NPO法人 専攻科 滋賀の会

盲・聾・養護学校高等部への専攻科設置拡大、そして広く特別な教育的ニーズを有する青年たちの教育機会の保障をめざす滋賀の会

寄稿:「松ちゃん」の思い出

2017年11月18日 12時14分51秒 | 会員募集のお知らせ

滋賀県長浜市の社会福祉法人ひかり福祉会後援会役員の千田さんより寄稿文を頂戴しましたので、ここにご紹介させていただきます。

戦後間もない頃ですので、1979年(昭和54年)に養護学校が義務教育になるはるか前の時代です。

千田さんの幼少期(小学生低学年)ご経験談になり、当時障がい者本人および保護者の意思に関わらず、多くの障害児の保護者に対して「就学猶予や就学免除」の適用がされており、教育を授かる事が不可能な時代であり、障がいを持つ児童・生とは学校での健診等も受診できず健康状態でも粗悪な環境におかれておりました。

なお、幼少期当時の千田さんの実体験寄稿をそのまま掲載し、あえて注釈を加えておりません。「障がい児(者)冷遇期」の体験談としては貴重なものとなりますので、その旨ご理解いただきながらご参照頂ければ幸いです

■御参考:障がい者の歴史➤東京大学市川研究室WEB (専攻科滋賀の会WEBに戻る時はブラウザの「戻る」ボタンを)

 

◆小学一年生頃の「松ちゃん」の鮮烈な思い出

 

~牛小屋につながれていた「松ちゃん」の事~

ひかり福祉会後援会役員

千田敏彦(75才)


  私は昭和17年生まれで、昭和24年に小学校に入学しています。疎開してきた関係で、小学校までのことはあまり記憶にありません。

私が見た昭和24年頃、近所の大人から聞いた「松ちゃん」と呼ばれる女性は私と同じ村の障害者で10代後半から20歳前後ではなかったかと思われます。

松ちゃんの長兄が戦死され、次兄が家を継がれました。

私達子どもは松っちゃんの家を知っていたのですが「あの家(うち)の奥の牛小屋へは絶対近づくな。」と村人から常にきびしく戒められていました。

その頃は子どもも多く、やんちゃばかりしていましたので、ある時誰かが「お化けが出るちゅうあの奥の牛小屋を覗こうや」と言うので、私もしぶしぶ怖い物見たさでついて行きました。

真っ暗で何も見えませんでしたが、じっと見つめているとだんだんとなかの様子が見えてきました。

真ん中に一本棒が立ってあり、じっとみると、誰かがくくられていました。更によく見ると真っ白な顔の女の人がくくられていました。その女の人はニタッと笑っていました。 

着物も破れ放題で、髪もぼうぼうでまるでお化けのようでした。誰かが「ギャー」と声を立てたので、みんな一斉に逃げました。

その声に気付かれた腰の曲がったお母さんが、コラーッといって棒で追いかけてきました。 

私達は夢中で逃げました。


 その人が松ちゃんと呼ばれる重度の心身障がい者であったことは、この方が亡くなった後に知りました。はっきりわかりませんが、松っちゃんは20歳前後で亡くなったと聞いています。

その頃は重度の障がい者を預かるところなどなかったのでしょう。その上、田舎では障がい者が生まれると、前世のたたりだと言って差別扱いされて、嫁も来ない状態で、ここでもお嫁さんが来るに当たっては、松ちゃんを牛小屋に隔離し、お母さんが面倒を見る以外にはなかったのでしょう。

 いつも田んぼの真ん中に竹とひもで吊されたボロボロの着物や腰巻きを見て、「ボロ屋、ボロ屋」とはやし立てる私達子どもを、棒で追いかける腰の曲がったお母さんの姿がいまだに眼に焼き付いて離れません。

 当時のお母さんの悲しみを思うと後悔しきれません。

                2017年10月(記)

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