地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

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エルトゥールル号遭難事件

2009年05月31日 13時51分29秒 | まとめてみました

今週、とある説明会で「トルコが親日的である理由を話すように」という課題が与えられたので、その際、作製したレジュメに加筆し、転載します。出だしから7割くらいの分量までは広く知られたお話です。

エルトゥールル号事件前史

露土戦争(1877,78年)に敗れ、バルカン半島をはじめ広大な領土を失ったオスマントルコは、さらなるロシアの南下政策に悩んでいた。西欧列強からは不平等条約を強いられ、トルコは近代化を図るために日本の明治維新を手本にした。

エルトゥールル号遭難の4年前、明治19(1886)年に、イギリス貨物船ノルマントン号の事件が起きた。難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという悲惨な事件だった。領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下した。のちに日本政府は船長を殺人罪で告訴、3ヵ月の禁固とはなるが、賠償は一切却下され、日本も不平等条約の非情さを味わった。この事件の場所が和歌山県串本町沖である。

明治20(1887)年、小松宮彰仁親王夫妻は欧州歴訪の帰路、イスタンブールを訪問した。それに応えることを目的に、オスマントルコ皇帝ハミル2世は、オスマントルコ帝国海軍の軍艦エルトゥールル号(Ertugrul Firkateyni※エルトゥールルはオスマントルコの創始者オスマン1世の父の名)を、日本へ親善派遣することを決定した。日本とトルコの友好促進のためと、陸軍に比べ訓練不足だったオスマントルコ帝国海軍の練習航海を兼ねていた。

エルトゥールル号遭難事件

明治22(1889)年7月、650名を乗せたエルトゥールル号はイスタンブールを出港。11ヶ月をかけて翌明治23(1890)年6月5日、ようやく日本に到着。横浜に入港したエルトゥールル号司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に東京で明治天皇に拝謁し、トルコ皇帝親書を奉呈し、オスマントルコ帝国最初の親善訪日使節団として各地で歓迎を受けた。9月15日、3ヶ月の滞在を終え、エルトゥールル号は品川出港、神戸経由でトルコへの帰路についた。別行動の乗員を神戸で乗船させるためと思われる。日本側は台風が近いこと、エルトゥールル号が古い艦船であるため修理したほうが良いことを理由に出航の延期を要請したが、オスマン・パシャは台風を侮っていた。

明治23(1890)年9月16日、和歌山県串本町大島沖を台風が襲った。エルトゥールル号はその台風に遭遇し、岩礁に衝突。座礁し、水蒸気爆発を起こした。この事故でオスマン・パシャを含む518名が死亡したが、69名は地元民の手厚い救護により一命をとりとめた。生き残った乗員に対する串本大島村の漁民の献身な活動、手厚い介護がトルコで知られるようになり、日本好きなトルコ人が増えた。大島の村民も4年前、地元で起きた悲惨なノルマントン号事件の悲劇を知っていた。

第一発見者の灯台守の供述が残されている。「九月十六日の真夜中、服はボロボロで裸同然、傷だらけの男がやってきた。海で遭難した外国人であることはすぐにわかった。『万国信号書』を見せると、彼がトルコ軍艦に乗っていたトルコ人であること、また多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。救助に向かった村の男たちが岩場の海岸におりると、おびただしい船の破片と遺体があった。男たちは裸になって、息がある人たちを抱き起こし、冷え切った体をあたためた。」

村人たちはまず、負傷者を背負い、嵐の中60mの断崖絶壁を登り、暴風雨で火も起こせないため人肌でトルコ人を温めて蘇生させ、浴衣などの衣類を提供した。当然、電気、水道、ガス、電話など未だ村にはない。約50戸400人程しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。井戸も掘れず、雨水を利用し、米も獲れない貧しい村だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないため、食料の蓄えもわずかだった。住民は、卵やサツマイモを食べさせ介護した。食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらない。非常時のために飼っていたニワトリまでも食べさせた。また、遭難者の遺体は、引き上げ、丁重に葬った。村人が外国人を見るのは生まれて初めてだった。

 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられ、その後遭難者たちは治療のために神戸へ移送された。明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13名を神戸に派遣した。天皇はトルコ人保護の費用の負担を村に申し出たが、「当り前のことをしたまでです」と村人たちは丁重に断った。

その後、遭難者たちは天皇の命により海軍の軍艦「金剛」と「比叡」の2隻で無事トルコに送り届けられた。2隻は同年(1890年)10月に日本をたち、翌明治24(1891)年1月2日にイスタンブールに到着した。その功績をたたえ、当時のオスマントルコ皇帝から帝国海軍士官らに勲章が贈られた。 同年2月、日本側により、串本に「土国軍艦遭難之碑」が建立された。

 この話に同情した山田寅次郎という人が、新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。明治25(1892)年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。義捐金は遺族に届けられた。山田はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、士官学校で日本語を教え、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となるムスタファケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。

