ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ミレイユ・バラン Mireille Balin

2015-09-17 | 女優


 ジャン・ギャバンの一世一代の当たり役は、『望郷』のペペ・ル・モコである。パリのギャングで、実名は分からず、ペペ・ル・モコ、あるいは単にペペという仇名で呼ばれている。指名手配中であるが、フランス領アルジェの巣窟カスバに逃げ込み、警察は手も足も出ない。ペペがカスバに立て籠もって二年が経つ。
 ペペ・ル・モコには現地妻のようなカスバの女がいる。しかし、この女にはいい加減うんざりしている。そこへギャビーという愛称のパリジェンヌが現れる。このギャビーに扮したのが、ミレイユ・バランである。フランス人の金持ちの老紳士の愛人なのだが、アルジェへ観光旅行に来て、ペペと知り合うのだ。
 ペペは、パリの匂いを漂わせる奇麗なギャビーに、すっかり魅せられてしまう。ギャビーも金持ちの爺さんには飽き飽きしているから、お尋ね者のペペと危険な遊びがしたくなる。というわけで、ペペの止むに止まれぬ望郷の念と、三角関係のもつれから、最後の悲劇が生まれるわけである。
 『望郷』という映画はストーリーもありきたりだし、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画としてはハリウッド映画を真似た通俗的な作品だと思うが、この映画は、何と言っても、ジャン・ギャバンの個性と魅力で持っている。それと、ミレイユ・バランの高級娼婦が妖艶で、はまり役だったと言える。
 この女優に関しては、日本では意外と知られていないようなので、フランスの資料を覗いてみた。以下、ミレイユ・バランの略歴を書いておく。前半生の恋多き華やかなスター時代に比べ、戦時中ナチス・ドイツの士官と恋に落ちてからは悲運に見舞われ、戦後は不幸のどん底のような人生を送り、哀れな最期を遂げたことが分かる。
 



 ミレイユ・バランは、1909年7月20日、モナコのモンテカルロに生まれた。父は新聞記者だった。
 子供の頃はマルセイユで育ち、高校時代はパリで過ごす。
 20歳の頃からグラビア・モデルの仕事を始め、間もなく映画にスカウトされる。
 映画デビューは1931年、22歳のときで、“Vive la Class”という映画の端役だった。
 1932年に映画『ドンキホーテ』に出演。この年に他の作品にも二本出演し、映画女優としてキャリアを歩み始めるも、チュニジア出身のプロボクサー(フライ級の世界チャンピオンだった)と恋仲になる。
 1933年、今度は金持ちの政治家と大恋愛し、社交界の華となる。
 この年、映画『さらば美しき日々』“Adieu les Beaux Jours”でジャン・ギャバンと共演。以後、映画出演を続けるが、ヌードになった映画もあった。
 1935年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督から『地の果てを行く』の出演を依頼されるが、健康上の理由で辞退。この大役はアナベラがやることになる。
 1936年、デュヴィヴィエ監督の『望郷』に出演、主役のジャン・ギャバンと恋仲に。『望郷』は、大ヒットし、彼女も一躍スターになる。
 1937年、ギャバンと再び『愛欲』(ジャン・グレミヨン監督)で共演。ヴァンプ女優として評価される。
 この後、ギャバンとの関係は終わり、人気歌手のティノ・ロッシと恋仲になる。
 1937年10月、ハリウッドに渡り、MGMと契約するも、映画出演できずに翌年帰国。パリでティノ・ロッシと同棲生活を続けるが、浮気性のロッシに悩まされる。
 1939年、ドイツの男優・エリッヒ・フォン・シュトロハイムと共演して親しくなり、彼の映画にその後も2本出演。
 1940年、ドイツ軍のフランス侵攻。ロッシとカンヌへ転居。1941年にパリに戻る。ロッシとは破局。
 1942年、ドイツ大使館でウィーン出身の若き士官デスボックと出会い、恋に落ちる。彼と婚約し、パリとカンヌで同棲生活を続けながら、映画出演。
 1943年、戦争が激化。1944年、パリ解放。デスボックとイタリア国境近くに隠れているところを、フランスのレジスタンス運動派によって逮捕、投獄される。そのとき彼女は折檻、強姦され、デスボックは殺害される。
 1945年、釈放。
 1946年、映画出演。これが最後の映画となる。
 その後、度々病魔に冒され、アルコール中毒に。友人の好意でカンヌに暮らし、一時ニースの病院で療養。
 数年後パリに転居。世間から忘れ去られ、細々と生き続けるも、1968年パリ郊外で死去。享年53歳。