに残る。

1929年
 1月、ムラーン・ルージュのショー『もしもし、こちらパリ』に出演。幕間の寸劇『調教師』(別名『ライオン』)で道化役者ダンディと共演、大好評を博す。この寸劇は短編喜劇映画となり、ダンディとジャン・ギャバンが出演したという(ジャン・ギャバン本人の話)。
 3月、ブッフ・パリジャンBouffes-Parisiens(以下略してブッフ)の支配人アルベール・ウィルメッツと会い、月額3,000フランで出演契約を結ぶ。
 5月、ブッフで『フロッシー』開演。牧師の甥ウィリアムというコミカルな役を演じ、好評を博す。『フロッシー』はロングランとなり、翌1930年春まで続く。
 11月、ウィルメッツはギャバンの将来性を買って3年契約を結ぶ。出演料が月額5,000フラン(1年目)になる。
 妻ギャビー・バッセも売れっ子歌手になり、舞台女優としても成功をおさめる。すれ違い生活が始まり、ギャバンが『フロッシー』の共演女優ジャクリーヌ・フランセルと浮気をして、5年に及ぶギャビーとの関係が破局をむかえる。

1930年
 ギャビー・バッセと離婚。
 5月、ブッフでのオペレッタ『銀行家アルセーヌ・ルパン』に出演。
 秋、映画会社パテ=ナタン社に呼ばれてキャメラ・テストを受けたのち、破格の条件を提示され出演契約を結ぶ。撮影日の日給が500フラン(20日で10,000フラン)だった。
 11月、ミュージカル映画『誰にもチャンス』Chacun sa chance の撮影が始まる。ジャン・ギャバンが主役で、恋人役は元妻のギャビーだった。