日露戦争

トルコは日露戦争(明治37~38年)中もロシア黒海艦隊の動きを日本に通報していた。山田寅次郎も同様の活動に従事していた。日露戦争での日本の勝利を、トルコは自国の勝利のように喜んだ。白人列強国家からの侵食に悩み、特にロシアには連戦連敗だった。白人優位主義が決定的になっていた時代、有色人種国家が白人国家に勝ったことは、トルコ人に希望を与えた。
このころ、ロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎に因んで息子に「トーゴーTogo」という名をつけるトルコ人が多くいた。男の子にはトーゴーと名付けるのが流行していたのだ。
今の日本の子供は知らないかもしれないが、東郷平八郎や旅順の乃木希典の名前は多くのトルコの子供たちが知っている。トルコにハリーデ・エディプ(1884~1964年)という著名な女流作家がいた。彼女も自分の息子に「トーゴーTogo」と名付けたことはトルコでは有名なエピソードである。また、首都アンカラをはじめトルコの多くの都市に「トーゴー通り」ができた。イスタンブールには「乃木通り」もある。

昭和に入り

昭和3(1928)年、串本に慰霊碑が建立され、昭和天皇が参拝された。天皇による参拝はすぐにトルコ側に伝わり、トルコ共和国初代大統領アタチュルクに知るところになった。そして彼は、昭和12(1937)年串本の慰霊碑を改築し、以後、5年おきに慰霊祭が行われるようになった。
トルコ側では、地中海の街、アダナの近くの港町メルスィンのアタチュルク公園にも慰霊碑が作られている。現在、メルスィンは串本町と姉妹都市条例を締結している。また、トロイ観光の拠点、ダーダネルス海峡の町・チャナッカレ(※)にも記念碑がある。

第二次大戦後、朝鮮戦争にトルコも国連軍側として参戦した。その際、負傷したトルコ兵が日本で手厚く看護されたことが口コミでトルコに拡がり、日本に対する好印象につながった。

※写真はトルコ国旗。第一次大戦後、トルコは国土を失った。ムスタファケマル(アタチュルク)率いるトルコ軍はギリシャとの独立戦争中、チャナッカレで野営をしていた。夜、兵士たちの流した血でできた血溜まりに、三日月と星が映っていた。アタチュルクはそれをみて、「彼らの流した血を決して無駄にはしまい」と心に誓い、独立後の国旗に決めたといいます。三日月でもイスラム教とは関係ありません。

テヘラン日本人救出活動

 イラン・イラク戦争中の昭和60(1985)年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から48時間後に、国籍に関係なくイランの上空を飛ぶ全ての民間機を打ち落とす」と世界に向け発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができない。予約していた日本人さえも自国民を優先する各国の航空会社にはじき出された。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本の対応は遅れた。

翌日、イランは対抗措置としてイラクのバグダッドをミサイルで攻撃した。日本人2名が負傷してしまった。空港にいた日本人は、パニックに陥った。18日には多くの航空会社が軒並み欠航となっていた。自衛隊機は憲法上の制約を理由に日本政府の方針として出せない。成田に日本航空機をチャーターして待機させたが外務省と日本大使館の打ち合わせが遅れ、到着には間に合っても、テヘラン出発がタイムリミットに間に合わない可能性がある。危険なところには行かないという日本航空の組合の反対により結局飛ばなかった。万事休すかと思われたその時、空襲警報が鳴り止まないテヘラン・メヘラバード空港に、トルコの特別機二機が到着し、日本人215名全員を乗せて、トルコのアンカラへ向けて飛び立った。タイムリミットまで1時間15分だった。

 伊藤忠商事イスタンブール支店からトルコ政府に対する要請だった。だが、戦火に救援機を飛ばすのは命がけの仕事。いくらトルコ政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあった。ところが、トルコ航空では、すぐさまミーティングが開かれ、特別機への志願者を募った。これに、機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げた。一方、イランにいたトルコ人は6千人ともいわれ、救出を望んでいたが、救援機が日本人を優先的に乗せた事には特に非難も出なかった。6千人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出した(運賃のこともあるのかもしれないが・・)。しかしなぜ、トルコ航空は危険なところに来てくれたのか。

前夜、トルコ政府から日本政府に200席用意する旨の連絡はきていたが、日本政府もマスコミもその理由は知らなかった。朝日新聞は当時、日本の経済援助が功をそうしたと解説した。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は産経新聞に次のように語った。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空は飛んだのです。」

200人乗り1機ではなく、なぜ2機だったのか。200人乗り1機では乗り切れない。もう一便は欠航予定の定期便の振替便で、残りの日本人を優先的に乗せ、余った座席をトルコ人で埋めて帰国している。特別機2機による日本人の救出は、帝国海軍「金剛」と「比叡」の2隻に対するお礼であると前駐日トルコ大使は説明した。

