地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

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中国の美しい村15選・李家山村

2009年01月12日 12時39分03秒 | 中国

15の中国景観村落の14番目は、山西省臨県磧口鎮の「李家山村」です。

東西の二つの山の斜面に広がる洞窟住居群は広げた鳳凰の両翼のようで
村の南で、谷を流れる2つの小川の間に現れる黄土高原の丘は鳳凰の頭のような形です。
二つの流れの間の細長い丘が鳳凰の身体、北にある崖が鳳凰の尾のようです。
そのため李家山村の別名は「鳳凰」と呼ばれます。
頭の部分の丘は「鳳凰山」と名付けられました。

この村の形が、鳳凰に似ていることは、偶然ではありませんでした。
李家の財を成した2人の長者が風水の学者に、鳳凰に似たこの土地を選んでもらい、
両翼に村を建設していったためでした。
西の洞窟住居群が大村、東のそれが小村と呼ばれています。

でこぼこで険しく、狭い山道を歩いて、李家山村の一番高い所に登って、
村の全容を眺めてみると“鳳凰”と呼ばれることが納得できます。


磧口鎮は明代に周囲の広大な地区の村々の集散地としてたいへん繁栄した町でした。
これらの村の商人たちも磧口鎮で富を築き、その後、自分の郷里の建設に尽力しました。
今も李家山村など7つの村が保存状態の良い明清代の民家建築群を残しています。

李氏の家系図によれば、始祖の李端は明代15世紀に、臨県の西坂村から移り住み、
臨県に暮らしていた李家のうち、賢いことで知られる3人をこの山村を招きます。
以後、李氏の一族は時代を追ってしだいに多くなり、、
磧口鎮での商いを元に繁栄して、富豪になっていきました。

村は元は陳家湾と呼ばれていました。
李家の繁栄と反比例するように、元々暮らしていた陳家、崔家は没落していきました。

山の中にあり、交通も至って不便な村ですし、
耕地はまばらで農業では発展できません。
そこで李氏はラクダを使った運送業に乗り出しました。
明代、清代、そして中華民国の時代まで、磧口鎮と黄河流域の経済発展に伴い
この村も発展していきました。
主に彼らは磧口鎮の商店を中心に活動していましたが、晋商人(山西商人)の掟で
家族を商いに同行させられないため、成した財は村の建設に充てていたのです。

さらにラクダやラバを休息させるという目的が、
黄土の斜面に造られた横穴式の洞窟式住居を生み出しました。
いわゆる「ヤオトン」です。
そういえば昔、渡辺美智雄さんが「中国には穴を掘って住んでいる人がいる」と
発言して叩かれましたが、これです。



民居のほどんどは、山に沿って上下に段を作り、整然と横向きに並んでいます。
住宅内には彫刻の施されたレンガ・木材・石材など
芸術的な価値が高いものが多く、富豪たちが建築の質を重んじたことがわかります。

李家山村には現在、建築物110件、住居400戸が残っており、
李氏を中心に、220世帯余りが暮らしています。
(人口は減りつつあり、300人というデータもあります)
自然景観と文化景観に恵まれたこの村には、
黄土の地に暮らす人々の習俗や黄河流域特有の文化が息づいています。
保存状態が良く、高い品質の民居には、
「東の長者の庭」「新しいかまどの庭」「桂蘭軒」などが挙げられます。

画家の呉冠中は、1989年10月に民謡の収集を目的に黄河流域の
磧口鎮の南3キロの所に位置し、大山の深い所で隠れたこの村を訪れたとき、
外から見ると、1つの荒涼とした漢墓のように見え、
中へ入っていくと、伝統を重んじる山崖の洞穴式住居群で、
密封されたような閉鎖的な村の造りは、世と断絶したユートピアのようだ
と評しています。
また、このような村落、このような家は、全世界をあまねく歩いても探せないだろう
とも言っています。
のちに彼は李家山村を、湖南省「武陵源」と、
山西省・陝西省・内蒙古の「晋陝蒙黄土高原」と並ぶ
彼の人生における三大発見としています。
名声の高い画家のこのような評価が李家山村の評判も高めました。
(照沼 一人)


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