プロジェクトX

以上が、日本で行われたサッカー・ワールドカップ時に、どうしてトルコ人サポーターは日本を応援するのかといった素朴な疑問からはじまり、それ以後、よく知られるようになったストーリーだ。
しかし、NHKが「プロジェクトX」でテヘラン日本人救出劇を放送してから話がややこしくなった。NHKが放送時にエルトゥールル号事件について全く触れなかったため、視聴者から抗議を受けた。その際のNHKの回答が、「1985年の救出に直接関わったトルコ大使やトルコ航空機長など当事者の方々に確認したところ、エルトゥールル号事件のことは全くご存知ありませんでした。114年前のことであり、ほとんどのトルコの人々は事件を知らないのが実状でした。またエルトゥールル号事件がトルコの学校で広く教えられているという事実も無く、教科書も見つかっていません。」というものだったらしい。そのためか、現在では、エルトゥールル号のことはトルコ人なら誰でも知っている、という話は、「日本が大好きな」右よりの日本人たち過大な表現で、トルコ人は今も、イラン・イラク戦争の頃も、実はそんな話は知らないのではないかという意見もネット上で散見されるようになった。

トルコ人はエルトゥールル号事件を知っているのか

我々もツアー中に、近年特に、トルコ人日本語ガイドから、この話を聞く機会が多いが、彼らは日本人ツアー専門であり、一般のトルコ人とは事情が違う。そこで、この機会にイスタンブールにある旅行会社5社に問い合わせてみた。日本人旅行をあまり取り扱わない、ドイツ人専門のような旅行社ばかりである。なるべく日本に関心のないような人たちが良い。なぜ問い合わせる気になったのかというと、「教科書も見つかっていません」というNHKの表現だ。トルコは国定教科書で、小学校が義務教育8年、その後、高校が3年。歴史教科書を2冊調べれば事足りるはずだからだ。

質問は2点。1、ほとんどのトルコ人はエルトゥールル号事件を知っているのか? 2、エルトゥールル号事件は小学校の教科書に記載されているのか? トルコ語はできないので英語で。
回答は、1については全員がイエス。2については回答がわかれた。これはもしかしたら年代によって教科書が変わっているのかもしれない。2名がイエス。3名が小学校の教科書ではなく、高校の歴史教科書に詳細が載っています、というものだった。あるいは小学校の教科書は簡単な記載なのかもしれない。

間違って別に一社、日本人の勤務する旅行社にも聞いてしまった。日本人から回答?がきて「トルコ人は知らないんじゃないでしょうか。教科書には載ってないみたいです」というものだった。NHKはこの辺に聞いたのか。いや、少なくとも先の回答からして、大使や機長が知らないということはありえない。

朝日新聞の経済援助説でいけば、テヘラン日本人救出以後の方が大きい。昭和63(1988)年、日本の政府開発援助(ODA)により、石川島播磨と三菱重工業がイスタンブールに第2ボスポラス大橋を建設している。

平成2(1990)年、トルコ・日本修交100周年記念切手がトルコで発行され、そこにもエルトゥールル号が画かれている。また昨年から3年計画でエルトゥールル号の本格的な遺品引き揚げ作業が始まった。トルコのアメリカ海洋考古学研究所などでつくる発掘調査団が作業にあたり、今年はトルコの考古学者や串本町のダイバーが担当する。また、昨年、トルコ共和国のアブドゥッラー・ギュル大統領が6月7日、和歌山県串本町を訪れ、エルトゥールル号遭難慰霊碑で追悼するとともに、町民らと交流を深めた。NHKは報道しなかったかもしれないが、トルコ人が知らないはずがない。

串本の慰霊碑は今も地元小学校の児童たちが清掃を続けています。
(照沼 一人)


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2 コメント

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Unknown (あお)
2012-01-17 07:31:41
ノルマントン号事件の名前をど忘れし、検索して御記事を読みました。勉強になりました、ありがとうございます。
まさかNHKがそんな発言をしていたとは…日本の戦後の教育やマスコミは、日本人にとって害悪としか思えない面が多々ある様で、腹立たしくてなりません。

ところで、ガラケーから読んでいるのですが、ランキングのアイコンが無く押せませんでした。
余計なことかもしれませんが、もしアイコン追加できるようなら改めて押そうと思うので、ご参考下さい。
芸能&時事諸々へのつぶやき (キンジロウ)
2013-02-06 14:47:54
初めて、コメントします。先日、宮崎淳さんとトルコとの関係が報道され、興味を持ちました。私も自分のブログに「日本とトルコの助け合いの歴史」を書いてみたく史料、捜していました。とても参考になりました。両国の関わりを知り、感銘を
受けました。今度は初代大統領 ケマル・パシャをゆっくりと読みに伺います。
ありがとうございました。
2013.2.6 キンジロウ

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